蒙古からの牒状の到来
二郎 日蓮大聖人は数多くの法難に逢われた。文応元(一二六〇)年には、松葉ケ谷の法難(三十九歳)。弘長元(一二六一)年から同三年(一二六三)年まで伊豆伊東に流罪されていた。日蓮大聖人が四十歳から四十二歳のことだ。文永元(一二六四)年、四十三歳の時には小松原の法難に逢われている。これらの法難は、日蓮大聖人が、法華経に予言された末法の民衆救済の御本仏であることを証している。このことは、南無妙法蓮華経こそが本時の衆生救済の、唯一の法であることをも示している。太郎 法難に次ぐ法難の、大変な御生涯だ。しかしながら、法難はこれにとどまらず、なお一層大きな難が日蓮大聖人を襲う。
二郎 竜の口の法難、佐渡流罪だ。
太郎 その法難について話すには、蒙古からの牒状に触れなければいけない。それと関連して日蓮大聖人の行動を見ていく必要がある。
二郎 二つの大難は、蒙古の牒状が来た状況と関連するんだね。文永八(一二七一)年の竜の口の法難、佐渡流罪までに、蒙古の牒状は何回来たの?
太郎 第一回の牒状は、文永五(一二六八)年の閏一月十八日に幕府に届いた。
二郎 それにはなんと書いてあったの?
太郎 その牒状が届いたことも、その内容も、国家の重大機密だった。しかしながら、人の口は塞ぐことができないもので、蒙古牒状到来の話は巷間に漏れていったようだ。
二郎 では、誰もがその牒状の内容を知っていたのだろうか。
太郎 いや、そんなことはない。ただし、今日、東大寺にその記録が残っている。それを見ると次のように書かれている。
「上天の眷命せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る。朕惟んみれば、古より小国の君も、境土相接すれば、尚努めて信を講じ睦を修む。況や我が祖宗は天の明命を受けて区夏を奄有す。遐かなる方の異域にして威を畏れ徳に懐つく者は、数を悉すべからず。朕即位の初め、高麗の辜なき民の久しく鋒鏑に瘁るるを以て、すなはち兵を罷め、その疆域を還し、その旄倪を反らしむ。高麗の君臣、感戴して来朝せり。義は君臣と雖も、歓は父子の若し。計るに王の君臣もまたすでに之を知る。高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密邇し国を開きて以来、また時に中国に通ずるも、朕が躬に至りては、一乗の使の以て和好を通ずるなし。尚恐らくは王国のこれを知ること未だ審らかならざらん。故に特に使を遣はし、書を持たしめ朕が意を布告せしむ。冀はくは、今より以往、通問して好を結び、以て相親睦せん。且た聖人は四海を以て家となす。相通好せざるは豈一家の理ならんや。兵を用ふるに至りては、夫れ孰か好むところならん。王、それこれを図れ。不宣。
至元三年八月日」
二郎 蒙古は「通問して好を結び、以て相親睦せん」と言っているけれども、結局、日本に対し高麗と同様、属国になるよう要求してきたんだ。幕府はどのように返答したのだろうか。
太郎 最終的には返答をしないで無視した。
二郎 しかし、蒙古がアジアで猛威を振るっていることを、当然、幕府は知っているわけだから、その大国が攻めてくるという危機感に襲われたことだろう。
蒙古襲来に備えて幕府体制を一新
太郎 そのとおりだ。その目的もあって、幕府の最高人事を一新したものと思われる。鎌倉幕府の第五代執権であった北条時頼(最明寺入道)の嫡男である時宗が、第八代執権となった。二郎 たしか、時頼は早逝し、その時まだ時宗は幼かったんだ。
太郎 時頼は三十七歳で亡くなった。この時、時宗は十三歳。しかしながら、時宗が執権職を継ぐのは、定められたことだった。
二郎 時頼は亡くなる前に執権を退いていたが、実質的には最高権力者の地位にいた。
太郎 時頼が亡くなった時の第六代執権の北条長時と、時頼との血のつながりはかなり遠い。時頼の祖父は泰時。泰時は第三代執権だった。その泰時の弟は重時で、時頼が執権職を務めている時の連署だった。連署とは執権に次ぐ役職。その連署である重時の子供が長時で、第六代執権だった。長時は、時頼が亡くなった時は三十四歳。
