法華最勝が伝教の本意
二郎 ところで、この後の伝教はどうなるの?太郎 日蓮大聖人は、「撰時抄」において次のように仰せになっている。
「伝教大師は日本国にして十五年が間・天台真言等を自見せさせ給う生知の妙悟にて師なくしてさとらせ給いしかども、世間の不審をはらさんがために漢土に亘りて天台真言の二宗を伝へ給いし時漢土の人人はやうやうの義ありしかども我が心には法華は真言にすぐれたりとをぼしめししゆへに真言宗の宗の名字をば削らせ給いて天台宗の止観・真言等かかせ給う、十二年の年分得度の者二人ををかせ給い、重ねて止観院に法華経・金光明経・仁王経の三部を鎮護国家の三部と定めて宣旨を申し下し永代・日本国の第一の重宝・神璽・宝剣・内侍所とあがめさせ給いき」
二郎 伝教は法華最勝がわかっていたんだけれども、当時は唐に学び、それなりの師に教えを受けていなければ信用されなかった。まさか自解仏乗したとも自分からは言えないしね。そこで伝教は、世間の不審を晴らし法華最勝の立場をより一層強固にするために、わざわざ中国にまで渡ったんだ。
太郎 そうなんだ。そのことについてはあとでもう少し詳しく話そう。
二郎 「十二年の年分得度の者二人ををかせ給い」とはどういうこと?
太郎 伝教は天台宗を開創するにあたり年分得度を定めた。このことについて日蓮大聖人は、伝教の著した「学生式」を引用し、次のように仰せになっている。
「学生式に云く伝教大師作なり『天台法華宗年分学生式一首年分度者の人柏原先帝天台法華宗伝法者に加えらる凡そ法華宗天台の年分は弘仁九年より叡山に住せしめて一十二年山門を出さず両業を修学せしめん、凡そ止観業の者○凡そ遮那業の者』等云云、顕戒論縁起の上に云く『新法華宗を加えんことを請う表一首、沙門最澄○華厳宗に二人天台法華宗に二人』等云云、又云く『天台の業に二人一人大毘盧遮那経を読ましめ一人摩訶止観を読ましむ』此等は天台宗の内に真言宗をば入れて候こそ候めれ、嘉祥元年六月十五日の格に云く『右入唐廻て請益す伝灯法師位円仁の表に偁く、伏して天台宗の本朝に伝わることを尋ぬれば○延暦廿四年○廿五年特天台の年分度者二人を賜う一人は真言の業を習わし一人は止観の業を学す○然れば則ち天台宗の止観と真言との両業は是れ桓武天皇の崇建する所』等云云、叡山にをいては天台宗にたいしては真言宗の名をけづり・天台宗を骨とし真言をば肉となせるか」(法門申さるべき様の事)
この御書を拝すると、伝教は止観業(『摩訶止観』を専門に修学)と遮那業(大毘盧遮那経を専門に修学)を置き、その各業に一年に一名ずつの僧侶を登用することにした。その僧たちは十二年間、延暦寺から下山することが許されなかった、ということがわかる。
二郎 今では、想像もできないような厳しさだね。当初の天台宗の僧は、比叡山においてこれほど厳しい修行をすることを課せられていたんだ。
太郎 伝教は止観業と遮那業を定めたが、伝教の本意が止観業にあったのは間違いない。
二郎 法華最勝がわかっている伝教だから、そうだよね。
太郎 ここで伝教の主な著作も紹介しておこう。
弘仁九(八一八)年、五十二歳の時に『守護国界章』を著している。これは法相宗の徳一法師が、その著で伝教の主張する法華最勝を批判したことに対し、それを破折したものだ。
次に弘仁十(八一九)年、五十三歳の時、伝教は戒壇建立の勅許を願い出たが、南都六宗の僧らはその不可を表明し論難した。これらに反駁するため『顕戒論』を著した。続いて弘仁十二(八二一)年、五十五歳の時、亡くなる前年に『法華秀句』を著した。内容は法華経の秀句を十種集め、諸経より法華経の勝れていることを述べている。
二郎 これら代表的な伝教の著書は、いずれも法華最勝を述べた著述ばかりだ。
中国と日本の法華最勝の師たち
太郎 さて、日蓮大聖人は天台、伝教の関係について、次のように仰せになっている。「日蓮は諸経の勝劣をしること華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の弘法にすぐれたり、天台・伝教の跡をしのぶゆへなり」(開目抄)
二郎 日蓮大聖人は天台、伝教のように諸経の勝劣を明確に知っていると述べられている。これは、日蓮大聖人が法華最勝の立場にあることを述べられているんだね。
太郎 また日蓮大聖人は、「顕仏未来記」「観心本尊抄」において次のように仰せになっている。
「安州の日蓮は恐くは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通す三に一を加えて三国四師と号く」(顕仏未来記)
