報恩社トップ

第17章「十一通御書」の真偽判

第16章 / もくじ / 第18章

武家の教養の書だった『貞観政要』

二郎 ところで兄さん、先ほどの文永五(一二六八)年の「十一通御書」について、偽書だと言っている学者がいるね。
太郎 根強くいる。「十一通御書」を偽書であると言う者が、後世に出ないために、しっかりと論破しておく必要があるな。
二郎 そうしないと、知ったかぶりをして「偽書だ、偽書だ」と騒がれると、日蓮大聖人の身命を賭しての国主諫暁の偉業が消されてしまう。それは日蓮大聖人が末法の御本仏として振る舞われたそのお振る舞い自体を、否定することとなる。
太郎 日蓮大聖人はこの文永五年よりもっと以前から、当時、鎌倉の武士たちが座右の書としていた、『貞観政要』を勉強されていた。
二郎 『貞観政要』とは、どういう本なんだろう。
太郎 『貞観故事』とも言い、全十巻から成る。撰者は唐の呉兢と言われている。唐の二代皇帝・太宗が侍臣と交わした論議を、政治倫理によって編纂したもので、源頼朝の妻であった北条政子も、和訳を愛読していたようだ。北条家は代々この書を重んじており、当時の武家の間でも広く読まれるようになっていた。
二郎 だからこそ日蓮大聖人も、国主諫暁のために『貞観政要』を使われたんだ。
太郎 その『貞観政要』の引用が「十一通御書」には出ている。「北条時宗への御状」には、
「彼の呉王は伍子胥が詞を捨て吾が身を亡し・桀紂は竜比を失つて国位を喪ぼす」
 と書かれている。
二郎 「呉王と伍子胥」の話とは、どういう話なんだろう。
太郎 『貞観政要』には次のようにある。
「若し上に昏暴にして、忠諫、従はずんば、百里奚・伍子胥の徒、虞・呉に在りと雖も、其の禍を救わず、敗亡も亦促らん」
 つまり、呉(中国春秋時代の国)の王の夫差が越と戦い講和をした時、その臣下の子胥が諫めたが、呉王は聞き入れず、挙げ句、子胥を讒言により自害させた。その後、呉の国は他国に滅ぼされたという話で、国を思う臣下の諫言を聞き入れなかった王が国を滅ぼしたという故事だ。
二郎 それでは、「桀紂は竜比を失つて国位を喪ぼす」とはどういう話なんだろう。
太郎 「桀紂」の「桀」とは、夏の暴君の桀王、「紂」とは殷の暴君の紂王のことだ。「竜比」の「竜」とは桀王の臣下の関竜蓬、「比」とは紂王の臣下の比干のことだ。『貞観政要』では、次のように桀王と関竜蓬、紂王と比干についての記述がある。
「桀の関龍逢を殺し」
「龍逢・比干の如きに至つては、竟に孥戮を免れず。君たること易からず、臣たること極めてかたし」
『孟子』にも次のような言葉がある。
「桀紂の天下を失うや、其の民を失えばなり」
二郎 「十一通御書」の他の者たちへの御状にも、『貞観政要』に関わる話が引用されているのだろうか。
太郎 「平左衛門尉頼綱への御状」にも出てくる。
「卞和が璞磨いて玉と成り法王髻中の明珠此の時に顕れんのみ」
二郎 「卞和が璞磨いて玉と成り」とは、どういう意味なの。
太郎 「卞和」とは楚の国の人で、山中で玉の原石を拾い脂、に献上した。王は宝石師にその石を見させたところただの石≠セと言うので、王は激高し卞和の右足を切った。脂、が亡くなった後、卞和は再びその石を献上したが、結果は同じで、今度は左足を切られた。卞和はその石を抱いて、三日三晩泣き続けたが、とうとう涙が枯れ尽きて、目から血を流した。その次の文王がわけを尋ね、その石を細工師に磨かせたところ、立派な宝玉ができたという故事だ。これについて『貞観政要』の中では、「卞和が血に泣きし所以の者なり」という記述がある。これは『韓非子』の中に出てくる故事で、その中に次のような言葉がある。
「和氏の璧は、飾るに五采を以てせず」
