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第18章 悪侶の奸計

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良観の祈雨と両火房の名の由来

太郎 文永五(一二六八)年正月に蒙古の牒状が鎌倉幕府に届いた。文永六年には、先の牒状について返答がないことを追及し、対馬に二回目の牒状が着いた。
二郎 日蓮大聖人が「立正安国論」で予言されていた他国侵逼難が、現実のものとなった。当然のことながら、これまで日蓮大聖人を侮っていた者の中からも、日蓮大聖人を信敬する者が出てきたことだろう。
太郎 二郎の言うとおりだ。日蓮大聖人は文永七年に書かれたと思われる「善無畏三蔵抄」で、このように仰せになっている。
「当世・此の十余年已前は一向念仏者にて候いしが十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑をなす故に心中に法華経を信じ又釈迦仏を書き造り奉る、是れ亦日蓮が強言より起る」
二郎 当時、最も流行っていた阿弥陀仏を捨て、釈迦仏を拝む者が出てきたことがわかる。それにしても鎌倉の人々のうち、一〇パーセントから二〇パーセントが日蓮大聖人の信者となり、二〇、三〇パーセントが日蓮大聖人に対し好意を持ち始めていたことが書かれている。ということは、鎌倉の人々の中、半分近くが日蓮大聖人に心を寄せていたことになる。大変なことだ。
太郎 そのことによって、諸宗の者が日蓮大聖人をより一層、憎むようになる。
二郎 衣食のために法を説いていた者たちは、干上がってしまう。鎌倉の坊主たちが、いかに日蓮大聖人お一人に、憎悪の念を猛々しくしたかが手に取るようにわかる。
太郎 このような状況下で文永八年を迎える。六月、鎌倉は旱魃となった。雨が降らない。そこで、幕府に請われ極楽寺の良観が六月十八日より祈雨の行を開始する。
二郎 六月十八日というと、新暦では何日にあたるのだろう。
太郎 七月七日だ。
二郎 猛暑の只中だ。
太郎 この良観の祈雨について、日蓮大聖人は後年、「下山御消息」の中で、事情を詳細に書かれている。日蓮大聖人は、この御書で良観のことを「両火房」と書かれている。
二郎 どうして両火房と書かれているのだろう。
太郎 のち文永十二(一二七五)年の三月二十三日に鎌倉で大火があった。良観が住職をする極楽寺より出火し、鎌倉幕府の御所をも延焼した。その両所が焼けたから、日蓮大聖人は以降、良観のことを「両火房」と称されていた。
二郎 「両火房」とは言い得て妙だね。良観という名前はもったいない。良観と言うには分が過ぎる。
太郎 日蓮大聖人は、両火房が、末法の法華経の行者を弾圧する「僣聖増上慢」だと見抜かれていた。第三類の強敵だ。
「爰に両火房と申す法師あり身には三衣を皮の如くはなつ事なし、一鉢は両眼をまほるが如し二百五十戒堅く持ち三千の威儀をととのへたり、世間の無智の道俗国主よりはじめて万民にいたるまで地蔵尊者の伽羅陀山より出現せるか迦葉尊者の霊山より下来するかと疑ふ、余法華経の第五の巻の勧持品を拝見したてまつれば末代に入りて法華経の大怨敵三類あるべし其の第三の強敵は此の者かと見畢んぬ」
二郎 僣聖増上慢とは、国主より万民にいたるまでが聖僧だと思ってしまう、インチキ坊主のことをいうんだ。
太郎 そこで日蓮大聖人は、次のように考えておられた。
「便宜あらば国敵をせめて彼れが大慢を倒して仏法の威験をあらはさんと思う処に両火房常に高座にして歎いて云く『日本国の僧尼には二百五十戒・五百戒・男女には五戒・八斎戒等を一同に持たせんとおもうに、日蓮が此の願の障りとなる』と云云」
二郎 日蓮大聖人は、両火房の大慢を倒して仏法の正義を顕されようとした。一方で両火房は、日蓮大聖人のことを、自分の「願の障り」になると考えていた。
