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第10章 修学

第9章 / もくじ / 第11章

始めに「悟り」があった

二郎 日蓮大聖人は法華最勝の立場から、自受用報身如来としての本地を悟られた。その御境界から、諸宗の誑惑がどのようなところから来たっているのか、あるいは、どのような邪説を立て、その邪義はどのような歴史的経過を経て形成されてきたのか、さらにはその邪義をわかりやすく破折するにはどうすればいいのか、などなどを明らかにするために、修学の旅に出られたんだ。
太郎 そういうことだね。日蓮大聖人は修学にあたり、如来神力品第二十一の結要付嘱を胸中にしっかりと抱かれていた。当然、寿量品文底の自受用報身如来の立場においてね。
 その神力品第二十一の最後は、次のようになっているよ。
「斯の人は世間に行じて 能く衆生の闇を滅し 無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん 是の故に智有らん者は 此の功徳の利を聞いて 我が滅度の後に於いて 応に斯の経を受持すべし 是の人は仏道に於いて 決定して疑い有ること無けん」
二郎 日蓮大聖人は衆生を一仏乗に帰するために修学に出られた。胸中はすでに「決定無有疑」だった。

諸宗派の奥義に迫る

太郎 前にも二人で拝したように、「妙法比丘尼御返事」において日蓮大聖人は次のように回想されている。
「十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し」
二郎 日蓮大聖人は十二歳から三十二歳までの二十余年間、いろいろなところを回られて修学されたんだ。
太郎 清澄寺におられたこともあったと思えるが、限られた日数だと思う。日蓮大聖人は修学の時間を惜しまれた。その間、日蓮大聖人が書写された膨大な経・論・釈が清澄寺に送られたことだろう。
二郎 日蓮大聖人が修学された場所もすごいね。鎌倉、京都、比叡山、園城寺、高野山、天王寺などの寺々をあらあら回られているのだからすごい。法華最勝の悟りの御境界に立たれ、どのような形で破邪顕正をなすかという問題意識で、昼夜を分かたず修学されていたんだね。
太郎 いろいろな人の紹介がないと、なかなかそれらの寺に行っても大事な経・論・釈を見ることはできなかったはずだ。その人脈の開拓も、脈絡もなく混在した経・論・釈を判別するのも大変だっただろう。修学が不眠不休であったことは間違いない。
二郎 日蓮大聖人は智力、体力はもとより、対人関係においてもずば抜けた能力があったと思われる。
太郎 やはり日蓮大聖人のお人柄と、ずば抜けた智力に魅了された人々が、さまざまな協力を惜しまなかったのだろう。そういう人がいなければ、国々や寺々を回って修学することなどできはしない。この短い御書の中に、日蓮大聖人のずば抜けた智力とお人柄、行動力がにじみ出ている。
二郎 閉鎖的な寺もあっただろうに。
太郎 その中で諸宗派の奥義にまで迫っていらっしゃる。その上で、立宗に向かっての着実な歩みをされていたわけだ。
二郎 ただただ、ひたむきな歩みだね。それも現在と未来の民衆を救済するという、ただ一つの目的のために修学された。
太郎 日蓮大聖人が他宗派の論、釈を書写されたものは多く残っている。たとえば十七歳の時、比叡山延暦寺第五代座主の智証が書いた「授決圓多羅義集唐決」を書写されている。この書写された文書の奥書には「嘉禎四年太歳戊戌十一月十四日 阿房国東北御庄清澄山 道善房 東面執筆是聖房生年十七歳」と記されている。日蓮大聖人が書写された「授決圓多羅義集唐決」の「上」は今、神奈川県横浜市の金沢文庫に現存している。
二郎 ここに「阿房国東北御庄清澄山 道善房」と書いてあるから、日蓮大聖人は清澄山の道善房で書写されたんだね。
太郎 それは違う。それは単に僧としての所属を書かれたものにすぎない。実はこの箇所の文は、「嘉禎四年太歳戊戌□□」「十一月十四日」「阿房国東北御庄清澄山 道善房」「東面執筆是聖房生年十七歳」の四行に分かれている。最初の二行は言うまでもなく、日蓮大聖人が書写された年月日を記されたものだ。三行目の「阿房国東北御庄清澄山 道善房」は日蓮大聖人の所属を示されたもの、四行目の「東面執筆是聖房生年十七歳」は役職と名前と歳が書かれていると見るべきだ。(写真参照)

