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第8章 寿量品文底秘沈の大法

第7章 / もくじ / 第9章

日蓮大聖人と釈迦の勝劣

二郎 日蓮大聖人と釈迦との勝劣を明らかにする法華経の依文はあるのだろうか。
太郎 従地涌出品第十五で地涌の菩薩が出現した時、弥勒菩薩を代表とする無数の菩薩たちは、
「譬えば人有って、色美しく髪黒くして、年二十五なる、百歳の人を指して、是れ我が子なりと言い、其の百歳の人も亦た年小を指して、是れ我が父なり、我れ等を生育せりと言わんに、是の事は信じ難きが如し」
 という疑問を持った。さっき二郎が気にかけていたことだ。地涌の菩薩と釈迦の仏法上の位の違いは、その相貌に歴然と現れている。地涌の菩薩の上首上行が、日蓮大聖人であることは言うまでもない。
二郎 相貌に現れているんだ。先ほども話したけれど、法力の及ぶ時間の長さを見ても、釈迦より日蓮大聖人のほうが勝れていると思うよ。釈迦の仏法は二千年で、日蓮大聖人の仏法は一万年はおろか未来にわたる。その間の衆生を救う仏法だというのだから、二千年の釈迦よりも、未来永遠にわたる日蓮大聖人のほうが勝れている。
太郎 日蓮大聖人は、次のように仰せになっている。
「天台大師上の経文を釈して云く『但当時大利益を獲るのみに非ず後の五百歳遠く妙道に沾わん』等云云、是れ末法万年を指せる経釈に非ずや、法華経第六分別功徳品に云く『悪世末法の時能く是の経を持てる者』と安楽行品に云く末法の中に於て是の経を説かんと欲す等云云此等は皆末法万年と云う経文なり」(教行証御書)
 それだけではない。「御講聞書」には、日蓮大聖人が仰せになられたことが次のように筆録されている。
「一日蓮己証の事   仰に云く寿量品の南無妙法蓮華経是れなり、地涌千界の出現・末代の当世の別付属の妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に取次ぎ給うべき仏勅使の上行菩薩なり云云、取次とは取るとは釈尊より上行菩薩の手へ取り給うさて上行菩薩又末法当今の衆生に取次ぎ給えり是を取次ぐとは云うなり、広くは末法万年までの取次なり、是を無令断絶とは説かれたり、又結要の五字とも申すなり云云、上行菩薩取次の秘法は所謂南無妙法蓮華経なり云云」
二郎 やはり法華経は滅後末法のためのものなんだ。日蓮大聖人は、末法万年にわたる衆生を、寿量品の文の底に秘し沈められた南無妙法蓮華経をもって救うとされている。これが、日蓮大聖人が釈尊より、如来神力品第二十一の文上において結要付として受けられた秘法なんだ。
太郎 「御義口伝」にも、日蓮大聖人が次のように話されたと書かれている。
「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり豈今者已満足に非ずや、已とは建長五年四月廿八日に初めて唱え出す処の題目を指して已と意得可きなり、妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり此れを思い遣る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり、釈に云く『円は円融円満に名け頓は頓極頓足に名く』と之を思う可し云云」

三世の諸仏が証得した妙法

二郎 やはり法華経の題目である南無妙法蓮華経は、末法の民衆のためのもので、大良薬なんだ。
太郎 是好良薬の妙法蓮華経は、上首上行菩薩以下の地涌の菩薩に法華経の会座において末法の白法隠没の時のために譲られた。
「さて二仏並座・分身の諸仏集まつて是好良薬の妙法蓮華経を説き顕し釈尊十種の神力を現じて四句に結び上行菩薩に付属し給う其の付属とは妙法の首題なり惣別の付属塔中塔外之を思う可し、之に依つて涌出寿量に事顕れ神力・属累に事竟るなり、此の妙法等の五字を末法・白法隠没の時上行菩薩・御出世有つて五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏す可しと経文に親り之れ有り、夫れば神力品に云く『於我滅度後・応受持斯経・是人於仏道・決定無有疑』云云此の文明白なり、仍つて此の文をば仏の廻向の文と習うなり」(御義口伝)
二郎 如来寿量品第十六の文底に秘沈された大法を、日蓮大聖人は十六歳で感得された。自分こそが、末法の民衆を救済する地涌の菩薩の棟梁だという自覚に立たれた。
太郎 日蓮大聖人のその大慈悲は、末法万年尽未来際に至る人々を優しく潤す。十二歳で誓願され、十六歳でその救済の法を見出された。法華経を何度も何度も読まれ、思索され、その文底を感得された。爾来、南無妙法蓮華経をみずから唱えられていたことは疑いない。
「第二十此経難持の事

