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第11章 立宗

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立宗はどうして清澄寺だったのか

二郎 ところで、兄さん。日蓮大聖人はどうして、建長五(一二五三)年四月二十八日の立宗を安房国清澄寺でなされたんだろうか。日蓮大聖人が主に布教をされたのは、幕府の本拠地である鎌倉だったんだから、鎌倉で立宗されても良かったんじゃないかって思うんだけれども。
太郎 じゃあ、その問題について考えてみよう。そのためには、立宗というものがどういう状況下で行なわれたのかを知る必要がある。これもまた、御書を純粋に拝して、一人びとりが日蓮大聖人のお筆から、臨場感をもって立宗の場面を考えてみる必要があるね。
二郎 勝手な想像でいろいろと言うのではなく、日蓮大聖人が書かれた御書により真実を見出していくべきだ。多くの御書が、数々の法難と七百有余年の歳月の中で失われてしまったが、その中で、立宗という貴重な場面を日蓮大聖人御自身が書かれた御書が残っているのは、本当にありがたいことだね。
太郎 そうなんだよ。本当にそう思うよ。日蓮大聖人は建治二(一二七六)年、五十五歳の時に、二十年以上前の立宗の時を思い起こされて、次のように述べられている。
「此れを申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために建長五年四月二十八日安房の国東条の郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして浄円房と申す者並びに少少の大衆にこれを申しはじめて其の後二十余年が間・退転なく申す」(清澄寺大衆中)
 日蓮大聖人は「清澄寺道善の房持仏堂の南面」で、初めて法華最勝を述べられたんだ。この時、日蓮大聖人の説法を聞いたのは、「浄円房と申す者並びに少少の大衆」だけだったんだ。
二郎 それは、僕の持っていたイメージとは全然、違う話だね。もっとたくさんの人がいたのかと思っていたよ。浄円房と少々の人だけなら、ちょっとした板敷きの場か、庭に筵でも敷いて話されたのかな。「少少の大衆」は、日蓮大聖人の法華最勝に基づく法義を聞き、さぞかしびっくりしただろうね。日蓮大聖人は南無妙法蓮華経を明示され、唱題行のみが成仏のための正しい法であると宣言されたんだ。
太郎 そういえば、仏法には「法筵」という言葉がある。経を講じたり法話をしたりする席のことを言うんだ。このような法筵から布教の第一歩が始まった。この立宗のご説法から七箇年で、鎌倉幕府の頂点に立つ北条時頼に会われるまでになる。そして「立正安国論」をもって国主諫暁をされたんだ。
二郎 すごいなあ。
太郎 日蓮大聖人が弘安二(一二七九)年、五十八歳の時に書かれた「聖人御難事」にも、立宗の場面が書かれているよ。
「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷・今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり、此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて」
二郎 日蓮大聖人御自身が「清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面」と書かれているから、やはり清澄寺の「諸仏坊」すなわち道善房の持仏堂の南面で立宗されたんだ。この御書では、立宗された時刻が書かれているね。「午の時」なんだ。日輪が南中している正午に説かれ始めたんだ。
太郎 日蓮大聖人も、説かれる場所、説かれる時刻を熟慮されて立宗されたことがわかるね。

