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第6章 一念三千法門

第5章 / もくじ / 第7章

法華経の会座における約束

太郎 日蓮大聖人は、天台法門との相対の上で御本尊と題目について、次のように仰せになっている。
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり、天台・妙楽・伝教・内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず、一色一香とののしり惑耳驚心とささやき給いて・妙法蓮華と云うべきを円頓止観と・かへさせ給いき」(草木成仏口決)
二郎 ここに「一念三千の法門」「円頓止観」と書かれているけど。
太郎 いずれも、天台の教えにおいてもっとも重要な、『摩訶止観』の「序」においてふれられ、巻第五上の「第七重 正修」で詳述されている。日蓮大聖人は天台の立てた法門である「理の一念三千」をまったく超過した法門を顕された。それは「事の一念三千」であり大曼荼羅の御図顕だ。
二郎 それを僕たちは、南無妙法蓮華経と唱えながら朝夕に拝することができるんだ。
太郎 日蓮大聖人は御本尊を顕し示されたことについて、次のように述べられている。
「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり」(日女御前御返事)
二郎 御本尊は「法華弘通のはたじるし」なんだ。間近に拝することのできる我々は勇猛歓喜して弘通に身命を惜しまないようにしなければならない。御本尊という諸仏渇仰の尊崇の対象を抱かしめていただきながら、そこで怯懦の思いを持つようでは日蓮大聖人の弟子とは言えない。
太郎 そうなんだ。そうなんだよ。我々は本当に生涯を通して日蓮大聖人の教法を高く掲げて生き抜かなければいけない。そこにこそ最高の人生の価値がある。
二郎 天台、伝教は南無妙法蓮華経を知っていて弘めなかったというが、その約束≠ヘ法華経に書かれているのだろうか。
太郎 法華経の会座における約束があるんだよ。天台、伝教の本地は薬王菩薩だ。法師品第十において、薬王は釈迦にこう言われているんだ。
「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり。薬王よ。此の経は是れ諸仏の秘要の蔵なり。分布して妄りに人に授与す可からず。諸仏世尊の守護したまう所なり。昔従り已来、未だ曽て顕説せず。而も此の経は、如来の現に在すすら猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや」
二郎 法師品第十は、法華経を本門、迹門と分けた場合、迹門にあたるね。迹化の菩薩の薬王の分々において、そのように言われたんだ。
太郎 だけど、念を押しておくけれども、法華経全体は釈迦滅後、とりわけ末法の法華経弘通のために説かれたんだ。だから、この教説の部分をも含めた迹門全体については、末法から見れば、さらに一層深い読み方ができることを言っておくよ。
二郎 わかった。だけどこの法師品第十に書いてあるように、法華経の真髄が「諸仏の秘要の蔵」であるが故に「分布して妄りに」与えてはいけないと、釈迦に薬王が念を押されていることは確かだ。だから薬王の化身である天台、伝教も法華経の肝心である南無妙法蓮華経を弘めることはしなかった。
太郎 天台、伝教は法華経が最勝であるということを、言を極め文を尽くして述べているけれども、その法華経の一大事については、述べることがなかったんだ。

