報恩社トップ

改訂第二版の「あとがき」にかえて

前へ / もくじ / 付録

 本書を著してほぼ二年が経つ。本書の本文は(株)報恩社のホームページに全文公開している。二年間に二十万回を超えるアクセスがあった。過分な賛辞もいただき大変にありがたいことだと思っている。本書に書かれた内容がそれだけ世の人々に注目されたということは、筆を執る者にとってこれほどの冥利はない。
 しかしながら、新説というものはなかなか世の中に受け容れられないし、また一知半解の批評も数多く見えるようだ。さらには本書においてかなり説得力をもって書いたと思った事柄であっても旧説を覆すまでになかなか至らないように思える。象徴的な例は、竜の口の「月のごとくひかりたる物」を流星とし、最蓮房を京より佐渡に流されて来た天台僧とする旧説である。
 竜の口の法難について日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら、かかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頸切るべくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし」(種種御振舞御書)
「三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたすけ、明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ、いま日天子ばかりのこり給ふ定めて守護あるべきかとたのもしたのもし、法師品に云く『則遣変化人為之作衛護』疑あるべからず、安楽行品に云く『刀杖不加』普門品に云く『刀尋段段壊』此等の経文よも虚事にては候はじ、強盛の信力こそありがたく候へ」(四条金吾殿御消息)
 この御書の表現を根拠に流星によって日蓮大聖人が救われたとする。大いなる愚見と言わざるを得ない。「則遣変化人為之作衛護」と明記されているのに、その文字は眼に入らないで「光物」に心を奪われ旧説に拘泥する。
 では、日蓮大聖人の次の御書は、どのように解釈すればいいのだろうか。
「月の如くにをはせし物・江の島より飛び出でて使の頭へかかり候いしかば使おそれてきらず」(妙法比丘尼御返事)
「月のごとくひかりたる物」「光物」「月の如くにをはせし物」を流星と主張する者たちは、この隕石が「使の頭へかかり」たる結果、「使」の生死についてどのような想像を働かせているのだろうか。このような状況下で生きている者があろうか。日蓮大聖人は、
「使おそれてきらず」
 と述べられている。使いの者は隕石が衝突、接触などした後、命を落すことなく、畏怖の念を懐いて斬らないと判断したというのである。このこと自体が奇怪なことであるが、ではその余の者たちにおいて、隕石が「頭へかかり」たる者の代わりに斬首の刑を実行する武士(もののふ)は、いなかったというのであろうか。もっとも隕石が落下すれば、「使」の者はおろか正に頸を斬られようとして傍にいらした日蓮大聖人も死亡されたことだろう。もし生き延びられたとしたら隕石落下によって起きた惨状の描写が御書にあってもおかしくないが、御書を拝すれば日蓮大聖人を斬首しようとした者たち全員が夜、不案内な中を、道を探しながら依智の本間邸に移動していることがわかる。
 このような経過を見れば「月のごとくひかりたる物」「光物」「月の如くにをはせし物」などが流星であろうはずがない。己義を構え流星説に固執し、日蓮大聖人の正法を奇跡待望の外道に貶めることは、そろそろやめるべき時にきているのではあるまいか。
「かかる」という言葉について「月の如くにをはせし物」が頭にかかったとされているのだから、物体が衝突、接触あるいはぶらさがるなどの状況を考えるのが当然である。しかしこの「かかる」を、物事が関係してくる、あるいは心が向く、思念が及ぶなどといった解釈をすることもできると思う。この場合、「使の頭へかかり」は北条時宗の命令が「使の頭」に及んだともとれ、日蓮大聖人が「かかる」という言葉を使われたのも、むべなるかなという思いもする。
 ところで、竜の口の「月のごとくひかりたる物」について、「おうし座流星群」という説を主張している人もいるが、依智の「明星の如くなる大星」(種種御振舞御書)については、どのような見解を持っておられるのであろうか。この梅の木にかかった「明星の如くなる大星」は、何座の流星と考えればいいのだろうか。
 ある人はそれを惑星とし、金星とまで言う。これもまた奇怪なことである。夜毎に星空を見て金星などの惑星になじんでいる当時の人たちが、梅の木の枝先に惑星が見えたからといって「もののふども皆えんよりとびをり、或は大庭にひれふし、或は家のうしろへにげぬ」などといった反応をすることなど考えられない。
 そうするとこれは怪異現象≠ニでも言って、その場しのぎの説明をして逃げるのであろうか。しかしそうなると、客体が怪異≠ナあるとするならば世の中には怪異≠ェないのであるから、その客体を見ている主体が怪異≠ナあるということになる。
 日蓮大聖人曰く。
「仏法と申すは道理なり」(四条金吾殿御返事〈世雄御書〉)
 つまらぬ付け焼き刃の天文学を持ち出し、日蓮大聖人の道理を失いせしめ妙法を怪異現象≠生み出す一法と貶めるべきではない。
 日蓮大聖人が竜の口の「月のごとくひかりたる物」「月の如くにをはせし物」あるいはまた依智の梅木の枝にかかった「明星の如くなる大星」といった表現を用いられた理由については本文に詳細に述べておいた。にもかかわらず旧説に甘んじ知性の活性を惜しむのはいかがかと思う。
 とどのつまり、かかる迷妄が生じるところは法華経を実語と読めぬことから生じているものと思われる。
 竜の口の法難で重要な役割を裏でなしたのは執権・北条時宗の母の後家尼御前である。後家尼御前の父・重時は日蓮大聖人が伊豆に流罪された時の黒幕で連署を務めたこともある実力者であった。同人は「極楽寺入道殿」と呼ばれていた。また後家尼御前の夫は北条時頼で「最明寺入道殿」と呼ばれていた。日蓮大聖人は文永八年九月十日、公所に呼び出され糾明された際、
「但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事はそらごとなり。此の法門は最明寺殿・極楽寺殿御存生の時より申せし事なり」(種種御振舞御書)
 と申し開きをした。この時の模様については、「光日房御書」にも次のように記されている。
「平左衛門尉等の数百人の奉行人に申しきかせ、いかにとがに行わるとも申しやむまじきよし、したたかにいいきかせぬ」
