報恩社トップ

第14章 布教戦略

第13章 / もくじ / 章間

布教には一大戦略があった

太郎 日蓮大聖人が立宗した時に「法華真言未分化」であったという立論の根拠は二つとも崩れた。「戒體即身成佛義」は仁治三(一二四二)年に書かれたものではなく、文永三(一二六六)年に書かれたものであった。国の重要文化財になっているとはいえ、「不動・愛染感見記」は偽書だった。日蓮大聖人が立宗の時、あるいはそれ以後においても「法華真言未分化」であったという立論の根拠がなくなった。
二郎 あの学者≠フ「学説」は、もはや虚妄の論だ。
太郎 どうしてそんな論を思いついたのかわからないよ。
二郎 いや、実はまだその学者≠ヘ、日蓮大聖人が「守護国家論」を認められた正元元(一二五九)年の三十八歳の時、あるいはまた「立正安国論」を認められた文応元(一二六〇)年七月の三十九歳の時においても「法華真言未分化」の立場で、天台宗などの既成仏教の枠内にいて念仏などの攻撃をしていたと言っているんだ。
太郎 それは御書にも反する。我慢偏執の論だよ。
二郎 どうしてあの学者≠ヘ、「守護国家論」を取り上げて「法華真言未分化」の論拠とするんだろう。
太郎 それは「守護国家論」などにおいて、日蓮大聖人が「法華真言」と連記されているから、短絡的にそう考えているんだよ。
二郎 「学説」としては単純すぎる。底が浅すぎる。
太郎 その学者≠ヘ御書の文意が汲めないんだよ。
二郎 そういうことなんだ。
太郎 その「学説」がいかに低次元かということは、日蓮大聖人の布教戦略をしっかり見ていけばわかることだ。それにしても、呆れた「学説」だ。日蓮大聖人が、一期の布教において一大戦略を持たれていたことを知らないんだ。だからそのような論を展開しているんだ。
二郎 布教にあたって、日蓮大聖人が戦略を持たれていたということなんだね。
太郎 そうだよ。
二郎 生涯にわたる布教の戦略に則り、日蓮大聖人は南無妙法蓮華経を弘められたんだ。

真言宗は法華経を失う大本

太郎 その事情について日蓮大聖人は、「清澄寺大衆中」に、つまびらかにされている。これは前にも二人で拝した箇所を含むけれども、ここでまたしっかり拝してみよう。
「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて左の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ、其の上真言宗は法華経を失う宗なり、是は大事なり先ず序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ」(傍線、著者)
二郎 なるほど、日蓮大聖人は悟りを得て、修学の時期に八宗並に一切の経の勝劣を知られた。そして真言宗が、法華経を失う大本であるということを見抜かれた。
太郎 そうなんだよ。真言宗が法華経を毀謗する根本であることを見抜かれた。そこで日蓮大聖人は、「是は大事なり先ず序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ」とお考えになったんだ。
二郎 日蓮大聖人は布教の序分に、禅宗、念仏宗を責めるという戦略を持たれていたんだ。
太郎 その理由が、この御書の次下に認められている。
「其の故は月氏漢土の仏法の邪正は且らく之を置く日本国の法華経の正義を失うて一人もなく人の悪道に堕つる事は真言宗が影の身に随うがごとく山山・寺寺ごとに法華宗に真言宗をあひそひて如法の法華経に十八道をそへ懺法に阿弥陀経を加へ天台宗の学者の灌頂をして真言宗を正とし法華経を傍とせし程に、真言経と申すは爾前権教の内の華厳・般若にも劣れるを慈覚・弘法これに迷惑して或は法華経に同じ或は勝れたりなんど申して、仏を開眼するにも仏眼大日の印・真言をもつて開眼供養するゆへに日本国の木画の諸像皆無魂無眼の者となりぬ、結句は天魔入り替つて檀那をほろぼす仏像となりぬ王法の尽きんとするこれなり、此の悪真言かまくらに来りて又日本国をほろぼさんとす。
 其の上禅宗・浄土宗なんどと申すは又いうばかりなき僻見の者なり、此れを申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために建長五年四月二十八日安房の国東条の郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして浄円房と申す者並びに少少の大衆にこれを申しはじめて其の後二十余年が間・退転なく申す、或は所を追い出され或は流罪等、昔は聞く不軽菩薩の杖木等を今は見る日蓮が刀剣に当る事を、日本国の有智・無智・上下・万人の云く日蓮法師は古の論師・人師・大師・先徳にすぐるべからずと、日蓮この不審をはらさんがために正嘉・文永の大地震・大長星を見て勘えて云く我が朝に二つの大難あるべし所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり、自界は鎌倉に権の大夫殿・御子孫どしうち出来すべし、他国侵逼難は四方よりあるべし、其の中に西より・つよくせむべし、是れ偏に仏法が一国挙りて邪なるゆへに梵天・帝釈の他国に仰せつけて・せめらるるなるべし」
二郎 この御書では、最初に真言宗の批判がされている。法華経の正義を失ったのは、真言宗が法華宗の身に、あたかも影が随うが如くにつきまとい、日本の天台法華宗を乗っ取り真言化してしまったからなんだ。
太郎 日本の天台宗は次々と変質していった。このことが、御書に具体的に指摘されている。「如法の法華経に十八道をそへ」とは、法華経の修行に十八道という真言の修法を添えるということ。「懺法に阿弥陀経を加へ」とは、法華経による懺悔の法に阿弥陀経を加えるということ。「天台宗の学者の灌頂をして真言宗を正とし法華経を傍とせし」とは、天台宗において僧の灌頂の儀式に際し、真言宗を正とし法華経を傍とするようになったことだ。
二郎 全部、真言宗が法華経をダメにしてしまったんだね。
太郎 本来、法華宗である日本の天台宗は、それによってダメになってしまった。その元凶は延暦寺第三代座主・慈覚と、真言宗の開祖・弘法なんだ。「仏眼大日」とは、大日経等で説かれる大日如来の化身のことだ。大日如来の印と真言をもって木画の像を開眼したことによって、国の威力はなくなってしまった。
二郎 日本の仏教を濁乱させた根源である真言宗が、今度は鎌倉にまで来て日本を亡ぼそうとしていたんだね。その真言の大誑惑に乗じて、禅宗、浄土宗などという僻見がまかり通り始めた。
太郎 日蓮大聖人は、そうした諸宗の状況を見極められた上で、立宗をされたんだ。立宗をされる時には、真言の大誑惑、禅宗、浄土宗などの僻見を責めるための大戦略を抱かれていた。また、それらの諸宗が間違ったものであるということを論じていけば、日蓮大聖人は命にも及ぶ危険があることを予知されていた。
二郎 日蓮大聖人は「正嘉・文永の大地震・大長星を見て」、真言宗、禅宗、浄土宗などを徹底して責め根絶しなければ、日本国に二つの大難が起こることを予見されていた。それが自界叛逆難と他国侵逼難だ。
太郎 そこで、この御書の最初の部分が大事になってくる。再び念を押しておくよ。立宗において日蓮大聖人は、真言が根本の過ちだと見られていたが、それをさておいて、「先ず序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ」と考えておられたんだ。
二郎 しかし、禅宗と念仏宗を序分に責めるとおっしゃっても、それはもう命がけのことだ。