「東面執筆」とはなにか

二郎 「東面執筆」という役職があるのかな?
太郎 これについて明確な見解を示している人はいない。なかには、書写されたのが清澄山道善房の「東面」だったと解釈する人もいる。しかし、そのようなことをわざわざ記す必要はない。「東面執筆」は役職を表記したものに違いない。古来、日本では「執筆」とは諸事を記録する者の役責名だった。「東面」は、「執筆」を修飾する言葉だと思われる。
二郎 どうして「東面」が役責の修飾語と考えるのだろう。
太郎 武士の場合に、その事例がある。武士はもともと「北面の武士」と言われた。ところが、承久の乱においては、「北面の武士」に対し「西面の武士」を上皇方は組織した。
二郎 「北面」「西面」が役責の立て分けに使われたんだ。
太郎 そのことを念頭において、寺について考えていきたい。まず寺の本尊の向きだとか、そういう場所的な感覚を持つ必要がある。
二郎 どういうふうに持てばいいの?
太郎 念仏系の寺は別にして、大体の寺の本尊は南面している。「天子南面」という言葉もある。この言葉は日本や中国では、尊い人は北側に立ち南側を向くことを示している。だから、念仏以外のたいていの寺においては、本尊に向かい左側に、住職に次ぐ者の席がしつらえてある。その席のことを鈴座、脇導師席と呼ぶ。もし住職が説法した時に、それを聞く大衆との間に座る鈴座、脇導師席の者が書記したら、その人はどちらを向くと思う。
二郎 それは北側にいる住職を左に見、南側にいる大衆たちを右に見ることになる。だから、住職に次ぐ地位にある鈴座、脇導師席の者は、西側にいて東を向くことになるよね。
太郎 そうなんだ。東面することになる。だから「東面執筆」は、住職に次ぐ地位を示す役職名であると思われる。
二郎 よくわかった。そうすると日蓮大聖人は、これをどこで書写されたのだろうか。
太郎 「十七歳」と表記されているから、修学に出られて間もない頃だ。清澄寺が慈覚の開基という伝承があるのだから、おそらくは日蓮大聖人は、修学の最初の頃を比叡山延暦寺の系列の寺で過ごされたのではないかと思う。したがって、鎌倉か、畿内の寺で、この「授決圓多羅義集唐決」は書写されたものと考えられる。
二郎 日蓮大聖人は、このころ「是聖房」を名乗られていたんだ。
太郎 この名には、甚深の意を感じる。早くも「聖」の文字が使われている。つまり、日蓮大聖人は、「授決圓多羅義集唐決」を書写された十七歳の時にはすでに自解仏乗されていたことが、この名によってもわかる。聖人だ。
二郎 「是聖房」とは、本当に素晴らしい名だ。
太郎 ただし、この文書の一番最後に、大きな問題がある。先ほどの「東面執筆是聖房生年十七歳」と書かれた左横に、「後見人々是無誹謗」という一行が見える。この文の意味するところは、この「授決圓多羅義集唐決」という文書を見た人が後から誹謗してはいけないよ、ということだ。それを加筆し念押しされているというのだ。
二郎 なにやら変なものを感じるね。
太郎 そのとおり。実はこの最後の一行は他筆なんだ。日蓮大聖人以外の人が付記している。日蓮大聖人の筆跡とまったく違う。それは筆跡を少し注意深く見ればわかる。全体の文の運筆の速度と、この一行との違いは歴然としている。世の中には考えられないような行状をなす者がいる。またそれに騙されている学者もいる。その他筆の付記された文を見て、日蓮大聖人がこれを書写された時に、密教に親近感を持っていたと思っている学者がほとんどだ。
二郎 とんでもないことだね。
太郎 原文を見れば一目瞭然なのに、原文をあたってもわからない学者もいれば、原文すらもあたろうとしない者もいるんだ。他の学者が紹介した活字の刊行本を見て、それを鵜呑みにして事実誤認のまま論を展開する。
二郎 癡かの上に癡かを重ねて「学説」が形成され、それが学者間の常識となり、果てはその「学説」が不動のものとなる。
太郎 念を押しておくけども、日蓮大聖人は「授決圓多羅義集唐決」を書写されてはいるけれど、御書中では一度も引用されていない。
二郎 なるほど。