「最明寺入道殿」の妻であり「極楽寺入道殿」の娘であり執権・時宗の母である後家尼御前がこのことを聞き及べば、いかなる結果になるかは想像にかたくない。それこそが邪宗の者どもの狙いであった。つまり日蓮大聖人が公所に呼ばれ詰問された内容自体がすでに仕組まれていたものであるといえる。その様子を聞いた後に、後家尼御前が侍所所司であった平左衛門尉に命じて『御成敗式目』にも違背した暗殺を行なおうとしたが、時宗の沙汰によって暗殺計画が中止させられたというのが、竜口の法難の顛末であると推断する。
 日蓮大聖人の身柄の取り扱い等については当然、当時の幕府としての意思決定機関である「評定衆」もしくは「寄合」(「得宗」「北条氏一門」「御内人」によって構成されている)によって打ち合せがなされていたと思う。時宗はまだ二十一歳であり、「評定衆」や「寄合」の人心収攬も充分ではなかったであろうし、また、その権力も絶大なものでなかったろう。
 北条得宗家の権威と亡き父・時頼の遺光に支えられた執権であったと言える。その時宗の母が独断で侍所所司の平左衛門尉に不法な命令をもって日蓮大聖人を暗殺せしめようとしたならば、時宗の権勢を母自らが削ぐといった結果になりかねない。そのようなことからして時頼の遺命をもって時宗を盛り立てようとする者たちが、政治的バランス感覚をもってこの不法な暗殺を急遽、中止するよう具申したと考えられるのである。
「吾妻鏡」には時頼が亡くなる時に最期までその寝所に立ち入ることができた者の一人に宿屋入道の名も見られる。時頼股肱の臣であれば、まだ若い嫡男・時宗の将来を案じ、不法な日蓮大聖人暗殺に反対する、という政治力学が作用する余地が当然あったと考えられる。また平左衛門尉の妻が時宗の子供である貞時の乳母であったという関係も後家尼御前より平左衛門尉への不法な暗殺指示が可能になった背景と考えられるのだが、これらのことは中世史の専門家の方々にぜひとも考証いただきたいところである。ともあれ、概略的にうかがえるこれらの政治的背景が、日蓮大聖人の不法な斬首を中止させた要因として考えられる。ただし、それらの政治的な微妙なバランスの間隙を縫い、後家尼御前や平左衛門尉によりまさに行なわれようとする斬首の刑を中断させえたものは、法華経の行者としての信力、行力を備えられた日蓮大聖人でなくてはなしえないことである。ここにおいて法華経の会座で仏がなした末法において法華経を弘める者を守護するという言葉も空しからざるものとなる。
 法華経法師品第十に説かれた「則遣変化人為之作衛護」は、決して妄語ではない。
 最蓮房は日興上人であるとの本書の主張もなかなか受け容れられないようだ。その多くの人は最蓮房について都である京より来た天台の僧という。その根拠として「最蓮房御返事」、別名「師弟契約御書」を挙げる。この御書の中に最蓮房の書状を日蓮大聖人が引用されている。
「去る二月の始より御弟子となり帰伏仕り候上は・自今以後は人数ならず候とも御弟子の一分と思し食され候はば恐悦に相存ず可く候」
 これをもって最蓮房が二月に日蓮大聖人に帰伏したとする。
 また、この御書の冒頭には、
「都よりの種種の物慥に給び候い畢んぬ、鎌倉に候いし時こそ常にかかる物は見候いつれ・此の島に流罪せられし後は未だ見ず候、是れ体の物は辺土の小島にては・よによに目出度き事に思い候」
 と記されている。都よりの物とはいえ、最蓮房が日蓮大聖人に届けた物は日蓮大聖人が鎌倉において食されていた物であることが窺える。したがって、最蓮房が日興上人であるとすれば、鎌倉より日興上人が日蓮大聖人の好まれた物をわざわざ取り寄せられたと解することができるのだが、最蓮房を京より来た天台僧だと考える人たちに、そのようなことを言っても詮なきことであるから、ここはそのような解釈ができるといった程度に抑えておこう。この「最蓮房御返事」(師弟契約御書)の末尾には次のように記されている。
「余りにうれしく候へば契約一つ申し候はん、貴辺の御勘気疾疾許りさせ給いて都へ御上り候はば・日蓮も鎌倉殿は・ゆるさじとの給ひ候とも諸天等に申して鎌倉に帰り京都へ音信申す可く候、又日蓮先立つてゆり候いて鎌倉へ帰り候はば貴辺をも天に申して古京へ帰し奉る可く候」
 これが、最蓮房が京より来た根拠とされる文である。ここでも天台僧であるという裏づけはない。
 しかしながらこの御書の記述も、師弟が共に法難の地である佐渡より無事に帰ろうと、囚われの身である日蓮大聖人が最蓮房こと日興上人を励まされているととれる。それを述べるならば、最蓮房を日興上人としようとする者の深読みであると、最蓮房が都から来た天台僧であると主張する人は述べることだろう。そして先に紹介した、この御書に「去る二月の始より御弟子となり帰伏仕り候」と記されていることを強調する。
 だが、このような記述はこの御書のみに見られるものであり、他の最蓮房宛の御書を見れば「二月の始」に最蓮房が弟子となったことは逆に覆される。しかも最蓮房が京から来た僧であることをうかがわせる記述は、文永九年四月に認められた「最蓮房御返事」(師弟契約御書)より以前の御書にはない。「最蓮房御返事」(師弟契約御書)以前の御書とは、ここにおいては最蓮房が日蓮大聖人より二月に賜った「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」の二書を指す。
 二月の段階においては日蓮大聖人の住まわれたところは塚原の三昧堂であった。二月騒動によって守護代職の本間六郎左衛門が佐渡の島を出、鎌倉に向かった際、日蓮大聖人は一谷に移されたものと思われる。この事情についても本書本文中に記したところである。いつ日蓮大聖人が一谷に移されたかという月日の特定においては異論もあろうが、「最蓮房御返事」(師弟契約御書)を書かれたのが一谷であることについては、ほぼ異論がないと思われる。それは日蓮大聖人が「文永九年の夏の比・佐渡の国・石田の郷一谷と云いし処に有りし」(一谷入道御書)と御書に記されていることから明らかである。当時の旧暦では、夏は四月より数えた。塚原から一谷に日蓮大聖人がその身柄を移されたことにより、日蓮大聖人の環境は悪化したものと思われる。それは日蓮大聖人が次のように記されていることからも明らかである。
「預りたる名主等は公と云ひ私と云ひ・父母の敵よりも宿世の敵よりも悪げにありし」(同)
 この日蓮大聖人を取り巻く状況の変化についても本文において詳述している。それゆえに一谷におられる日蓮大聖人と日興上人との書状のやり取りにおいては、「二月の始」に弟子になったという擬態がとられたと考えられる。流罪の身であり監視の目が厳しくなれば、その交信の有り様が変わっても不思議ではない。
 読者の着目すべきは、日蓮大聖人と最蓮房こと日興上人とのあいだに交わされた二月の「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」の御書においては、最蓮房が天台の僧であることや京都から来たなどといった事柄の片々もうかがわれないことである。こう見ていくならば、最蓮房こと日興上人が京都から来た僧であるという偽変がことさらに一谷において強調されるようになってきたことの必然を認め得るのである。
