法華経は釈迦滅後のため
二郎 じゃあ、法華経に入ろう。太郎 法華経をことごとく読むのは大変だ。末法における法華経流布を託された、地涌の菩薩にかかわるところに焦点を定めて、法華経を見ていきたい。
二郎 それがいいね。
太郎 法華経は一部八巻二十八品ある。その前後には開経として無量義経が、結経として観普賢菩薩行法経がある。では法華経二十八品を順番に挙げてみるよ。
「妙法蓮華経 巻第一」序品第一
方便品第二
「妙法蓮華経 巻第二」譬喩品第三
信解品第四
「妙法蓮華経 巻第三」薬草喩品第五
授記品第六
化城喩品第七
「妙法蓮華経 巻第四」五百弟子受記品第八
授学無学人記品第九
法師品第十
見宝塔品第十一
「妙法蓮華経 巻第五」提婆達多品第十二
勧持品第十三
安楽行品第十四
従地涌出品第十五
「妙法蓮華経 巻第六」如来寿量品第十六
分別功徳品第十七
随喜功徳品第十八
法師功徳品第十九
「妙法蓮華経 巻第七」常不軽菩薩品第二十
如来神力品第二十一
嘱累品第二十二
薬王菩薩本事品第二十三
妙音菩薩品第二十四
「妙法蓮華経 巻第八」観世音菩薩普門品第二十五
陀羅尼品第二十六
妙荘厳王本事品第二十七
普賢菩薩勧発品第二十八
二郎 たしかに、これを全部読むのは大変だ。兄さん、地涌の菩薩に絞って話を進めてくれたほうがいいな。
太郎 法華経の開経である無量義経には、「四十余年、未顕真実」という言葉がある。これは、釈迦が法華経以前に説いた経は、いまだ真実を顕していないと、はっきり明言した言葉だ。このように念押しした上で釈迦は法華経を説いた。
二郎 釈迦は、無量義経に続いて説く法華経こそが真実であると言いたかったんだね。
太郎 さらに釈迦は、方便品第二において「正直捨方便 但説無上道」と述べている。釈迦は、これまで説いてきた方便の法を正直に捨てて、ただ無上道を説くと述べている。つまり、権教を捨て法華一仏乗を説くと言っているんだ。
二郎 法華一仏乗ということは、それまでの釈迦の教えの目標であった声聞、縁覚、菩薩の三乗を排して、仏になることのみを目的とするということだね。
太郎 そのとおりだよ。そしてこの法華経では、釈迦の滅後において、法華経に説かれた仏の法を誰が弘めるかということがテーマになっていく。
二郎 釈迦滅後の法華経の弘め方が会座で話題になっていくんだ。
太郎 そこで法華経の会座に集った者たちが、我も我もと滅後の布教を願い出るんだ。
二郎 うん。なるほど。
太郎 見宝塔品第十一において、とてつもなく大きくて荘厳な塔が地中より涌出する。この時、この塔の中から大声を出した者がいた。
「善き哉、善き哉。釈迦牟尼世尊は、能く平等大慧、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるる妙法華経を以て、大衆の為めに説きたまう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」
二郎 大変なことになった。
太郎 この声の主は多宝如来で、法華経を説く所があったならば、そこに必ず涌現して、法華経が正しいことを証明すると、菩薩道を行じている時に「大誓願」していたんだ。
二郎 そういう約束に基づいて、多宝如来は法華経の正しさを証明するために、大きくて荘厳な塔の中に居まして法華経の会座に地中より涌現したんだ。
太郎 この時、娑婆世間は変じて清浄になる。さらに釈迦は、諸仏をこの法華経の会座に呼ぶために、八方の各の二百万億那由他世界を清浄にし、さらにまた釈迦はもっともっと多くの諸仏を呼ぶために、さらに八方の各の二百万億那由他の国土を清浄なものとした。それぞれの方の四百万億那由他の国土に諸仏如来は遍満した。
二郎 数えることのできない諸仏が、無限無際の広い場所に座して法華経の会座は展開されるんだ。
太郎 そこで釈迦は、多宝如来のいる宝塔の中に入っていく。
「爾の時、多宝仏は宝塔の中に於いて、半座を分かちて、釈迦牟尼仏に与えて、是の言を作したまわく、
『釈迦牟尼仏よ。此の座に就きたまう可し』と。
即時に釈迦牟尼仏は、其の塔中に入り、其の半座に坐して、結跏趺坐したまう」
その釈迦、多宝が「七宝塔中の師子座」に座ったのを見て、集い寄った「大衆」が次のように願う。
「仏は高遠に坐したまえり。唯だ願わくは如来は神通力を以て、我が等輩をして倶に虚空に処せしめたまえ」
二郎 するとどうなるの?