立宗に備えての戦いの日々

太郎 ほかに、日蓮大聖人が修学中のものとして、真言の文書である「五輪九字秘釋」が現存している。この「五輪九字秘釋」は、真言宗の覚鑁が真言密教の本質と阿弥陀観をあらわし、五輪曼荼羅により即身に往生するというようなことが書かれたものだ。この書写された文書には、多くの梵字も写されている。また、この文書の最後には次のように書き記されている。
「建長三年十一月廿四日戌時了 五帖之坊門富小路 坊門よりは南 富小路よりは西」
二郎 建長三(一二五一)年十一月といえば、立宗のおよそ一年半くらい前だ。その時に日蓮大聖人は真言の釈を書写されていた。それも京都の「五帖之坊門」の近くにおいてなんだね。なんだか日蓮大聖人が書写されていた場所に行ってみたい気もする。立宗を間近にして日蓮大聖人は、どのような思いで真言の釈を写されていたんだろうか。最後の詰めの戦いをただ一人でされていたんだね。
太郎 少し時間の流れは逆になるけれども、修学の最初のころについて、日蓮大聖人は次のように書かれている。
「法然・善導等が・かきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よりしりて候いき」(南条兵衛七郎殿御書)
二郎 日蓮大聖人は十七、十八歳の時に、すでに法然、善導がおこした念仏義について、どのように間違っているか、御存知だったんだ。
太郎 しかしながら日蓮大聖人は、諸宗の誤りの根源を徹底して洗っていかれた。日蓮大聖人は立宗に備えて、それらの経・論・釈を真剣に書写されたことだろう。
二郎 そうだね。それらを書写され、清澄寺に送られたんだろうね。
太郎 ある時は全文を書写され、ある時は文の要文をまとめられ要文集とされた。仏教の流れ自体を俯瞰しまとめられた「一代五時図」や、日本と中国の王がどのように代を重ね、その間になにがあったのかを記された「和漢王代記」といったものが残されている。現存するそれらのものは、もともと修学時代にさまざまな文章にあたり、まとめられたものだろう。日蓮大聖人は後年に至って、それをさらに書写、加筆されたと思われる。「一代五時図」の日蓮大聖人の御真蹟は、現存するものは五つあるとされているが、骨子は同じでも細部には異同がある。
二郎 日蓮大聖人は、書写のみならず、さまざまなことを俯瞰した書まで作成されていたんだ。
太郎 そのようにして日蓮大聖人は、諸派の誤りの根源を洗われていかれた。もっとも時間をかけられることになったのが、真言宗だった。日蓮大聖人は「本尊問答抄」において、諸宗の誤りを順次、書かれている。その文脈を見れば、真言宗の攻略がいかに大変であったかがわかる。「同抄」の文脈に沿いながら経過を追っていこう。日蓮大聖人はまず、浄土宗については次のように書かれている。
「浄土宗と申すも権大乗の一分なれども善導法然が・たばかりかしこくして諸経をば上げ観経をば下し正像の機をば上げ末法の機をば下して末法の機に相叶える念仏を取り出して機を以て経を打ち一代の聖教を失いて念仏の一門を立てたり譬えば心かしこくして身は卑しき者が身を上げて心はかなきものを敬いて賢人をうしなふがごとし」(本尊問答抄)
二郎 日蓮大聖人が十七、十八歳の時にすでに念仏義の誤りをつまびらかにされていたことは、さっき二人で見た「南条兵衛七郎殿御書」に明らかだったね。
太郎 そうだった。この次に禅宗について書かれている。
「禅宗と申すは一代聖教の外に真実の法有りと云云譬えばをやを殺して子を用い主を殺せる所従のしかも其の位につけるがごとし」
二郎 禅宗の説く「教外別伝」は、釈迦の経の外に真実の法があるというものだ。
太郎 だから禅宗は天魔の法なんだ。経をすべて否定し、我見をもって教義とする宗派なんだ。
二郎 増上慢の塊とも言える宗派だね。経の外に真実の法があると言いながら、ちゃっかり経も読んでるよ。