四恩に報いるために清澄寺を立宗の地に

二郎 ところで、最初の質問に戻るけれども、日蓮大聖人はどうして清澄寺で立宗をされたんだろう。「虚空蔵菩薩」の恩に報いるためだったのだろうか。
太郎 それは違うよ。日蓮大聖人が「虚空蔵菩薩」と述べられたのは、あくまでみずからの悟りを述べられるにあたり、清澄寺の関係者に自解仏乗を「虚空蔵菩薩」に仮託されて述べられただけだ。
二郎 そうだったね。
太郎 もし、「虚空蔵菩薩」の恩に報いるのであれば、清澄寺の虚空蔵菩薩が安置された堂宇で御説法されただろう。
二郎 当然そうされるね。
太郎 だが実際には、道善房の持仏堂の南面でされた。
二郎 日蓮大聖人は、あくまで道善房という師匠の恩に報じるために、「道善の房持仏堂の南面」で立宗されたんだね。
太郎 日蓮大聖人が清澄寺で立宗されたのは、虚空蔵菩薩やその像にあやかってのことではなかった。師・道善房を正法に目覚めさせ、成仏の直道を歩ませ恩返しをするという思いが、立宗の場として清澄寺を選ばれた本意だったんだ。
二郎 そうとしか思いようがないね。父母への報恩の思いも感じられるね。
太郎 日蓮大聖人は報恩のゆえに清澄寺で立宗をされたんだ。日蓮大聖人は伊豆流罪中の弘長二(一二六二)年、四十一歳の時に「四恩抄」を著されている。そこには次のように四つの恩について書かれている。
「仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候か、四恩とは心地観経に云く一には一切衆生の恩、一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願を発し難し、又悪人無くして菩薩に留難をなさずばいかでか功徳をば増長せしめ候べき、二には父母の恩、六道に生を受くるに必ず父母あり、其の中に或は殺盗・悪律儀・謗法の家に生れぬれば我と其の科を犯さざれども其の業を成就す、然るに今生の父母は我を生みて法華経を信ずる身となせり、梵天・帝釈・四大天王転輪聖王の家に生まれて三界・四天をゆづられて人天・四衆に恭敬せられんよりも恩重きは今の某が父母なるか、三には国王の恩、天の三光に身をあたため地の五穀に神を養ふこと皆是れ国王の恩なり、其の上今度・法華経を信じ今度・生死を離るべき国主に値い奉れり、争か少分の怨に依つておろかに思ひ奉るべきや、四には三宝の恩、釈迦如来・無量劫の間・菩薩の行を立て給いし時一切の福徳を集めて六十四分と成して功徳を身に得給へり、其の一分をば我が身に用ひ給ふ」
二郎 四つの恩とは、「一切衆生の恩」「父母の恩」「国王の恩」「三宝の恩」だと日蓮大聖人はおっしゃっている。伊豆流罪中に、化導すべき大衆が恩人だとおっしゃっている日蓮大聖人の御境界はすごいね。
太郎 大衆による迫害もすごかっただろうに。
二郎 「父母の恩」は僕にもわかる。
太郎 その次に日蓮大聖人は、流罪した国王・国主を、生死の縛を切り、仏果を遂げしめる機縁として捉えられ、感謝の思いを持たれている。日蓮大聖人の御境界は、我々凡愚の者たちには、とうてい及びがたい御境界だ。
二郎 僕なんか、良いことをして流罪されたら、流罪に処した人間を恨んでしまう。間違っても感謝の気持ちなんか出てこないよ。日蓮大聖人の御境界は本当に偉大なんだね。
太郎 「三宝の恩」とは、「仏と法と僧の恩」ということだ。日蓮大聖人からしてみれば、仏と法を伝えてきた天台・伝教などが、僧宝にあたるんだろうね。後には日興上人お一人。総じては日蓮大聖人の流類。
 師でありながら念仏者である道善房や、いまだ正法に目覚めていない清澄寺大衆は、立宗にあたってまず最初に救うべき人々であり、それは一切衆生の恩に報いるという行為であったといえる。
二郎 なるほど。
太郎 日蓮大聖人は建治二(一二七六)年、五十五歳の時に、「報恩抄」を書かれたが、その冒頭には次のようにあるよ。
「夫れ老狐は塚をあとにせず白亀は毛宝が恩をほうず畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや、されば古への賢者予譲といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあてこう演と申せし臣下は腹をさひて衛の懿公が肝を入れたり、いかにいわうや仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや、此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか」
 日蓮大聖人は「父母・師匠・国恩」が大事だと書かれている。
二郎 その「大恩」に報いるために日蓮大聖人は、幼いころに仏法を習い究めて「智者」になろうとされたんだ。
太郎 恩に報いるというのは、大事なことであり、大変なことなんだ。
二郎 僕も「報恩」ということを生涯、忘れないように生きていくよ。
太郎 「国恩」といえば、日本国ということになるけれども、日蓮大聖人にとっては、その中でも「安房国」が大事だったんだろうね。そしてさらに、出家得度された場所でもある清澄寺が大事な場所ということになるんだろうね。その清澄寺でも、なかんずく、師である道善房の坊ということになるね。
二郎 日蓮大聖人にとって、「父母・師匠・国恩」を考えれば、道善房の持仏堂以外の場所での立宗はありえなかったんだ。
太郎 「報恩抄」には「送文」がついているんだけれども、その中に次のようにある。
「御まへと義成房と二人・此の御房をよみてとして嵩がもりの頂にて二三遍・又故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給いては此の御房にあづけさせ給いてつねに御聴聞候へ、たびたびになり候ならば心づかせ給う事候なむ」
 ここに「御まへと義成房と二人」とあるけれども、「報恩抄」は浄顕房と義浄房に与えられたものだから、「御まへ」とは浄顕房のことだと思われる。したがって、浄顕房と義浄房の二人が立ち合って、日蓮大聖人が遣わされた「此の御房」に「報恩抄」を師・道善房の墓前で読ませなさいとおっしゃっている。
二郎 日蓮大聖人は本当に報恩ということを大事にされる方だね。
太郎 日蓮大聖人が「報恩抄」を読むように指示された場所は「嵩がもりの頂」と「故道善御房の御はか」なんだ。師の道善房の墓の前では一遍、「嵩がもりの頂」では二、三遍となっている。「御はか」の前で読まれるのは道善房の恩に報いるためであり、「嵩がもりの頂」で読まれるのは、国そして父母の恩に報いようとの思いがあって、そのような指示をされた。だから二、三遍なんだ。