太郎 「即時に釈迦牟尼仏は、神通力を以て、諸の大衆を接して、皆な虚空に在きたまう」
二郎 虚空会の儀式が始まるんだね。法華経の会座に集い寄った無量の仏菩薩が大空に遍満として座して、虚空会における法華経の会座を形成する。宇宙を感じるよ。無量の恒星や星雲すらも、その虚空会を荘厳しているようだ。
太郎 そうだ。そこで釈迦は大声をもってみなに言うんだ。
「誰か能く此の娑婆国土に於いて、広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり。如来は久しからずして、当に涅槃に入るべし。仏は此の妙法華経を以て、付属して在ること有らしめんと欲す」
二郎 この儀式の様相からして、妙法蓮華経を釈迦滅後の娑婆世界において弘めることには、想像を超えた大変さが予見される。
太郎 提婆達多品第十二において、釈迦は提婆達多が未来に成仏することを明かす。文殊師利菩薩は次のように述べる。
「我れは海中に於いて、唯だ常に妙法華経を宣説す」
そこで智積菩薩が、この法華経をもって即身成仏する者がいるかと聞いた。その証明のために、八歳の竜女が出てくる。竜女は「宝珠」を釈迦に渡すことによって、法華経による即身成仏、さらには女人成仏を証明する。
二郎 悪人成仏、女人成仏、即身成仏が法華経の会座で明らかとなった。
太郎 こうなると、この会座に集った者たちは、この素晴らしい法華経を弘めたくて仕方がない。そして、勧持品第十三では、八十万億那由他の諸々の菩薩摩訶薩がともに同じく声を発して仏滅後に法を弘めたいとその願いを述べ、その上で法華経を釈迦滅後に布教する者の難を予見し、それを堪え忍ぶから法華経を自分たちに布教させてほしいと釈迦に願い出ている。この諸々の菩薩たちが予見した難のありさまこそ、末法において法華経を弘める者が受ける難そのものなんだ。彼ら諸々の菩薩は、釈迦に向かって次のように述べている。
「諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん 我れ等は皆な当に忍ぶべし 悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを謂いて得たりと為し 我慢の心は充満せん 或は阿練若に 納衣にして空閑に在って 自ら真の道を行ずと謂いて 人間を軽賤する者有らん 利養に貪著するが故に 白衣の与めに法を説いて 世の恭敬する所と為ること 六通の羅漢の如くならん 是の人は悪心を懐き 常に世俗の事を念い 名を阿練若に仮って 好んで我れ等が過を出さん 而も是の如き言を作さん 此の諸の比丘等は 利養を貪らんが為めの故に 外道の論議を説く 自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑す 名聞を求めんが為めの故に 分別して是の経を説くと 常に大衆の中に在って 我れ等を毀らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士及び余の比丘衆に向かって 誹謗して我が悪を説いて 是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん 我れ等は仏を敬うが故に 悉く是の諸悪を忍ばん 斯れの軽んじて 汝等は皆な是れ仏なりと言う所と為らん 此の如き軽慢の言を 皆な当に忍んで之れを受くべし 濁劫悪世の中には 多く諸の恐怖有らん 悪鬼は其の身に入って 我れを罵詈毀辱せん 我れ等は仏を敬信して 当に忍辱の鎧を著るべし 是の経を説かんが為めの故に 此の諸の難事を忍ばん 我れは身命を愛せず 但だ無上道を惜しむ 我れ等は来世に於いて 仏の嘱する所を護持せん 世尊は自ら当に知しめすべし 濁世の悪比丘は 仏の方便宜しきに随って説きたまう所の法を知らず 悪口して嚬蹙し 数数擯出せられ 塔寺を遠離せん 是の如き等の衆悪をも 仏の告勅を念うが故に 皆な当に是の事を忍ぶべし」