太郎 そこで日蓮大聖人は、伝教などの故事にならい、両火房と祈雨を巡っての対決をしようと考えられた。両火房は幕府より祈雨を頼まれていた。日蓮大聖人は、両火房では雨を降らすことはできないと言われたのだ。
二郎 鎌倉中が、この対決に注目していただろう。
太郎 「此に両火房祈雨あり去る文永八年六月十八日より二十四日なり、此に使を極楽寺へ遣す年来の御歎きこれなり『七日が間に若一雨も下らば御弟子となりて二百五十戒具さに持たん上に、念仏無間地獄と申す事ひがよみなりけりと申すべし余だにも帰伏し奉らば我弟子等をはじめて日本国・大体かたぶき候なん』と云云、七日が間に三度の使をつかはす、然れどもいかんがしたりけむ一雨も下らざるの上、頽風・飈風・旋風・暴風等の八風・十二時にやむ事なし剰二七日まで一雨も下らず風もやむ事なし」
二郎 両火房こと良観は、日蓮大聖人の前に完璧に敗北した。良観は日蓮大聖人の弟子となるべきだ。
太郎 ところが良観は、日蓮大聖人をこのことにより一層憎み、謀りごとを巡らして貶めようとする。
「両火房真の人ならば忽に邪見をもひるがへし跡をも山林にかくすべきに其の義なくして面を弟子檀那等にさらす上剰讒言を企て」
二郎 悪侶は逆恨みをするんだ。

諸宗による讒訴がはじまる

太郎 律宗の僧である極楽寺の良観の祈禱が破られたことによって、日蓮大聖人の教法の正しさが鎌倉中に轟く。こうなると、祈雨の敗北は良観一人の問題ではなくなってくる。
二郎 日蓮大聖人憎しの思いは、宗派を超えて増幅していく。諸宗は日蓮大聖人の存在に、大変な危機感を抱く。
太郎 法然の孫弟子で、鎌倉・光明寺の開山と言われる念阿弥陀仏の弟子である行敏が、日蓮大聖人に法論を求める書状を出してきた。
二郎 小者が感情的になったのだろうか。
太郎 いや、その後の動きを見るとそうではなく、日蓮大聖人への反勢力が連合してそそのかしたようだ。行敏が日蓮大聖人に出してきた書状は、御書に記録されている。それによると、行敏が言ってきた内容は次のようなものだ。
「未だ見参に入らずと雖も事の次を以て申し承るは常の習に候か、抑風聞の如くんば所立の義尤も以て不審なり、法華の前に説ける一切の諸経は皆是妄語にして出離の法に非ずと是一、大小の戒律は世間を誑惑して悪道に堕せしむるの法と是二、念仏は無間地獄の業為と是三、禅宗は天魔の説・若し依つて行ずる者は悪見を増長すと是四、事若し実ならば仏法の怨敵なり、仍て対面を遂げて悪見を破らんと欲す、将又其の義無くんば争でか悪名を被らざらん痛ましきかな、是非に付き委く示し給わる可きなり、恐恐謹言。
  七月八日                僧 行敏 在判
  日蓮阿闍梨御房」(行敏御返事)※「日蓮聖人真蹟集成」(法蔵館)を参照した
二郎 行敏は日蓮大聖人に対し、四つの問題を提起してきた。これらの問題については、日蓮大聖人が釈迦の経に基づき、これまで徹底的に破折されてきた内容だ。今さらながらの言いがかりとしか思えない。この行敏の法論申し込みに対し、日蓮大聖人はどのように答えられたのだろうか。
太郎 日蓮大聖人は、次のように返答された。
「条条御不審の事・私の問答は事行き難く候か、然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随つて是非を糾明せらる可く候か、此の如く仰せを蒙り候条尤も庶幾する所に候、恐恐謹言。
  七月十三日              日 蓮  花 押
  行敏御房御返事」
二郎 日蓮大聖人は公場対決を望まれていた。ところで、行敏は鎌倉幕府に上奏したのだろうか。
太郎 いや、上奏しなかった。今度は鎌倉の諸宗の大物たちが連名で鎌倉幕府に訴えを出した。このことを日蓮大聖人は喜ばれ、次のように認められている。
「当世日本第一の持戒の僧・良観聖人並びに法然上人の孫弟子念阿弥陀仏・道阿弥陀仏等の諸聖人等日蓮を訴訟する状に云く早く日蓮を召し決せられて邪見を摧破し正義を興隆せんと欲する事云云、日蓮云く邪見を摧破し正義を興隆せば一眼の亀の浮木の穴に入るならん、幸甚幸甚」(行敏訴状御会通)