真言は大悪の根源を隠す

太郎 この御書で日蓮大聖人は、浄土宗、禅宗に続いて、真言宗について次のように書かれている。
「真言宗と申すは一向に大妄語にて候が深く其の根源をかくして候へば浅機の人あらはしがたし一向に誑惑せられて数年を経て候先ず天竺に真言宗と申す宗なし然れども有りと云云」
二郎 真言の大妄語の根源は深かったんだね。普通の人では、とうていそれを見分けることはできなかった。日蓮大聖人も、この真言宗の邪義の根深さを洗うのに数年かかられたんだ。
太郎 この御書から、日蓮大聖人が「天竺」に真言宗という宗がないということまで、確認されていることがわかる。ともかく真言宗のたばかりぶりは、半端なものではない。中国とインドにわたる一大謀略がある。それも、真言師である三人の三蔵が深く関わっている。この三三蔵の謀略ぶりについては、あとでまた触れよう。ここでは、日蓮大聖人が真言の誑惑の根を洗い出すのにどれほど大変だったのかを、もう少し見ておきたい。日蓮大聖人は、「太田入道殿御返事」において次のように仰せになっている。
「夫れ以みれば一乗の妙経は三聖の金言・已今当の明珠諸経の頂に居す、経に云く『諸経の中に於て最も其の上に在り』又云く『法華最第一なり』伝教大師の云く『仏立宗』云云。
 予随分・大・金・地等の諸の真言の経を勘えたるに敢えて此の文の会通の明文無し但畏・智・空・法・覚・証等の曲会に見えたり是に知んぬ釈尊・大日の本意は限つて法華の最上に在るなり、而るに本朝真言の元祖たる法・覚・証等の三大師入唐の時・畏・智・空等の三三蔵の誑惑を果・全等に相承して帰朝し了んぬ」
二郎 「大・金・地」とは一体なんなの?
太郎 「大」は大日経、「金」は金剛頂経、「地」は蘇悉地経で、真言の三部経のことだよ。
二郎 「会通の明文無し」とはどういうことなの?
太郎 それは今引用した御書の前段と関連する文章だ。前段には、安楽行品第十四の「諸経の中に於て最も其の上に在り」、あるいは、同じく法師品第十の「法華最第一なり」とある。でも、真言の三部経である大日経、金剛頂経、蘇悉地経などの真言の教えをどう引き合わせて考えても、前段に示した「法華最勝」の文言と関連するものもなければ、「法華最勝」を崩すものもなかったとおっしゃっているんだよ。
二郎 「畏・智・空・法・覚・証」とはなんなの?
太郎 「畏」とは善無畏三蔵のこと。「智」とは金剛智三蔵のこと。「空」とは不空三蔵のこと。「法」とは弘法のこと。「覚」とは慈覚のこと。「証」とは智証のことだ。ここで注目したいのは、日蓮大聖人が比叡山延暦寺の第三代座主の慈覚、第五代座主の智証をあげていらっしゃることだ。これらの者たちが、「法華最勝」の義を掲げられた伝教の弟子でありながら、法義を曲げて真言を上げ法華経を下したんだ。
二郎 とんでもない連中だ。
太郎 だから日蓮大聖人は、日本の真言の元祖として弘法、慈覚、智証を挙げていらっしゃる。この三人がわざわざ中国まで行って、誤ったものを相承してきた。要するに善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵の三三蔵が作り出した人を誑かし惑わす法≠、先の三人が「果・全」から教わり日本に持ち込んだ。
二郎 ところで「果・全」とは誰?
太郎 「果」とは慧果、「全」とは法全だよ。弘法、慈覚、智証らは、その「果・全」より真言の邪義を教わり、得意気に日本に持ち帰ってきた。これが日本仏教界混乱の源となる。
二郎 わざわざ中国まで行って偽経をつかみ得意気に帰ってきて、日本の仏教界を根源から腐らせたんだ。日蓮大聖人はその事実を把握され、いかほど嘆かれ、どれほど怒られただろうか。
 ところで、三三蔵とはどういう人たちなのだろう?
太郎 まず善無畏三蔵は、インドの烏荼国の太子として生まれた。梵名をシュバカラシンハ(戍婆掲羅僧可)といい、十三歳で王位についたが兄に嫉まれ、その後に出家した。唐の開元四(七一六)年、中国に渡り、唐の第六代皇帝である玄宗の命により経典の翻訳をした。主な訳経には『大日経疏』二十巻があり、その中に天台の一念三千の法門を盗み入れて「理同事勝」の邪義を立てた。
二郎 帰伏するのではなく法を盗むとは、どうしようもない「僧」がいるものだ。