二郎 法華経の会座に集った者たちは、滅後にさまざまな難が起こるということはわかっていた。悪口罵詈され刀杖を加えられ、何度も擯出され、塔寺より追い払われるなどといった難があることを予見していたんだ。
太郎 安楽行品第十四において、釈迦は次の偈を説いている。
「若し是の経を説かんと欲せば 当に嫉恚慢諂誑邪偽の心を捨てて 常に質直の行を修すべし 人を軽蔑せざれ 亦た法を戯論せざれ 他をして疑悔せしめて 汝は仏を得じと云わざれ 是の仏子は法を説かんには 常に柔和にして能く忍び 一切を慈悲して 懈怠の心を生ぜざれ 十方の大菩薩は 衆を愍むが故に道を行ずるに 応に恭敬の心を生ずべし 是れは則ち我が大師なりと 諸仏世尊に於いて 無上の父との想を生じ 憍慢の心を破して 法を説くに障礙無からしめよ 第三の法は是の如し 智者は応に守護すべし 一心に安楽に行ぜば 無量の衆に敬われん」
二郎 安楽行品となっているけれども、相当な覚悟が必要なんだね。その民衆救済の不動の一念において安楽行品があるんだ。
太郎 その決意をもって布教していけば、諸天も守り、法華経を聞く者をして歓喜させるというんだ。
「諸天は昼夜に、常に法の為めの故に、而も之れを衛護し、能く聴者をして皆な歓喜することを得しめん。所以は何ん、此の経は、是れ一切の過去・未来・現在の諸仏の神力もて護りたまう所なるが故に」
二郎 諸天が法華経の行者を守護することは、法華経の会座において決定しているんだ。
太郎 従地涌出品第十五においては、八恒河沙を超える大衆が起立合掌して法華経を弘通したいと願い出る。これに対して釈迦は次のように言う。
「止みね。善男子よ。汝等が此の経を護持せんことを須いじ。所以は何ん、我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩有り、一一の菩薩に、各おの六万恒河沙の眷属有り。是の諸人等は、能く我が滅後に於いて、護持し読誦し、広く此の経を説かん」
二郎 六万恒河沙ということは無数の菩薩ということになる。その六万恒河沙の菩薩たちこそが、法華経を釈迦の滅後において弘める者たちであると、釈迦は明かしたんだね。
太郎 そうなんだ。この事実を釈迦が述べた時に大変なことが起こる。
「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり。是の諸の菩薩は、身は皆な金色にして、三十二相・無量の光明あり、先より尽く娑婆世界の下、此の界の虚空の中に在って住せり。是の諸の菩薩は、釈迦牟尼仏の説きたまう所の音声を聞いて、下従り発来せり」
二郎 いよいよ地涌の菩薩が登場したね。
太郎 地涌の菩薩の中には指導者がいる。
「是の菩薩衆の中に、四導師有り。一に上行と名づけ、二に無辺行と名づけ、三に浄行と名づけ、四に安立行と名づく。是の四菩薩は、其の衆の中に於いて、最も為れ上首唱導の師なり」
二郎 地涌の菩薩の指導者である四菩薩が紹介された。その四菩薩の第一番目は上行菩薩だ。
太郎 釈迦は次のように言う。
「是の諸の衆生は、世世より已来、常に我が化を受け、亦た過去の諸仏に於いて、供養・尊重して、諸の善根を種えたり。此の諸の衆生は、始め我が身を見、我が説く所を聞き、即ち皆な信受して、如来の慧に入りき」
二郎 釈迦は、地涌の菩薩が自分の化導した者たちであると紹介したんだ。
太郎 ところがだ、会座に集っていた弥勒菩薩や八千恒河沙の諸々の菩薩たちが疑念を持つ。
「我れ等は昔従り已来、是の如き大菩薩摩訶薩衆の地従り涌出して、世尊の前に住して、合掌し供養して、如来を問訊したてまつるを見ず聞かず」
二郎 当然の疑念だね。
太郎 釈迦はその疑念に対して次のように言う。
「仏は不実の語無し 智慧は量る可からず 得る所の第一の法は 甚深にして分別し叵し 是の如きを今当に説くべし 汝等は一心に聴け」
二郎 それでみんなの疑念は収まるのかな?