『摩訶止観』と一念三千の法門

二郎 ところで、天台の教説のなかで重要なものはなんだろう。
太郎 前にも言ったとおり、天台には『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』がある。いずれも天台の講説を弟子の章安がまとめ筆録したものだ。日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり」(十章抄)
二郎 『摩訶止観』は法華経を開会して書かれたものなんだね。
太郎 その『摩訶止観』だけども、なかんずく巻第五上の「第七重 正修」が重要だ。
二郎 『摩訶止観』にはどのようなことが書かれているんだろう。
太郎 『摩訶止観』の序章には次のように書かれている。
「此止觀は、天台智者、己心中所行の法門を説きたまふ」
 止観は、このように天台が心の中で行じていた法門を説いたものなんだ。天台は南岳より三種の止観を伝えられたそうだ。一つには漸次止観、二つには不定止観、三つには円頓止観だ。天台は円頓止観を最重要なものとしている。
二郎 円頓止観とはどのようなものなの。
太郎 『摩訶止観』の序章において天台は円頓止観を次のように定義づけている。
「圓頓とは初めより實相を縁ず、境に造るに即ち中、眞實ならざること無し。縁を法界に繫け、念を法界に一うす、一色一香も中道に非ざること無し。己界及び佛界、衆生界も亦然り。陰入皆如なれば苦の捨つ可き無く、無明塵勞即ち是れ菩提なれば集として斷ず可き無く、邊邪皆中正なれば道として修す可き無く、生死即ち涅槃なれば滅として證す可き無し。苦無く集無し、故に世間無く、道無く滅無し、故に出世間無し。純一實相にして實相の外更に別の法無し。法性寂然なるを止と名け、寂にして常に照すを觀と名く。初後を言ふと雖も二無く別無し。是れを圓頓止觀と名く」
 円頓とは、最初から実相に縁するというんだ。そのような境界に立てば、一色一香もすべてが中道で、心も仏も衆生も、また同じなんだ。そこでは無明は即ち菩提であり偏りもなければ 邪もない。みな、中正であれば道として修めるものもない。生死が涅槃と同じであれば、生滅を問題にする境界でもない。そこにおいてはすべての差別もない。ただただ実相にして、実相の他の別の法は一切ない。法性が「寂然」としていることを「止」といい、「寂」に対して常に照らしている様を「観」と名づく。初めと後ろを言ったとしても、それは二つでもなく、別でもない。これらの境界に立つことを円頓止観と名づけるんだ。

開かれた如意宝珠の蔵

二郎 ここに書かれた円頓止観は、すぐ悟りの境界に入れるということが書かれているけれども、どのようにしたら円頓止観の悟りを得ることができるのだろうか。
太郎 そのことは『摩訶止観』の巻第五の上の「第七重 正修」に書かれている。正しく止観を修めるという意味だ。
二郎 どのように書かれているんだろう。
太郎 天台が『摩訶止観』のこの「第七重 正修」を説くにあたり、その気概を述べているので紹介しよう。
「而して復佛の慈悲を學び、諸の慳悋無うして止觀を説き、彼に施す者は、即ち是れ門を開き藏を傾けて如意珠を捨るなり。此珠光を放ちて而も復寶を雨ふらす、闇を照し乏しきを豐にし、夜を朗かにし窮を濟ふ」