なお、時頼の時代に連署を務めた重時は、時頼が執権職を降りる八カ月くらい前に連署の職を辞している。その連署であった重時の後任には、重時の弟の政村が就いていた。伊豆流罪がなされたのは、時頼が実権者として支配をし、第六代執権長時、連署政村体制の時だった。この伊豆流罪の黒幕は連署の職を辞した重時だったと言われている。この重時は、日蓮大聖人が伊豆流罪になった年に亡くなっている。
二郎 伊豆流罪を赦免したのは「最明寺入道」、すなわち時頼だったと日蓮大聖人は言われていたよね。
太郎 そうだった。「破良観等御書」に、そう書かれている。
「最明寺殿計りこそ子細あるかとをもわれていそぎゆるされぬ」
したがって、時頼は出家して、最明寺入道と名乗っていたけれども、実権は裏でしっかり握っていた。そのような状況下で、時頼は突然亡くなった。
二郎 それにしても、三十七歳で亡くなるとは若いね。後を継がせたかった時宗も幼かったし、さまざまな思いを残して死んでいったんだ。
太郎 そうだと思うよ。時頼が亡くなるにあたり、最後に出入りを許されていた者の名が、七名記録されている。その七名の中の一人として、「立正安国論」を時頼に上呈するにあたって、その中継ぎの大役を果たした、宿屋入道の名を見出すことができる。
二郎 第六代執権の長時は、いつ執権をやめたんだろう。
太郎 長時は、日蓮大聖人が伊豆流罪を赦免になった翌年の文永元(一二六四)年、三十五歳で病死した。
二郎 この人も早く亡くなったんだね。
太郎 この後、第七代執権になったのは北条政村だ。政村は、第五代執権時頼の時に重時が辞任した、その後任の連署。その政村が、第六代執権・長時の死後に執権職に就く。この時、連署には将来、執権職になると目されていた時頼の嫡子・北条時宗がなった。時宗は十四歳だった。
二郎 どうもややこしい。新しく第七代の執権になった政村は、どういう人なのか、もう一度、教えてくれる?
太郎 政村は時頼(第五代執権)の祖父・泰時(第三代執権)の弟にあたる。伊豆流罪の黒幕であった元の連署・重時の弟だ。だから、泰時と重時と政村は兄弟で、長男・泰時は第三代執権で、三男が連署を務めた重時。四男が新たに執権職に就いた政村ということになる。この政村が執権についたのは六十歳の時だった。
二郎 歳からしてもやはり、時宗に対して、無事に政権移譲するための人物だということがわかる。ところで今、第三代執権・泰時の兄弟のうち三男・重時、四男・政村の名が出たけど、二男は誰だったんだろう。
太郎 二男は名越の北条朝時。朝時の子・光時が四条金吾の主君だ。この名越の朝時の子供たちのほとんどは、殺されたり、配流されたり、自害したりしている。
二郎 鎌倉幕府ができてから、北条家の政敵が次々と殺されていったね。
太郎 比企家、和田家、三浦家などが、一族郎党ともに北条一門によって殺された。
二郎 その一方で、北条家の中においても、さまざまな確執により粛清が続けられていたんだ。疑心暗鬼の恐怖政治が行なわれていたことがわかる。
太郎 そろそろ話を元に戻そう。政村が執権の体制で、文永五年を迎えた。そこへ、閏正月十八日に蒙古より牒状が届いた。そこで鎌倉幕府は、時宗を第八代の執権に擁立し、外寇の難に対処しようとしたんだ。
二郎 時宗を執権職に就けることにより、幕府内の求心力を高めようとしたことがうかがえる。
太郎 そのため、政村が執権職に次ぐ地位である連署に退き、時宗が執権職に就いた。この執権と連署の交代という人事は、鎌倉幕府開闢以来、初めてのことだ。世間的に考えても、まずありえない人事だと言える。この時、時宗は十八歳。政村は六十四歳。時頼の死後、五年を経ていた。
国と民を正法によって救う時
二郎 蒙古牒状の到来に際し、日蓮大聖人はどうされたのだろう。太郎 この文永五(一二六八)年のことについては、「種種御振舞御書」にあらあら書かれている。