太郎 釈迦は地涌の菩薩が住んでいる所を示す。
「此の諸の菩薩は、皆な是の娑婆世界の下、此の界の虚空の中に於いて住せり」
加えて釈迦は偈を説いて次のように言う。
「我れは今実語を説く 汝等は一心に信ぜよ 我れは久遠従り 来是れ等の衆を教化せり」
二郎 う〜ん。
太郎 弥勒菩薩や無数の諸菩薩が、心に生じた疑惑を口に出し釈迦に聞く。
「云何んぞ世尊は少時の間に於いて、是の如き無量無辺阿僧祇の諸の大菩薩を教化して、阿耨多羅三藐三菩提に住せしめたまえる」
彼らの言い分はもっともなものだ。釈迦が迦毘羅衛国を出て出家し、成仏してから四十余年しか過ぎてないのに、どうしてこれだけ多くの菩薩を化導できたのかと釈迦に難詰するんだ。
二郎 僕もその疑いには同意するね。
太郎 弥勒菩薩を代表とする会座の者たちは、釈迦に対して疑問を具体的に指摘する。
「世尊よ。此の如きの事は、世の信じ難き所なり。譬えば人有って、色美しく髪黒くして、年二十五なる、百歳の人を指して、是れ我が子なりと言い、其の百歳の人も亦た年小を指して、是れ我が父なり、我れ等を生育せりと言わんに、是の事は信じ難きが如し」
二郎 地涌の菩薩は百歳の翁のようで、その風格泰然たる無量無数の菩薩を指して、釈迦が「我が子だ」と言っても納得しないのはわかる。
太郎 弥勒菩薩がこの疑念に立ち、偈を説く。釈迦に対し真実を説いてくれと願う。そうでなければ滅後の者たちが、釈迦がこの地涌の菩薩を化導したということをもって仏の法に疑いを持つと言うんだ。その故に強く真実を明かしてほしいと言うのだ。
「願わくは仏は未来の為めに 演説して開解せしめたまえ 若し此の経に於いて 疑いを生じて信ぜざること有らば 即ち当に悪道に堕つべし 願わくは今為めに解説したまえ 是の無量の菩薩をば 云何んが少時に於いて 教化し発心せしめて 不退の地に住せしめたまえる」
二郎 たしかに、この疑念が解けなければ、法華経のみならず、釈迦の法すべてが疑問視されることになる。
如来寿量品に説かれた真実
太郎 如来寿量品第十六において、いよいよ釈迦が真実を述べる。釈迦はその真実を述べるにあたり、「『諸の善男子よ。汝等は当に如来の誠諦の語を信解すべし』と。
復た大衆に告げたまわく、
『汝等は当に如来の誠諦の語を信解すべし』と。
又復た諸の大衆に告げたまわく、
『汝等は当に如来の誠諦の語を信解すべし』」
と、三回、念を押す。それを聞いた弥勒菩薩をはじめとする菩薩大衆は合掌して、こう言った。
「世尊よ。唯だ願わくは之れを説きたまえ。我れ等は当に仏の語を信受したてまつるべし」
先の釈迦の念押しに対して、弥勒菩薩たちはこのように三回教えを請う。そして、さらに加えて繰り返し教えを請うた。これを三誡四請という。そこでいよいよ釈迦は真実を説く。
「汝等よ。諦かに聴け。如来の秘密・神通の力を」
二郎 仏の秘密神通之力が明かされるんだね。
太郎 釈迦は次のように言った。
「我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」
そして、さらに言うんだ。
「是れ自従り来、我れは常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」
二郎 深遠な仏と生命のありようが明かされてきたね。
太郎 釈迦は、
「然るに我れは実に成仏してより已来、久遠なること斯の若し」
と前置きし、次のような事実を述べる。
「如来は如実に三界の相を知見するに、生死の若しは退、若しは出有ること無く、亦た在世及び滅度の者無く、実に非ず虚に非ず、如に非ず異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。斯の如きの事を、如来は明らかに見て、錯謬有ること無し。
諸の衆生は、種種の性、種種の欲、種種の行、種種の憶想分別有るを以ての故に、諸の善根を生ぜしめんと欲して、若干の因縁・譬喩・言辞を以て、種種に法を説く。作す所の仏事は、未だ曽て暫くも癈せず」
二郎 如来は生死の本質を見抜き、絶えず衆生を教化することを目指しているんだ。そして、その仏の衆生に対する化導は間断なく行なわれており、一瞬たりともそれが途絶えることはない、と言うんだね。
太郎 そうなんだよ。仏は常住にして絶えず衆生を教化しようとしているんだ。
二郎 仏の慈悲は不断にして常住のものなんだね。
太郎 続けて釈迦は、次のように述べた。