 確かに先述したように「最蓮房御返事」(師弟契約御書)には、その文頭と文末に最蓮房が京都の僧であることが印象づけるべく書かれ、最蓮房が出した書状の中に二月に日蓮大聖人に帰伏した旨が記されている。ただし、天台の僧とはどこにも書かれていない。その余の御書にも最蓮房が天台の僧であるとの根拠を見出すことはできない。同御書の文頭、文末は最蓮房の身分を京都から来た僧であると偽変する記述があるが、文の本旨は最蓮房が佐渡に常随給仕した日蓮大聖人の第一の弟子である日興上人であるとしか考えられない文が並ぶ。
 曰く。
「過去無量劫より已来師弟の契約有りしか、我等末法濁世に於て生を南閻浮提大日本国にうけ・忝くも諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経を口に唱へ心に信じ身に持ち手に翫ぶ事・是れ偏に過去の宿習なるか」
 この御文を拝せば、日蓮大聖人と最蓮房がこの御書に認められた二カ月余前に、にわかに師弟の契りをなしたものでないことは明らかとなる。日蓮大聖人は同御書において次のようにも述べられている。
「上に挙ぐる所の諸宗の人人は我こそ法華経の意を得て法華経を修行する者よと名乗り候へども・予が如く弘長には伊豆の国に流され・文永には佐渡嶋に流され・或は竜口の頸の座等此の外種種の難数を知らず、経文の如くならば予は正師なり善師なり・諸宗の学者は悉く邪師なり悪師なりと覚し食し候へ、此の外善悪二師を分別する経論の文等是れ広く候へども・兼て御存知の上は申すに及ばず候」
 この引用文の前は法華以前の小乗権大乗を破す文が続き、さらには「但唯以一大事因縁の妙法蓮華経を説く師を正師善師とは申すべきなり」とある。文脈を掬ってみれば、最蓮房は権実の相対を弁えていたことが詳らかとなる。そのうえで善悪の二師を分別することについても「兼て御存知の上は申すに及ばず候」という立場にある者である。ということは、最蓮房は権実を弁え、正師をかねてより知る弟子であったということになる。
 さて三度引用することになるが、この御書には確かに最蓮房から来た次の「御状」が紹介されている。
「去る二月の始より御弟子となり帰伏仕り候上は・自今以後は人数ならず候とも御弟子の一分と思し食され候はば恐悦に相存ず可く候」
 先の「兼て御存知の上は申すに及ばず候」より前に綴られた権実を弁えた御書の記述により、この「去る二月の始より御弟子となり帰伏仕り候上は・自今以後は人数ならず候とも御弟子の一分と思し食され候はば恐悦に相存ず可く候」の「御状」が最蓮房の身上を偽変するものであることが明らかとなる。さらには「兼て御存知の上は申すに及ばず候」に続く「只今の御文に自今以後は日比の邪師を捨て、偏に正師と憑むとの仰せは不審に覚へ候」との文もまた、権実をかねてより弁えた最蓮房の有り様とは矛盾する。
 ここに至って最蓮房よりもたらされた「御状」が身分を秘匿するための「御状」として実際に存在したのであろうかとの疑念もわいてくるのである。加えて「念仏・真言等の邪法・邪師を捨てて日蓮が弟子となり給うらん有り難き事なり」との文も、日蓮大聖人が囚われの身にあって、最蓮房に身をやつした日興上人と交信をなすにあたってその身の安全と活動の自由を保全するために配慮されたと考えられるのである。日興上人が佐渡に最蓮房という変名を使い渡られ日蓮大聖人と接触した経過は、この御書に書かれたような出会いとして島の者たちが認識するようなものであったのだろう。この日興上人の偽変の必然は、最蓮房が佐渡における日蓮大聖人の活動に不可欠な人物であり、最蓮房が文物の交通権確保などに重要な役割を担っていたことを示唆する。
 この御書において、日蓮大聖人と最蓮房との関係について三世を超えた師弟であるとの記述が散見されるが、次に引用する箇所もその代表的なものといえる。
「何れの辺に付いても予が如く諸宗の謗法を責め彼等をして捨邪帰正せしめ給いて・順次に三仏座を並べたもう常寂光土に詣りて釈迦多宝の御宝前に於て我等無始より已来師弟の契約有りけるか・無かりけるか・又釈尊の御使として来つて化し給へるか・さぞと仰せを蒙つてこそ我が心にも知られ候はんずれ、何様にも・はげませ給へ、はげませ給へ」
 日蓮大聖人は最蓮房に対して「我等」が「無始より已来」の師弟であると明言されているのである。それは言葉のみに終わらない。実事のうえにおいてもそれを確認できるのである。この御書に日蓮大聖人は次のように認められている。
「何となくとも貴辺に去る二月の比より大事の法門を教へ奉りぬ、結句は卯月八日・夜半・寅の時に妙法の本円戒を以て受職潅頂せしめ奉る者なり、此の受職を得るの人争か現在なりとも妙覚の仏を成ぜざらん、若し今生妙覚ならば後生豈・等覚等の因分ならんや、実に無始曠劫の契約・常与師倶生の理ならば・日蓮・今度成仏せんに貴辺豈相離れて悪趣に堕在し給う可きや、如来の記文仏意の辺に於ては世出世に就いて更に妄語無し、然るに法華経には『我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん』或は『速為疾得・無上仏道』等云云、此の記文虚くして我等が成仏今度虚言ならば・諸仏の御舌もきれ・多宝の塔も破れ落ち・二仏並座は無間地獄の熱鉄の牀となり・方・実・寂の三土は地・餓・畜の三道と変じ候べし、争か・さる事候べきや・あらたのもしや・たのもしや・是くの如く思つづけ候へば我等は流人なれども身心共にうれしく候なり」
 日蓮大聖人が「貴辺」たる最蓮房に二月の頃より教えられた大事の法門が「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」であることは論をまたないが、日蓮大聖人は最蓮房に重要法門を教える範囲にとどまらず「卯月八日・夜半・寅の時に妙法の本円戒を以て受職潅頂せしめ奉る者なり」と明記されている。日蓮大聖人は最蓮房に四月八日の寅の刻において「妙法の本円戒」を授けられているのである。日興門流であるならば最蓮房が日興上人であることを疑う者はあるまい。
「富士一跡門徒存知の事」に曰く。
「一、五人一同に云く、聖人の法門は天台宗なり仍つて比叡山に於て出家授戒し畢んぬ。
 日興が云く、彼の比叡山の戒は是は迹門なり像法所持の戒なり、日蓮聖人の受戒は法華本門の戒なり今末法所持の正戒なり、之に依つて日興と五人と義絶し畢んぬ」
 先に引用した御書の箇所において「『速為疾得・無上仏道』等云云、此の記文虚くして我等が成仏今度虚言ならば」と記されている。「我等」すなわち日蓮大聖人と最蓮房は「速為疾得・無上仏道」の境界に共にあることも明記され、「我等が成仏今度虚言ならば・諸仏の御舌もきれ・多宝の塔も破れ落ち・二仏並座は無間地獄の熱鉄の牀となり」などとも強調されている。さらに「我等は流人なれども身心共にうれしく候なり」とも認められている。