「去ぬる文永五年後の正月十八日・西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす、日蓮が去ぬる文応元年太歳庚申に勘えたりし立正安国論今すこしもたがわず符合しぬ、此の書は白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもをとらず末代の不思議なに事かこれにすぎん、賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし定めて御たづねありていくさの僉義をもいゐあわせ調伏なんども申しつけられぬらんと・をもひしに其の義なかりしかば其の年の末十月に十一通の状をかきて・かたがたへをどろかし申す、国に賢人なんども・あるならば不思議なる事かな・これはひとへにただ事にはあらず、天照太神・正八幡宮の此の僧について日本国のたすかるべき事を御計らいのあるかと・をもわるべきに・さはなくて或は使を悪口し或はあざむき或はとりも入れず或は返事もなし或は返事をなせども上へも申さずこれひとへにただ事にはあらず、設い日蓮が身の事なりとも国主となりまつり事をなさん人人は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし、いわうや・この事は上の御大事いできらむのみならず各各の身にあたりて・をほいなるなげき出来すべき事ぞかし、而るを用うる事こそなくとも悪口まではあまりなり」
二郎 「文永五年後の正月十八日」に蒙古の牒状が来た場面から、「種種御振舞御書」は始まるんだ。そして日蓮大聖人は、「他国侵逼難」を予言された「立正安国論」について、「仏の未来記にもをとらず」と述べられている。
太郎 「立正安国論」は、二千年の時を隔つ釈迦の未来記である法華経にも劣らないとおっしゃっていることになる。そこで日蓮大聖人は「賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし」と言われている。
二郎 予言の的中だけではなく、救国の教法を説く日蓮大聖人に対し、幕府は日本第一の僧であると処遇し、朝廷も伝教大師のように、日蓮大聖人に「大師号」を与えるのが当然と思う。
太郎 文永五年の事実関係を確認するためにも、この「種種御振舞御書」を丁寧に読んでいこう。文は次のように続く。
「定めて御たづねありていくさの僉義をもいゐあわせ調伏なんども申しつけられぬらんと・をもひしに其の義なかりしかば」
二郎 公に日蓮大聖人に対して、蒙古調伏を頼むのが当然なのに、鎌倉幕府は、それをしなかった。
太郎 そこで日蓮大聖人は、次のように書かれている。
「其の年の末十月に十一通の状をかきて・かたがたへをどろかし申す」
二郎 同じ文永五年に十一通の書状を書かれ、警告されたんだ。
太郎 当然のことながら、その内容は国師として日蓮大聖人に教えを請い、南無妙法蓮華経に帰依しなければ、蒙古によってこの国が亡ぼされるということだった。御書はさらに次のように続く。
「国に賢人なんども・あるならば不思議なる事かな・これはひとへにただ事にはあらず、天照太神・正八幡宮の此の僧について日本国のたすかるべき事を御計らいのあるかと・をもわるべきに」
二郎 国に賢人などがいるならば、不思議なことだ、これは、ただごとではない、天照太神、八幡大菩薩が、この僧(日蓮大聖人)を頼んで日本国が助かる方途をお計りになられたのではないかと思ってしかるべきだ、このように仰せになっている。
太郎 その思いから日蓮大聖人は、十月に十一通の書状を書かれ、日本国を外敵の侵略より守ろうとされた。
二郎 その結果は、道理にかなわぬものであったんだ。
太郎 世は末法濁世。人心は倒していた。十一通の書状への対応は、以下のようなものであった。
「或は使を悪口し或はあざむき或はとりも入れず或は返事もなし或は返事をなせども上へも申さずこれひとへにただ事にはあらず、設い日蓮が身の事なりとも国主となりまつり事をなさん人人は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし、いわうや・この事は上の御大事いできらむのみならず各各の身にあたりて・をほいなるなげき出来すべき事ぞかし、而るを用うる事こそなくとも悪口まではあまりなり」
二郎 ひどいもんだね。正法によって国を救おうとしている日蓮大聖人に対し、あまりに誠意のない対応だ。みな自分の保身しか考えていない。
太郎 日蓮大聖人からの書状を持った使いに対して悪口し、小馬鹿にし、あるいは受け取りもせず、返事もなかった。さらには返事をよこした者も、北条時宗に上奏した者はいなかった。