「是の如く我れは成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命は無量阿僧祇劫にして、常住にして滅せず。諸の善男子よ。我れは本と菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命は、今猶お未だ尽きず、復た上の数に倍せり」
二郎 そうすると釈迦も、本を問えば菩薩としての修行をして仏になったんだね。
太郎 法華経に書いてあるとおりだ。
二郎 だとすると、釈迦はどのような菩薩の道を行じて成仏したんだろうか。
太郎 それは大変に難しい質問だ。
二郎 従地涌出品第十五で、法華経の会座に集った者たちが、地涌の菩薩について百歳の翁に見える、釈迦は子にしか見えないと思っていたが、このことが二重映しになって、僕の心に大きな疑念が生ずる。
太郎 その二郎の疑いは、もっとも尊ぶべき疑念だ。そのことは後で話し合おう。
二郎 わかった。
太郎 如来寿量品第十六によると、仏は死んではいないのに死んだ姿を見せて衆生を救おうとしたと書いてある。仏はみずからを滅することで、衆生に仏に対する渇仰の心を抱かせ、善根を植えようとするんだ。仏の慈悲は凡愚の者にはとうていわかりえない。滅にして不滅であるのに、滅を現じて衆生をして救おうというのだから、まさに如来の所作は秘密神通之力と言える。
二郎 重ね重ね、仏の慈悲の偉大さを感じる。
太郎 この如来寿量品第十六には、次のように書かれている。
「汝等よ。当に知るべし、我れは今衰老して、死の時已に至りぬ。是の好き良薬を、今留めて此に在く。汝は取って服す可し。差えじと憂うること勿れ」
これは、法華経が滅後のために説かれたことを示すものだ。
二郎 たしかに。仏が滅を現じて成仏の是好良薬を残されることについて述べられている。法華経が末法の衆生のために説かれたことがよくわかる。
無始無終の仏を説いた自我偈
太郎 これから如来寿量品第十六の自我偈について話そう。二郎 僕は毎日朝晩、自我偈を読誦している。
太郎 自我偈は「自我得仏来」で始まる。次に続くのは「所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇」だ。したがって、この自我偈に説かれた仏は、成仏してから無量の時間が経っていることを述べている。その無量の時間を経る中における仏の所業が、この自我偈に書かれているのだけれど、その主なところを見てみよう。
「衆生を度せんが為めの故に 方便もて涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く 我れは常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顚倒の衆生をして 近しと雖も見ざらしむ」
二郎 仏は絶えず衆生と共にいてくれているんだね。しかし仏の神通力のゆえに、衆生は仏がそばにいるのに見ることができないんだ。
太郎 そして、いつでも娑婆世界に出てくると言われている。ただし、それには条件がある。
「一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山」
二郎 「一心欲見仏 不自惜身命」が不可欠の条件なんだね。人間がその思いを抱いた時に、仏とその眷属が霊鷲山に出てこられるんだ。霊鷲山というのは娑婆世界のことだね。
太郎 我々の住んでいる世界だ。仏の思いは、ただ一つなんだ。それは、自我偈の最後の文を見ればわかる。
「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」
二郎 仏が衆生の成仏のためにいかに心を砕いているかという思いが、僕にもしみじみと伝わってくるよ。
太郎 自我偈は「自我得仏来」で始まり、「速成就仏身」に終わる。「自」に始まり「身」に終わる。つまり「自身」について書かれている。「自身」とは仏自身のことなんだ。この自我偈で不思議なことがあるんだ。法華経の各品は、長行という文章と偈という讃嘆詩によって成り立っている。長行と偈は同じ内容が反復するものだ。ところが、寿量品の長行では「我本行菩薩道」とあるのに、自我偈にはそれに当たるところがない。いきなり「自我得仏来」と始まる。
二郎 「我本行菩薩道」について説くのを避けているかのようだ。
太郎 三妙合論を知っているね。本因妙が「我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数」、本果妙が「我実成仏已来、無量無辺百千万億那由他劫」、本国土妙が「我常在此娑婆世界、説法教化」だ。寿量品では長行において、この三妙合論が明かされたことが大きな意味を持つんだ。釈迦が五百塵点劫の昔に成仏し、それ以降、娑婆世界において衆生を成仏させようとしてさまざまな教えを説いてきた。その長遠な仏の寿命が明かされたんだ。