比叡山の真言化が仏法濁乱の源

太郎 日蓮大聖人はそのように、日本仏教界の乱れがどこから始まっているのか、明確に見極められていた。ところが当時の諸宗の者たちは、相争いながらも一同に念仏化していく状況であった。そのことを日蓮大聖人は見定められた上で、まず最初に禅宗と念仏宗を責められたんだ。日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「但し仏法に入つて諍論あり、浄土宗の人人は阿弥陀仏を本尊とし・真言の人人は大日如来を本尊とす・禅宗の人人は経と仏とをば閣いて達磨を本尊とす、余宗の人人は念仏者・真言等に随へられ何れともなけれども・つよきに随ひ多分に押されて阿弥陀仏を本尊とせり」(新池殿御消息)
二郎 諸宗ともに争いながら、「多分に押されて阿弥陀仏を本尊」としていたんだ。ムチャクチャな状況だったんだね。
太郎 ともかく当時の仏教界は、念仏や禅宗にしてやられていた。真言宗が釈迦を侮って大日如来を尊んだことから、日本の仏教は壊乱した。天魔に魅入られた叡山の高僧らが誑かされ、正邪を弁えなくなったために、念仏、禅宗が蔓延った。その挙げ句、天台宗を支えなければいけない延暦寺、園城寺が相争い、戦まで始める。末世そのものの時代相がそこにあった。
「又念仏宗は法華経を背いて浄土の三部経につくゆへに阿弥陀仏を正として釈迦仏をあなづる、真言師大日をせんとをもうゆへに釈迦如来をあなづる、戒にをいては大小殊なれども釈尊を本とす余仏は証明なるべし、諸宗殊なりとも釈迦を仰ぐべきか、師子の中の虫・師子をくらう、仏教をば外道はやぶりがたし内道の内に事いできたりて仏道を失うべし仏の遺言なり、仏道の内には小乗をもつて大乗を失い権大乗をもつて実大乗を失うべし、此等は又外道のごとし、又小乗・権大乗よりは実大乗・法華経の人人が・かへりて法華経をば失はんが大事にて候べし、仏法の滅不滅は叡山にあるべし、叡山の仏法滅せるかのゆえに異国・我が朝をほろぼさんとす、叡山の正法の失するゆえに大天魔・日本国に出来して法然大日等が身に入り、此等が身を橋として王臣等の御身にうつり住み、かへりて叡山三千人に入るゆえに師檀中不和にして御祈しるしなし、御祈請しるしなければ三千の大衆等檀那にすてはてられぬ。
 又王臣等・天台・真言の学者に問うて云く念仏・禅宗等の極理は天台・真言とは一つかととはせ給へば、名は天台真言にかりて其の心も弁えぬ高僧・天魔にぬかれて答えて云く、禅宗の極理は天台真言の極理なり・弥陀念仏は法華経の肝心なりなんど答え申すなり、而るを念仏者・禅宗等のやつばらには天魔乗りうつりて当世の天台真言の僧よりも智慧かしこきゆえに全くしからず、禅は・はるかに天台真言に超えたる極理なり、或は云く『諸教は理深我等衆生は解微なり、機教相違せり得道あるべからず』なんど申すゆへに、天台・真言等の学者・王臣等・檀那皆奪いとられて御帰依なければ現身に餓鬼道に堕ちて友の肉をはみ・仏神にいかりをなし檀那をすそし年年に災を起し或は我が生身の本尊たる大講堂の教主釈尊をやきはらい或は生身の弥勒菩薩をほろぼす、進んでは教主釈尊の怨敵となり・退いては当来弥勒の出世を過たんとくるい候か、この大罪は経論にいまだとかれず、又此の大罪は叡山三千人の失にあらず公家武家の失となるべし」(法門申さるべき様の事)
二郎 僧形をした無頼者たちが、日本の大乗戒壇を戦場と化してしまった。もはや日本仏教界は、勝劣も高下もなくなった。濁悪の世の現出だ。

真言化した天台宗が念仏を受容した

太郎 そもそも天台宗が、だらしないんだよ。日蓮大聖人は先にも天台宗の変節ぶりを述べられていたが、「立正安国論」では、次のように指摘されている。
「釈迦の手指を切つて弥陀の印相に結び或は東方如来の鴈宇を改めて西土教主の鵝王を居え、或は四百余回の如法経を止めて西方浄土の三部経と成し或は天台大師の講を停めて善導講と為す、此くの如き群類其れ誠に尽くし難し是破仏に非ずや是破法に非ずや是破僧に非ずや、此の邪義則ち選択に依るなり」
二郎 たしかにひどい。天台宗はどんどん念仏化していったんだ。天台宗は日本仏教界の基となるべきであるのに、法華経を見失ったことによって念仏化していった。
太郎 日蓮大聖人は、その状況を次のようにも認められている。
「外道の法と申すは本内道より出でて候、而れども外道の法をもつて内道の敵となるなり、諸宗は法華経よりいで天台宗を才学として而も天台宗を失うなるべし、天台宗の人人は我が宗は実義とも知らざるゆへに我が宗のほろび我が身のかろくなるをば・しらずして他宗を助けて我が宗を失うなるべし、法華宗の人が法華経の題目南無妙法蓮華経とはとなえずして南無阿弥陀仏と常に唱えば法華経を失う者なるべし、例せば外道は三宝を立つ其の中に仏宝と申すは南無摩醯修羅天と唱えしかば仏弟子は翻邪の三帰と申して南無釈迦牟尼仏と申せしなり、此れをもつて内外のしるしとす、南無阿弥陀仏とは浄土宗の依経の題目なり、心には法華経の行者と存すとも南無阿弥陀仏と申さば傍輩は念仏者としりぬ、法華経をすてたる人とをもうべし、叡山の三千人は此の旨を弁えずして王法にもすてられ叡山をもほろぼさんとするゆへに・自然に三宝に申す事叶わず等と申し給うべし」(法門申さるべき様の事)
二郎 本当に惨憺たるありさまだ。天台宗が法華最勝の義を失ったがために、日本宗教界の大混乱が進み、念仏がはびこった。しかし、どうしてここまでおかしくなってしまったんだろう?
太郎 天台宗のみならず、真言宗も念仏宗や禅宗に対し、寛容な姿勢をとるようになったのは、布施が欲しかったからだよ。お金をくれる「檀那」である信者に諂ってそうなってしまった。日蓮大聖人は「開目抄」に、この事情をつまびらかに認められている。
「法然云く『法華経は末法に入つては未有一人得者・千中無一』等云云、大日云く『教外別伝』等云云、此の両義・国土に充満せり、天台真言の学者等・念仏・禅の檀那を・へつらいをづる事犬の主にををふり・ねづみの猫ををそるるがごとし、国王・将軍に・みやつかひ破仏法の因縁・破国の因縁を能く説き能くかたるなり、天台・真言の学者等・今生には餓鬼道に堕ち後生には阿鼻を招くべし、設い山林にまじわつて一念三千の観をこらすとも空閑にして三密の油をこぼさずとも時機をしらず摂折の二門を弁へずば・いかでか生死を離るべき」
二郎 天台宗や真言宗の者たちは立派なことを言っているけれど、しょせんは利養に貪著し金に弱いんだ。
太郎 正法を求める気持ちがなく、目先の利益や権威権勢に目がくらめば、法義も見えなくなってくる。日蓮大聖人は、天台宗の第六十一代座主・顕真が、法然の義に染められたことを、次のように述べられている。
「竜樹菩薩・曇鸞法師は難行道となづけ、道綽は未有一人得者ときらひ善導は千中無一とさだめたり、此等は他宗なれば御不審もあるべし、慧心先徳にすぎさせ給へる天台真言の智者は末代にをはすべきか彼の往生要集には顕密の教法は予が死生をはなるべき法にはあらず、又三論の永観が十因等をみよ、されば法華真言等をすてて一向に念仏せば十即十生・百即百生とすすめければ、叡山・東寺・園城・七寺等始めは諍論するやうなれども、往生要集の序の詞道理かとみへければ顕真座主落ちさせ給いて法然が弟子となる、其の上設い法然が弟子とならぬ人々も弥陀念仏は他仏ににるべくもなく口ずさみとし心よせにをもひければ日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり、此の五十年が間・一天四海・一人もなく法然が弟子となる法然が弟子となりぬれば日本国一人もなく謗法の者となりぬ」(撰時抄)