二郎 この御書は良観たちの訴状に対する反論として、公所に出されたものだね。しかし、そうすると、「行敏訴状御会通」とされているのは変だね。
太郎 長い間、そのように誤認されてきた。本来は、行敏の訴状に対する反論ではなく、良観たちの訴状に対する反論だ。日蓮大聖人に対し、行敏の言ってきた内容と、良観たちが難詰してきた内容がほぼ一緒なので、行敏が良観に代わって訴訟を起こしたと考えられてきた。よって「良観等訴状御会通」とするのが正しい呼び方だろう。
二郎 この「行敏訴状御会通」には、良観などの名前しか出ていないのだから、素直に「良観等訴状御会通」とすべきだ。
太郎 日蓮大聖人は、この訴えについて「妙法比丘尼御返事」に次のように書かれている。
「日本国の国主諸僧比丘比丘尼等も又是くの如し、たのむところの弥陀念仏をば日蓮が無間地獄の業と云うを聞き真言は亡国の法と云うを聞き持斎は天魔の所為と云うを聞いて念珠をくりながら歯をくひちがへ鈴をふるにくびをどりたり戒を持ちながら悪心をいだく極楽寺の生仏の良観聖人折紙をささげて上へ訴へ建長寺の道隆聖人は輿に乗りて奉行人にひざまづく諸の五百戒の尼御前等ははくをつかひてでんそうをなす」
二郎 良観たちが鎌倉幕府に訴えを出したことは、この御書からも明らかだ。やはり「良観等訴状御会通」とするのが正しいね。
太郎 日興上人は、弘安五(一二八二)年に「宗祖御遷化記録」を記されている。そこには次のように書かれている。
「文永八年(辛未)九月十二日被流佐土島(御年五十)預武州前司(依極楽寺長老良観房訴状也)訴状在別紙」
二郎 「極楽寺長老良観房」の文字が見えるね。本来訴状が別紙として残されていたんだ。
太郎 さて、その「良観等訴状御会通」(「行敏訴状御会通」)には、良観らの訴状に対する反論が書かれている。
二郎 どのようなことが書かれているのだろう。
太郎 日蓮大聖人は、まず、良観らの訴状の概略を紹介されている。
「彼の状に云く右八万四千の教乃至一を是として諸を非とする理豈に然る可けんや云云」
 良観らは、日蓮大聖人が法華経のみが正しいと言われていることに、難癖をつけている。つまり「是一非諸」が良くないと、良観らは言っている。
二郎 この「是一非諸」は、そもそも法然が言っていたことだ。法然は、専修念仏を主張し諸宗を批判したことによって流罪になった。きっかけは弟子の女犯だったね。
太郎 だから、日蓮大聖人は「御会通」の中で、このような訴状を諸派が野合して出すことの是非を問われている。善導が念仏でなければ成仏しないと言った「千中無一」や、法然の「捨閉閣抛」に対して、良観らはそれに同意なのかと責められている。
二郎 日蓮大聖人憎しの思いだけで、諸宗の者たちが野合しているから、当然、法義の上で矛盾が出たわけだ。
太郎 また、日蓮大聖人は、彼らの言い分を次のように紹介されている。
「又云く而るに日蓮偏えに法華一部に執して諸余の大乗を誹謗す云云」
二郎 これに対して日蓮大聖人はどのように仰せになっているのだろう。
太郎 日蓮大聖人は、法華経の開経である、無量義経に「四十余年 未顕真実」とあり、方便品第二に「要当説真実」とあること、また、如来神力品第二十一に「宣示顕説」とあること、見宝塔品第十一で、多宝如来が「皆是真実」と証明したことなどを挙げ、法華最勝とするのは、「日蓮が自義に非ず」とされている。
 この法華最勝の義は、伝教がすでに諸宗を破したことにより、決着がついていることだとされ、そのことによって伝教は法華宗を建立したと言われている。
二郎 伝教が法華宗を建立したのは、法華宗をもって比叡山に根本中堂を建て、大乗円頓戒を授ける戒壇堂を建立するためだった。戒壇堂を建てたのは勅許によるものだった。
太郎 日蓮大聖人は次にまた、彼らの言い分を紹介されている。
「又云く所謂法華前説の諸経は皆是れ妄語なりと云云」