二郎 ただ一人として国のことを考えている者はいなかった。自分の倒した思いから、悪口を言い、小馬鹿にし、受け取りもしなければ返事もしない。日本が亡びるかどうかという瀬戸際にあった責任ある者の対応とは思えない。
太郎 「返事をなせども上へも申さず」と書かれているのは、注目される。日蓮大聖人から北条時宗へ上奏することを託された者が、それをおこなわなかったことが示されている。
二郎 日蓮大聖人は怒られ、嘆かれたことだろうね。国政に携わる者としては、あってはならない対応だ。
太郎 日蓮大聖人は、これらの警告については、国の頂点に立ち、国政に携わる人たちであれば、執権・時宗に取り次ぐのが当たり前だとされている。それが政道のあり方だと言われている。さらにこのことは、執権・時宗にとっての一大事であるのみならず、幕府要人にとっても大いに嘆くべきことであるとされている。それであるのに、日蓮大聖人の意見を取り入れることもなく、悪口とは、あまりにも非道だと仰せになっている。
二郎 日蓮大聖人が、文永五(一二六八)年に出された十一通の書状に対して、幕府の要人やその他の者たちは、そのような対応しかしなかったんだ。
法鑒房宛に出された御書
太郎 「種種御振舞御書」から、以上のような文永五年の状況がわかる。それでは、系年が文永五年とされている御書を拝しながら、同年の状況を見ていこう。文永五年三月五日に時宗が執権職に就いた直後、日蓮大聖人が「立正安国論」を上呈されたとし、その副状の写しが残っている。でも、その副状を見ると、これを時宗宛てのものと断定することはできない。したがってこの副状については、ここでは参考にしない。しかし上呈された可能性はあるだろう。
文永五年四月五日に、法鑒房宛に出された御書がある。これは御真蹟が現存する。この御書の中で日蓮大聖人は、法鑒房に対して「立正安国論」を上梓し、時頼に奏進したことについて触れられ、伝教が六宗の者と公場対決をし、正邪を決したことを述べられている。さらに続けて、法然が念仏義を立てて以来、日本の宗教界が濁乱したことを述べられ、法の乱れによって国が乱れることを強調されている。その後の文の運びの中で、日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「而るに勘文を捧げて已後九ケ年を経て今年後の正月大蒙古国の国書を見るに日蓮が勘文に相叶うこと宛かも符契の如し」(安国論御勘由来)
二郎 「立正安国論」を上呈されて「九ケ年」たった今、蒙古の牒状が来たことによって他国侵逼難が起こり、日蓮大聖人の予言が的中したことを述べられている。
太郎 同じ御書で日蓮大聖人は、次のように仰せだ。
「日蓮復之を対治するの方之を知る叡山を除いて日本国には但一人なり、譬えば日月の二つ無きが如く聖人肩を並べざるが故なり、若し此の事妄言ならば日蓮が持つ所の法華経守護の十羅刹の治罰之を蒙らん」
この御書の御真蹟を見ると、「日本国には但一人なり」の右脇に「除叡山」と、但し書きがされている。これを自分は叡山を除く≠ニ読む。つまりここでは日蓮大聖人は真言化した叡山をも除かなくてはならないと強調されているととるべきだ。
二郎 蒙古襲来を対治するには日蓮大聖人の祈りによるしかないことを強調されていることは明白だ。
太郎 この御書を送られた法鑒房を、平左衛門尉頼綱の父とする伝承がある。ともかく、鎌倉幕府にある程度の影響力を持つ人物であったと思える。
文末は次のように括られている。
「但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず、復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ之を用いざれば定めて後悔有る可し、恐恐謹言」
二郎 「禅門」とは誰だろう。
太郎 故最明寺入道時頼のことだと思う。「立正安国論」の上呈に先立ち、日蓮大聖人が対面を遂げられた時、念仏、禅などの邪法、邪義を用いるならば、三災七難が起こるということを強調されたことを踏まえてここに記されたと思われる。
二郎 日蓮大聖人は、法鑒房と会って話すことができたのだろうか?