善無畏が天台法門を盗んだ

太郎 この善無畏が諸悪の根源だ。日蓮大聖人は、善無畏が天台の立義である「十界互具・百界千如・一念三千」を盗んだことも調べ上げられている。
「然らば陳隋二代の天台大師が法華経の文を解りて印契の上に立て給へる十界互具・百界千如・一念三千を善無畏は盗み取つて我が宗の骨目とせり」(真言見聞)
二郎 日蓮大聖人は日本に伝わった経・論・釈を調べに調べられ、五百年前にさかのぼって善無畏の悪事を暴かれた。
太郎 日蓮大聖人は「報恩抄」においても、善無畏三蔵のことを次のようにおっしゃっている。
「善無畏三蔵は中天の国主なり位をすてて他国にいたり殊勝・招提の二人にあひて法華経をうけ百千の石の塔を立てしかば法華経の行者とこそみへしか、しかれども大日経を習いしよりこのかた法華経を大日経に劣るとや・おもひけん、始はいたう其の義もなかりけるが漢土にわたりて玄宗皇帝の師となりぬ、天台宗をそねみ思う心つき給いけるかのゆへに、忽に頓死して二人の獄卒に鉄の縄七すぢつけられて閻魔王宮にいたりぬ、命いまだ・つきずと・いゐてかへされしに法華経を謗ずるとや・おもひけん真言の観念・印・真言等をば・なげすてて法華経の今此三界の文を唱えて縄も切れかへされ給いぬ、又雨のいのりを・おほせつけられたりしに忽に雨は下たりしかども大風吹きて国をやぶる、結句死し給いてありしには弟子等集りて臨終いみじきやうを・ほめしかども無間大城に堕ちにき、問うて云く何をもつてか・これをしる、答えて云く彼の伝を見るに云く『今畏の遺形を観るに漸く加縮小し黒皮隠隠として骨其露なり』等云云、彼の弟子等は死後に地獄の相の顕われたるをしらずして徳をあぐなど・をもへども・かきあらはせる筆は畏が失をかけり、死してありければ身やふやく・つづまり・ちひさく皮はくろし骨あらはなり等云云、人死して後・色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし、善無畏三蔵の地獄の業はなに事ぞ幼少にして位をすてぬ第一の道心なり、月氏・五十余箇国を修行せり慈悲の余りに漢土にわたれり、天竺・震旦・日本一閻浮提の内に真言を伝へ鈴をふる此の人の徳にあらずや、いかにして地獄に堕ちけると後生をおもはん人人は御尋ねあるべし」
二郎 日蓮大聖人は善無畏が祈雨の加持祈禱に失敗したことを調べられている。真言の場合、一時は加持祈が効いたかに見えるが、最終的には国に災いをもたらすことが、よくわかる。日蓮大聖人は善無畏の死んだ時の様子まで知っておられる。さらに善無畏の弟子らが書いた善無畏の死相を記したものまで読んで、その相の悪さを後世に伝えられている。
太郎 彼らの死相は本当に悪い。生涯を通しての信仰の帰結として、実に無慚としか言いようがない。

金剛智が巻き起こした悪風

二郎 では、金剛智三蔵について教えてよ。
太郎 金剛智三蔵は、生まれは中インドの王族・伊舎那靺摩の第三子、あるいは南インドの摩頼耶国の婆羅門の子とも言われている。十歳の時に出家をし、二十歳に戒を受け、三十一歳から七年間、竜智のもとで密教を学んだという。のち、開元七(七一九)年、中国に行き、真言密教を弘めながら翻訳などをした。主な訳経に金剛頂瑜伽中略出念誦経などがある。
二郎 この金剛智三蔵について、日蓮大聖人はどのように述べられているのだろうか。
太郎 さっき引いた「報恩抄」に、善無畏のことが書かれていたが、それに引き続き、次のように述べられている。
「金剛智三蔵は南天竺の大王の太子なり、金剛頂経を漢土にわたす其の徳善無畏のごとし、又互いに師となれり、而るに金剛智三蔵・勅宣によて雨の祈りありしかば七日が中に雨下る・天子大に悦ばせ給うほどに忽に大風吹き来る、王臣等けうさめ給いき使をつけて追はせ給いしかども・とかうのべて留りしなり、結句は姫宮の御死去ありしに、いのりをなすべしとて御身の代に殿上の二女七歳になりしを薪に・つみこめて焼き殺せし事こそ無慚にはおぼゆれ、而れども・姫宮も・いきかへり給はず」
二郎 金剛智は悪党中の悪党だ。七歳の女の子を火にくべて、インチキな加持祈禱をするとは、もってのほかだ。
太郎 金剛智が祈雨すると雨は降ったが、これも大風で大災害となった。善無畏と一緒だ。日蓮大聖人はこれらの文書を修学中に読まれていた。立宗後では調べる術もなかっただろう。
二郎 では、不空三蔵は、どのような人物なんだろう。
太郎 不空三蔵は北インド、あるいはスリランカの出身だという説があり、梵名をアモーガヴァジュラ(阿目佉跋折羅)といい、漢名を不空金剛、あるいは大広智三蔵という。金剛智三蔵に師事した。金剛智が死んだ後に、不空は密教経典を求めてスリランカに渡り、さまざまな経を中国にもたらしたとされる。この時、「菩提心論」を中国にもたらした。この「菩提心論」については、あとでゆっくり話すよ。
二郎 わかった。
太郎 唐の玄宗皇帝は、この不空に帰依した。不空は密教経典の翻訳をし、訳経には金剛頂経など、百十部百四十三巻があると言われている。
二郎 インド方面で生まれ、中国に来て十五歳で出家して、またスリランカに渡り中国に戻ってきたんだね。唐の玄宗皇帝は、不空のもたらす訳経に大いに興味を持ったんだろうね。ところで、この不空について日蓮大聖人は、どのように述べられているんだろう。
太郎 これもまた同じく「報恩抄」に、善無畏、金剛智に続いて次のように書かれている。
「不空三蔵は金剛智と月支より御ともせり、此等の事を不審とやおもひけん畏と智と入滅の後・月氏に還りて竜智に値い奉り真言を習いなをし天台宗に帰伏してありしが心計りは帰えれども身はかへる事なし、雨の御いのり・うけ給わりたりしが三日と申すに雨下る、天子悦ばせ給いて我れと御布施ひかせ給う、須臾ありしかば大風落ち下りて内裏をも吹きやぶり雲閣・月hの宿所・一所もあるべしとも・みへざりしかば天子大に驚きて宣旨なりて風をとどめよと仰せ下さる・且らくありては又吹き又吹きせしほどに数日が間やむことなし、結句は使をつけて追うてこそ風も・やみてありしか」