二郎 これに対する日蓮大聖人の反論は、どのようなものだったのだろう。
太郎 日蓮大聖人は、これについても「日蓮が私の言に非ず」とされ、法華経、涅槃経、天台の文を挙げておられる。その上で、念仏を信じている者が無間地獄に堕ちることを経に依拠して述べられている。同様に、彼らが訴状の中で、日蓮大聖人が「禅宗は天魔波旬の説と云云」と言っているということに対しても、反論を加えられている。
二郎 日蓮大聖人の主張は仏法の経々に依るもので、それらの経に照らしてみれば、明らかなことであると述べられているんだ。
太郎 日蓮大聖人は、伝教が南都六宗との法論に勝ったことを挙げられ、その上で法論で負けた者たちが「退状」を書き、伝教に帰依した史実を示されている。
二郎 伝教が法論によって南都六宗を完璧に破したのに、その小乗教を依りどころにしている良観は、時代不相応の仏法を説いていることになる。
太郎 訴状は次のように続いている。
「又云く年来の本尊・弥陀観音等の像を火に入れ水に流す等云云」
二郎 これに対する日蓮大聖人の反論は?
太郎 日蓮大聖人は、確かな証人を出せと述べられている。さらに、これらの訴えの内容についての証拠がなにもないのであれば、良観らが、それらのものを自作自演で火に入れ、水に流し、その罪を日蓮大聖人に負わせようとしていると主張されている。かててくわえて、このことについて、公の場において糾明される時は、その良観の謀りごとが明らかになるだろうと言われ、重罪は良観に譲るとされている。
二郎 日蓮大聖人は、良観がこのような謀略をくわだて、日蓮大聖人に罪を着せようとしていた事実について、従前より掌握されていたんだ。
太郎 訴状には、次のように書いてある。
「又云く凶徒を室中に集むと云云」
二郎 これに対する、日蓮大聖人の反論は、どのようなものだったのだろうか。
太郎 まず日蓮大聖人は、建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・大仏殿・長楽寺・浄光明寺などの寺が、僣聖増上慢の住む「第三最甚の悪所」であると述べられ、良観たちが日蓮大聖人および弟子らに対し迫害を及ぼしてきたことを指摘されている。その文脈の中で日蓮大聖人は、妙楽大師の言葉として、
「法華経守護の為の弓箭兵杖は仏法の定れる法なり例せば国王守護の為に刀杖を集むるが如し」
 と、述べられている。日蓮大聖人は迫害の具体的な事例として、日蓮大聖人御自身が傷を被ったこと、弟子を数百人も殺されたことを述べられている。日蓮大聖人が額に刀傷を受けられたのは、小松原の法難だった。日蓮大聖人を、安房国の小松原で襲撃したのは、念仏信者の東条景信だった。
二郎 これらの迫害は、良観、念阿弥陀仏、道阿弥陀仏などの大嘘から出たと指摘されている。この文からすれば、「凶徒」を指嗾しているのは、良観たち僣聖増上慢ではないか、とおっしゃっている。
太郎 加害者でありながら被害者面をするのは、悪党の常套手段だ。
二郎 この訴状はどうなったのだろうか。
太郎 なにしろ、良観たちが幕府に出した訴状は、ほとんど法義に関わることだったから、評定(裁判)にはならなかった。
二郎 良観たちの企みは失敗に終わったんだ。

尼御前たちに泣きついた良観

太郎 ところが、良観たちは次の一手を打つ。そのことが「種種御振舞御書」に書かれている。
「訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかまへ申す」
二郎 悪僧のやりそうなことだ。裁判でどうしようもなくなると、今度は幕府要人の女房や、死んだ実力者たちの女房たちに、なんだかんだと言い始めた。
太郎 「尼ごぜん」たちには、故最明寺入道こと時頼の女房も入っている。執権・時宗の母だ。
二郎 このあたりが動くとなると、相当に感情的な対応になるんだろう。『御成敗式目』もないがしろにされることすら考えられる。