御義口伝に云く此の経文にて三学倶伝するなり、虚空不動戒・虚空不動定・虚空不動慧・三学倶に伝うるを名けて妙法と曰うと、戒とは色法なり定とは心法なり慧とは色心二法の振舞なり、倶の字は南無妙法蓮華経の一念三千なり伝とは末法万年を指すなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉り権教は無得道・法華経は真実と修行する是は戒なり防非止悪の義なり、持つ所の行者・決定無有疑の仏体と定む是は定なり、三世の諸仏の智慧を一返の題目に受持する是は慧なり、此の三学は皮肉骨・三身・三諦・三軌・三智等なり」

 南無妙法蓮華経は、末法万年の戒定慧の三学を具えている。
二郎 「御講聞書」と「御義口伝」には、いずれも「末法万年」という言葉があるね。「御講聞書」では、地涌の菩薩の上首として別付嘱された寿量品の南無妙法蓮華経をもって、末法万年の衆生を救うということが書かれているんだ。「御義口伝」では、南無妙法蓮華経は、「三世の諸仏の智慧を一返の題目に受持する」と説かれている。南無妙法蓮華経は、三世の諸仏のすべての智慧に匹敵するんだ。
太郎 日蓮大聖人は、次のようにも仰せになっているよ。
「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(報恩抄)
二郎 南無妙法蓮華経は末法のみならず、未来までも流れるとおっしゃっているんだ。一万年で止まらず、尽未来際まで続くんだ。
太郎 これらの日蓮大聖人の教法を素直に拝すれば、日蓮大聖人の慈悲は広大で、末法万年尽未来際まで及ぶという大確信がみなぎっていることが伝わってくる。その救済の方法も、南無妙法蓮華経のみにあることが明示されている。この「報恩抄」によれば、日蓮大聖人の教法は「未来までもながるべし」となっている。これは無限を意味する。未来に無限であることは、過去においても無限だ。無限はどこで切っても無限。未来において無限であるとの御文は、日蓮大聖人の教法が無始無終であることを意味する。無限は無終であると同時に無始だ。つまり、人法一箇の教法における日蓮大聖人は、無始無終の仏であると言える。日蓮大聖人の慈悲も無始無終と言える。
二郎 そこには、日蓮大聖人が悟りによって得られた己証の法門があるんだね。
太郎 そのとおりだよ。日蓮大聖人はみずから次のように仰せになっている。
「さては経をよまずとも心地の観念計りにて成仏す可きかと思いたれば一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納れり、妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納りて候けり、天台の所釈に『此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵・三世の如来の証得したもう所なり』と釈したり、さて此の妙法蓮華経を唱うる時心中の本覚の仏顕る」(一念三千法門)
二郎 日蓮大聖人は、みずから南無妙法蓮華経を唱えられ、「心中の本覚の仏」を開かれた。それが十六歳の時の悟りのあり方なんだ。
太郎 今の御書は日蓮大聖人が三十七歳で著されたものだが、同じ御書には次のように書かれているよ。
「此の妙法蓮華経とは我等が心性・総じては一切衆生の心性・八葉の白蓮華の名なり是を教え給ふ仏の御詞なり、無始より以来我が身中の心性に迷て生死を流転せし身今此の経に値ひ奉つて三身即一の本覚の如来を唱うるに顕れて現世に其内証成仏するを即身成仏と申す」