 仏の慈悲に学んで蔵を傾けて、その中の如意珠を捨てるように人々に与えると天台は宣言しているんだ。如意珠は宝をふらし、夜を明るくし、貧しきを救うんだ。天台の気概はすごい。
二郎 ところで、先ほど兄さんが重要だと言った『摩訶止観』巻第五上の「第七重 正修」にはどのようなことが書かれているの?
太郎 心と仏と衆生とに差別がないという、その生命をどのように感得し悟りの境地に入るのかということをテーマとして挙げている。このために天台は生命を覚悟する最適な方法の一つとして生命を「不可思議境」と位置づけ、「不可思議境」としての生命について、さまざまな解析をする。
二郎 生命を「不可思議境」として位置づけることによって、生命を捉えようとしたんだね。つまり、心と仏と衆生とに差別がないという生命そのものに対する思議を試みようとしているんだね。
太郎 そうなんだ。「不可思議境」としての生命の実体を把握するために、様々な理論を展開するんだ。その一つとして、心には十法界、すなわち「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」「人界」「天界」「声聞界」「縁覚界」「菩薩界」「仏界」という十の法界があり、その十の法界に三つの世間があるとする。
二郎 三つの世間とはなに?
太郎 生命には三つの隔たりがあるということを見出せると分析し、「五陰世間」「衆生世間」「国土世間」という概念を示す。
二郎 五陰世間とはなんなの?
太郎 五陰世間とは「色」「受」「想」「行」「識」のことをいう。
「色」とは、肉体など色や形のある物質的、現象的な側面。「受」とは、六つの知覚器官である六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)を通して外界にあるものを受け入れる心の感覚作用。「想」とは、受け入れたものを知覚し、心に思い浮かべる作用。「行」とは、「想」に基づいて起こる意思や行動の善悪に関するあらゆる心の作用のこと。「識」とは、ものごとを認識し識別し判断する心の作用のことで、また受・想・行の作用を起こす根本の意識のことをいう。
 その「色」「受」「想」「行」「識」のありようは、十界においてそれぞれ違う。
二郎 人間の生命には確かにそのようなありようがあるね。
太郎 その五陰が仮に和合したものが衆生なんだ。その五陰仮和合の衆生という観点から見た時にも、その衆生には十界というそれぞれの差別がある。
二郎 たしかにそうだ。苦しんでいる者もいれば、悩んでいる者もいる。喜んでいる者もいれば、人を助けようとしている者もいる。仮に「色」「受」「想」「行」「識」の五陰が和合して人間ができているとしても、その作用の仕方は大きな違いがあるね。
太郎 国土世間とは、その十界の衆生が住む場所に世間としての違いがあることを述べている。
二郎 たしかに、地獄のような悩みをもった人は、そこから永久に出られないような気がする国土に住んでいるし、喜びに浮かれている者は宮殿に住んでいるような思いがするだろう。
太郎 如来は常寂光土に住んでいると天台は述べているよ。
二郎 なるほどね。

