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本書を書くに至った由縁

あとがき / もくじ / 改訂第二版の「あとがき」にかえて

昭和二十八年五月三日の朝、ただならない気配に目を覚ました。父が苦しそうにゼエゼエといいながら、時折、痰で喉を詰まらせ喘いでいた。
「し≠ノとうない。し≠ノとうない」
 父は、苦悶の中から絞るように声を出した。
 昼頃だったろうか、一人の青年が靴もまともに脱がぬままに、玄関から飛び込んできた。この青年は会社の部下であったが、父がことさらに可愛がっていた人だった。脱いだ靴が玄関先ではね跳んだ。青年は、横になっている父のそばに倒れるようにして泣いた。
 父が時折、喉を痰で詰まらせる。急を聞いて駆けつけた縁者の者が、
「たん≠ェのど≠ノつまり、いき≠ェできなくなる」
 と言って、割箸の先に脱脂綿を巻き、喉に突っ込み、しきりに痰をからめ取っている。
 父は、
「ぜー、ぜー」
 と息をしながら、時々、苦しそうに顔を歪めた。
 このような煩悶の中で父は夕刻、亡くなった。死はあまりにもあっけなく訪れた。昨夜まで元気だった父が、翌日の夕刻には屍となってしまった。父・光司、享年三十二歳。
 後には、二十八歳の母と七歳の姉と五歳の私が残った。
 その日のうちに、広島県呉市の広≠ノあった中国電力の社宅から、同県黒瀬町乃美尾の父の実家に向かった。トラックの荷台に布団を敷き、骸となった父を寝かせた。親戚の人、そして母、姉、私も、そのトラックの荷台に乗った。私は、荷台の後ろ側に座り、父を見つめていた。
 父は進行方向に頭を向けて横たわっていた。私は父が寂しいだろうと思いかわいそうでならなかった。私は手に鯉幟を持っていた。これは数日前、父と一緒に本屋さんに行った時に貰ったものだった。鯉幟とはいっても、割箸のような木に、鯉を印刷した紙を貼り合わせたというたわいないもので、貰った当日に父と共に、糊付けし糸で結わえて作ったものだった。
 その鯉幟が、いま私の手に握られて、夜風に煽られ、クルクルと回っている。
 私は、一人で寂しく寝ている父のそばに飾ってやりたかった。
 その思いをしきりに母に伝えた。母は飾りようもないといった顔で、何回か私を見た。
 それを聞いていた男の人が、トラックの荷台の前に立っている鉄の枠に鯉幟を縛りつけてくれると言ってくれた。
 鯉幟がヒラヒラと舞った。私は満足だった。
 トラックは、二級峡に至る道を走っていた。右は山が迫り、左は黒瀬川の谷間が黒い大きな口を開けていた。トラックは、まるで等高線に沿うかのようにうねうねと続く坂道をゆっくりと登って行った。
 しばらく満足げに私は鯉幟を見ていた。
「よしのりは、おとうちゃんがし≠だんが、わからんのじゃろう」
 と誰かが言った。母も、
「あんたは、さみしゅうないんね」
 と私に聞いた。
「さみしいけぇ、たのしげにしとるんじゃ」
 私は憤然として言い、トラックの荷台最後尾の仕切り板に手をかけ後ろの方を見た。トラックは、依然としてうねうねと続く道を走っていた。家族で楽しく暮らした広≠フ町の灯が、見え隠れしている。もうあの明かりのある町に帰ることはないだろうということは、私にもよくわかった。そして、あの楽しい家族との生活も、再び戻ってこない。五月初旬とはいえ、夜となると川伝いに寒い風が吹き降ろしていた。その風はトラックの進行方向から吹き、トラックの前照灯に浮かぶ笹を揺らしていた。
 私は土地の者たちがドブク≠ニ呼ぶ綿入りの半纏を着ていた。そのドブクは、母の縫ってくれたもので、前年の暮れのことだったと思うが、家族揃って大新開≠ニいう交差点の近くにあった「すえひろかん」に映画を観に行った時に着ていたものだった。上映していたのは、「キングコング」だった。