難行と易行の立て分けは権教についてのみ

二郎 竜樹はインドの人で、曇鸞は中国の人だよね。
太郎 そうだ。竜樹は『十住毘婆沙論』を書いた。曇鸞は「往生論註」を書いた。
二郎 竜樹の『十住毘婆沙論』が、法華経を難行道とする念仏義の始まりのように思うけど、それはどうなの?
太郎 いやいや、それが間違いのもとなんだよ。前にも話したとおり、『十住毘婆沙論』に立て分けられている難行と易行は、法華経を説く以前の釈迦の権教について述べているものなんだ。「四十余年 未顕真実」の文である権の教えについてのみ、竜樹は難行易行を立て分けたんだ。それを取り違えた者たちが、竜樹が念仏義を易行だとし、法華真言を難行だとし「千中無一」「捨閉閣抛」だと言い出す。竜樹の布教の次第は、あくまで法華最勝にあった。
二郎 そうなると、この念仏義の破折の論証も、さかのぼれば中国からインドに至るということになるね。
太郎 だが、それでもその迷妄ぶりは、真言ほどではなかったと日蓮大聖人は見られていた。そもそも法華最勝を掲げる天台宗が、念仏化する要素なんかはなかったんだ。ところが天台宗が真言化することによって、その素地が作られてしまった。
二郎 やはり、真言宗の弘法、日本天台宗延暦寺の第三代の座主・慈覚、第五代座主・智証が中国から真言の間違った教えを日本に持ってきたから、このような混乱が起こったんだ。これも前に兄さんと二人で話したよね。
太郎 そのとおりだ。そのことに触れながら、日蓮大聖人は天台宗の延暦寺第五十五代座主・明雲によって、叡山がまったくの真言宗となったこと、さらに第六十一代の座主・顕真によって念仏化されたことについて、次のようにおっしゃっている。
「日本国は又弘法・慈覚・智証・此の謗法を習い伝えて自身も知ろしめさず・人は又をもひもよらず、且くは法華宗の人人・相論有りしかども終には天台宗やうやく衰えて・叡山五十五代の座主・明雲・人王八十一代の安徳天皇より已来は叡山一向に真言宗となりぬ、第六十一代の座主・顕真権僧正は天台座主の名を得て真言宗に遷るのみならず、然る後・法華・真言をすてて一向謗法の法然が弟子となりぬ」(神国王御書)
二郎 日蓮大聖人は、「源濁れば流清からず」(十章抄)と、おっしゃっているけれども、まったくもって日本の仏教界は、天台宗という源が濁ったことにより濁乱していったんだ。