不空は経典ブローカー

二郎 不空もまた、つまらぬ加持祈禱をし大失敗したんだ。訳者としての実力は、どうだったんだろう。
太郎 ダメだ。日蓮大聖人は、不空の訳について「撰時抄」において手厳しく批判されている。
「問うて云く唐の末に不空三蔵一巻の論をわたす其の名を菩提心論となづく竜猛菩薩の造なり云云、弘法大師云く『此の論は竜猛千部の中の第一肝心の論』と云云、答えて云く此の論一部七丁あり竜猛の言ならぬ事処処に多し故に目録にも或は竜猛或は不空と両方にいまだ事定まらず、其の上・此の論文は一代を括れる論にもあらず荒量なる事此れ多し、先ず唯真言法中の肝心の文あやまりなり其の故は文証現証ある法華経の即身成仏をばなきになして文証も現証もあとかたもなき真言経に即身成仏を立て候又唯という唯の一字は第一のあやまりなり、事のていを見るに不空三蔵の私につくりて候を時の人にをもくせさせんがために事を竜猛によせたるか其の上不空三蔵は誤る事かずをほし所謂法華経の観智の儀軌に寿量品を阿弥陀仏とかける眼の前の大僻見・陀羅尼品を神力品の次にをける属累品を経末に下せる此等はいうかひなし、さるかとみれば天台の大乗戒を盗んで代宗皇帝に宣旨を申し五台山の五寺に立てたり、而も又真言の教相には天台宗をすべしといえりかたがた誑惑の事どもなり、他人の訳ならば用ゆる事もありなん此の人の訳せる経論は信ぜられず」
 ここに出てくる「竜猛菩薩」とはインドの竜樹のことだ。
 不空が唐にもたらした「菩提心論」について、日蓮大聖人はそれが一部七丁あるとされている。その上で「菩提心論」の書かれている内容には、竜猛すなわち竜樹の論とは考えられないものもたくさんある、と仰せになっている。さらに、目録においても、竜猛か不空かが定まっていないとされている。しかも肝心の文において誤りがあるとし、法華経の即身成仏を削り、真言の教えに即身成仏をつけたとされているんだ。
二郎 日蓮大聖人はこのように、研鑽された結果をさらっと書かれているけど、その結論を導き出されるまでには大変なご苦労があっただろうことは、僕にも想像できる。
太郎 その研鑽の結果、日蓮大聖人は「菩提心論」は竜樹の作ではなく、不空が勝手に作り出した「論」だとされている。ニセの「論」作出の目的は、唐の人たちに自分を認めさせるためだった。「竜猛菩薩の造」で、いまだ中国に入ってきていない論を訳して中国にもたらし、名を揚げようとしたんだ。
二郎 悪質すぎる。稀有の知能犯だ。極悪の経典ブローカー≠セ。
太郎 本当にそうだ。
二郎 ところで「観智の儀軌」とはなに?
太郎 それは正確には「成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌」といい、別名「法華儀軌」ともいう。法華経による密教の儀式の規則を定めたものだ。しかし、この「儀軌」についても日蓮大聖人は、寿量品の如来を阿弥陀仏と変えたり、法華経の品々の順番次第もでたらめだと指摘されている。
二郎 それにしても仏教を学しているとする僧の中には、僕たちの想像を超えた悪党が出てくるんだね。このような連中が、仏法を中から壊乱するんだ。