 師、流人であれば、弟子もまた流人であると解すべきである。よって「身心共にうれしく候なり」と日蓮大聖人みずから述べられているのである。
 日蓮大聖人はこの「最蓮房御返事」(師弟契約御書)において、次のようにも記されている。
「劫初より以来父母・主君等の御勘気を蒙り遠国の島に流罪せらるるの人我等が如く悦び身に余りたる者よも・あらじ、されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し」
 ここに至っても、最蓮房が京より来た天台僧であるなどといった俗説を主張する者があるならば、それはまさに日蓮大聖人の教法においての肝要である三世にわたる師弟のあり様を理解できえない者であるといえる。
「最蓮房御返事」(師弟契約御書)のこの引用箇所には、「我等」という文字が三箇所出てくるが、いずれも日蓮大聖人と最蓮房が師弟不二の関係にあることを示して余りある。最蓮房が京より来た天台僧で、日蓮大聖人が佐渡流罪より赦免になった後、その行方が杳として知れないとの妄説に執する者は、日蓮大聖人がこの文において虚妄の確信を披瀝されたとでも言うのであろうか。末法の御本仏である日蓮大聖人、そしてその日蓮大聖人と師弟不二の境界にあった大法弘通の大導師・日興上人の「弟子檀那」となればこそ、霊山を見、本有常住の寂光土が、この娑婆世界であると実感することができるのである。
 この「最蓮房御返事」(師弟契約御書)の冒頭に注目すべきことが書かれている。
「得受職人功徳法門委細申し候はん」
 このことは、この御書中に書かれた、
「卯月八日・夜半・寅の時に妙法の本円戒を以て受職潅頂せしめ奉る者なり」
 を受けて書かれたものと言える。その師弟の儀式を終えたうえで、より一層、立ち入った法門を日蓮大聖人が最蓮房に教えようと言われているのである。
 日蓮大聖人の身延における御講の内容が筆録された「御講聞書」には、次のように記されている。
「一、授職の法体の事  仰に云く此の文は唯仏与仏の秘文なり輙く云う可からざる法門なり、十界三千の諸法を一言を以て授職する所の秘文なり、其の文とは神力品に云く皆於此経宣示顕説の文是なり、此の五字即十界同時に授職する所の秘文なり十界己己の当体・本有妙法蓮華経なりと授職したる秘文なり云云」
 日蓮大聖人と最蓮房は「唯仏与仏乃能究尽」の境界にあり、まさに師弟不二の関係にあったのである。日蓮大聖人と佐渡に常随給仕された日興上人との関係としか考えられない。
さて、最蓮房が京より来た天台僧であるとする者は、その俗説を支持するために、最近においては「祈禱経送状」まで引き合いに出している。しかも本書において、「祈禱経送状」に記された「病者」が謗法の者であり、国主であると詳らかにしているのに、文意を解せず旧説に固執し「病者」に迷い、強弁をなしている。
 曰く。「最蓮房は病弱であったようだ」と。
 その裏づけとして、「祈禱経送状」の次の箇所を引く。
「凡そ末法折伏の行に背くと雖も病者にて御座候上」
 この「祈禱経送状」が書かれた背景には、虚御教書を権力者が発したという時代的背景があると本書本文中に記した。それであるのに御書を切り文にして使い、「最蓮房は病弱であったようだ」と述べ、そのために「山籠り」したと断言する。そうであるならば、本文中に示したとおり「夫婦」と記述された者の介護を受けるべきで、それらの人々を「遠離」しなさいという日蓮大聖人の御教示と矛盾を来たすことになる。
 加えてこの御書には、次のような箇所もあることも注目されたい。
「日蓮尚籠居の志候」
 最蓮房は病の故に「山籠り」したと言うのであれば、「籠居」されている日蓮大聖人もまた病弱であったと言うのであろうか。なお、日蓮大聖人はこの御書で最蓮房に、
「末法の行者・息災延命の祈禱の事、別紙に一巻註し進らせ候」
 と認められている。この「祈禱経」は日蓮大聖人が法華経を信じ始められてきた時より、数々の大難に立ち向かうため、毎日読まれたものであるという。その「祈禱経」をいただいた者が病がちであるというのであれば、「祈禱経」は厄払いのためのものに貶められ、大法弘通にあたっては難が生起するが、法華経に説かれた諸仏、諸天の起請は空しからずして、必ず守護され、大法弘通の所願成就は疑いないとの末法の御本仏である日蓮大聖人の確信が捨閉されることとなる。
 まさに日蓮大聖人が最蓮房こと日興上人に「祈禱経」を授けられた元意は、この御書に明白に書かれている。
「其れに付いても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就すべきなり」
「向後は此の一巻の書を誦して仏天に祈誓し御弘通有る可く候」
 さらに日蓮大聖人はこの「祈禱経」を最蓮房こと日興上人に授けるにあたり、次のように念を押されている。
「但此の書は弘通の志有らん人に取つての事なり、此の経の行者なればとて器用に能はざる者には左右無く之を授与すべからず候か」
「病者」が謗法の者であり、しかも権力者であると説明してもそれを受け容れない人たちがいるが、その人たちの存在はある意味においては効用がある。というのも、最蓮房は存在せず、最蓮房の真蹟も現存しないため、最蓮房関係の御書すべてを偽書と葬る人がいるからだ。「祈禱経送状」についてその文意を説明しても「病者」に迷い、とんとその文脈を追うことができぬ人たちがいることは、最蓮房関係の御書をすべて偽書の世界に葬ろうとする人にとって大きな障害となる。説明してもわからぬような文書を苦労して作出する偽作者などはありえないわけで、無論のことながら、それに有り難味を感じて偽作者から買う者もいない。
 よって「祈禱経送状」は偽書の謗りを免れることとなり、ましてや法華経の要文の抜書きにしか見えない「末法一乗行者息災延命所願成就祈禱経文」もまた、真書と断じえるのである。そのことはまた、最蓮房賜書は中古天台の本覚思想の色合いが強いとして真偽を法義において厳密に判ずることもなく、十把一からげに偽書として葬り去ってしまう暴論を阻むことができるというわけだ。
 つまり「病者」ごときに迷う人がいる限り、最蓮房に関わる文書総体が法義上の吟味もなく、一括して葬り去られるということはないということになる。
さらに「祈禱経送状」を見ていこう。この「祈禱経送状」の中には、最蓮房の書状に書かれていたこととして、
「十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云」