方便品に説かれた十如是の意味とは

太郎 先に十法界を述べたけれども、その十法界にはそれぞれ三つの世間があったわけだから、全体で三十の世間がある。さらに、天台は十の法界による十種の五陰世間にはそれぞれに十法があるとしている。十法は、十如是のことだ。二郎は十如是は知っているだろう?
二郎 当然、知っているよ、先ほども話に少し出ていた。方便品の始めの長行の最後のところに書いてあり、毎日読経しているからね。「如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等」のことだ。
太郎 これもまた心のありようを示されている。そのように心のありようを述べながら、天台は『摩訶止観』に次のように述べている。
「夫れ一心に十法界を具し、一法界に又十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。此三千は一念の心に在り、若し心無くんば而已なん、介爾も心有らば即ち三千を具す」
二郎 ああ、だから一念三千というんだ。一瞬の生命に三千の生命のありようがあることを論証しているんだ。
太郎 天台はこの後、次のように述べているよ。
「一心從り一切の法を生ぜば、此れ即ち是れ縱なり、若し心、一時に一切の法を含まば、此れ即ち是れ横なり、縱も亦可ならず、横も亦可ならず。秪、心は是れ一切の法、一切の法は是れ心なるなり。故に縱に非ず、横に非ず、一に非ず、異に非ず、玄妙深絶にして識の識る所に非ず、言の言ふ所に非ず。所以に稱して不可思議境と為す。意此に在るなり云云」
二郎 どういうことなの?
太郎 書いてあるとおりだよ。一心によって次々と一切の法が生じるというのであればこれは縦、もし一時の心に一切の法を含むというならばこれは横、という定義をして見ていくんだ。そのうえで、一心と一切法との関係は縦でも横でもないというんだ。この場合の一心は、一瞬の生命と考えたほうがよい。つまり、一瞬の生命は一切の法でもなければ、一切の法が一瞬の生命でもない。生命と一切の法は、一つでもなければ、異なるものでもなく、「玄妙深絶」にして、識ることができず、言葉の及ばないことだと言っている。要はここで「心」と表現されている生命は不可思議の境≠ネんだ。結論として「心」すなわち生命は、考えることによって把握できないものであるということを論証しているんだ。
二郎 じゃあ、天台は、考えてもわからないということを論証しているの?
太郎 そうなんだよ。心と仏と衆生に差別がないという生命そのものが、いかに人間にとって身近な心のありようをもって考えても、不可思議の境≠ナあるということを述べているんだ。
二郎 よくわかった。考えてもわからないということがよくわかった。
太郎 天台はまだあきらめないよ。今度は四句推検という思考方法をもって、心を捉えようとするんだ。
二郎 ……。
太郎 じゃあ、四句推検に入ろう。
二郎 ……。
太郎 どうした?
二郎 兄さん、もういいよ。答えはだいたいわかったよ。思議できないと結論するんだろう。
太郎 ……。
二郎 そうじゃないの?
太郎 そうなんだよな。天台は言っているよ。
「當に知るべし、四句に心を求むるも不可得なり、三千の法を求むるも亦不可得なり」
二郎 そうだと思った。
太郎 『摩訶止観』においては天台は四句推検に基づいても、一念三千に基づいても、生命はわからないと結論づけている。天台は、はっきりと言っているよ。
「言語の道斷え、心行の處滅す、故に不可思議境と名く」