二郎 そうだったね。ということは、自我偈には本果妙と本国土妙しかなくて、本因妙が書かれていないと兄さんは言うわけだ。
太郎 書かれていないというのではない。その逆だ。すべてが本因妙について説かれていると言える。したがって、この自我偈において「自身」とされる仏は、無始無終の仏を指していることがわかる。
二郎 自我偈に説かれた仏については、「我本行菩薩道」の記述が避けられているということは、さっき話に出た。すると自我偈に説かれた仏については、菩薩としての修行をしたことがないということを、本当は示したかったんだ。
太郎 そういうことだ。自我偈に説く仏については、明らかに久遠元初の無始無終の自受用身ということになる。自我偈に説かれている「自身」というのは、本因妙そのものなんだ。だから、いつどのように修行したという、成仏への過程に関する記述がないんだ。諸々の仏にとっての成仏の本因となった本仏なんだ。自我偈においては、「常説法教化」「常住此説法」「我常住於此」「常在此不滅」「常在霊鷲山」「慧光照無量」「実在而言滅」「毎自作是念」といった文言が、しきりに強調されている。
二郎 そうなんだ。自我偈に説かれているのは、無始無終の本因妙の教主なんだ。
太郎 さっき本因妙について引いた寿量品長行の文に注意する必要がある。それは、次のようになっている。
「我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数」
この法華経の文を素直に読めば、この寿量品の長行に説かれた仏は、菩薩道を行ずることによって成仏し、「今猶未尽」ということは、逆説的に言えば、有終だということを示している。したがって寿量品長行に説かれている仏は、文上においては有始有終ということになる。文上釈尊の有始有終の仏の振る舞いを示すことによって、文底に無始無終の仏の存在を示しているんだ。
二郎 そして自我偈では、無始無終の仏の所作を示す。
太郎 よく五百塵点劫に釈迦が成仏したということが、寿量品において明かされ、それが本門の要だと言う。しかし、それはあくまで文上のことだ。五百塵点劫は、
「我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり。譬えば五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し。諸の善男子よ。意に於いて云何ん。是の諸の世界は、思惟し校計して、其の数を知ることを得可しや不や」
を略したものだ。成仏して長遠なことを示しているが、その譬えをもって推し量れば有限の範疇を出ない。ところが自我偈では、
「我れは仏を得て自り 来経たる所の 諸の劫数は 無量百千万 億載阿僧祇なり」
「常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ」
と明かされている。「常に法を説」いて「無数」の衆生を成仏させたと説かれている。長行に説かれた五百塵点劫に成道した仏ではなく、無始無終の仏が、常に娑婆世界で説法教化してきたことが自我偈では示されている。自我偈の文を注意深く読むと、文底が鮮やかに浮かび上がってくる。
二郎 そうなると自我偈は、釈迦すらも相対化した特別な仏について説かれていると言えるね。法華経は本当に精密な構成を持っている経なんだ。
釈迦も南無妙法蓮華経によって成仏
太郎 提婆達多品第十二において釈迦は、ある国王が成仏した経過を述べている。「我れは過去の劫を念うに 大法を求めんが為めの故に 世の国王と作れりと雖も 五欲の楽を貪らざりき 鐘を椎いて四方に告ぐ 誰か大法を有てる者なる 若し我が為めに解説せば 身は当に奴僕と為るべし 時に阿私仙有り 来って大王に白さく 我れは微妙の法を有てり 世間に希有なる所なり 若し能く修行せば 吾れは当に汝が為めに説くべし 時に王は仙の言を聞いて 心に大喜悦を生じ 即便ち仙人に随って 須うる所を供給し 薪及び菓蓏を採って 時に随って恭敬して与えき 情に妙法を存せるが故に 身心に懈倦無かりき 普く諸の衆生の為めに 大法を勤求して 亦た己が身 及以び五欲の楽の為めにせず 故に大国の王と為って 勤求して此の法を獲て 遂に成仏を得ることを到せり」
二郎 その国王は、阿私仙人に妙法を教えてもらって、成仏したんだ。
太郎 その話の後、釈迦は驚くべき告白をする。
二郎 釈迦はなんと言ったの?