日蓮大聖人の破折が法然系念仏を追いつめた

太郎 そこで日蓮大聖人は立宗をされ、初めに禅宗と念仏を責められた。ところがその後、念仏の者たちは徐々に教義を変節させていく。念仏は、法然の時代に弾圧されたが、時代と共に諸宗派に入り込み、「諸行往生」の論を持ち出し、目先を誤魔化して息を吹き返していた。そして、ある一定の勢力を誇るようになると、念仏者たちは本来の専修念仏の義を強くしていった。ところが、日蓮大聖人の折伏によって、また専修念仏を引っ込め、「どの教えでも成仏できるが、念仏は浄土門にして易行だ」と「諸行往生」の立場に変わっていったんだ。このことについて、日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「此の七八年が前までは諸行は永く往生すべからず善導和尚の千中無一と定めさせ給いたる上選択には諸行を抛てよ行ずる者は群賊と見えたりなんど放語を申し立てしが、又此の四五年の後は選択集の如く人を勧めん者は謗法の罪によつて師檀共に無間地獄に堕つべしと経に見えたりと申す法門出来したりげに有りしを、始めは念仏者こぞりて不思議の思いをなす上念仏を申す者無間地獄に堕つべしと申す悪人外道ありなんどののしり候しが念仏者・無間地獄に堕つべしと申す語に智慧つきて各選択集を委く披見する程にげにも謗法の書とや見なしけん千中無一の悪義を留めて諸行往生の由を念仏者毎に之を立つ、然りと雖も唯口にのみゆるして心の中は猶本の千中無一の思いなり在家の愚人は内心の謗法なるをばしらずして諸行往生の口にばかされて念仏者は法華経をば謗ぜざりけるを法華経を謗ずる由を聖道門の人の申されしは僻事なりと思へるにや、一向諸行は千中無一と申す人よりも謗法の心はまさりて候なり失なき由を人に知らせて而も念仏計りを亦弘めんとたばかるなり偏に天魔の計りごとなり」(唱法華題目抄)
二郎 念仏の祖・善導は、法華経で成仏するものは「千中無一」、つまり千人のうち一人もいないと言い、法然は『選択集』で、「諸行を抛てよ行ずる者は群賊と見えたり」といって専修念仏を主張していたのだが、念仏者たちはこれらの主張を引っ込めだした。
太郎 この「唱法華題目抄」は、日蓮大聖人が立宗されてから七年後である文応元(一二六〇)年五月、鎌倉において認められたものだ。
二郎 そうすると、日蓮大聖人が立宗されるまでは、念仏の者たちは我がもの顔に法然の義をもって「専修念仏」だとしていたのに、日蓮大聖人に責められると、「諸行往生」を言い始めたというわけだ。つまり、「どのお経でも成仏できるけども念仏は易行だ」と、他の宗派を謗ることをやめたんだ。
太郎 日蓮大聖人の師子吼に驚いた連中のうろたえぶりは大変なものだった。これらの事情については「破良観等御書」に詳しい。
「年卅二・建長五年の春の比より念仏宗と禅宗と等をせめはじめて後に真言宗等をせむるほどに・念仏者等始にはあなづる、日蓮いかに・かしこくとも明円房・公胤僧上・顕真座主等には・すぐべからず、彼の人人だにもはじめは法然上人をなんぜしが後にみな堕ちて或は上人の弟子となり或は門家となる、日蓮は・かれがごとし我つめん我つめんとはやりし程に、いにしへの人人は但法然をなんじて善導・道綽等をせめず、又経の権実を・いわざりしかばこそ念仏者はをごりけれ、今日蓮は善導・法然等をば無間地獄につきをとして専ら浄土の三部経を法華経に・をしあはせて・せむるゆへに、螢火に日月・江河に大海のやうなる上・念仏は仏のしばらくの戯論の法・実にこれをもつて生死を・はなれんとをもわば大石を船に造り大海をわたり・大山をになて嶮難を越ゆるがごとしと難ぜしかば・面をむかうる念仏者なし」
二郎 念仏、禅宗は日蓮大聖人の猛折伏の前に、まったく太刀打ちできなかった。
太郎 ところが、念仏、禅宗の者たちは、自分たちの力ではとうていかなわないと思い、日蓮大聖人が法華最勝を主張されているのを見て、法華経の流れを汲む天台宗の者ならなんとかなると考えた。要するに彼らとしては、同じ法華経を崇めているのだから、天台宗をもって日蓮大聖人を討たせようとし、いわゆる同士討ちをさせようと謀ったんだ。この様子は、この御書の次下に引き続き認められている。
「後には天台宗の人人を・かたらひて・どしうちにせんと・せしかども・それもかなはず、天台宗の人人も・せめられしかば在家出家の心ある人人・少少念仏と禅宗とをすつ、念仏者・禅宗・律僧等我が智力叶わざるゆへに諸宗に入りあるきて種種の讒奏をなす、在家の人人は不審あるゆへに各各の持僧等或は真言師或は念仏者或はふるき天台宗或は禅宗或は律僧等をわきにはさみて或は日蓮が住処に向い或はかしこへよぶ、而れども一言二言にはすぎず・迦旃延が外道をせめしがごとく徳慧菩薩が摩沓婆をつめしがごとく・せめしゆへに其の力及ばず」
二郎 その同士討ちの計略は失敗した。逆に、出家・在家の者で、念仏、禅宗を捨て、日蓮大聖人の正法に帰伏する者が出てきた。
太郎 日蓮大聖人に責められた念仏、禅宗、律宗の者たちは、日蓮大聖人の立てられた法門の前になす術がなかった。そこで、他宗派にも日蓮大聖人の悪口を言い、なんとか日蓮大聖人を潰そうとした。また在家の人たちは、日蓮大聖人の言うことにも理があるのかと思い、不審に思って帰依している僧たちを連れて、日蓮大聖人の所へ行き、あるいは日蓮大聖人を呼び、法論をした。
二郎 でも、それはしょせん赤っ恥をかくだけに終わった。帰依してくれている在家の者の前で出家が立ち往生したのでは、どうしようもない。
太郎 他宗の連中は、法論に負けた鬱憤を、権力におもねり、暴力を行使することによって晴らし、自己の保全をはかろうとした。この御書は次のように続いている。
「人は智かしこき者すくなきかのゆへに結句は念仏者等をば・つめさせてかなはぬところには・大名して・ものをぼへぬ侍どもたのしくて先後も弁えぬ在家の徳人等挙て日蓮をあだするほどに・或は私に狼藉をいたして日蓮が・かたの者を打ち或は所ををひ或は地をたて・或はかんだうをなす事かずをしらず」
二郎 汚い連中だ。とはいえ、どの時代にあっても法華経の行者に対しては、同じ手が使われてきた。
太郎 いつの世においても、法華経の究極の平等観を潰そうとする者は、世の中の差別構造や劣等感などの薄暗い心に依拠している。そして最後は、権力を利用して弾圧するんだ。
二郎 それに勝つのは、三世の生命観に立つ不惜身命の思いと日蓮大聖人の流類としての連帯感だ。
太郎 その戦いの軸となる人が、師だ。
二郎 まったくそのとおり。
太郎 日蓮大聖人が念仏を責められたことによって、どのようなことが起こったか。日蓮大聖人は次のように見られている。
「五十余年が間は善導の千中無一・法然が捨閉閣抛の四字等は権者の釈なれば・ゆへこそあらんと思いてひら信じに信じたりし程に日蓮が法華経の或は悪世末法時或は於後末世或は令法久住等の文を引きむかへて相違をせむる時我が師の私義破れて疑いあへるなり、詮ずるところ後五百歳の経文の誠なるべきかの故に念仏者の念仏をもて法華経を失ひつるが還つて法華経の弘まらせ給うべきかと覚ゆ」(題目弥陀名号勝劣事)
二郎 どういうこと?
太郎 日蓮大聖人が立宗される前の「五十余年が間」は、中国の念仏の祖である善導の「千中無一」や法然の「捨閉閣抛」といった教えを、偉い人の言うことだから本当だと誰もが信じていた。善導や法然が邪に自義を立てて、民衆に正義だと思わせていた。念仏者が稚拙な論を持って、法華経をないがしろにしていたんだ。しかし、その邪義を破することは容易である。念仏の義が弘まったことが、法華経が末法に弘まる先序となったと、日蓮大聖人は見られている。
二郎 そういう点では、念仏が弘まったのは、仏法から見れば末法を象徴する出来事だと言える。
太郎 日蓮大聖人は、次のように仰せになっている。
「此の念仏と申すは雙観経・観経・阿弥陀経の題名なり権大乗経の題目の広宣流布するは実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや、心あらん人は此れをすひしぬべし、権経流布せば実経流布すべし権経の題目流布せば実経の題目も又流布すべし」(撰時抄)
二郎 日蓮大聖人は仏法二千年の流れの上で、末法の様子を冷静に見ておられた。
太郎 だからこそ、立宗にあたり大胆にして細密な布教戦略を持たれていた。一向に念仏化した日本の宗教界において、念仏を責めることによって、諸宗をまずバラバラにする作戦があったと思われる。念仏が責められれば、各宗派は権威・権力者や有力な信者などに諂って念仏を称えるわけにはいかず、元の宗旨に戻らなければならない。このことによって各派は、本来の立義を色濃く出すことになる。よって分断される。そうして真言という日本仏教壊乱の根が露わになる。
二郎 たしかに、そういう見方もできるね。
太郎 日蓮大聖人は、真言、天台などの邪義の次第は、かなり知的程度の高い者でなければわからないので、まず念仏を責められたんだ。
「真言・天台宗等は法華誹謗の者いたう呵責すべし、然れども大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし、然る間まづまづ・さしをく事あるなり立正安国論の如し」(阿仏房尼御前御返事)
 北条時頼へ宛てた国主諫暁の書である「立正安国論」ですら、日蓮大聖人の弘通の次第においては序分だったんだ。たしかに「立正安国論」は念仏批判が大部分を占めている。「立正安国論」は、十問九答で成り立っているが、諸宗の批判は最初の三問三答にとどまる。あとは念仏批判だ。
二郎 日蓮大聖人は布教にあたり、最初に禅宗と念仏宗を責めたのは、真言宗と天台宗の犯している誤りを顕すためだったと述べられていた。だから「立正安国論」などを著され、大法弘通の序分として念仏を責められたんだ。
太郎 そういうこと。何度も強調することになるが、日蓮大聖人の布教において、真言の攻略が最終目標となる。その理由は先にも強調したとおりだ。そもそも日本仏教が大混乱した本の本は、真言の祖である中国の三三蔵にある。
二郎 その三三蔵の立てた真言の立義によって中国は亡びた。そして今、その悪義が叡山を侵し鎌倉に入って、日本国をも亡ぼそうとしていると、日蓮大聖人は見られていた。
太郎 この真言宗が日本の天台宗をダメにし、法華経誹謗の罪を重ね、仏教界の混乱の本となったんだ。弘法の邪義は明らかなところもあって、騙されない者もいたが、天台宗の延暦寺第三代座主・慈覚が真言に堕ちたことによって、日本仏法の根幹が崩された。「伝教の立てた法華最勝の義が、真言によって崩された」との日蓮大聖人の認識は微動だにしていない。その認識の上に立って、禅宗、念仏宗を序分に責められた。
「仏法の邪見と申すは真言宗と法華宗との違目なり、禅宗と念仏宗とを責め候しは此の事を申し顕さん料なり漢土には善無畏・金剛智・不空三蔵の誑惑の心・天台法華宗を真言の大日経に盗み入れて還つて法華経の肝心と天台大師の徳とを隠せし故に漢土滅するなり、日本国は慈覚大師が大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部と取つて伝教大師の鎮護国家を破せしより叡山に悪義・出来して終に王法尽きにき、此の悪義・鎌倉に下つて又日本国を亡すべし弘法大師の邪義は中中顕然なれば人もたぼらかされぬ者もあり、慈覚大師の法華経・大日経の理同事勝の釈は智人既に許しぬ愚者争でか信ぜざるべき」(曾谷入道殿御書)