一心三観の修法をうかがう

二郎 本当にもういいよ。兄さん。
太郎 日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「一心三観と申すは余宗は如是とあそばす是れ僻事にて二義かけたり天台南岳の御義を知らざる故なり、されば当宗には天台の所釈の如く三遍読に功徳まさる、第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義なるが故に十法界・皆空諦なり是を読み観ずる時は我が身即・報身如来なり八万四千又は般若とも申す、第二に如是相・是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界・皆仮諦と申して仮の義なり是を読み観ずる時は我が身即・応身如来なり又は解脱とも申す、第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身・般若・解脱の三徳とも申す此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す」(一念三千法門)
二郎 じゃあ、その一心三観について教えてよ。
太郎 これもまた難しいんだよな。ただし概念としては非常にわかりやすいよ。
「若し、一心一切心、一切心一心、非一非一切、一陰一切陰、一切陰一陰、非一非一切、一入一切入、一切入一入、非一非一切、一界一切界、一切界一界、非一非一切、一衆生一切衆生、一切衆生一衆生、非一非一切、一國土一切國土、一切國土一國土、非一非一切、一相一切相、一切相一相、非一非一切、乃至一究竟一切究竟、一切究竟一究竟、非一非一切なりと解すれば、徧く一切に歷 て、皆是れ不可思議境なり」
二郎 さっぱりわからない。
太郎 一つだけ例にとるよ。「一心一切心、一切心一心、非一非一切」という一つのくくりを見ていこう。あとはその繰り返しだから。先ほど一心に三千の世間があるということは二人で話し合ったよね。
二郎 一念三千だね。
太郎 その一瞬の一心に三千のすべての一切心があるとする。また三千のすべての一切心に一心があるとする。心は一心でもなく一切心でもないと、天台は言う。これらの三つの考え方は、一瞬の生命において互いに矛盾せず円融円満にして具足していると観ることが大事だということを説いているんだ。このような思考パターンを繰り返して、この『摩訶止観』の文を順次読んでいき理解することができれば、一切が「不可思議境」である。
二郎 ああ、そう。
太郎 先に引いた『摩訶止観』の文を意訳すると次のようになる。
「『一心が一切心で、一切心が一心で、一心でもなく一切心でもない』『一陰が一切陰で、一切陰が一陰で、一陰でもなく一切陰でもない』『一入が一切入で、一切入が一入で、一入でもなく一切入でもない』『一界が一切界で、一切界が一界で、一界でもなく一切界でもない』『一衆生が一切衆生で、一切衆生が一衆生で、一衆生でもなく一切衆生でもない』『一国土が一切国土で、一切国土が一国土で、一国土でもなく一切国土でもない』『一相が一切相で、一切相が一相で、一相でもなく一切相でもない』あるいは『一究竟が一切究竟で、一切究竟が一究竟で、一究竟でもなく一切究竟でもない』。このようにもしそれぞれについて具に解れば、すべてが不可思議境である」
二郎 兄さん、もういいよ。三つの考え方が互いに融通して一瞬の生命に存在しているということなんだね。しかしこれもわかりづらいことに変わりはない。
太郎 次に一心三観が出るから、もう少し我慢して。『摩訶止観』は次のように続く。
「若し、法性無明合して一切法陰界入等有らば即ち是れ俗諦なり、一切の界入是れ一法界ならば即ち是れ眞諦なり、非一非一切は即ち是れ中道第一義諦なり。是の如く徧く一切の法を歷 るに、不思議の三諦に非ざること無し云云。一法一切法なるがごときは即ち是れ因縁所生の法、是を假名と爲す、假觀なり。一切法即ち一法なるがごときは我説即是空、空觀なり。若し非一非一切ならば即ち是れ中道觀なり。一空一切空、假、中として而も空ならざる無く、總て空觀なり。一假一切假、空、中として而も假ならざる無く、總て假觀なり。一中一切中、空、假として而も中ならざる無く、總て中觀なり。即ち『中論』に説く所の、不可思議の一心三觀なり、一切の法に歷 るも亦是の如し」
二郎 ますますもって、わからなくなる。空仮中の三諦が円融だということを認識すればいいんだ。だけど、ここでも「不可思議の一心三観」という結論にしかならないんだ。
太郎 そうなんだ。天台は、この『摩訶止観』で「不可思議境」について次のようにも言っているよ。
「此不思議の境に何の法をか収めざらん。此境、智を發す、何の智か發せざらん。此境に依つて誓を發す、乃至、法愛無し、何の誓か具せざらん、何の行か滿足せざらん耶。説く時は上の次第の如し、行ずる時は一心の中に一切の心を具す云云」
「不思議境」は、あらゆる智慧を発するのみならず、あらゆる誓をも発する。法に対する愛執は「不可思議境」により失せ、「不可思議境」がすべての誓とすべての行をも満足させると、天台は説く。「不可思議境」は、心と仏と衆生に差別がないとする生命の実相そのものと冥合している、との考えにも通じていると言える。
二郎 ところで、その実体はなんなの?
太郎 それがわかれば悟りの境界だよ。薬王たる天台は、法華経の会座に列なっていたことにより、それを感得していたんだ。
二郎 わかっているなら、言ってくれればいいのに。
太郎 「不可思議境」は、天台も言語をもって説明できないと言っているんだから無理だよ。
二郎 そう言われてもね。