鎌倉は教法流布の主戦場だった

二郎 僕もそのような気がする。この「道善の房持仏堂の南面」での立宗ののち、ほどなく鎌倉での布教となるね。
太郎 日蓮大聖人が立宗の前より、教法流布の主戦場として、鎌倉を思い定められていたことは間違いない。
二郎 学者の中には、日蓮大聖人が清澄寺から逃げて鎌倉へ行ったと書いている者もいるよ。
太郎 そのような馬鹿なことがあるわけがない。立宗を清澄寺でされたのは、報恩のためだ。それは義にも情にも通じる、当然のありようだ。
二郎 立宗を清澄寺でされて恩に報いられ、そののち鎌倉なんだね。
太郎 鎌倉は諸宗が跋扈する危険地域だ。逃亡者には鎌倉に入るという選択肢はない。人夫にでもなるというなら別だけどな。
二郎 じゃあ、日蓮大聖人が鎌倉を教法流布の主戦場として定められたのは、どういった意味なんだろう。
太郎 それは言うまでもない。承久の乱で朝廷方が幕府方に負け、日本国の実権が鎌倉幕府に移っていたからだ。たしかに律令制は残存していたけれども、守護職・地頭職が鎌倉方によって全国に整備され、実権は明らかに鎌倉幕府にあったといえる。その国主に対する諫暁ということからしても、どうしても鎌倉で布教する必要があった。
二郎 では、国主に対して諫暁することだけが、日蓮大聖人の布教の目的だったと言うの。
太郎 違う、違う。目的はどこまでも民衆の救済であり、正法をもって国家の安穏を期せんがためなんだよ。
二郎 民衆のために国主諫暁をされたんだ。
太郎 封建制度の下においては、民衆救済のためには当然のことながら国主の諫暁が不可欠だ。
二郎 今の民主主義国家では、民衆一人びとりとの対話が重要になってくるんだね。
太郎 まったくそのとおり。
二郎 ちょっと余談になるんだけど、日蓮大聖人は鎌倉での布教にあたり、辻説法をされたんだろうか。
太郎 そんなことは絶対にない。対話が成立しない。感情的になった反対者らが、刃傷沙汰に及ぶ危険すらある。幕府の膝元で、ただ騒動を起こすようなことをして、なんの意味があるというんだ。なんの益もない。辻説法なんか、あるわけがない。
二郎 仏法を弘めるには、対話しかない。街頭宣伝で仏法は弘まらない。

『十住毘婆沙論』を読み間違った法然

太郎 その証拠に、その頃の日蓮大聖人が頻繁に『十住毘婆沙論』を布教に援用されていることが、いくつかの御書から確認される。日蓮大聖人は竜樹の書いた『十住毘婆沙論』をもって布教をされていたんだ。
二郎 かなり高度な法論がされていることになるね。
太郎 そうなんだ。辻説法なんかとんでもないよ。文字を読むことも、食べることもままならない、そのような路傍の人々に、念仏が間違っていると辻に立って説いても、感情的になるだけだ。法義の理解はとうてい不可能だ。当時のあり方として、法論は多くの場合、僧と僧が行なうことが当たり前だった。日蓮大聖人が『十住毘婆沙論』を多用されたのは、法然の念仏義を破折するためだった。
二郎 『十住毘婆沙論』という竜樹の論をもって、法然の説く念仏義が間違っているということを日蓮大聖人は示されたんだね。
太郎 そうなんだよ。法然は『選択集』において嘘を言っていたんだ。法然は『十住毘婆沙論』には釈迦の一代聖教のすべてについて難行と易行に分けて書かれているとし、難行よりも易行である専修念仏が勝れていると主張していた。そして法華真言を難行であると位置づけ、易行である念仏が末法の民衆を救済するのにふさわしいものだと主張していたんだ。ところが『十住毘婆沙論』には、法然が言うようなことは説かれていない。『十住毘婆沙論』は、あくまで釈迦が法華経を説く前の権教について、難行、易行を立て分けたものだった。念仏のみが末法適時の易行であるという法然の邪義が、法然の論拠とした『十住毘婆沙論』を示すことによって明らかとなった。
二郎 法然は『十住毘婆沙論』を曲解し、みずからの念仏義を正当化して、人々に念仏を弘めたんだね。だが『十住毘婆沙論』を示されても、当時の一般の人々はわかりっこないな。