未曾有の徹底した念仏破折論

二郎 日蓮大聖人が禅宗と念仏宗を責めることによって、日本仏法混乱の根源である真言宗と天台宗の悪の根を洗い出そうとされたことはわかった。ところで、日蓮大聖人の念仏に対する破折は、どのようなものだったのだろう。
太郎 その前に、法然が専修念仏を始めた時、延暦寺、園城寺などの既成勢力がどのように対応したか見てみよう。日蓮大聖人が、そのことを述べておられる。
「然る間斗賀尾の明慧房は天下無雙の智人・広学多聞の明匠なり、摧邪輪三巻を造つて選択の邪義を破し、三井寺の長吏・実胤大僧正は希代の学者・名誉の才人なり浄土決疑集三巻を作つて専修の悪行を難じ、比叡山の住侶・仏頂房・隆真法橋は天下無雙の学匠・山門探題の棟梁なり弾選択上下を造つて法然房が邪義を責む、しかのみならず南都・山門・三井より度度奏聞を経て法然が選択の邪義亡国の基為るの旨訴え申すに依つて人王八十三代・土御門院の御宇・承元元年二月上旬に専修念仏の張本たる安楽・住蓮等を捕縛え忽ちに頭を刎ねられ畢んぬ、法然房源空は遠流の重科に沈み畢んぬ、其の時・摂政左大臣家実と申すは近衛殿の御事なり此の事は皇代記に見えたり誰か之を疑わん。
 しかのみならず法然房死去の後も又重ねて山門より訴え申すに依つて人皇八十五代・後堀河院の御宇嘉禄三年京都六箇所の本所より法然房が選択集・並に印版を責め出して大講堂の庭に取り上げて三千の大衆会合し三世の仏恩を報じ奉るなりとて之れを焼失せしめ法然房が墓所をば犬神人に仰せ付けて之れを掘り出して鴨河に流され畢んぬ」(念仏無間地獄抄)
二郎 最初、法然たちは徹底して弾圧されたんだね。
太郎 そうなんだ。専修念仏を弘めたからだ。念仏のみが末法においては有用で、あとの教えは無用だと言ったんだから諸宗は怒って、朝廷に奏上した。朝廷は法然門徒らの頸をはねたり、法然を流罪にしたりした。法然は死んだ後も墓をあばかれ、その骨を京都の鴨川に流された。
二郎 国家権力による徹底した弾圧があったんだ。それも、朝廷と既成仏教勢力が一体となって弾圧したんだね。
太郎 この大弾圧の裏には、法然の一門が公家の女房たちと次々と男と女の関係になり、物議をかもしたという極めて現実的な事情もあった。女犯をしても魚鳥を食しても、念仏を称えれば阿弥陀仏が迎えに来るというのだから、歯止めが効かない。肉食妻帯をし、遊興に耽っている今の坊主の姿を見ればよくわかる。その女犯解禁の坊主が、上皇の愛妾や公家の女房たちとねんごろになって「大法難」となった。
二郎 それはちょっと「法難」とは言えないね。自業自得だね。
太郎 ともあれ、法然たちは「大弾圧」を受けた。そのことにより、浄土宗の者たちは、今度は「聖道門」「浄土門」「難行」「易行」という立て分けを巧みに使い、法華経や真言の経などは「聖道門」で「難行」であるとし、自分たちは「浄土門」で「易行」であるという立義を強調し始めた。ざっくばらんな言い方をすれば「聖道門」「難行」は身分の高い人でやってください、我々身分の低い者は「浄土門」「易行」で成仏します、といった法義を立てたんだ。日蓮大聖人は、浄土宗の連中の言い分を、次のように紹介されている。
「浄土宗の如きは道理を立てて云く『我等は法華等の諸経を誹謗するに非ず彼等の諸経は正には大人の為傍には凡夫の為にす断惑証理・理深の教にして末代の我等之を行ずるに千人の中に一人も彼の機に当らず在家の諸人多分は文字を見ず亦華厳法相等の名を聞かず況や其の義を知らんや、浄土宗の意は我等凡夫は但口に任せて六字の名号を称すれば現在に阿弥陀如来二十五の菩薩等を遣わし身に影の随う如く百重千重に行者を囲繞して之を守り給う、故に現世には七難即滅・七福即生し乃至臨終の時は必ず来迎有つて観音の蓮台に乗じ須臾の間に浄土に至り業に随つて蓮華開け法華経を聞いて実相を覚る何ぞ煩しく穢土に於て余行を行じて何の詮か有る但万事を抛つて一向に名号を称せよ』と云云」(守護国家論)
二郎 ものも言いようだね。文字も読めないような下賤の自分たちは、念仏を称えて浄土に至って法華経を聞き、実相を悟るというんだから、念仏者も器用な口を持っているね。そうなると、法華宗や真言宗の側もヨイショされちゃって、その気になったんだね。
太郎 二郎の言うとおりだよ。「あなたたちのやっていらっしゃることは、非常にすばらしい。私たち卑しい者はお経なんて読めませんから、念仏を繰り返す程度のことです」などと言って、みずからを卑下するような論を立てて、蔓延っていったんだ。
二郎 本題に戻るけれども、日蓮大聖人の念仏に対する破折は、どのように行なわれていたんだろう。
太郎 それは、日蓮大聖人の出現以前の日本の宗教界では、立論する者すらいなかった破折の論理だった。日蓮大聖人の念仏破折は、それまでの叡山を含めた諸宗の者たちの念仏破折の論を遥かに超えていた。日蓮大聖人は、天台宗などの念仏破折は論理的に弱く、かえって念仏宗を増長させることになったと、「守護国家論」において総括されている。
「此の悪義を破らんが為に亦多くの書有り所謂・浄土決義鈔・弾選択・摧邪輪等なり、此の書を造る人・皆碩徳の名一天に弥ると雖も恐くは未だ選択集謗法の根源を顕わさず故に還つて悪法の流布を増す、譬えば盛なる旱颰の時に小雨を降せば草木弥枯れ兵者を打つ刻に弱兵を先んずれば強敵倍力を得るが如し。
 予此の事を歎く間・一巻の書を造つて選択集謗法の縁起を顕わし名づけて守護国家論と号す、願わくば一切の道俗一時の世事を止めて永劫の善苗を種えよ、今経論を以て邪正を直す信謗は仏説に任せ敢て自義を存する事無かれ」