 と日蓮大聖人が書かれている箇所がある。これをもって最蓮房は日興上人ではないとの論拠にする人も将来、出るかもしれない。私も本書を著すにあたり、このことは熟慮した箇所である。最蓮房日興上人説を否定する者が早期にこの文を拠り所とし論駁することを予想したが、いまだにそれを聞かない。最蓮房が京より来た天台の僧であると主張する人たちが、衆を頼んで詳細な検討をしていないことを証左する一事例と言えるかもしれない。
 さて、最蓮房が「十七出家」であれば、日蓮大聖人に帰依したのはそれ以降の時期ということになる。日興上人が十七歳の時といえば、弘長二(一二六二)年。なお、伊豆流罪は弘長元年から三年まで。出家後、たちまちにして日蓮大聖人の弟子とならせたもうたとは考えにくく、「四十九院申状」などを見れば日興上人がそこに住坊を持っておられたことからしても、出家当初の日興上人はこの天台宗系の寺においてある程度の修行をされてきたことがわかる。それはさておき、日蓮大聖人が文応元(一二六〇)年に「立正安国論」を北条時頼に上呈される前に、岩本実相寺の経蔵において諸経を探られ、「立正安国論」の草稿を勘えられ、さらにまた、その時に日興上人に会われ、日興上人は日蓮大聖人の徳分に触れ、即座に帰伏し伊豆流罪にも随行したとの伝承に、「十七出家」説は相矛盾するとの反論が出てきてもおかしくない。
 だが、「立正安国論」上呈前に岩本実相寺の経蔵を訪ねたという伝承の根拠はない。
 日蓮大聖人は二十ヵ年に及び、主に畿内を訪ね、経・論・釈を探られ、諸宗の乱れの根源を詳らかにされ、正法をもって国家の安寧と民の幸せを祈られ、立宗されたのである。また、修学の折にはおびただしい経・論・釈を書写されていた。日蓮大聖人のもとには経・論・釈が整足され、邪法邪師の邪義の根源を詳らかにされる根拠となる書が数多あったはずである。それゆえに「立正安国論」上呈を前にして同寺を訪う必要はなかったと考えるのが自然である。
 日蓮大聖人曰く。
「日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」(辦殿尼御前御書)
 戦を始めてから後に、甲冑の用意をする者がいようか。
「立正安国論」上呈を前にして、日蓮大聖人が修学された叡山、園城寺、金剛峰寺、四天王寺よりもはるかに劣る岩本実相寺の経蔵に籠られたというのは、まったくもって根拠のないことといえる。しかもこの岩本実相寺の経蔵に籠られたという伝承が、日興上人帰伏の伝承と表裏になっているということは、それ自体、二つの伝承がともに虚偽であることを示していると言える。たしかに『富士日興上人詳伝』(堀日亨著 一九六三年 創価学会発行)には、本文に次のような箇所がある。
「正嘉二年、大聖人、実相寺に閲蔵の時御弟子となれり」(九頁)
「弘長元年・大聖人伊東配流の時は、みずから往いて薪水の労をとり、艱苦を共にし、間をえて附近に行化せらる。熱海においては、密徒の金剛院行満を導きて大聖人に謁せしむ。行満改衣して日行と称せられ、その寺を大乗寺と号し、青年の日興を拝して開山と仰ぐ。しばらくあって師の赦されて鎌倉に帰るや、その陪従たり」(一四頁)
 ただし、この本の著者の本意は本文にあらず。続いて記される註の部分にある。
「正嘉中、大聖人岩本閲蔵のことは、自他の各伝に喧伝してあるが、依拠の正文書は、さらに見当たらぬ。実相寺とてもその古記録およびこれを証明すべき当時の何物もない」(一三頁)
「伊豆の巻は三年にまたがるが、直接の史料はない。熱海市小沢の現日蓮宗三島本覚寺末なる大乗寺に伝うる縁起および日精上人(大石寺)の興師年譜または家中抄等の諸伝説のなかより精査してこの項を作るものである。
(大乗寺の伝説等)校うべき古文献なし。古来、富士門なりしが、徳川家の初期阿満の方の縁にて三島本覚寺の末寺となれりという。金剛阿闍梨行満は青年僧の日興に論伏せられてその弟子となり、いまの寺はそのままに大乗寺と改めた。現存する自然石の弘長三年七月十三日、行満日行とある墓碑は同寺三代日舜建之となっておる。同寺宝の水鏡の祖師像の縁起などは、研究(史伝)の材料とはならぬ。ただし、これらのこと、ほとんど富士門の古記には見当たらぬ」(一四頁)
 伝承とは、かくもいい加減なものである。なお、日興上人の出家については本書の別冊『註解』でさらに詳しく考証しているので、ぜひ御一読願いたい。
 最蓮房が都より来た天台僧であると述べる者は、日蓮大聖人が赦免になった後、最蓮房も京都に帰ったという。ただし、この根拠も示されていない。
佐渡の伝承にもこのようなことはない。
 面白おかしいことには、佐渡には日朗が日蓮大聖人の赦免状をもってきたとの伝承がある。この時、日朗が座った岩は「腰かけ石」と呼ばれ、佐渡の世尊寺と本光寺にある。また一説には、日朗が佐渡にやってくる際、荒波のために舟が難破し、日朗は漂着したと伝えられている。その場所は佐渡の小木にある経島であるといわれている(田中圭一著『新版日蓮と佐渡』)。
 さらにまた、日朗が佐渡に持ってきたという赦免状だといわれるものも近年まで公に見ることができた。その赦免状は京都本圀寺に伝えられ、近年に至って盗難届が出されている。
そもそも流人の弟子が赦免状を持ってきて、佐渡の役人がそれを信じて流人を島外に放つならば、流人はことごとく島外に逃れることが可能となる。よって、日朗が赦免状を持ってきたという伝承は虚偽以外のなにものでもない。
 道理としてありえないことであっても、この程度の虚説を支える伝承や書が存在する。だが、日蓮大聖人の赦免のあとに最蓮房が赦免となったという根拠を伝えるものは一切ないのである。
 最蓮房が京都より流されてきた天台僧であるというならば、最蓮房は何の咎で佐渡流罪になったというのだろう。もし仮に末法の始めに正法を弘め法華経の故に流罪になったというのならば、天に二日ありという妄論であり、末法の御本仏が二名現れたということになる。これでは結要付嘱の上首上行が二人いたこととなり、法華経を欺く妄説となる。また、それほどの聖僧であるならば、最蓮房の名は天下に聞こえ、その史実は今に伝えられたことであろう。
 しかしながら、そのようなことは仏法に照らしてありえることでもないし、史実もそれを裏づけない。
 では、もう一つの仮定。
 最蓮房が悪事を犯して流罪となった場合。しかし、これもまた、流罪になるほどの罪を犯した者なのであるから、歴史に残るべき悪侶である。しかし、いかなる歴史家もそのような悪事をなした僧の名を史料の中に見出すことはできない。
 それでも最蓮房が京から来た天台僧であると言い張る者は、「最蓮房は何らかの理由で佐渡流罪になった」と逃げを打つ。
 そうなれば再び詰問せざるをえない。「何らか」とは善事であろうか悪事であろうか。最蓮房が京から来た天台僧だという説を曲げぬ者は、それを明らかにする義務がある。
 しかし、仏法の道理の幾ばくかを知るが故に、善事のため、すなわち法華経の故に最蓮房が流罪になったとは言えないであろう。よって、何らかの悪事によって最蓮房は流罪になったと言うよりほかはないのである。その悪事を犯して流刑の身となった者に、帰伏してたちまち甚深の法門を与えることを日蓮大聖人がされるはずは絶対にない。日蓮大聖人は万事において周到ではあるけれど早計ではない。