 その時、私は映画を見終わって自宅に帰ってから、ドブクを前後ろ逆に着て、炬燵の上に手をついたり、昇ったり降りたりしながら、
「ウォー、ウォー」
 と声を出し、家族の前でおどけて見せた。
 その様子を見て、家族が笑った。
 父が一番左に、母が真ん中にいて右に姉がいた。全員が笑顔を見せている。このスチール写真のような一場面が、私の心に焼きついている。家族一緒で写っている本当の写真は、たった一枚だけしか残っていない。私が二歳ぐらいの時に、家族揃って旅行した時のものだった。
 父と家族を荷台に乗せたトラックは、二級峡にさしかかる前で、左に大きく曲がり、また右にそして左にと急坂を登り、トンネルに入って行った。
 それからの記憶は、ほぼない。
 あるのは、三つの場面だけだ。一つは、焼き場に向かう時のことだった。急な坂を四人の男の人が杖をつきながら、父の柩を担ぎながら昇った。私はそのすぐ後ろを歩いていた。私が三、四歩あるくと、ポタリ、ポタリと血が柩から滴り落ちる。私は血に濡れた石を、そのたびに見つめた。
 父の柩の中で、血が揺れていることだろう。その血の海に父が浸っている。私は父がかわいそうでならなかった。
 焼き場に着いた。父の柩は、薪の上に置かれた。
 すぐ私たちは、父を置いて焼き場を去ることになった。
 私は焼き場の小屋が見えなくなる下り坂にかかった時に、母に聞いた。
「このあと、おとうちゃんはどうなるんね」
「よどおしかかって、むらのひとが、やいてくれるんよ」
 私は、ここでまた再び父がかわいそうになった。私も父のそばにいてやり、薪を一緒にくべてやりたかった。私は、坂道を降りながら、何度も何度も焼き場の小屋を振り返って見た。
 次に覚えている場面は、納骨の時だった。読経が続いていた。私は祖父に聞いた。
「あそこにゃ、なにがかいてあるんね」
 私は墓に書いてある文字の意味が知りたかったのだ。祖父が答えてくれた。
「ここでみないっしょにあおう、とかいてあるんじゃ」
 私は、自分もいずれ死に、骨壺に納まり、この墓に入るのだということがわかった。
 記憶している最後の場面は、次のようなことだった。
 父の死後、母は姉と私を北林≠ノ残して呉市宮原にあった池田≠フ実家に帰った。いや帰らざるを得なかった。父側の祖父母が、それを最善と判断したからだ。父の実家は豊かではなかった。母の実家は、母の父が早逝したこともあり、より貧しかった。もちろん女手一つで、二人の幼子を育てることのできる時代状況ではなかった。父側の祖父母は、姉と私のことを思って、親子が離別して暮すしかないと判断したのだろう。
 一旦、放心状態で実家に帰った母が、姉と私を迎えに来てくれたのは、百箇日法要が終わってからのことだったという。それも人を介してのことだったとのことだ。無論、私はこの当時、そのような事情を知る由もなかった。ただ母が迎えに来た時も、祖母から、
「もう、おかあちゃんは、よそのひとになったんじゃけん、しらんかおしとかにゃいけん」
 と言われたことだけは守った。しばらく大人たちの話し合いが続いた。
 母が姉と私のところへ来た。
「くれ≠ノ、いっしょにかえるんよ」
 姉と私は、母の胸に抱かれて泣いた。とめどもなく涙が出た。
 私は、この時、五歳にして、会った者は死に別れるか、生き別れるか、その二つしかないことを知った。そしていずれ自分が死ぬことも。

 昭和三十七年十月、十四歳の時、創価学会に入った。そこで教わったことは、生命の永遠だった。私の心に大きく空いた陥穽が、たちまちにして埋められていった。年年歳歳、死して逝った父との隔たりが、せばめられていくようだった。
 そうして、生涯にわたり師と仰ぐこととなる、池田大作創価学会第三代会長に会うことができた。
二〇〇四年十月

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