二郎 たしかに、弱い者が責めると敵は勢いを増す。天台宗などの念仏批判は、念仏の過ちを根底から糾すものではなかったんだ。
太郎 日蓮大聖人は、彼らが「難行」「易行」の論拠を、インドの竜樹が説いた『十住毘婆沙論』にあるとしているが、これはまったくの間違いであると指摘された。同じく「守護国家論」においては、次のように述べられている。
「竜樹菩薩の十住毘婆沙論には法華已前に於て難易の二道を分ち敢て四十余年已後の経に於て難行の義を存せず、其の上若し修し易きを以て易行と定めば法華経の五十展転の行は称名念仏より行じ易きこと百千万億倍なり、若し亦勝を以て易行と定めば分別功徳品に爾前四十余年の八十万億劫の間の檀・戒・忍・進・念仏三昧等先きの五波羅蜜の功徳を以て法華経の一念信解の功徳に比するに一念信解の功徳は念仏三昧等の先きの五波羅蜜に勝るる事百千万億倍なり難易・勝劣と云い行浅功深と云い観経等の念仏三昧を法華経に比するに難行の中の極難行・劣が中の極劣なり」
二郎 念仏の立義の根源は竜樹の『十住毘婆沙論』にあるとされていたけど、それは単に法然の誤解だった。さっき兄さんが言っていたように、竜樹の立てた難行、易行は法華経以前の権教の範囲にとどまるんだ。
太郎 その間違いを糾された上で、日蓮大聖人は法華経こそが易行であり、かつもっとも勝れたものだと言われている。また、念仏の依経である「観経」などは、「難行中の極難行」「劣が中の極劣」だと弾呵されている。
二郎 当然のことだ。竜樹の本意を違えてできた法門は、摧かれるべきだ。
太郎 竜樹は『十住毘婆沙論』で権論を立て、のちに大論すなわち「大智度論」を出して般若経と法華経との違いをはっきりさせ、法華最勝の本義を出だした。だから、『十住毘婆沙論』は権教についての論で、その中に「難行」「易行」があった。
二郎 法然は竜樹の弘教の次第を見ないで、みずからの法門に都合のいいところだけをつまみ食いしたことになるね。
太郎 さらに、源空こと法然が書いた『選択集』は、源信すなわち恵心の本意を取り違えたものだと日蓮大聖人は指摘されている。源信は『往生要集』を書いた時には、その第十巻「問答料簡」の下に諸行の勝劣を定めた。日蓮大聖人は、その箇所の最後の問答に触れられ、次のように述べられている。
「最後に一つの問答有り爾前の禅定・念仏三昧を以て法華経の一念信解に対するに百千万億倍劣ると定む、復問を通ずる時念仏三昧を万行に勝るると云うは爾前の当分なりと云云、当に知るべし慧心の意は往生要集を造つて末代の愚機を調えて法華経に入れんが為なり、例せば仏の四十余年の経を以て権機を調え法華経に入れ給うが如し」
二郎 恵心すなわち源信が『往生要集』を著したのは、調機調養して人々を法華経に向わせるためにあったんだ。それを「専修念仏」の依文にするとは、法然もそうとう読解力に欠けてるんだね。
太郎 さらに日蓮大聖人は、源信が『往生要集』を著した約二十年後に書いた『一乗要決』に触れ、その「序」をもって法然の義を破っておられる。
二郎 その「序」にはなんて書いてあるの?
太郎 「守護国家論」に、その「序」が紹介されている。
「故に最後に一乗要決を造る其の序に云く『諸宗の権実は古来の諍いなり倶に経論に拠て互いに是非を執す、余寛弘丙午の歳冬十月病中に歎いて云く仏法に遇うと雖も仏意を了せず若し終に手を空うせば後悔何ぞ追わん、爰に経論の文義・賢哲の章疏或は人をして尋ねしめ或は自ら思択し全く自宗他宗の偏党を捨つる時・専ら権智実智の深奥を深ぐるに終に一乗は真実の理・五乗は方便の説を得る者なり、既に今生の蒙を開く何ぞ夕死の恨を残さんや』已上此の序の意は偏に慧心の本意を顕すなり、自宗他宗の偏党を捨つるの時浄土の法門を捨てざらんや一乗は真実の理と得る時専ら法華経に依るに非ずや」
 このように、『往生要集』を著した源信は、晩年において法華一仏乗を鮮明に記している。法然は叡山で受戒していながら、この程度の法門もわからなかったんだ。
二郎 それだけ当時の日本の天台宗は、正邪の判別ができないところまできていたと言えるね。
太郎 そういうことだ。
二郎 ここまで日蓮大聖人に論理的に破折されると、念仏側は反論の余地もなかっただろう。
太郎 そこで日蓮大聖人は、破邪顕正の理によって法華最勝を述べられた。「守護国家論」の結論部分は次のようになっている。
「二に経に就て信を立つとは、無量義経に四十余年の諸経を挙げて未顕真実と云う、涅槃経に云く『如来は虚妄の言無しと雖も若し衆生・虚妄の説に因つて法利を得と知れば宜しきに随つて方便して則ち為に之を説き給う』又云く『了義経に依つて不了義経に依らざれ』已上是の如きの文一に非ず皆四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義・魔説と称す是れ皆人をして其の経を捨てて法華涅槃に入らしめんが為なり、而るに何の恃み有つて妄語の経を留めて行儀を企て得道を期するや、今権教の情執を捨て偏に実経を信ず故に経に就て信を立つと云うなり。
 問うて云く善導和尚も人に就て信を立て行に就て信を立つ何の差別有らんや、答えて云く彼は阿弥陀経等の三部に依つて之を立て一代の経に於て了義不了義経を分たずして之を立つ、故に法華涅槃の義に対して之を難ずる時は其の義壊れ了んぬ」
二郎 「守護国家論」の結論は、阿弥陀経などの念仏の三部経を不了義経とし、法華経涅槃経を了義経として紹介している。無量義経は正宗分、涅槃経は流通分、この立て分けを知れば、「守護国家論」は法華最勝で終わっていることがわかる。