太郎 それはわからない。この御書には、日蓮大聖人の法を用いなさい、ということしか書かれていない。
早く諫奏せよと宿屋入道を叱責
二郎 法鑒房にこの御書を送られた四月以降の日蓮大聖人の動向をうかがうことのできる御書は、ほかにも残っているのだろうか。太郎 御真蹟が現存するものとしては、次のような御書がある。
「去る八月の比、愚札を□しむる□、今月に至るも是非に付けて返報を給わらず。欝念散じ難し。怱々の故に想亡しむるか。軽略せらるるの故に、□一行を慳しむか。本文に云く、『賢人は人を賤しまず等』『師子は少兎を蔑らず、大象を畏れず等云云』。
若し又万一他国の兵、此の国を襲うの事出来せば、知りて奏せざるの失、偏に貴辺に懸るべし。
仏法を学ぶの法は身命を捨てて国恩に報ぜんが為なり。全く自身の為に非ず。本文に云く、『雨を見て竜を知り、蓮を見て池を知る等云云』。災難急を見るの故に、度々之を驚かす。用いざるに而も之を諫む。強(以下滅失)」(□は判別不能の文字)
二郎 全文が読めないのは残念だね。「本文」とは、どういう意味?
太郎 外典あるいは論釈などを引用する場合に、よく使われる文言だ。
二郎 では、この御書は誰に宛てられたものだろうか。
太郎 御書の最初に書かれた、「去る八月の比、愚札を□しむる□」がヒントになる。
二郎 どうもこの御書をいただいた人は、八月にも日蓮大聖人からお手紙をいただいたにもかかわらず、九月になっても、まったく返答しなかったようだ。それに対して日蓮大聖人は、不快の念を露わにされている。ところで兄さん、八月に御書をいただいた人は誰なんだろう。
太郎 ここに、日蓮大聖人が宿屋入道に宛てられた、文永五年八月二十一日付の御書がある。その全文は、次のようなものだ。
「其の後は書・絶えて申さず不審極り無く候、抑去る正嘉元年丁巳八月二十三日戌亥の刻の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘えたるに念仏宗と禅宗等とを御帰依有るが故に日本守護の諸大善神瞋恚を作して起す所の災なり、若し此れを対治無くんば他国の為に此の国を破らる可きの由勘文一通之を撰し正元二年庚申七月十六日御辺に付け奉つて故最明寺入道殿へ之を進覧す、其の後九箇年を経て今年大蒙古国より牒状之有る由・風聞す等云云、経文の如くんば彼の国より此の国を責めん事必定なり、而るに日本国の中には日蓮一人当に彼の西戎を調伏するの人たる可しと兼て之を知り論文に之を勘う、君の為・国の為・神の為・仏の為・内奏を経らる可きか、委細の旨は見参を遂げて申す可く候、恐恐謹言。
文永五年八月二十一日 日 蓮 花 押
宿屋左衛門入道殿」
二郎 そうか。この御書によると、宿屋入道は、日蓮大聖人が「愚札」を出されたのちに音信不通になったということが伺える。日蓮大聖人はそれについて、「不審極り無く候」と述べられているんだ。
太郎 そのとおりだ。宿屋入道は「其の後」に、日蓮大聖人と音信不通になっている。この御書を読むと、「立正安国論」を宿屋入道を通して、故最明寺入道時頼に上呈したことに触れられている。それに続いて、その「立正安国論」の上呈の後、「九箇年」を経て、今年、蒙古より牒状が届いたことを聞いたと述べられ、蒙古が日本を攻めることは必定であるとされている。さらに日蓮大聖人は、その蒙古を調伏できるのは自分だけだとかねてより考え、「立正安国論」を著した旨を記されている。
二郎 「論文」とあるのは、「立正安国論」のことだろうか。
太郎 「兼て之を知り」「之を勘う」とあるから、まずそうだろうと思う。しかし、大事なのは次の文章だ。
「君の為・国の為・神の為・仏の為・内奏を経らる可きか、委細の旨は見参を遂げて申す可く候」
日蓮大聖人は宿屋入道に対し、時宗に内奏するようにお手紙を出された。ところが返事が来ない。そこでさらに、このお手紙で督促されたんだ。