 文永九年四月に認められた「最蓮房御返事」(師弟契約御書)には、「二月の始」に最蓮房が日蓮大聖人の弟子になったことが記されている。このことは、この御書において初出であることを先述した。その文永九年二月十一日に著された御書に「生死一大事血脈抄」がある。同書には次のように記されている。
「妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり、天台云く『当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり』と云云此の釈に依正と云うは生死なり生死之有れば因果又蓮華の法なる事明けし、伝教大師云く『生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳』と文、天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし、是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり、天台の止観に云く『起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅』云云、釈迦多宝の二仏も生死の二法なり」
 この御金言の本旨は、最蓮房がのちに賜る重要法門の書「諸法実相抄」「当体義抄」に通ずるものがある。
 日蓮大聖人は文永九年の「二月の始」に最蓮房が弟子になったと記される一方で、同じく二月十一日には重要法門の書である「当体義抄」につながる法義を教えられているのである。また、次下にいわく。
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別なしと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」
 ここには「日蓮が弟子檀那等の肝要なり」と日蓮大聖人自らが認められている。最蓮房は文永九年二月十一日の段階において、日蓮大聖人の弟子であることを前提としての肝要の法門を認められた御書を賜っているのである。
 さらにこの「生死一大事血脈抄」には、次のような記述もある。
「剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し、日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに・還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す、而るに貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ、金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺豈真金に非ずや・法華経の金を持つが故か、経に云く『衆山の中に須弥山為第一・此の法華経も亦復是くの如し』又云く『火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず』云云、過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、『在在諸仏土常与師倶生』よも虚事候はじ」
 この御文を拝せば、最蓮房が日蓮大聖人の弟子の中にあって、日蓮大聖人に随順し難に逢われている異体同心の者であることが顕然となる。日蓮大聖人は明確に「貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ」と述べられている。
 かてて加えて文中に曰く。
「貴辺豈真金に非ずや」
 日蓮大聖人より「真金」との最上の評価を賜る者は、佐渡において日蓮大聖人に常随給仕された日興上人以外には考えられない。日興門流においてそのことに異論を唱える者はあるまい。
 加えてまた、この御文の後には次のようにもある。
「『在在諸仏土常与師倶生』よも虚事候はじ」
「在在諸仏土常与師倶生」とは、法華経化城喩品の文である。法華経に縁する師弟が三世を倶にするとの仏の金言である。「過去の宿縁追い来つて」とは、過去世の宿縁によって、と解すべきである。「今度日蓮が弟子と成り給うか」とは、今世、師弟と相なりしことのありがたさを伝えるものといえる。「過去」は過去世であり、「今度」は今世である。
 法華経の「在在諸仏土常与師倶生」の文に照らせば、「今度」が今世を意味するものであることについて異論の入り込む余地はない。
 最蓮房が同じく文永九年二月二十日に賜った御書に「草木成仏口決」がある。御本尊開顕に当たって不可欠の論であるといえる。文意は「開目抄」「観心本尊抄」「当体義抄」に通じる重書である。以下、同御書の何箇所かを紹介する。
「妙法とは有情の成仏なり蓮華とは非情の成仏なり」
「止観の一に云く『一色一香中道に非ざること無し』(中略)中道法性をさして一と云うなり、所詮・十界・三千・依正等をそなへずと云う事なし、此の色香は草木成仏なり是れ即ち蓮華の成仏なり」 「理の顕本は死を表す妙法と顕る・事の顕本は生を表す蓮華と顕る、理の顕本は死にて有情をつかさどる・事の顕本は生にして非情をつかさどる」
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり、天台・妙楽・伝教・内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず、一色一香とののしり惑耳驚心とささやき給いて・妙法蓮華と云うべきを円頓止観と・かへさせ給いき」
 日蓮大聖人が、常随給仕する日興上人をさしおいて、何事かをなして京より流されてきた天台僧に対し帰伏後たちまちに重要法門を与えられたとする主張が、いかに愚かなものであるかは、「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」という重書の本旨を具に理解しようとすれば自然と明らかとなる。この重書の顕すところの法義を理解する者があるならば、その者は法華経の行者であって日蓮大聖人の最第一の弟子であることは明々白々である。
 この二つの御書は、日蓮大聖人が佐渡において末法の民衆救済のために御本尊を顕されるにあたり、どうしても論じておく必要のある法門を認められた重要な御書であるといえる。
 師弟不二でなければ、うかがうことのできない甚深の法門である。京から流されてきた得体の知れぬ犯僧に説くような法門ではない。