遥か海の向こうにあった悪の根源

太郎 さらに日蓮大聖人は、不空が天台の大乗戒を盗んで、唐の第八代の代宗皇帝より宣旨をもらい五台山の五寺を建てたとも言われている。史実によれば、盗んだ「天台の大乗戒」をもって代宗皇帝に灌頂の儀式をしたとされている。
二郎 日蓮大聖人は、日本国中の仏教の大混乱の根源が真言にあることを見抜かれ、それが遥か海の彼方の中国の唐時代に始まると結論されたんだね。不空はニセの「論」までも作出し、法華経を食い物にしたんだ。その末流が日本でまた法華経を食い物にしてしまった。悪の連鎖が起こったと言えるね。
太郎 そういうことだね。
二郎 その込み入った事情を調べられるのに、日蓮大聖人は数年かかられたんだ。
太郎 日蓮大聖人は、不空などの中国、インドにわたる一大謀略をしっかり見抜いていらした。日蓮大聖人はそのありようを次のように活写されている。
「善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等の三三蔵は一切の真言師の申すは大日如来より五代・六代の人人・即身成仏の根本なり等云云、日蓮勘えて云く法偸の元祖なり・盗人の根本なり、此れ等の人人は月氏よりは大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を齎し来る、此の経経は華厳経・般若経・涅槃経等に及ばざる上・法華経に対すれば七重の下劣なり、経文に見へて赫赫たり明明たり、而るを漢土に来りて天台大師の止観等の三十巻を見て舌をふるい心をまよわして・此れに及ばずば我が経・弘通しがたし、勝れたりと・いはんとすれば妄語眼前なり、いかんがせんと案ぜし程に一つの深き大妄語を案じ出だし給う、所謂大日経の三十一品を法華経二十八品並に無量義経に腹合せに合せて三密の中の意密をば法華経に同じ其の上に印と真言とを加えて法華経は略なり大日経は広なり・已にも入れず・今にも入れず・当にもはづれぬ、法華経をかたうどとして三説の難を脱れ・結句は印と真言とを用いて法華経を打ち落して真言宗を立てて候」(神国王御書)
二郎 なに、なに? どういうことなの?
太郎 要するに、善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵の三三蔵は、自分たちが唐にもたらした大日経、金剛頂経、蘇悉地経は天台の『摩訶止観』などに負けるということがわかったんだ。「止観等の三十巻」とあるから、『摩訶止観』十巻、『法華玄義』十巻、『法華文句』十巻を指すと思うよ。だから、これらをなんとかしなければ、自分たちがもたらした経が唐において評価されないと思い、「深き大妄語」を作り出した。大日経三十一品を法華経二十八品と無量義経三品とに合わせ、法華経は略、大日経は広だとし、印、真言が説かれている真言宗の経が勝れているとしたんだ。
二郎 ひどいことをするもんだね。
太郎 ところが不空三蔵は、天台の法門がいかに勝れているか身に沁みてわかっていた。
「いわうや不空三蔵は善無畏・金剛智・入滅の後・月氏に入りてありしに竜智菩薩に値い奉りし時・月氏には仏意をあきらめたる論釈なし、漢土に天台という人の釈こそ邪正をえらび偏円をあきらめたる文にては候なれ、あなかしこ・あなかしこ月氏へ渡し給えとねんごろにあつらへし事を不空の弟子含光といゐし者が妙楽大師にかたれる」(報恩抄)
 インドに帰って竜智に会った時には、今度は天台の法門をインドに渡したほうがいいと話したというんだ。そのことを不空の弟子である含光という者が、中国の天台宗の妙楽大師にのちに話したというんだ。
二郎 この不空という者は、インドのものを中国へ、中国のものをインドへ売り渡しているだけだ。やはり経典ブローカー≠セ。
太郎 まあ待て、二郎。日蓮大聖人は次のようにも、先の「報恩抄」で仰せになっていただろう。
「天台宗に帰伏してありしが心計りは帰えれども身はかへる事なし」
二郎 たしかにそうだった。しかし、この不空もひと筋縄ではいかない。七つの鉄縄で縛り上げないと気が済まない。
太郎 じゃあ、真言についてはこのあたりでやめておこうよ。日蓮大聖人の修学が日本仏教界のみならず、果ては中国、インドに至るまでつぶさに精査されたものだったことは、よくわかっただろう。
二郎 しかも、止暇断眠の修学の日々が続いたとしか思えない。