妙法蓮華経は我らが胸中に

二郎 妙法蓮華経は我らが胸中にあるんだ。妙法の題目を唱えることにより顕れると、日蓮大聖人はおっしゃっている。
太郎 そのことこそが、寿量品文底の教えといえる。
「就中五百塵点顕本の寿量に何なる事を説き給へるとか人人は思召し候、我等が如き凡夫無始已来生死の苦底に沈輪して仏道の彼岸を夢にも知らざりし衆生界を・無作本覚の三身と成し実に一念三千の極理を説くなんど・浅深を立つべし、但し公場ならば然るべし私に問註すべからず、慥に此の法門は汝等が如き者は人毎に座毎に日毎に談ずべくんば三世諸仏の御罰を蒙るべきなり、日蓮己証なりと常に申せし是なり」(教行証御書)
二郎 この法門は、日蓮大聖人の重大法門なんだ。
太郎 日蓮大聖人の妙法、妙法蓮華経からすれば、法華経の「釈迦多宝」の二仏すらも用となる。寿量品の「如来秘密神通之力」において、そのありさまを見ていくならば「如来秘密」は無始無終の仏の体、釈迦多宝は「神通之力」の用の現れ方ということになる。
「釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ」(諸法実相抄)
二郎 法華経の会座という釈尊の己心の儀式は、妙法蓮華経の五字より出たものだったんだ。
太郎 日蓮大聖人は、最蓮房に与えられたこの「諸法実相抄」の中で、重ねて次のように仰せになっている。
「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力』是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」
 ここにおいて釈迦、多宝は完全に相対化される。
二郎 無始無終の仏の用としてのありようが、有始有終の釈迦、多宝の二仏なんだ。
太郎 まぎれもなくそれが真実だ。
二郎 釈迦は寿量品において、「我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽」と述べている。この法華経の文を見れば、釈迦が有始有終の仏であることがわかる。ところで、釈迦はどのような修行をして仏になったのだろうか。
太郎 天台は『法華文句』において、釈迦が仏果を遂げたことについて、次のように述べている。釈迦の仏果を決定的にしたのは、五十二位のうちの十住の初住の位にあった時だという。
「佛は圓因を修し初住に登る時已に常壽を得たまへり」
 この文句の釈は、あくまで天台が迹面本裏の立場から述べている。「常寿を得たまへり」とあるが無始無終にわたる永遠の仏ということではなく、釈迦の成道が有始であることは明らかだ。
 ちなみに五十二位とは、十信、十住、十行、十回向、十地の五十の位に、等覚と妙覚の二つの位を合わせたものだ。歴劫修行をして仏果を遂げる。初住は不退転の位で、この境地に達することによって後の成仏が決定される。
二郎 何度も生まれ変わって修行するんだ。並のことではないね。
太郎 歴劫修行中の釈迦が、過去世において雪山童子と呼ばれていた時がある。雪山童子は、雪山という山で外道の法を修行していたけれども、仏法をいまだ聞くことがなかった。正しい教えを求めて雪山を彷徨している時に大鬼神に遭った。この大鬼神は得体の知れない人物であったが、雪山童子に対して「諸行無常 是生滅法」という半偈を説いたんだ。
 雪山童子は、その後の半偈を教えてくれと大鬼神に言うのだが、大鬼神は、食べるものを食べていないから正念が乱れ、後の八文字の偈を説くことができない、人の温かい血と肉が欲しいと言った。雪山童子は自分自身の体を大鬼神に布施するから、後の半偈を教えてほしいと不惜身命の乞いをし、後の半偈の八文字を聞こうとする。その勇気が大鬼神に褒められ、雪山童子は後の半偈を聞くことができた。それは「生滅滅已 寂滅為楽」というものだった。
 雪山童子は自分の身を大鬼神の口に投げ入れる前に、この偈を木や石に書きつけて後世に道を求める者のためとしたという。身を投じて法を求め、その法を人々に施す。これが慈悲だ。なお、この大鬼神は帝釈天の化身だった。これにより雪山童子は未来に成仏する。雪山童子は後の釈迦だ。この雪山童子の話は、涅槃経に出てくる。
二郎 ところで、この「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」とはどう読むの?
太郎 「諸行は無常なり 是れ生滅の法なり 生滅を滅し已って 寂滅を楽と為す」
二郎 どういう意味なの?
太郎 森羅万象を含めた三世にわたる諸々の相、諸々の行は無常である、だがこのように見ることは生滅の法であり迷いの法である、ところが、生滅に囚われた迷いを滅し終わって煩悩が静まり、心は穏かになり、悟りの境界に立つならば、諸行の生滅すらも楽となすことができる、といったところかな。
二郎 森羅万象の変化、生滅、生死を本質的なものではないと見ていくことが、悟りにつながるんだね。