 最蓮房が文永十年五月十七日に日蓮大聖人より賜った御書に「諸法実相抄」がある。この御書には、法華経寿量品文底独一の重要法門が説かれている。血脈相承の書の一つであるということができる。
「釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合ひ給ふ、かくの如き等の法門・日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず、(中略)地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給ふのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力』是れなり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」
 最蓮房こと日興上人に、末法万年尽未来際にわたる大法弘通を託されて曰く。
「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く『我久遠より来かた是等の衆を教化す』とは是なり、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第にとなへつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」
 以上の御金言は、総じては日蓮大聖人と日興上人に列なる地涌の流類たる創価学会員すべてに与えられたものであると言えるし、別しては日興上人お一人に譲られたとも言える。この「諸法実相抄」が肝心の法門を説かれたものであることを、日蓮大聖人はその末尾に強調され、次のように認められている。
「此文には日蓮が大事の法門ども・かきて候ぞ、よくよく見ほどかせ給へ・意得させ給ふべし、一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給ふべし、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」
 この「諸法実相抄」の「追申」においてさらに、日蓮大聖人は次のように記されている。
「日蓮が相承の法門等・前前かき進らせ候き、ことに此の文には大事の事どもしるしてまいらせ候ぞ不思議なる契約なるか、六万恒沙の上首・上行等の四菩薩の変化か、さだめてゆへあらん、総じて日蓮が身に当ての法門わたしまいらせ候ぞ」
「まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う、此の文あひかまへて秘し給へ、日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ、とどめ畢んぬ」
 死をも覚悟しなければならない流罪の地において、師弟は先に紹介した「最蓮房御返事」(師弟契約御書)に示されたように、文永九年「卯月八日・夜半・寅の時」に「受職潅頂」の荘厳なる儀式を行ない、他方、その前後において重要法門の相承が嫡々となされていたのである。
 佐渡において日蓮大聖人より最蓮房こと日興上人に与えられた重要法門を認められた御書に前出の「当体義抄」がある。
「問う劫初より已来何人か当体の蓮華を証得せしや、答う釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり」
 釈尊が法華経の寿量品で説いた文上の五百塵点劫の仏をはるかに超える、無始無終の「五百塵点劫の当初」より仏である本因の仏が、この文に顕然と示されている。三世十方の諸仏、釈迦、天台、伝教らもまた、南無妙法蓮華経をもって本門の当体蓮華を証得したのである。
「故に知ぬ本門寿量の説顕れての後は霊山一会の衆皆悉く当体蓮華を証得せしなり」
「然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」
 ここに説かれている「本門寿量の教主」とは、文上の釈尊ではなく、文底の自受用身であることは、念を押すまでもない。
 日蓮大聖人は、この「当体義抄」の末尾において、末法において南無妙法蓮華経を弘める仏法上の立場を鮮明にされている。
「問う文証分明なり何ぞ是くの如く弘通したまわざるや、答う此れに於て二意有り一には時の至らざるが故に二には付属に非ざるが故なり、凡そ妙法の五字は末法流布の大白法なり地涌千界の大士の付属なり是の故に南岳・天台・伝教等は内に鑑みて末法の導師に之を譲りて弘通し給わざりしなり」
 日蓮大聖人は天台、伝教を超える末法の御本仏であることを宣明されている。この「当体義抄」の送状には次のような記載を確認できる。
「此の法門は妙経所詮の理にして釈迦如来の御本懐・地涌の大士に付属せる末法に弘通せん経の肝心なり、国主信心あらん後、始めて之を申す可き秘蔵の法門なり、日蓮最蓮房に伝え畢んぬ」
 この当体蓮華証得の法門は、「国主信心あらん後、始めて之を申す可き秘蔵の法門」なのである。ここに記されている「国主」とは、言うまでもなく「本化国主」のことを指している。これらの記述からしてこの重要法門を説いた「当体義抄」が「諸法実相抄」などと同様に血脈相承の重要法門を認められたものであることがわかる。
「富士一跡門徒存知の事」に曰く。
「此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず、正像末に未だ弘通せざる本尊なり、然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては、左右無く子孫にも譲り弟子等にも付嘱すべからず、同一所に安置し奉り六人一同に守護し奉る可し、是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し」
 日興上人が「本化国主」到来の時を待ち、大法弘通を期されていたことは疑いのないことである。そのことは、日蓮大聖人の命に従った故である。「最蓮房御返事」(師弟契約御書)に記された「妙法の本円戒」、「富士一跡門徒存知の事」に示された「法華本門の戒」、そしてさらに加えて「当体義抄送状」の「国主信心あらん後」と「富士一跡門徒存知の事」の「本化国主御尋有らん期」の表記が示す本質的一致は最蓮房が日興上人であることを証して余りある。
「諸法実相抄」「当体義抄」が重要法門を記しているにもかかわらず、五大部、十大部にも数えられなかったのは、それが時を待って公開されるべきであったからである。
 最蓮房が京より来た天台僧と主張する人たちは、以上のような事実を無視して、最蓮房が日蓮大聖人の赦免後、その行方をくらませたと平然と言う。これほどの一大事法門を賜り、妙法の本円戒≠受けた最蓮房が、杳として行方をくらましたという論を支持する者は、日蓮大聖人を早計の人≠ニ罵り、日興上人を頼りがいのない人≠ニ侮っているに等しい。