起滅ともに法性なり

太郎 また天台はね、この『摩訶止観』において「善く巧みに心を安んぜよ」と、次のように述べている。
「善巧安心とは、善く止觀を以て法性を安んずるなり。上に深く不思議境の淵奥微密なるに達し、博く慈悲を運んで亘蓋すること此のごとし」
 法性とは、生命の本質にある揺るぎない性分のことだよ。仏性ともいえるし、真如、実相ともいえる。諸法と実相が二にして一なるものを法性という。衆生は法性の妙理によって、成仏することが可能なのだ。
二郎 天台は止観をもってすれば、その法性において安んずることができると述べているということ?
太郎 そう。天台は止観をもって法性を見つめるならば悟りの境界に立ち、あまねく人々に慈悲を与えられると述べていると言えるんだ。
二郎 だけど、この法性というのは、なんだか漠然としてつかみがたいものがあるね。
太郎 天台はこの『摩訶止観』巻第五で次のようにも言っている。
「無明癡惑も本是れ法性、癡迷を以ての故に、法性變じて無明と作り、諸の顚倒善不善等を起すなり。寒の來つて水を結び、變じて堅氷と作すが如く、又、眠の來つて心を變じ、種種の夢有るが如し。今當に諸の顚倒は即ち是れ法性なり、一ならず異ならずと體すべし。顚倒起滅すと雖も旋火輪の如し、顚倒起滅を信ぜず、唯此心は但是れ法性なりと信ず。起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅、其を體すれば實に起滅せざるに、妄りに起滅すと謂ふ。妄想を指すに悉く是れ法性、法性を以て法性に繫け、法性を以て法性を念ず、常に是れ法性なり、法性ならざるの時なし。體達に成ずれば妄想を得ず、亦法性を得ず、源に還り本に返り、法界倶に寂なり、是を名けて止と爲す。此の如く止する時、上來の一切の流転皆止む。觀とは、無明の心は上は法性に等しく本來皆空、下は一切の妄想善惡に等しくして皆虚空の如く、二無く別無しと觀察するなり」
二郎 ここは日蓮大聖人の自解仏乗について話した時に出た箇所だね。
太郎 そうだった。本来、生命の本質的な性分は、起きた、あるいは滅していたということはない。それなのに、ただみだりに起滅を言っているだけだというんだ。このように見ていくならば、宇宙の森羅万象の一切の境界は澄み切ったような静かなものとして捉えられる。その境界においてみれば、無明という迷いの心すらも悟りの法性と等しい。無明も法性も別々のものではないと見る。
二郎 そのように見るという理はわかるけど、末代幼稚の我々に、実感としてそれを「止観」しろというのはとうてい無理なことのように思えるよ。
太郎 たしかにかなり難しい。不可能に近いかもしれない。
二郎 天台の言っていることは、飛行機の設計図を見せて、世界中どこへでも行っていいよと言ってるようなもんだよ。
太郎 ……。
二郎 米もないのに、ご飯の炊き方を教えているようなもんだよ。
太郎 ……。
二郎 天台は帝室の師だったよね。
太郎 天台は陳、隋の帝王の師だった。
二郎 天台は宮廷料理とか食べてたのかな?
太郎 わからない。
二郎 天台が宮廷料理の調理法を書いた本を難民救済だといって、難民キャンプに持っていったら、国際問題になると思うよ。
太郎 ……(こういう展開は予想外だった!?)。

天台が説こうとしたのは妙法

二郎 この天台の理論で成仏しろというのでは、仏の慈悲は、あってなきが如しだ。天台よりも法華経によって地域の人を励ましている一人の婦人のほうが素晴らしいと思うよ。
太郎 いや、だから末法の法華経を天台も恋慕し、「後の五百歳、遠く妙道に沾ふ」(法華文句)とみずから述べているんだ。
二郎 天台の思いはわかるね。それほど日蓮大聖人の仏法はありがたい教えなんだ。
太郎 だけど天台は、法華経を最勝のものとして末法に伝える使命を担っているんだ。そこで天台は、懸命に不可思議なものを説明しようとしているといえる。先ほども出たけれども、日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「妙法の二字は玄義の心は百界千如・心仏衆生の法門なり止観十巻の心は一念三千・百界千如・三千世間・心仏衆生・三無差別と立て給う、一切の諸仏菩薩十界の因果・十方の草木・瓦礫等・妙法の二字にあらずと云う事なし」(唱法華題目抄)
二郎 なんということだ。天台は妙法を『摩訶止観』で言を尽くして、ただそのことを説明していたんだ。
太郎 そうなんだよ。「不可思議境」を通して、境智の二法が二にして一である妙法のことをわからせようと、天台は『摩訶止観』を説いたんだ。
二郎 それじゃ大変だ。

太郎そう新鮮に感心されても困るんだけれども。
二郎どういうこと?
太郎このことを明確に示す御書を、これまで二人で話をしてきた中で、すでに二郎に教えてあったんだけれども。
二郎どこで教わったかな。
太郎日蓮大聖人の自解仏乗について話し合った時だよ。
二郎先ほどの「起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅」という『摩訶止観』は覚えていたんだけれども、そんなに重要な御書を忘れたかな?
太郎日蓮大聖人曰く。
「妙法の名字を替えて止観と号し一念三千・一心三観を修し給いしなり」(当体義抄)
二郎 完全に忘れてた。