 つまり、「平左衛門尉頼綱への御状」にある「卞和が璞磨いて玉と成り」は、「卞和」を日蓮大聖人に譬えられ、「璞磨いて玉と成り」とは、日蓮大聖人の正義が天下に明らかになることを譬えられたものだ。
二郎 それでは、「法王髻中の明珠此の時に顕れんのみ」とはどういうことなんだろう。
太郎 これは安楽行品第十四で説かれているよ。
「王解髻中 明珠賜之」「如王解髻 明珠与之」。
「王」すなわち転輪聖王が、もっとも戦功のあった者に王の髻の中の「明珠」を与えるという譬えで、「法華経」が「明珠」であるという譬えだ。
二郎 日蓮大聖人が真に国を思っていることを、言葉を尽くし故事に倣い教えられている。日蓮大聖人こそが正に国を救うことのできる者であり、正義の護持者であることを示されている。だから、「国の為」「王の為」にみずからの身を犠牲にして尽くした忠臣たちの故事が書かれているんだ。
太郎 「十一通御書」が、日蓮大聖人のお筆であるかどうかという問題について見ていく時、「北条時宗への御状」の中に、「澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり」と書かれていることが注目される。実は、日蓮大聖人は同様の譬えを別の御書にも書かれている。
二郎 どのような御書に、この二つの譬えが出ているのかな。
太郎 建治元年十二月に書かれた「強仁状御返事」に、同様の表現がある。
「田舎に於て邪正を決せば暗中に錦を服して遊行し澗底の長松・匠を知らざるか、兼ねて又定めて喧嘩出来の基なり、貴坊本意を遂げんと欲せば公家と関東とに奏聞を経て露点を申し下し是非を糾明せば上一人咲を含み下万民疑を散ぜんか」
 ここで「田舎」とあるのは、日蓮大聖人のいらした身延の山中を指すと思われる。このような所で法論をしても、勝敗について誰も決めることができないから、公家あるいは鎌倉幕府に奏上して公場対決をしようと述べられている。
二郎 それにしても、「闇中の錦衣」「暗中に錦」とはどういうことなんだろう。
太郎 日蓮大聖人は「衆生身心御書」にも次のように認められている。
「其の後玄宗皇帝の御宇に月支より善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・大日経・金剛頂経・蘇悉地経と申す三経をわたす、此の三人は人がらといゐ・法門といゐ・前前の漢土の人師には対すべくもなき人人なり、而も前になかりし印と真言とを・わたすゆへに仏法は已前には此の国になかりけりと・をぼせしなり、此の人人の云く天台宗は華厳・法相・三論には勝れたり・しかれども此の真言経には及ばずと云云、其の後妙楽大師は天台大師のせめ給はざる法相宗・華厳宗・真言宗をせめ給いて候へども・天台大師のごとく公場にてせめ給はざれば・ただ闇夜のにしきのごとし、法華経になき印と真言と現前なるゆへに皆人一同に真言まさりにて有りしなり」
 日蓮大聖人は、妙楽大師が天台大師のように公場対決しなかったために、本来は最勝であるべき法華経が、真言宗などよりも勝れていないかのように世間の人に思われたと言われているんだ。
二郎 「闇夜のにしき」とは言い得て妙だね。きれいな錦の織物でも、暗闇では美しさを認めることができない、というのはもっともなことだ。「澗底の長松・匠を知らざるか」とは、深い谷底にある素晴らしい松も、目の利く者に見出されなければ仕方がないということだね。
太郎 そういうことだ。
二郎 いずれにしても仏法の正邪は、公の場で対決しなければ明らかにならない。仏法の正邪を決するには公場対決が不可欠と言える。
太郎 日蓮大聖人が、この二つの譬えを別の御書で認められているけど、「北条時宗への御状」にも書かれているのは見逃せない。「十一通御書」が日蓮大聖人の書かれた御書であることを裏づける。
二郎 僕もそう思う。