「夫れ仏滅後に至つて一千八百余年・三国に経歴して但三人のみ有つて始めて此の正法を覚知せり所謂月支の釈尊・真旦の智者大師・日域の伝教此の三人は内典の聖人なり、問うて曰く竜樹天親等は如何、答えて曰く此等の聖人は知つて之を言わざる仁なり、或は迹門の一分之を宣べて本門と観心とを云わず或は機有つて時無きか或は機と時と共に之れ無きか、天台伝教已後は之を知る者多多なり二聖の智を用ゆるが故なり」(観心本尊抄)
二郎 日蓮大聖人は釈尊、天台、伝教そして御自身のことを指して、インド、中国、日本における法華経の師と自認されている。日蓮大聖人より伝教はこのように言われているが、伝教自身は天台についてどのように述べているのだろうか。
太郎 伝教は、四十六歳の時に著した『依憑集』で、
「今吾が天台大師法華経を説き、法華経を釈すること群に特秀し、唐に独歩す。明らかに知んぬ、如来の使なり。讃むる者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開く」
と述べている。この『依憑集』の文は日蓮大聖人が「報恩抄」「大夫志殿御返事」で引用されている。
二郎 伝教は、天台を如来の使いであるとし、天台を讃むる者は福があり謗る者は罪を無間に開くと述べているんだね。
太郎 伝教は天台の教えに順じ、法華経が最勝であるとし、法華経を弘通することに大変な誇りをもっていた。伝教の著した『法華秀句』には次のように書かれている。
「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり天台大師は釈迦に信順して法華宗を助けて震旦に敷揚し叡山の一家は天台に相承して法華宗を助けて日本に弘通す」
この『法華秀句』の文も「顕仏未来記」「法華行者逢難事」「報恩抄」「釈迦一代五時継図」において日蓮大聖人が引用されている。
二郎 「浅きを去つて深きに就く」という言葉には重いものがあるね。しかも、その深い法華経を持つことは難しいと述べられている。
太郎 伝教はこの自著『法華秀句』において、「天台に相承し」と述べている。「相承」とは、そういうものなんだ。本人たちが直接、会うことは必要条件ではない。
二郎 ところが、伝教は天台の意志を汲み、難しいとされる法華経を日本に弘通することを宣言したんだ。この伝教の志をめでられて、日蓮大聖人はこの『法華秀句』の文を引用されているんだね。
太郎 そうなんだ。
伝教は自解仏乗した後に入唐した
二郎 伝教が唐に行った時の行程は、どのようなものだったんだろう。太郎 伝教は延暦二十三(大唐貞元二十、西暦八〇四)年七月に日本を発ち、二カ月後の九月一日に唐に着いた。帰朝したのは延暦二十四(大唐貞元二十一、西暦八〇五)年六月だった。その間、伝教は竜興寺の道邃和尚より妙楽の「台教」を伝受され、円教の秘書を書写することを許され、一心三観、一念三千の法門を教わっている。また、天台山仏隴寺(または仏滝寺ともいう)の行満座主より、奥義を口決されたという。
二郎 伝教が唐に行った時の通交状態は、どうだったのだろうか?
太郎 遣唐使は命がけだった。この延暦二十三(八〇四)年には、四艘の遣唐使船が派遣されている。そのうち第一船には空海(のちの弘法)が乗っており、この船は目的地よりもはるかに南下した福州という場所に漂着し、空海はなかなか上陸を許されず、大変だったようだ。
第二船には伝教が乗っていた。これは無事着いた。第三船は、渡航に失敗し一度九州に戻り、翌年、再出発したが難破した。第四船の遣唐使の船はまったく行方不明となった。おそらくは海の藻屑と消えてしまったんだろう。
二郎 船の転覆次第で日本仏教界の様相が変わっていたんだね。
太郎 そういうことになるなぁ〜。
二郎 優秀な人材が思いを遂げずに死んでしまったんだ。
太郎 伝教の話に戻るよ。日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「人王第五十代・桓武天皇の御代に最澄と申す小僧あり後には伝教大師と号す、此の人入唐已前に真言宗と天台宗の二宗の章疏を十五年が間・但一人見置き給いき、後に延暦二十三年七月に漢土に渡り・かへる年の六月に本朝に著かせ給いて、天台・真言の二宗を七大寺の碩学数十人に授けさせ給いき」(妙密上人御消息)
二郎 日蓮大聖人は、伝教の入唐の歳月について把握していらっしゃった。
天台、伝教は「薬王菩薩の化身」
太郎 いや、それだけではないよ。日蓮大聖人は伝教と行満との関係についても次のように述べられている。「伝教大師は延暦二十三年の御入唐・霊感寺の順暁和尚に真言三部の秘法を伝う、仏滝寺の行満座主に天台止観宝珠を請け取り顕密二道の奥旨を極め給いたる人」(善無畏抄)
「行満座主伝教大師を見て云く『聖語朽ちず今此の人に遇えり我れ披閲する所の法門日本国の阿闍梨に授与す』等云云」(呵責謗法滅罪抄)
二郎 伝教が天台の説いた教えを受けたとする中国の「行満座主」とはどういう人なの?