太郎 釈迦は、次のように法華経で述べる。
「爾の時の王とは、則ち我が身是れなり。時の仙人とは、今の提婆達多是れなり」
二郎 提婆達多が、過去世において釈迦の師匠だったとは、驚いた。法華経は三世にわたる因縁を説いた不思議な経と言える。
太郎 ところが、日蓮大聖人の仏法の本義である法華経文底から見れば、さらに深い展開がある。
「御義口伝」の「提婆達多品八箇の大事」の「第一提婆達多の事」には、次のように書かれている。
「御義口伝に云く提婆とは本地は文殊なり、本地清凉と云うなり迹には提婆と云うなり天熱を示す是なり、清凉は水なり此れは生死即涅槃なり天熱は火なり是は煩悩即菩提なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るに煩悩即菩提生死即涅槃なり、提婆は妙法蓮華経の別名なり過去の時に阿私仙人なり阿私仙人とは妙法の異名なり阿とは無の義なり私無きの法とは妙法なり、文句の八に云く無私法を以て衆生に灑ぐと云えり阿私仙人とは法界三千の別名なり故に私無きなり一念三千之を思う可し云云」
二郎 日蓮大聖人が日興上人に口伝された甚深の法門だ。釈迦は、日蓮大聖人の説かれた南無妙法蓮華経によって成仏したんだ。
太郎 釈迦だけではない。諸仏もそうだ。
「されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う世界の人の父母の如し」(法蓮抄)
二郎 その南無妙法蓮華経を凡愚の身でありながら唱えている自分自身の今の姿は、稀有のことと言える。
太郎 寿量品の自我偈が無始無終の自受用身について説かれていることを、日蓮大聖人は日興上人に口伝されている。「御義口伝」には次のように認められている。
「第廿二自我偈始終の事
御義口伝に云く自とは始なり速成就仏身の身は終りなり始終自身なり中の文字は受用なり、仍つて自我偈は自受用身なり法界を自身と開き法界自受用身なれば自我偈に非ずと云う事なし、自受用身とは一念三千なり、伝教云く『一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり』云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云」
仏は無始無終の永遠の存在
二郎 無始無終については、どのように理解すればいいのだろう。太郎 それは難しい。できない。
二郎 譬え話もできない?
太郎 う〜ん。今、ハッブル宇宙望遠鏡で確認できる、地球からもっとも遠い天体は、およそ一二〇億光年の距離を隔てている。今、人間が見ているそのもっとも遠い星の光は、およそ一二〇億年前に発せられた光だ。二郎の目の前わずか一センチメートル先に飛ぶ虫を、申し訳ないが釈迦の法華経迹門の法理とし、一二〇億光年先の光源となっている恒星を、釈迦文上本門の法理としよう。法華経文底に説かれた無始無終の仏の境界からすれば、一二〇億光年先の天体と、二郎の目先の虫とは、日蓮大聖人が「観心本尊抄」に説かれた、
「一念三千殆んど竹膜を隔つ」
ということになる。
二郎 竹の中のごく薄い膜ほどの差でしかないんだ。無始無終から見れば、有始有終の長遠のように思える差も、その程度の隔たりでしかない。
太郎 ただし、それも譬喩の範囲と言える。無始無終と有始有終には、決定的な違いがある。
二郎 なるほど。
太郎 それでは、分別功徳品第十七に入るよ。ここでは、如来寿量品第十六の深遠な法話を聞き、法華経の会座に列なった者たちが喜んでいる姿が説かれている。代表して弥勒菩薩が釈迦に合掌し、偈をもって讃する。そこには次のように書かれている。
「是の如き種種の事は 昔より未だ曽て有らざる所なり 仏寿の無量なることを聞いて 一切皆な歓喜す 仏の名は十方に聞えて 広く衆生を饒益したまう 一切は善根を具して 以て無上の心を助く」
二郎 みんなが喜んでいるのは当然だね。仏が永遠の存在であるということがわかったんだから。
太郎 こうなってくると、いよいよもって歓喜して、この法華経を布教したくなる。法華経の会座はどんどん盛り上がる。
二郎 もっともなことだね。ところで地涌の菩薩は従地涌出品第十五において、法華経を滅後において弘める者として、地より六万恒河沙という莫大な人数をもって涌出してきたんだったよね。釈迦はこの法華経の会座において、もっとも重要な甚深の教えである如来寿量品第十六を説いた。そして今、分別功徳品第十七で、会座に集った者たちが喜んでいることもわかった。その後、釈迦は地涌の菩薩に対してどのようなことを言ったんだろう。