諸仏の成道の法

太郎 だが、雪山童子の悟りは、小乗教の悟りの境界でしかない。ここで重要なことは、釈迦には歴劫修行していたという過去世があるという事実だ。
二郎 釈迦は修行の身だった。
太郎 ところが、ある過去世において釈迦は成仏した。釈迦の成仏は、三千年前に釈迦族の王子として誕生し、十九出家、三十成道といったものではない。如来寿量品第十六に、「我実成仏已来」という文言がある。そのことについて日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「又云く『然るに善男子我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由佗劫』等云云、此の文の心は華厳経の始成正覚と申して始て仏になると説き給ふ阿含経の初成道・浄名経の始坐仏樹・大集経の始十六年・大日経の我昔坐道場・仁王経の二十九年、無量義経の我先道場・法華経方便品の我始坐道場等を一言に大虚妄なりと打破る文なり」(寿量品得意抄)
二郎 日蓮大聖人は、この「我実成仏已来……」の経文が、釈迦のインドにおける成仏が権の教えだということを決定づけると言われている。
太郎 釈迦が権の教えを説かなければならなかった理由を、日蓮大聖人は次のように仰せになられている。
「夫れ三界の教主釈尊は十九歳にして伽耶城を出て檀特山に籠りて難行苦行し三十成道の刻に三惑頓に破し無明の大夜爰に明しかば須く本願に任せて一乗妙法蓮華経を宣ぶべしといへども機縁万差にして其の機仏乗に堪えず、然れば四十余年に所被の機縁を調へて後八箇年に至つて出世の本懐たる妙法蓮華経を説き給へり」(聖愚問答抄)
二郎 釈迦は弟子たちに対して法華経を説きたかったが、弟子の機が熟してないために四十余年にわたり権経を説いた。そして法華経を説いた。
太郎 この釈迦について日蓮大聖人は、次のように仰せになっている。
「又我が師・釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり、此の娑婆・無仏の世の最先に出でさせ給いて一切衆生の眼目を開き給ふ御仏なり、東西十方の諸仏・菩薩も皆此の仏の教なるべし」(善無畏三蔵抄)
二郎 釈迦は、この地球に一番最初に出た仏だったんだ。
太郎 しかし、その釈迦も、滅後において正法を流布する地涌の菩薩涌現の未来記である法華経を説くことを最終目的とした。その法華経の中でも寿量品こそが、釈迦の説いた教えの中で最も重要だった。寿量品の文底には、釈迦を含む諸仏が成道した南無妙法蓮華経が説かれていた。
「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし、根無き草はひさしからず・みなもとなき河は遠からず親無き子は人に・いやしまる、所詮寿量品の肝心南無妙法蓮華経こそ十方三世の諸仏の母にて御坐し候へ」(寿量品得意抄)
二郎 寿量品文底には無始無終の仏が説かれている。
太郎 その無始無終の仏から見れば、生と死、あるいは瞬間瞬間の生滅も相対化される。
二郎 雪山童子が帝釈天より教えてもらった偈より、無量に深く無数倍も勝れた法門がそこにはある。
太郎 そのことを、「三世諸仏総勘文教相廃立」に照らして見ていきたい。
「故に生死の夢は権にして性体無ければ権なる事の手本なり故に妄想と云う、本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり故に実相と云う」
二郎 生死、生滅は生命の本質からみれば、夢であり妄想にしかすぎない。しかも、それは無始無終の仏の大慈悲に裏づけられている。
太郎 その日蓮大聖人の教えを信じ切ることが凡夫の悟りだ。成仏の直道なんだ。日蓮大聖人はさらにおっしゃっている。
「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顚倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや」
二郎 御本尊に向かい題目を唱えれば境智冥合して、本覚の境界を現ずることができる。そこでは妙法の心性が正しく顕れ、生死の縛を断ち切り、苦しみや悩み、死への恐れもなくなるんだ。
太郎 御書において日蓮大聖人が仰せになっているとおりだ。そのような悟りの境界に立てば、心と仏と衆生の差別もなく、一切衆生の一念の心も「無相・不相の一法」となると日蓮大聖人は、次のように認められている。