それもそうだろう。
 文永九年の「二月の始」に日蓮大聖人に最蓮房が初めて会ったとし、すぐさま「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」という重要法門を授けられ、会った二カ月後には「唯仏与仏乃能究尽」の境界に至る本門の「潅頂」を受け、明けて文永十年には「諸法実相抄」「当体義抄」という重書を相承された。さらには日蓮大聖人が大法弘通の壮挙にあたり常時所持され読誦されていた「祈禱経」をいただきながら行方不明になり、つまるところ退転したというのである。最蓮房は京から来た天台僧であると軽々と言える者は、日蓮大聖人を貶め、死を間近に感じるほどの厳しい流刑地である佐渡において、師に常随給仕された日興上人を辱めているにほかならない。
 なお、最蓮房=天台僧説を主張する人々は頑固なように見えながら、意外と世法の権威には傾きやすいところがある。そのような人たちは、世法において権威があるとされる者が邪義を説いても、多くの者はその邪義を見抜くこともできず、いささかの邪義に気づいても権威におもねり閉口する。ある者は世法に流れ、権威に詐親する。
 本書において二年前、「法華真言未分化論」を唱える教授≠フ足代である「戒躰即身成仏義」の真義を顕し、その謬論を洗い、同じく立論の根拠としていた国の重要文化財である「不動・愛染感見記」を偽書と下した。よって「法華真言未分化論」は、足代を失い瓦解した。
 しかし今日に至るまで、与同した人、詐親した人、黙した人たちの自省の言葉を聞くことはない。しかも、「立正観抄」「十八円満抄」を偽書と下し、「法華真言未分化」の拠り所とされた「法華開会戒体抄」(戒體即身成佛義)の真義を本書において顕わしたことについては黙して評価することも避けているようだ。それでありながら、いまだに最蓮房を日興上人とする本書の本旨に合理的に反論せず、ただ「竜の口の光り物は流星である」と繰り返し本書の一部を否定し、さらには「最蓮房は京より来た天台僧である」と俗説を振り回し、本書を「黙殺」しようとしている。はなはだ残念なことである。
 本書を顕すにあたり、その題名を「日蓮大聖人と最蓮房 師弟不二の契約」とするには相当の覚悟を必要とした。したがって、本書に示された事実を七百年の歴史の闇に再び戻すような軽佻浮薄な論が、いまだに横行していることに耐え難いものを感じる。私の眼には、あたかもそれは無明の淵を四囲に巡らし、迷妄の腐水を満と湛え堀となし、旧説の汚泥で造った日干し煉瓦を積み上げて、我慢偏執の砦を築こうとしているように見える。
 池田大作創価学会名誉会長は、二〇〇五年二月十一日、戸田先生の誕生日に行なわれた方面長会議で「師弟の契約」について、次のように指導された。
「日蓮大聖人が佐渡に流された際、多くの御抄を与えられた弟子に最蓮房がいる。最蓮房が大聖人からいただいた御抄には『生死一大事血脈抄』『草木成仏口決』『諸法実相抄』『当体義抄』などがある。
 この最蓮房とは、どういう人物であるのか。七百年の間、大きな謎の一つであった。多くの場合、『京都から来た天台の学僧』とされている。
 また最近は、最蓮房は日興上人である、との研究もある。幕府の厳しい監視、迫害・弾圧の下にあって、いわば敵の目をかいくぐるために、最愛の弟子である日興上人を、あえて、このように名づけて連絡をとられたのではないか、というのである。
 ともあれ、文永九年の四月、その最蓮房に大聖人は書を与えられる。
別名『師弟契約御書』と言われる重書――『最蓮房御返事』である。
 そのなかで、大聖人は最蓮房に、こう約束されている。
『貴辺の御勘気疾疾許させ給いて都へ御上り候はば・日蓮も鎌倉殿は・ゆるさじとの給ひ候とも諸天等に申して鎌倉に帰り京都へ音信申す可く候』 『又日蓮先立つてゆり候いて鎌倉へ帰り候はば貴辺をも天に申して古京へ帰し奉る可く候』と。
 あまりに麗しき師弟不二の御姿が拝される場面である。
 また、大聖人は経釈を引かれながら『過去無量劫より已来師弟の契約有りしか』と仰せである。
『師弟の契約』。どうして最蓮房が、仏法上、これほどまでに重大な契約を結んでいただけたのであろうか。
 師匠である大聖人への『随順』。そして、師と同じ『難に遭う』こと。
 この二つの要件があってこそ、大聖人は最蓮房と『師弟の契約』を結ばれたのである。
 次元は異なるが、戸田先生は、あの戦時下、牧口先生とともに牢獄に入られたことについて、厳然と語っておられる。
『牧口先生の慈悲は、私を牢獄まで連れていってくださった』
 冗談にでも言えることではない。仏法上に結ぶ師弟というものが、いかに峻厳か。
 戸田先生の誓いは、そのまま第三代たる私の誓いである。
 師への『随順』と『値難』『逢難』。この厳粛なる師弟の魂があったればこそ、創価学会の今日があることを、強く語り残しておきたい」
 本文第二十七章「異体同心」に示したが、戸田城聖創価学会第二代会長(当時・理事長)は、出獄後まもなく、次のような書簡を出されている。
「私のこのたびの法華経の難は、法華経の中のつぎのことばで説明します。
 在々諸仏土常与師倶生
 と申しまして、師匠と弟子とは、代々必ず、法華経の供力によりまして、同じ時に同じに生まれ、ともに法華経の研究をするという、何十億万年前からの規定を実行しただけでございます。
 私と牧口常三郎先生とは、この代きりの師匠弟子ではなくて、私の師匠の時には牧口先生が弟子になり、先生が師匠の時には私が弟子になりして、過去も将来も離れない仲なのです」
 仏法に照らして師弟の本義を見つめるならば、「在在諸仏土常与師倶生」の十文字は極めて重いものとして受け止められる。「生死一大事血脈抄」において日蓮大聖人が最蓮房に「『在在諸仏土常与師倶生』よも虚事候はじ」と述べられているが、牧口常三郎創価学会初代会長と戸田城聖第二代会長が法華経の難のゆえに共に囚われの身となられた際、戸田会長がその法難の結実として身読を確信された文がこの「在在諸仏土常与師倶生」である。
 法華経の行者である師弟は共に大難を受ける。また、その大難の中で大法弘通の礎が師弟の戦いによって強固なものとなる。
 日蓮大聖人のご生涯にとって佐渡流罪は、法華経勧持品第十三に説かれた「数数見擯出」の難を身読され、御本尊を開顕された最も重要な時期であった。そのことは前記したとおりである。この時期、最蓮房が賜った御書は、今日において日蓮大聖人の教法を流布する創価学会の依文ともいえるものである。創価学会の教線が世界に広がる今、最蓮房については旧説にとらわれず、真摯な評価をする必要がある。そうすれば、最蓮房が日興上人であるという結論しか出ず、最蓮房が賜った御書に日蓮大聖人の大法弘通への期待が寄せられていることもうなずけるのである。

後代の為に著者之を記し遺す


 二〇〇六年十月