「鎌倉へ打ち入りぬ」

太郎 当時の大衆のみならず、権力者も、僧を敬うのはいいことだと思っていた。その僧形をした者たちが念仏を勧めるから、乱世の中で苦しみ喘ぐ人々が念仏を称え出したんだ。
 だから日蓮大聖人は、邪義を流している僧、そして有力にして博識な在家の人々を折伏し、その源から変えていく必要があったといえる。そのさらに源が国主ということになる。
二郎 だからこそ鎌倉なんだね。その鎌倉で日蓮大聖人は、教線を巧みに張り巡らされたんだ。
太郎 日蓮大聖人が鎌倉を布教の主戦場に据えられていたことは、日蓮大聖人一期の弘法の実相をみれば、詳らかになることだ。日蓮大聖人は松葉ケ谷の法難の後も鎌倉に帰られている。伊豆流罪の後も、ほどなくして再び鎌倉で布教をされている。そのことは佐渡流罪を引き起こすことに繋がるのだが、その佐渡流罪を赦免になられた後も、日蓮大聖人は鎌倉に戻られて諫暁をされている。
二郎 日蓮大聖人は主戦場である鎌倉から、一歩も引かれなかったんだ。
太郎 なにしろ日蓮大聖人は、佐渡赦免の後まっすぐに鎌倉に戻られている。その時のみずからの御心情を、
「三月十三日に島を立ちて同三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ」(種種御振舞御書)
 と書き残されている。
二郎 「鎌倉へ打ち入りぬ」か。立宗の後に鎌倉に行かれたときも、やはり「打ち入りぬ」という御心境であったんだね。
太郎 日蓮大聖人は文永十(一二七三)年、五十二歳の時、次のように仰せになっている。
「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」(辦殿尼御前御書)
二郎 その日蓮大聖人と生死を共にする覚悟で、師弟不二の戦いをされた多くの弟子たちがいたことにも感動するね。
太郎 日蓮大聖人の御一生、そして日蓮大聖人に従った弟子檀那の難を凌ぐ姿は、日蓮大聖人滅後の弟子たちの亀鏡のためにあったと言える。
二郎 弟子檀那たちの悲喜こもごもの情景が御書に投影されているけれども、それもまた、今の時代に生きる日蓮大聖人の弟子たちのために残された大事な体験談なんだと僕も思うよ。
太郎 日蓮大聖人の御一生は、国主諫暁という、極めて緊迫した折伏行によって収斂されている。この日蓮大聖人の国主諫暁の精神を引き継ぐ者が、地涌の菩薩の流類なんだ。国主諫暁は、不惜身命の法華経の行者にしかできない。
二郎 本当にそうだ。
太郎 日蓮大聖人の滅後において、日蓮大聖人の志を継ぐ不惜身命の法華経の行者が出現する。そして日蓮大聖人の仏法を証明するんだ。そうでなければ、日蓮大聖人の御書それ自体が虚妄のものとなってしまう。
二郎 そうだね。僕たち七百有余年後の日蓮大聖人の弟子が、正法としての御書を証明する役割を担っている。この僕たちが生きている現実の世界において、日蓮大聖人の仏法を具現しなければいけないんだ。
太郎 国主諫暁は日蓮大聖人の滅後において、地涌の菩薩が涌出する一大契機になる。死をも恐れぬ国主諫暁が、「法性の淵底、玄宗の極地」より、六万恒河沙の地涌の菩薩を呼び出だす。これこそが地涌の菩薩涌出の理だ。
二郎 そうだったね。