「華厳経に云く『心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し』已上、無量義経に云く『無相・不相の一法より無量義を出生す』已上、無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、文句に釈して云く『生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり』云云」
二郎 心、仏、衆生に差別なく「生滅無常」もない。常楽我浄が実感されるんだ。
太郎 ありがたいことだね。仏の金言むなしからずだ。
二郎 先ほど話に出たが、釈迦には雪山童子として修行していた過去世があった。当然のことながら釈迦は、劫を歴てさまざまな修行をしたと思うのだが、最終的にはどのようなことを悟ることによって、成仏したのだろうか。
太郎 これも「三世諸仏総勘文教相廃立」に照らして見ていきたいと思う。日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり父子の天性は本末是れ同じ、斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり、即身成仏は今我が身の上の天性・地体なり煩も無く障りも無き衆生の運命なり果報なり冥加なり、夫れ以れば夢の時の心を迷いに譬え寤の時の心を悟りに譬う之を以て一代聖教を覚悟するに跡形も無き虚夢を見て心を苦しめ汗水と成つて驚きぬれば我身も家も臥所も一所にて異らず夢の虚と寤の実との二事を目にも見・心にも思えども所は只一所なり身も只一身にて二の虚と実との事有り之を以て知んぬ可し、九界の生死の夢見る我が心も仏界常住の寤の心も異ならず」
二郎 九界も仏界も夢と寤も一身の上のことだ。同様に、九界も仏界も隔てがないことを述べられているんだ。「本覚の寤」に還るように信行学に励まなければいけない。
太郎 そのような日蓮大聖人の教えからすれば、成仏は御本尊を前にして、生死の夢を醒ます唱題行によるしかないことがわかる。南無妙法蓮華経を唱えることにより三世の諸仏も成仏したんだ。歴劫修行は否定されることになる。
二郎 そうであってほしいよ。生死、生死を繰り返し歴劫修行をして、徐々に位を上げるといわれても、あまりピンとこないね。
太郎 日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「権教の行は無量劫を経て昇進する次位なれば位の次第を説けり今法華は八教に超えたる円なれば速疾頓成にして心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る」
 ここでも法華経が速疾頓成であることを述べられている。この速疾頓成とは、心と仏と衆生が自分の一念の中にしっかり収まっている。心の外にない、と実感できればよいと言われている。心、仏、衆生とはいっても、それは生命それ自体なんだ。
二郎 それが妙法なんだね。
太郎 さらに日蓮大聖人は、次のように仰せになっている。
「五行とは地水火風空なり五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時とも云う、只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり、今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う此を唯仏与仏・乃能究尽と云う、不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫は初心より之を知る故に即身成仏するなり金剛不壊の体なり」
 ここにある「円頓の凡夫」とは、日蓮大聖人のことだね。総じては、南無妙法蓮華経を日蓮大聖人の仰せのとおりに信じ奉る者も含まれる。「地水火風空」という宇宙を創成しているものも、衆生の心と身の妙法蓮華経と同じなんだ。
二郎 「唯仏与仏・乃能究尽」とあるから、僕たちが「本覚の如来」であると知ったことは、ただ仏が仏のみに与える究極の法なんだね。
太郎 日蓮大聖人は次のように仰せだ。
「天地水火風は是れ五智の如来なり一切衆生の身心の中に住在して片時も離るること無きが故に世間と出世と和合して心中に有つて心外には全く別の法無きなり故に之を聞く時立所に速かに仏果を成ずること滞り無き道理至極なり」
二郎 「天地水火風」は、日蓮大聖人が何度も念を押されているように、南無妙法蓮華経のことなんだね。