「守護国家論」が著されたのはいつか

太郎 この「守護国家論」について、「立正安国論」の草稿であったとか、いろいろな説がある。系年も正元元(一二五九)年、三十八歳御作とされている。けれどもこの「守護国家論」には、正嘉元(一二五七)年八月の大地震、同二(一二五八)年八月の大風、正嘉年中およびその後の大飢饉、大疫病などが、まったく触れられていない。したがって系年は、正嘉以前のものであると思われる。
二郎 そうすると、日蓮大聖人が何歳以前の御書と言えるだろうか?
太郎 三十六歳より若い時の御書と考えている。
二郎 立宗後、間もなくして作られた念仏破折の大書と言えるね。
太郎 全文が漢文で書かれた、公に問う文書と言える。この論をもって有能な弟子檀那を得られたと思う。
二郎 若くして日蓮大聖人は大書をもって、みずからの立論の正しさを世に問われたんだ。
太郎 日蓮大聖人の注目すべき御書が認められたのは、「立正安国論」が上呈される少し前の文応元(一二六〇)年五月二十八日のことだった。
二郎 それはなんという御書なの?
太郎 「唱法華題目抄」だ。
「問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし、行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈・一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし」
二郎 この御書には、御本尊の相貌が明かされている。また、常の行として南無妙法蓮華経の題目を唱えるよう、述べられている。
太郎 このように、日蓮大聖人の御生涯を通しての弘教の次第の一分は、すでに三十九歳の時に著された「唱法華題目抄」に明らかにされていたんだ。とはいえ日興上人は、「富士一跡門徒存知の事」に、同御書について次のように書かれている。
「一、唱題目抄一巻。
 此の書・最初の御書・文応年中・常途天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し給う、仍つて文言義理共に爾なり」

「立正安国論」を上呈する背景にあったもの

二郎 日蓮大聖人は「唱法華題目抄」を著されたおよそ二カ月後に、「立正安国論」を時の実権者である北条時頼に上呈される。
太郎 日蓮大聖人が「立正安国論」を上呈された思いは、「立正安国論奥書」「安国論御勘由来」に明確に記されている。
「文応元年太歳庚申之を勘う正嘉より之を始め文応元年に勘え畢る。
 去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の尅の大地震を見て之を勘う、其の後文応元年太歳庚申七月十六日を以て宿屋禅門に付して故最明寺入道殿に奉れり」(立正安国論奥書)
「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す、同二年戊午八月一日大風・同三年己未大飢饉・正元元年己未大疫病同二年庚申四季に亘つて大疫已まず万民既に大半に超えて死を招き了んぬ、而る間国主之に驚き内外典に仰せ付けて種種の御祈有り、爾りと雖も一分の験も無く還つて飢疫等を増長す。
 日蓮世間の体を見て粗一切経を勘うるに御祈請験無く還つて凶悪を増長するの由道理文証之を得了んぬ、終に止むこと無く勘文一通を造り作して其の名を立正安国論と号す、文応元年庚申七月十六日辰時屋戸野入道に付けて古最明寺入道殿に奏進申し了んぬ此れ偏に国土の恩を報ぜんが為なり」(安国論御勘由来)
二郎 日蓮大聖人は、民衆の幸せを願い国を守りたいとの思いで、「立正安国論」を北条時頼に上奏されたんだ。
太郎 この「立正安国論」についての日蓮大聖人の思いは、「本尊問答抄」にも認められている。
「是くの如く仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ結句は此の国・他国にやぶられて亡国となるべきなり、此の事日蓮独り勘え知れる故に仏法のため王法のため諸経の要文を集めて一巻の書を造る仍つて故最明寺入道殿に奉る立正安国論と名けき、其の書にくはしく申したれども愚人は知り難し」

国主諫暁が松葉ケ谷法難を惹起した

二郎 これには、念仏の者たちはひどく恐れを抱いたことだろう。なにしろ、仏法の乱れによって国が亡びると国家の最高権力者に上呈されてしまった。その仏法の乱れをなす者として、最初に念仏の者たちが、矢面に立たされたのだ。
太郎 そういうことだ。日蓮大聖人は鎌倉において、念仏宗や禅宗などを徹底して責められた。その上で、時の最高権力者で元執権の北条時頼と直接会い、正法正義を説かれた。さらに文応元(一二六〇)年の七月、日蓮大聖人は、最初の国主諫暁の書である「立正安国論」を、宿屋入道を通して北条時頼に上奏された。
二郎 念仏化した諸宗派も、大いに危機感を持ったことだろう。
太郎 だが残念ながら、「立正安国論」は黙殺されてしまった。
二郎 そうすると、残ったのは諸宗の者たちの憎しみだけということになる。
太郎 諸宗の者たちは、日蓮大聖人を襲撃し殺そうとする。これが文応元(一二六〇)年八月二十七日の松葉ケ谷の法難だ。松葉ケ谷の法難について、日蓮大聖人は、次のように仰せになっている。
「先ず大地震に付て去る正嘉元年に書を一巻注したりしを故最明寺の入道殿に奉る御尋ねもなく御用いもなかりしかば国主の御用いなき法師なればあやまちたりとも科あらじとやおもひけん念仏者並に檀那等又さるべき人人も同意したるとぞ聞へし夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかどもいかんがしたりけん其の夜の害もまぬかれぬ、然れども心を合せたる事なれば寄せたる者も科なくて大事の政道を破る日蓮が未だ生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ」(下山御消息)
二郎 法論に負けて、刃傷沙汰に及ぶとは仏法者とも思えない。それも、「さるべき人人」の権勢を借り、狼藉に及ぶとは許せない。
太郎 次に紹介する御真蹟は、一紙七行しか残っていない断簡だ。それには日蓮大聖人が次のように認められている。
「論談敵対の時、二口三口にも及ばず一言二言を以て退屈せしめ了んぬ。所謂善光寺の道阿弥陀仏・長安寺の能安是なり。
 其の後は唯悪口を加え、無痴の道俗を相語らいて留難を作さしむ。或は国々の地頭等を語い、或は事を権門に寄せ、或は昼夜に私宅を打ち、或は丈木を加え、或は刀杖に及び、或は貴人に向て云く謗法者・邪見者・悪口者・犯禁者等の狂言其の数を知らず。終に去年五月十二日戌の時、念仏者並に塗師・□師・雑人等(以下滅失)」(論談敵対御書)
二郎 「去年五月十二日」となっているけれども、松葉ケ谷の法難は、文応元(一二六〇)年八月二十七日だったね。
太郎 五月十二日は伊豆流罪の日だ。ちなみに弘長元(一二六一)年のことだった。
二郎 そうすると、この御書は伊豆伊東の流罪に言及する前で途切れているということになる。
太郎 しかし、ここで注目されるのは「念仏者並に塗師・□師・雑人等」と書かれていることだ。松葉ケ谷の襲撃が、念仏者や仏教寺院建設、造仏などに携わった者たちによってなされたことがわかる。
二郎 宗教的な怨念だけではなく、食い扶持がなくなることを恐れた者たちが、松葉ケ谷の襲撃に参加したんだ。