天台もまた自解仏乗

太郎 天台も苦労したんだ。誰も法華経の深義について教えてくれる者がいなかったんだ。そこで、懸命に諸経を研究し、法華最勝の結論を導き出した。その自解仏乗の様子について、日蓮大聖人は次のように述べられている。
「梁の末・陳の始に智法師と申す小僧出来せり、南岳大師と申せし人の御弟子なりしかども師の義も不審にありけるかのゆへに一切経蔵に入つて度度御らんありしに華厳経・涅槃経・法華経の三経に詮じいだし此の三経の中に殊に華厳経を講じ給いき、別して礼文を造りて日日に功をなし給いしかば世間の人おもわく此人も華厳経を第一とおぼすかと見えしほどに法雲法師が一切経の中に華厳第一・涅槃第二・法華第三と立てたるがあまりに不審なりける故に・ことに華厳経を御らんありけるなり、かくて一切経の中に法華第一・涅槃第二・華厳第三と見定めさせ給いてなげき給うやうは如来の聖教は漢土にわたれども人を利益することなしかへりて一切衆生を悪道に導びくこと人師の悞によれり、例せば国の長とある人・東を西といゐ天を地といゐいだしぬれば万民は・かくのごとくに心うべし、後にいやしき者出来して汝等が西は東・汝等が天は地なりといはば・もちうることなき上我が長の心に叶わんがために今の人を・のりうちなんどすべしいかんがせんとは・おぼせしかども・さてもだすべきにあらねば光宅寺の法雲法師は謗法によつて地獄に堕ちぬとののしられ給う、其の時・南北の諸師はちのごとく蜂起しからすのごとく烏合せり、智法師をば頭をわるべきか国ををうべきかなんど申せし程に陳主此れを・きこしめして南北の数人に召し合せて我と列座してきかせ給いき」(報恩抄)
二郎 天台も、やはり法華最勝を言い出したために、悪比丘らの瞋りをかったんだ。
太郎 だけど、陳の国王の前で、公場対決をしたことによって、法華最勝の義を打ち立てることができた。
二郎 その法華最勝を公の場で示した天台が、出世の本懐の書とも言える『摩訶止観』において、妙法を言説したんだ。
太郎 そのことは、天台の正意を汲んだ弟子の章安や妙楽も述べている。その妙楽や章安の釈を引いて、日蓮大聖人は次のように述べられている。
「されば薬王品に仏・宿王華菩薩に対して云く『譬えば一切の川流江河の諸水の中に海為れ第一なるが如く衆山の中に須弥山為れ第一・衆星の中に月天子最も為れ第一』等云云、妙楽大師の釈に云く『已今当説最為第一』等云云、此の経の一字の中に十方法界の一切経を納めたり、譬えば如意宝珠の一切の財を納め虚空の万象を含めるが如し、経の一字は一代に勝る故に妙法蓮華の四字も又八万法蔵に超過するなり、妙とは法華経に云く『方便の門を開いて真実の相を示す』、章安大師の釈に云く『秘密の奥蔵を発く之を称して妙と為す』、妙楽大師此の文を受けて云く『発とは開なり』等云云、妙と申す事は開と云う事なり世間に財を積める蔵に鑰なければ開く事かたし開かざれば蔵の内の財を見ず」(法華経題目抄)
二郎 「如意宝珠」「虚空」に、すべてが含まれているように、「妙法蓮華」の四文字にも八万法蔵を超えるものが含まれているんだ。天台の一門は、その妙法の素晴らしさをわからせようとして、さまざまな釈を述べたんだ。

『摩訶止観』は天台一期の大事

太郎 天台は慈悲のゆえに、仏法を極めた結晶としての『摩訶止観』を世に残したんだ。日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事・一代聖教の肝心ぞかし、仏法漢土に渡つて五百余年・南北の十師・智は日月に斉く徳は四海に響きしかどもいまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷惑してこそ候いしが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給うのみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」(兄弟抄)
二郎 天台が釈迦の教えの浅深、勝劣などをはっきりさせ、法華経の中から一念三千という「如意宝珠」を取り出して、インド、中国、日本の衆生に与えたんだとおっしゃっているんだね。
太郎 加えて日蓮大聖人は、次のように仰せになっているよ。
「此の法門は漢土に始るのみならず月氏の論師までも明し給はぬ事なり、然れば章安大師の釈に云く『止観の明静なる前代に未だ聞かず』云云、又云く『天竺の大論尚其の類に非ず』等云云、其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし、此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」