「大仏殿別当への御状」と蒙古牒状

太郎 それから、「十一通御書」の「大仏殿別当への御状」には蒙古の牒状の一部が書かれている。
「去る正月十八日西戎大蒙古国より牒状到来し候い畢んぬ、其の状に云く大蒙古国皇帝・日本国王に書を上る大道の行わるる其の義邈たり信を構え睦を修す其の理何ぞ異ならん乃至至元三年丙寅正月日と」
 と書いてある。
二郎 これはなかなか知ることのできない内容だ。このことは、さっきも話の中で出た。
太郎 この牒状の内容が引用されているのは、偽書説を退ける一つの要因となる。ここで「至元三年丙寅正月日」となっているが、中国の至元三年は文永三(一二六六)年にあたり、間違いなく丙寅だ。実際に牒状が書かれたのは、日本に着く二年前の至元三年八月だったことが、先に示した東大寺の記録によっても認識される。日蓮大聖人の書かれた「大仏殿別当への御状」には、同年「正月」となっている。東大寺の記録によれば、年号は一緒だが、「八月」となっている。したがって、この書状が東大寺の記録をそのまま真似たものでないことがわかる。ただ、年号と文脈は牒状の内容に沿っている。だからこの書状は、「八月」を「正月」と記載して間違っていることにより、東大寺に残されているような牒状そのものを引用して作出したものでないことがわかる。
二郎 偽書を作るにあたって、一般に知られてない文書を入手し、その上で年だけを合わせ、わざと月を違えて書くということはまず考えられない。

『本満寺録外御書』には「十二通御書」

太郎 この「大仏殿別当への御状」によって、当時、日蓮大聖人が鎌倉幕府中枢の極秘情報を入手するルートを持たれていたことがわかる。年は合っているが、月が違うこと、内容もあらあらその意味を記すものであることによって、日蓮大聖人が伝聞情報をもとに、牒状のことを書かれたことがわかる。この「十一通御書」の全文が最初に採録されたのは、文禄四(一五九五)年に集成された『本満寺録外御書』だ。本満寺は京都にある寺だ。
二郎 それが最初なんだ。
太郎 今のところはね。この『本満寺録外御書』では、これらの御書を「十二通御書」としている。
二郎 どうして十二通となっているのだろう。
太郎 「弟子檀那への御状」も数えているから「十二通御書」となっている。
二郎 「十一通御書」が「十二通御書」となっているのでは疑惑を持たれるのではないだろうか。
太郎 いや、それは逆だ。先ほども二郎と話した時に拝読した「種種御振舞御書」には「十一通の状」と書かれている。『本満寺録外御書』がその「種種御振舞御書」をもとに作出したのであれば、最初から十一通の御書しか用意しないはずだ。
二郎 確かにそういうことになる。わざわざ十二通にするはずがないね。
太郎 「種種御振舞御書」のみを読むならば、その十一通の書状の宛て先は鎌倉幕府の要人たちであるというふうに読める。一見、「種種御振舞御書」に記された「十一通御書」の内容と『本満寺録外御書』に載せられた「十二通御書」のそれぞれの内容は矛盾しているかのように思える。ところが、よくよく『本満寺録外御書』に収録された「十二通の御書」を分析しながら読めば、「種種御振舞御書」に記されている御書の内容と、その書かれている内容が矛盾しないことがわかる。
二郎 「種種御振舞御書」には、「悪口」「あざむき」「とりも入れず」という対応をした者たちと、「返事もなし」と「返事をなせども上へも申さず」といった異なった対応をした者たちがいたと書かれていたね。
太郎 そうなんだ。これは、先の二郎との会話でも少し触れた。そうすると「悪口」「あざむき」「とりも入れず」という最も対応の悪い者たちは、諸宗派の者たちということになる。「返事もなし」は、宿屋入道と平頼綱ではなかろうか。「返事をなせども上へも申さず」は、北条弥源太が日蓮大聖人のもとを訪れて早々に立ち去っていることから、弥源太のことを指すと思われる。さっき二郎が分析したとおりだ。
二郎 そういえば、「平左衛門尉頼綱への御状」には、『御成敗式目』の文末が論理として使われていた。「御式目を見るに非拠を制止すること分明なり」という件だ。
太郎 先ほども言ったが、「十二通御書」を採録した『本満寺録外御書』が集成されたのは桃山時代。「十二通御書」の中の「平左衛門尉頼綱への御状」は、亡び去った鎌倉幕府の『御成敗式目』の文末をそのまま引用するのではなく、文意に則って書状をもって訴え出る論拠としている。このことは注目に値する。もし偽作するのであれば、『御成敗式目』の文をそのまま引用するはずだ。そのほうが信憑性も高まる。先に亡んだ鎌倉幕府の『御成敗式目』の文末の主旨を汲み、「申状」(訴状)を作出することは、とうていできることではない。
二郎 やはり「十一通御書」は偽作者の手によるものではない。まぎれもなく日蓮大聖人の御真筆だ。
太郎 「十一通御書」についての論考はこの程度にしておこう。
二郎 充分に納得できた。