太郎 「天地水火風」、すなわち南無妙法蓮華経という如来は、衆生の身心において常住している。だから南無妙法蓮華経を唱えれば即身成仏できるんだ。
二郎 すごい。
太郎 同じくこの御書で、日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す、其の後方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して其の中に四十二年の方便の諸経を丸かし納れて一仏乗と丸し人一の法と名く一人が上の法なり」
二郎 ここで「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なり」とおっしゃっている。「五百塵点劫」と「五百塵点劫の当初」とは、違うのだろうか。
太郎 まったく違う。天台は、釈迦は、五十二位に分けられる歴劫修行の位の中の、十住の位の初住において成仏を確かなものにしたと言っている。だがこの御書では、凡夫だった時に成仏したとされている。これはまさに即身成仏を意味する。歴劫修行して成仏したとする釈迦の仏法の範疇に、この文は留まらない。
二郎 だから成仏した時が違うんだ。釈迦が成仏したのは、寿量品で示されたとおり「五百塵点劫」であって、「五百塵点劫の当初」ではない。
太郎 そういうことなんだよ。ここに書かれている釈迦は、五百塵点劫において最初に成仏したと説いたインドの釈迦ではないんだ。さっき日蓮大聖人が無始無終の仏だということについて話したけど、これは凡夫即極の日蓮大聖人だ。先に引いた「三世諸仏総勘文教相廃立」の文の前半は、無始無終の仏について書かれており、後半は、その無始無終の仏の用としてのインド応誕の釈迦が書かれていると見るべきなんだ。
二郎 「三世諸仏総勘文教相廃立」は、本当に大事なことが書かれているんだね。
太郎 この御書で日蓮大聖人は、次のように仰せになっている。
「所詮己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり」
二郎 僕たち衆生の心と仏とが一つのもので、別のものでないと感得することが大事なんだ。
太郎 その実践行為は、自行の唱題行、そして化他の折伏行なんだ。観ずるということは、観念ではなく行動の中に見出していくべきだ。
二郎 僕もそう思うよ。
太郎 同じくこの「三世諸仏総勘文教相廃立」の中で日蓮大聖人は、次のように仰せになっている。
「此の度必ず必ず生死の夢を覚まし本覚の寤に還つて生死の紲を切る可し今より已後は夢中の法門を心に懸く可からざるなり、三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し障り無く開悟す可し自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰り無し、三世の諸仏の勘文是くの如し秘す可し秘す可し」
二郎 仏が自分の心の外にあると感じるのが迷いなんだ。三世の諸仏が成道したのと同じように、みずからが妙法蓮華経の当体であると開悟し、自行化他の修行に励まなくてはいけない。三世のあらゆる仏はこのようにして成仏したんだね。
太郎 だからこそ日蓮大聖人の法門は、本門寿量品の文の底に秘し沈められているものだと言われるんだ。南無妙法蓮華経は三世の諸仏の成仏の本因なんだよ。日蓮大聖人は次のようにも仰せだ。
「今日蓮が弘通する法門は・せばきやうなれども・はなはだふかし、其の故は彼の天台・伝教等の所弘の法よりは一重立入りたる故なり、本門寿量品の三大事とは是なり、南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如し、されども三世の諸仏の師範・十方薩埵の導師・一切衆生皆成仏道の指南にてましますなれば・ふかきなり、経に云く『諸仏智慧・甚深無量』云云、此の経文に諸仏とは十方三世の一切の諸仏・真言宗の大日如来・浄土宗の阿弥陀・乃至諸宗・諸経の仏・菩薩・過去・未来・現在の総諸仏・現在の釈迦如来等を諸仏と説き挙げて次に智慧といへり、此の智慧とは・なにものぞ諸法実相・十如果成の法体なり、其の法体とは又なにものぞ南無妙法蓮華経是なり、釈に云く『実相の深理・本有の妙法蓮華経』といへり、其の諸法実相と云うも釈迦多宝の二仏とならうなり」(四条金吾殿御返事)
二郎 南無妙法蓮華経は、寿量品の文の底に秘し沈められた三大秘法なんだね。釈迦を含めた諸仏も、南無妙法蓮華経をもって成仏したんだ。