二郎 ところが宿屋入道は、日蓮大聖人が内奏を指示されたことに臆し、会おうともせず、九月に至っても返答をしなかった。それは、さっき兄さんが紹介してくれた御真蹟が現存する御書によって裏づけられる。そこで日蓮大聖人は「欝念散じ難し」とされ、宿屋入道に対して「軽略」をしているのかと叱られているのだ。
公場での諸宗との対決を求めて
太郎 宿屋入道を通しての内奏の道を断たれた日蓮大聖人は、仏法の正邪を決すべき公場対決の場をみずから設えようとされる。十月十一日に、十一カ所に対し、書状を出された。いわゆる「十一通御書」だ。二郎 僕も何度か読んだことがある。宿屋入道に託された北条時宗への内奏文、宿屋入道への書状、北条弥源太へ宛てた書状などがあった。
太郎 それだけではなく、平左衛門尉頼綱にも出されている。この頼綱への書状を見ると、
「貴殿は一天の屋梁為り」
と書かれているから、すでに頼綱は侍所所司の立場にあったと思われる。
二郎 侍所所司とはどのような立場なのだろう。
太郎 侍所の最高位は別当で、所司はそれに次ぐ地位にあたる。別当は執権が兼務する。したがって、所司というのは侍所の実質的な最高責任者ということになる。
二郎 その余の書状は、鎌倉で勢いを持っていた寺々に与えられたものだったね。
太郎 「建長寺」「極楽寺」「寿福寺」「多宝寺」「長楽寺」などに与えられている。一例を挙げると、「建長寺」宛てのものには、「具には紙面に載せ難し併ながら対決の時を期す」と書かれている。このように、公場対決を望まれている様子は、「極楽寺」「寿福寺」「浄光明寺」への書状からもうかがえる。
二郎 寺々に与えられたものは別にして、まず宿屋入道に与えられた書状はどのようなものだったのだろう。
太郎 宿屋入道に宛てた御書は次のようなものだった。
「先年勘えたるの書安国論に普合せるに就て言上せしめ候い畢んぬ、抑正月十八日西戎大蒙古国より牒状到来すと、之を以て之を按ずるに日蓮は聖人の一分に当り候か、然りと雖も未だ御尋に予らず候の間重ねて諫状を捧ぐ、希くば御帰依の寺僧を停止せられ宜しく法華経に帰せしむべし、若し然らずんば後悔何ぞ追わん、此の趣を以て十一所に申せしめ候なり定めて御評議有る可く候か、偏に貴殿を仰ぎ奉る早く日蓮が本望を遂げしめ給え、十一箇所と申すは平の左衛門尉殿に申せしむる所なり委悉申し度く候と雖も上書分明なる間省略せしめ候、御気色を以て御披露庶幾せしむる所に候、恐恐謹言」
二郎 ここで日蓮大聖人が「偏に貴殿を仰ぎ奉る早く日蓮が本望を遂げしめ給え」と仰せになっていることに、胸を熱くせざるをえない。しかし、意外と簡略な書状だね。
太郎 宿屋入道に対しては、何度となく日蓮大聖人のほうから会いたいという希望を伝えられていた。それを宿屋入道は、まったく無視し続けていた。日蓮大聖人としては、これまで書面で充分に自分の意を伝えてある。したがって、「上書分明なる間省略せしめ候」といった程度で終わるのは当たり前だ。この「上書」とは、「十一通御書」のうちの北条時宗へのものと見るべきだろう。
二郎 では、その時宗に対する書状は、どのような内容だったのだろう。
太郎 時宗への「上書」は、まず蒙古の牒状が到来したことに触れ、「立正安国論」の予言が的中したことを述べられ、それゆえに日蓮大聖人が聖人の一分だということを言われている。そして御書は次のように続く。
「建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ、然らずんば重ねて又四方より責め来る可きなり、速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり、諫臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る」
二郎 ここで「諫臣」となっているけども、「諫臣」とは誰のこと?