伊豆流罪における法悦

太郎 日蓮大聖人は、松葉ケ谷の法難を起こした者たちが、幕府権力に讒奏したけれども用いられなかったこと、しかしながら幕府内部の有力者が、この松葉ケ谷の草庵襲撃の背景にいたこと、そして、殺されるような状況下であったこと、ついには伊豆に流罪されたことなどを、次の御書の中で述べられている。
「上に奏すれども人の主となる人は・さすが戒力といゐ福田と申し子細あるべきかとをもひて左右なく失にも・なされざりしかば・きりものども・よりあひてまちうど等をかたらひて数万人の者をもつて夜中にをしよせ失わんとせしほどに・十羅刹の御計らいにてやありけん日蓮其の難を脱れしかば・両国の吏・心をあわせたる事なれば殺されぬを・とがにして伊豆の国へながされぬ、最明寺殿計りこそ子細あるかとをもわれていそぎゆるされぬ」(破良観等御書)
二郎 この御書を読むと、日蓮大聖人の伊豆流罪赦免を最終的に決断したのは、時の最高権力者で元執権の北条時頼であったことがわかる。
太郎 やはり、日蓮大聖人に直接会ったことのある北条時頼が、「立正安国論」に述べられていることに、一分の義を感じ赦免に及んだと言える。
二郎 伊豆流罪以前の御書で、現存しているものは少ないね。
太郎 本当にそうなんだ。日蓮大聖人が伊豆に流罪されたのは四十歳の時だ。立宗以来、すでに八年が経っている。この間、日蓮大聖人は教線を切り開かれるにあたり、お手紙を書かれて様々な人を激励されたに違いない。また、法門に関わるいろいろな御書も認められただろう。だが、そのほとんどは今、失われている。日蓮大聖人の教法を信じた者のうち、何名もの人間が殺され、所払いされた。いやいやそれ以上に、弾圧に恐怖し、退転していった者が数多くいたはずだ。そのことにより、多くの御書が失われてしまった。
二郎 伊豆流罪に至るまでの御書がもっと残っていれば、本当にありがたいと思う。でも、僕たち日蓮大聖人を末法の御本仏と信ずる者たちは、残された御書の片々からでも日蓮大聖人の願業に思いを致すべきだと思う。
太郎 日蓮大聖人が、伊豆伊東に流罪される二週間前に、「椎地四郎」という信者宛てに出された御書がある。この御書を読めば、日蓮大聖人が弾圧の予兆を感じ取られながらも、法華経身読をいかに望まれていたかがわかる。難を前にして、法悦の只中におられたと言える。
「抑法華経の如渡得船の船と申す事は・教主大覚世尊・巧智無辺の番匠として四味八教の材木を取り集め・正直捨権とけづりなして邪正一如ときり合せ・醍醐一実のくぎを丁と・うつて生死の大海へ・をしうかべ・中道一実のほばしらに界如三千の帆をあげて・諸法実相のおひてをえて・以信得入の一切衆生を取りのせて・釈迦如来はかぢを取り・多宝如来はつなでを取り給へば・上行等の四菩薩は函蓋相応して・きりきりとこぎ給う所の船を如渡得船の船とは申すなり、是にのるべき者は日蓮が弟子・檀那等なり、能く能く信じさせ給へ、四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給い候へ、委くは又又申すべく候」
二郎 末法の御本仏としての日蓮大聖人の民衆救済への大慈大悲を感じる。
太郎 本当にそうだ。教主大覚世尊が船を造ったんだ。取り仕切っているのが文底の教主釈尊であることは、はっきりしている。その御本仏が陣頭指揮を取り、釈尊一代の聖教を船材に、権を削って邪正一如と取り合わせ、法華一仏乗の釘を打ち、生死の大海に船を押し浮かべ、南無妙法蓮華経を帆柱に、一念三千の法門を帆にかけて、諸法実相の風を追い手にし、以信得入の一切衆生を皆乗せる。この時、釈迦は舵を取り、多宝如来は帆綱を引き、四菩薩は四丁の艪を相和して、キリキリと船を漕ぐ。このありさまを「如渡得船」と言うんだ。
二郎 楽しいね。生死生死と続く海、菩提菩提と変わり行く、我ら衆生は手をつなぎ、日蓮大聖人の慈悲の船、共々に乗って心地よく、生々世々と渡り行く、日蓮大聖人が幼い日、安房の国の磯の中、去る船来る船を見られてた、その眼差しを感じるんだ。

小松原の法難

太郎 だが、日蓮大聖人の、末法の御本仏としての民衆救済の熱情は、時代になかなか受け入れられることはなかった。日蓮大聖人の仏法の本義に基づく教えに対し、迷える衆生たちは、ただ迫害をするのみであった。日蓮大聖人は、文応元(一二六〇)年の松葉ケ谷の法難、弘長元(一二六一)年から同三年にいたる伊豆伊東への流罪、そして流罪赦免の翌年、文永元(一二六四)年十一月十一日、日蓮大聖人の生国である安房の国、東条・小松原において、地頭の東条景信に襲撃された。その時の様子を日蓮大聖人は、次のように記されている。
「結句は法門はかなわずしてよせてたたかひにし候なり、念仏者は数千万かたうど多く候なり、日蓮は唯一人かたうどは一人もこれなし、今までもいきて候はふかしぎなり、今年も十一月十一日安房の国・東条の松原と申す大路にして、申酉の時・数百人の念仏等にまちかけられて候いて、日蓮は唯一人・十人ばかり・ものの要にあふものは・わづかに三四人なり、いるやはふるあめのごとし・うつたちはいなづまのごとし、弟子一人は当座にうちとられ・二人は大事のてにて候、自身もきられ打たれ結句にて候いし程に、いかが候いけん・うちもらされて・いままでいきてはべり」(南条兵衛七郎殿御書)
二郎 日蓮大聖人の一行は十人ばかり。弟子のうち一人は殺され、二人は重傷を負った。日蓮大聖人御自身も斬られた。
太郎 日蓮大聖人は眉間から額にかけて、大きな傷痕があったと伝えられている。また別の御書には次のように記されている。
「文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる」(聖人御難事)
二郎 日蓮大聖人は立宗の時に、勧持品第十三に書かれた数々の法難を予期されていた。同時に、この勧持品に予言された、末法において法華経の行者が受けるべき難を身読しなければ、法華経が真実だと証明できないと考えられていたんだ。
太郎 日蓮大聖人は、御一生を通して、ただ法華経を身読することを目標とされた。法難を惹起し、それを忍ぶことによって、末法の民衆救済の大導師であることを示されようとしたんだ。日蓮大聖人は、伊豆流罪中に著された「四恩抄」において、次のように仰せになっている。
「某は愚癡の凡夫・血肉の身なり三惑一分も断ぜず只法華経の故に罵詈・毀謗せられて刀杖を加えられ流罪せられたるを以て大聖の臂を焼き髄をくだき・頭をはねられたるに・なぞらへんと思ふ、是れ一つの悦びなり」
二郎 日蓮大聖人は法華経を身読されることに、最高の喜びを感じられていた。
太郎 難に逢い、難を忍ぶことにより、日蓮大聖人は自身が末法の民衆を救済する自解仏乗の本仏であることを証明しようとされた。
「日蓮は聖人の一分にあたれり、此の法門のゆへに二十余所をわれ結句流罪に及び身に多くのきずをかをほり弟子をあまた殺させたり、比干にもこえ伍しそにもをとらず、提婆菩薩の外道に殺され師子尊者の檀弥利王に頸をはねられしにもをとるべきか」(法門申さるべき様の事)