神力品の結要付嘱
太郎 如来神力品第二十一に、はっきりと書いてある。「爾の時、仏は上行等の菩薩大衆に告げたまわく、
『諸仏の神力は、是の如く無量無辺、不可思議なり。若し我れは是の神力を以て、無量無辺百千万億阿僧祇劫に於いて、嘱累の為めの故に、此の経の功徳を説かんに、猶お尽くすこと能わじ。
要を以て之れを言わば、如来の一切の有つ所の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、皆な此の経に於いて宣示顕説す』」
二郎 上行菩薩を代表とする地涌の菩薩に対して、釈迦より滅後において法華経を弘めるよう付嘱が行なわれたんだ。
太郎 これを結要付嘱という。
二郎 この結要付嘱は、虚空会において行なわれた儀式だね。
太郎 そのとおり。虚空会は嘱累品第二十二まで続く。その後、十方より来た諸仏が帰り、さらに霊鷲山で法華経の会座が行なわれる。霊鷲山・虚空会・霊鷲山と行なわれる法華経の会座は、二つの場所で三回の会座が展開されたことから二処三会と呼ばれている。
二郎 この虚空会における結要付嘱の感動が、末法の今の時代においても息づいている。それは、法華経を信ずる僕たちの心の中に熱いものとして確然とある。
太郎 同意だ。
法華経を説いたのは誰か
二郎 ところで、水をさすようで悪いんだけども、この法華経を釈迦が説いたものではないという、「大乗非仏説論」という学説があるね。前にも触れたと思うんだけど。太郎 そうだね。少しそのことについて話そうか。諸論はあるが、いちおう、釈迦滅後、百年から二百年経過したのち、仏教教団は保守的な上座部と進歩的な大衆部とに分裂したと言われている。これを根本分裂という。その後、二十ほどの部派に分裂したが、これを枝末分裂という。法華経を含めた大乗経は、そのような根本分裂、枝末分裂を重ねる中で作られたとするのが「大乗非仏説論」だ。そのような分裂の経過の所産として、法華経があるというんだ。
二郎 学者の考えとしては、法華経などの大乗教は釈迦が説いたものではないというんだ。
太郎 だけど法華経の内容をよくよく考えてみると、「大乗非仏説論」には馴染まないおかしなことに誰しもが気づくと思うよ。当然のことながら、分裂していく仏教の各派は、自分たちこそ釈迦の教えを正当に守っている者たちだと主張するのが自然だ。ところが法華経では、地涌の菩薩と釈迦を比較し、地涌の菩薩を百歳の翁として、釈迦よりもずっと勝れているとしている。この事実は極めて重要だ。
自分たちの正当性を誇る権威である釈迦それ自体を相対化し、未熟なものとして扱っている。みずからの部派の正当性を主張するために経を作出したというのであれば、このような法華経における会座の展開がなされるはずがない。このことは、法華経が釈迦本人によって語られたものであることを強く示唆している。
二郎 それはそうだね。仏教の始祖である釈迦を小者扱いしたのでは、自分たちの存立基盤を失うことになる。各部派は競合しているわけだから、そのような教えを作ったら自分たちの部派が滅びていくのは目に見えている。
太郎 さらに法華経が釈迦以外の者によって作出されたものだとしたら、釈迦の五百塵点劫における成道の記述も、もっと演出されたもので良いはずだ。
二郎 なるほどね。
太郎 逆に、二処三会のありさまも創作であるなら凝りすぎだし、多宝の塔や地涌の菩薩の登場の仕方もあまりに唐突だ。
二郎 このような内容を持った経を作り出せる者はいない。知らしめんとする確かなものがなければ、この法華経の展開はない。
太郎 だからこそ法華経は、厳然として今日まで存在した。その法華経を読み天台が自解仏乗し、伝教が自解仏乗し、そしてまた末法の御本仏として日蓮大聖人が自解仏乗された。そのことも事実だ。
二郎 法華経の会座には、ずいぶんたくさん人が集まっているね。霊鷲山だけでも何十万人という人が集まり、虚空会の儀式となると、もう宇宙規模の儀式になる。この儀式のありさまは、どう理解したらいいのだろうか。
太郎 法華経の会座は釈迦己心の儀式なんだ。仏の境界において、滅後に法華経を流布させんがために、釈迦の己心中において会座が開かれたんだよ。