太郎 それは日蓮大聖人より、内奏を託されている宿屋入道と思われる。宿屋入道が内奏した時のことを慮り、そのように記されたと思われる。この御書には次のようにも書かれている。
「日蓮が申す事御用い無くんば定めて後悔之有る可し、日蓮は法華経の御使なり経に云く『則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ず』と、三世諸仏の事とは法華経なり、此の由方方へ之を驚かし奉る一所に集めて御評議有つて御報に予かる可く候、所詮は万祈を抛つて諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え、澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり。
三国仏法の分別に於ては殿前に在り所謂阿闍世・陳隋・桓武是なり、敢て日蓮が私曲に非ず只偏に大忠を懐く故に身の為に之を申さず神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり、恐恐謹言」
二郎 日蓮大聖人は、この「北条時宗への御状」の中で、諸宗と公場対決したい旨を述べられている。
太郎 「平左衛門尉頼綱への御状」も、公場対決を求められたものだ。この御書で注目されるのは、日蓮大聖人がこれらの書状を書く法的根拠を示されていることだ。
「御式目を見るに非拠を制止すること分明なり」
二郎 「非拠を制止する」ということはどういうことなんだろう。
太郎 それは『御成敗式目』にあると日蓮大聖人が仰せになっている。そこで当時の鎌倉幕府の法律である『御成敗式目』を見ると、その文末には次のように書かれている。
「御評定の間理非決断の事
右くたんの身れうけんの及さるによて若旨趣さうゐの事更に心のまかる所にあらすその外或は人の方人として道理の旨を知なから無理のよしを稱申又非據たる事せうせきありと号し人の短をあらはさゝ覽かために子細を知らしめなから善惡に付てこれ申さすは意と事と相違し後日の紕謬出來らんか凡そ評定の間理非にをいては親疎あるへからす好惡あるへからす只道理のをす所心中の存知傍輩をはゝからす權門をおそれす詞を出すへきなり御成敗事ぎれ條縦道理に違せすといふとも一同の憲法也誤て非據を行はるゝといふとも一同の越度也自今以後訴人并に其縁者に相向ひ自身は道理を存すといへとも傍輩の中其人の説をもて違亂をいたすよしその聞へあらは已に一味の義にあらす殆諸人の嘲をのこさんか兼又評定衆の中一行をかきあたへられは自餘の計皆以無道のよし獨これを存せらるゝに似たるか條々子細かくのことしもし一事たりといふとも曲折を存し違犯せしめは
梵天帝釋四大天王惣して日本六十餘州の大小の~祗殊には伊豆筥根兩所の權現三嶋の大明神八幡大菩薩天滿大自在天~ぶるいけんそく~罰冥罰各まかりかうぶるへき者也仍起請如件
貞永元年七月十日」
二郎 この『御成敗式目』文末の文と、日蓮大聖人の「非拠を制止すること分明なり」とはどのようにつながってくるのだろう。
太郎 それは、
「或は人の方人として道理の旨を知なから無理のよしを稱申又非據たる事せうせきありと号し人の短をあらはさゝ覽かために子細を知らしめなから善惡に付てこれ申さすは意と事と相違し後日の紕謬出來らんか凡そ評定の間理非にをいては親疎あるへからす好惡あるへからす只道理のをす所心中の存知傍輩をはゝからす權門をおそれす詞を出すへきなり」
という箇所に該当する。
二郎 どういうこと?
太郎 諸宗派は、他国侵逼難を防ぐだけの文証、理証にも欠け、その力もないのに虚偽を申し立てているということが、訴えを出した根拠となっている。
二郎 「北条弥源太への御状」はどのようなことが書かれているのだろう。
太郎 書状の最初は次のようになっている。
「去ぬる月御来臨急ぎ急ぎ御帰宅本意無く存ぜしめ候い畢んぬ」
二郎 弥源太は、日蓮大聖人が不本意な思いを抱かれるような帰り方をしたんだ。どうやら弥源太は、日蓮大聖人の国諫の話を聞いて、臆して帰ったように思われる。
太郎 その後の文で日蓮大聖人は、蒙古牒状が到来したこと、それによって世の中が驚動の極みに達していることを述べられている。日蓮大聖人は、「立正安国論」に予言したようになってきているとされた上で、それらの災いが邪法悪法より起こっているとされ、法華経を信受すべきだと認められている。その上で、公場対決によって諸経の勝劣を分別することを望まれている。
二郎 北条弥源太という名前からして、北条一門の一人なのだろうか。