一切衆生に仏性が備わる

二郎 天台の一念三千法門は、日蓮大聖人の教法につながる重大法門なんだね。とはいえ、兄さん、僕は思うんだけど、日蓮大聖人がいなければ一念三千法門は残らなかったと思うよ。また、日蓮大聖人の教法においては、一念三千法門は、すべての衆生に仏性があるという根拠として使われている。その点では、天台の『摩訶止観』における元意を超えたところで、日蓮大聖人はみずからの法門を展開される上で援用されているように思うよ。
太郎 そのことは日蓮大聖人が明確に御書の中で述べられている。
「天台大師は玄・文・止観に秘せんと思召ししかども末代の為にや止観・十章・第七正観の章に至りて粗書かせ給いたりしかども薄葉に釈を設けてさて止み給いぬ、但理観の一分を示して事の三千をば斟酌し給う」(太田左衛門尉御返事)
二郎 天台は懸命に妙法を説明したけれども、それは、薄葉に乗っかる程度のもので、日蓮大聖人の事の一念三千の「理観の一分」を示すに過ぎなかったんだ。
太郎 そのとおりだよ、二郎。日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり、此の十如是が百界にも千如にも三千世間にも成りたるなり」(十如是事)
二郎 日蓮大聖人は、人々が「本覚の如来」であるということを証明するために一念三千法門を説かれているんだ。
太郎 そうそう。人間一人びとりが、法身如来、報身如来、応身如来の「三身即一」の「本覚の如来」であるということを証明するために、天台の一念三千法門を援用されている。日蓮大聖人はこの御書で、三如是を次のように述べられている。
「始の三如是を本とし終の七如是を末として十の如是にてあるは我が身の中の三諦にてあるなり、此の三諦を三身如来とも云へば我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり」
二郎 今、十如是ということが出たけれども、十如是は方便品第二に書かれているよね。そろそろ僕たちは、釈迦の説いた法華経について語るという原点に戻ったほうがいいと思うよ。
太郎 そうだね。その法華経に入る前に、今まで二人で話し合ったことを種々、確認しておくよ。
二郎 そうだね。
太郎 法華経という経は、インドの釈迦によって説かれ、鳩摩羅什(羅什三蔵)などによって訳され、中国に渡り朝鮮半島を経て、日本にもたらされた。
二郎 そうだったね。
太郎 その法華経を読み、自解仏乗したのが天台で、その天台の『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』を読んで法華最勝を知り、やはり自解仏乗したのが日本の伝教だ。日蓮大聖人も法華経によって自解仏乗された。
二郎 天台も、伝教も、日蓮大聖人も、その教法の源は法華経に直接あるように思われる。
太郎 法華経という経自体が日本に伝播してきた流れと、悟りの系譜はまったく違う。法華経の悟りは、天台、伝教、日蓮大聖人の自解仏乗によってなされた。悟りというものは、経の伝播とは違い、それぞれの時代の仏、菩薩によって自解仏乗されたんだ。
二郎 だからここで、法華経それ自体に立ち入ってみようよ。
太郎 たしかにそうだ。日蓮大聖人は薬王菩薩本事品第二十三の次の文をたえず引用され、法華最勝を述べられている。
「一切の諸の経法の中に於いて、最も為れ第一なり。仏は為れ諸法の王なるが如く、此の経も亦復た是の如く、諸経の中の王なり」
 また御書においても次のように仰せになっている。
「法華経は一代の一切経の中の王たるのみならず・三世十方の一切の諸仏の所説の中の大王なり」(破良観等御書)