梵漢の法華経に精通されていた

太郎 では、日蓮大聖人が法華経について、どのように学ばれたかを見ていきたい。日蓮大聖人は「寺泊御書」に次のように認められている。
「天竺の法華経には印・真言有れども訳者之を略して羅什は妙法経と名づけ、印・真言を加えて善無畏は大日経と名づくるか、譬えば正法華・添品法華・法華三昧・薩云分陀利等の如し、仏の滅後天竺に於いて此の詮を得たるは竜樹菩薩、漢土に於いて始めて之を得たるは天台智者大師なり」
二郎 この御書によると、日蓮大聖人は、法華経の漢訳本もいろいろ見られていたみたいだね。
太郎 「譬えば正法華・添品法華・法華三昧・薩云分陀利等の如し」とあるからね。
二郎 前に「六訳三存」の話が出たね。
太郎 そうだった。法華経の漢訳本に六訳があったことがわかっているが、完訳は三つしか現存していない。しかし、日蓮大聖人は六訳のうち五つを読まれていたということがこの御書からわかる。訳の古い順からいくと、ここに「法華三昧」と書かれているけれども、これは「法華三昧経」六巻のことを指し、魏の時代(二五五年)に正無畏によって訳されたものだ。「薩云分陀利」と書かれているのは、「薩芸芬陀利経」六巻を指し、西晋の時代(二六五年)に竺法護によって訳された。また「正法華」とは「正法華経」十巻を指し、同じく西晋の時代(二八六年)の竺法護によって訳されたものだ。「添品法華」とあるのは「添品法華経」七巻を指し、隋の時代(六〇一年)に闍那崛多・達磨笈多によって訳されたものだ。
 これらの訳の中で、日蓮大聖人がもっとも良い訳だと評価されたのが、姚秦の時代(四〇六年)に鳩摩羅什の訳した「妙法蓮華経」八巻だ。
二郎 その羅什訳のものを僕たちは読んでいるんだね。
太郎 日蓮大聖人は次のようにも仰せになっているよ。
「玄奘三蔵は略を捨てて広を好み四十巻の大品経を六百巻と成す羅什三蔵は広を捨て略を好む千巻の大論を百巻と成せり、日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(法華取要抄)
二郎 どういうこと?
太郎 日蓮大聖人は、羅什三蔵が広を捨てて略を好むとして評価されている。その上でさらに日蓮大聖人は、広略を捨てて肝要である南無妙法蓮華経を用いるとおっしゃっているんだ。
二郎 それで、南無妙法蓮華経を一度唱えることは、法華経一部八巻二十八品を通して読む以上の功徳があるんだね。法華経の文底に立った日蓮大聖人の法門なのだから。
太郎 日蓮大聖人は、先ほどの真言についての研鑽でもうかがえるように、インドの梵語の経をそのまま素で読まれていた。日蓮大聖人が梵語に通暁されていたことは、次の御書によってわかる。
「抑法華経の大白牛車と申すは我も人も法華経の行者の乗るべき車にて候なり、彼の車をば法華経の譬喩品と申すに懇に説かせ給いて候、但し彼の御経は羅什・存略の故に委しくは説き給はず、天竺の梵品には車の荘り物・其の外・聞信戒定進捨慚の七宝まで委しく説き給ひて候を日蓮あらあら披見に及び候」(大白牛車御消息)
 日蓮大聖人は法華経についても、梵語の法華経と漢訳の法華経を対照しながら、徹底精査されていたんだ。このような研鑽は今の学者はなかなかできないのではないかと思う。失われたものがあまりに多い。
二郎 そうだね。中国もそうだろうけど、日本も戦乱で多くのものが焼失した。比叡山などは織田信長などに焼き討ちされた。
太郎 先に話題にした法華経の梵本や漢訳本などは、焼かれることとなる比叡山にあったのかもしれない。
二郎 身延では延享四(一七四七)年七月、安永五(一七七六)年十月、慶応元(一八六五)年十二月、明治八(一八七五)年一月など、数度の大火があり、多くの日蓮大聖人の御本尊や御真蹟御書が失われた。
太郎 話題を日蓮大聖人の修学に戻そう。日蓮大聖人は交通事情も悪く、文献の整理もなされていない中で、ひたむきに修学された。蔵の中でただお一人、文献を探され、書写し思念されたこともあったと思う。二十年間という修学の期間はずいぶんと長いと思っていたけれど、このように見ていくと、二十年でよくこれほどのことをなされたものだと思う。
 日蓮大聖人は法華最勝の思いを持ち、みずからを末法の民衆救済の本仏と自覚された。だからこそ、ただただ民衆救済のために、それらの修学をされたんだ。その日蓮大聖人の思いは立宗をもって結実する。
「一今我喜無畏の事   仰に云く此の文は権教を説き畢らせ給いて法華経を説かせ給う時なれば喜びておそれなしと観じ給えり、其の故は爾前の間は一切衆生を畏れ給えり、若し法華経を説かずして空しくやあらんずらんと思召して畏れ深くありと云う文なり、さて今は恐るべき事なく時節・来つて説く間・畏れなしと喜び給えり、今日蓮等の類も是くの如く日蓮も三十二までは畏れありき、若しや此の南無妙法蓮華経を弘めずして・あらんずらんと畏れありき、今は即ち此の恐れ無く既に末法当時・南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間恐れなし、終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし云云」(御講聞書)