太郎 この書状に、「貴殿は相模の守殿の同姓なり根本滅するに於ては枝葉豈栄えんや」と書かれているから、おそらく一門の者と思われる。
二郎 そうすると、これらの「十一通御書」の趣は三つに分類される。一つは、時宗に対する内奏、これには「殿前」において公場対決させてくれるよう書かれている。もう一つは 侍所に対する正式な訴え、そして諸宗派に対しては、公場対決の挑戦を受けるように伝えている。
太郎 日蓮大聖人は、宿屋入道や北条弥源太を通して時宗への内奏を果たし、諸宗と公場での対決を実現しようとされてきた。おそらくそのような動きを、日蓮大聖人は、この年の正月に蒙古の牒状が来てから、考えに考え抜かれた上でなされてきたことだと思う。ところが宿屋入道、北条弥源太の両名ともに、諫奏をしない。そこで日蓮大聖人は、意気地のない宿屋入道の意思に関係なく、内奏せざるをえないようにするため、十一通の書状を認められたと考えられる。宿屋入道は日蓮大聖人より内奏の「上書」をいただいているわけだから、侍所で問題となれば、「上書」を披瀝しなければならない。また信義においても、侍所の問い合わせいかんに関わらず、内奏する義務を負ったわけだ。
二郎 国難にあたり諫奏しない者は、佞臣に過ぎないと日蓮大聖人は見られていた。だから十一通の書状によって日蓮大聖人は、宿屋入道の退路を絶ち、諸宗に対して公に対決を迫られた。
太郎 しかしながら、この日蓮大聖人の十一通の書状は無視された。
二郎 日蓮大聖人はこの時、弟子檀那にも書状を書かれていた。
太郎 そこには次のように書かれている。
「定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え」
二郎 日蓮大聖人はこの御書において、日蓮大聖人を師と仰ぐ弟子たちに、流罪、死罪になることも覚悟するよう仰せになられている。
太郎 そうなれば世間的には不幸なことに映るだろうが、仏法の眼から見れば法華経の上において極めて有意義な死となる。それも日蓮大聖人のお供としてとなればこれ以上の誉れはない。
二郎 そのような厳しい法難に逢ったことはないから軽々に言えないけど、不惜身命の決意で生涯をまっとうしたい。
太郎 翌文永六年九月に、蒙古の牒状が対馬に着いた。先の牒状に対する返答を求めるものだったようだ。
二郎 またしても世情は騒然となっただろう。
太郎 この年の十一月に日蓮大聖人が書かれた「金吾殿御返事」は、御真蹟が現存している。そこには、次のように書かれている。
「抑此の法門の事・勘文の有無に依つて弘まるべきか弘まらざるか・去年方方に申して候いしかども・いなせの返事候はず候、今年十一月の比方方へ申して候へば少少返事あるかたも候、をほかた人の心もやわらぎて・さもやとをぼしたりげに候、又上のけさんにも入りて候やらむ、これほどの僻事申して候へば流・死の二罪の内は一定と存ぜしが・いままでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼへ候、いたれる道理にて候やらむ、又自界叛逆難の経文も値べきにて候やらむ」
二郎 「いなせの返事候はず」とあるから、承知とも不承知とも返事がなかったんだね。ひどい。日蓮大聖人の手紙をまったく無視したのだ。
太郎 たしかに、文永五年に方々へ書かれた手紙は無視された。しかし、この文永六年十一月のころに、日蓮大聖人があちらこちらの人々に再び、書状を書かれたところ、返事をしてきた者も少々いた。また返事をよこさなくとも、日蓮大聖人の意見に賛同する様子が見えたようだ。さらに日蓮大聖人は、みずからの書状を執権・時宗が読んだのではないかと思われている。
二郎 日蓮大聖人はこの御書で自界叛逆難、すなわち鎌倉幕府に内乱が起こることも予言されているね。
太郎 さらに日蓮大聖人は、この御書で次のように仰せになっている。
「師檀違叛の国と成り候いぬれば十が八・九はいかんがと・みへ候、人身すでに・うけぬ邪師又まぬがれぬ、法華経のゆへに流罪に及びぬ、今死罪に行われぬこそ本意ならず候へ、あわれ・さる事の出来し候へかしと・こそはげみ候いて方方に強言をかきて挙げをき候なり、すでに年五十に及びぬ余命いくばくならず、いたづらに曠野にすてん身を同じくは一乗法華のかたになげて雪山童子・薬王菩薩の跡をおひ仙予・有徳の名を後代に留めて法華・涅槃経に説き入れられまいらせんと願うところなり、南無妙法蓮華経」
二郎 僕たち兄弟も六十路近くとなった。南無妙法蓮華経に、生涯をかける決意を新たにしなければいけないと思う。