太郎 その人は、天台法華宗の中興の祖とされる妙楽大師の高弟だよ。
二郎 伝教は会って間もない「行満座主」から、いきなり相承を受けることができたというのだからすごいね。相承とやらをやたら隠したがる宗派が多いけれども、民衆救済の根本法である仏法は、そういうものじゃないんだ。それにしても行満は、初対面の伝教にどうしてそこまでの甚深の法を教えたのだろう。
太郎 伝教が大変な境界にあることがわかったからこそ、「行満座主」は「奥義」を授けた。
二郎 そういうことなんだ。
太郎 同じく妙楽大師の弟子の「道邃和尚」もそうだった。そのことについて日蓮大聖人は、次のように仰せになっている。
「日本の伝教大師比叡山建立の時・根本中堂の地を引き給いし時・地中より舌八つある鑰を引き出したり、此の鑰を以て入唐の時に天台大師より第七代・妙楽大師の御弟子・道邃和尚に値い奉りて天台の法門を伝へ給いし時、天機秀発の人たりし間・道邃和尚悦んで天台の造り給へる十五の経蔵を開き見せしめ給いしに十四を開いて一の蔵を開かず、其時伝教大師云く師此の一蔵を開き給えと請い給いしに邃和尚云く『此の一蔵は開く可き鑰無し天台大師自ら出世して開き給う可し』と云云其の時伝教大師日本より随身の鑰を以て開き給いしに此の経蔵開けたりしかば経蔵の内より光・室に満ちたりき、其の光の本を尋ぬれば此の一念三千の文より光を放ちたりしなりありがたき事なり、其の時・邃和尚は返つて伝教大師を礼拝し給いき、天台大師の後身と云云、依つて天台の経蔵の所釈は遺り無く日本に亘りしなり」(一代聖教大意)
二郎 道邃は、伝教を天台の後身と見ていたんだね。この御書に、比叡山根本中堂の地中より舌が八つある鑰が出てきたという記述があるけれど、それは一体なんだろう。
太郎 そのような鑰があるわけないから、それほど、伝教の天台教学に対する造詣が深く、道邃が驚いたということが、このような象徴的な伝説として当時、残っていたんだと思うよ。日蓮大聖人は次のように認められている。
「伝教大師 根本大師 山家 天台の後身なり」(和漢王代記)
二郎 やはり日蓮大聖人は伝教について、「天台の後身なり」と明言されているんだ。仏法には不思議なことがあるんだね。
太郎 法華経の会座にいた薬王菩薩が、釈迦滅後一千年の後の像法時代に布教することになっていた。法華経にはそういう約束ごとが記されている。
二郎 法華経には本当に不思議なことが書かれてあるんだね。
太郎 日蓮大聖人は、次のように仰せになっている。
「南岳大師は観音の化身・天台大師は薬王の化身なり等云云」(当体義抄)
「薬王菩薩は天台大師となり観世音は南岳大師と成り」(呵責謗法滅罪抄)
「南岳・天台等は観音・薬王等の化身」(曾谷入道殿許御書)
二郎 観音菩薩は観世音菩薩のことだよね。
太郎 そうだよ。
二郎 そうなると、観世音菩薩と薬王菩薩が法華経の会座にいなくてはならない。
太郎 当然、法華経の会座に二人ともいるよ。
序品第一で、八万人の菩薩摩訶薩が会座に列している。その中に薬王菩薩と観世音菩薩がいる。法師品第十は薬王菩薩が対告衆だ。勧持品第十三では、薬王菩薩が二万人の菩薩の代表として如来滅後の弘通の誓願を立てている。薬王菩薩本事品第二十三では、薬王菩薩の過去世における事績が説かれている。観世音菩薩普門品第二十五では、観世音菩薩が説話の中心人物として登場している。陀羅尼品第二十六では、薬王菩薩が法華経の行者の守護を誓っている。妙荘厳王本事品第二十七は、薬王菩薩が過去に浄蔵として生まれて、兄弟の浄眼とともに父の妙荘厳王を法華経に帰依させたことが説かれている。
二郎 観世音菩薩と薬王菩薩は、法華経においてたびたび登場するんだね。間違いなく、この二人の菩薩は法華経の会座にいる。
「法華経の会座」の聴衆と「自解仏乗」
太郎 そうだ。間違いなく二郎の言うように法華経の会座に列しているよ。日蓮大聖人は天台、伝教がみずから仏になったとして、次のように仰せになっている。「賢人と申すは・よき師より伝へたる人・聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり、仏滅後・月氏・漢土・日本国に二人の聖人あり・所謂天台・伝教の二人なり、此の二人をば聖人とも云うべし又賢人とも云うべし、天台大師は南岳に伝えたり是は賢人なり、道場にして自解仏乗し給いぬ又聖人なり、伝教大師は道邃・行満に止観と円頓の大戒を伝へたりこれは賢人なり、入唐已前に日本国にして真言・止観の二宗を師なくしてさとり極め、天台宗の智慧を以て六宗・七宗に勝れたりと心得給いしは是れ聖人なり、然れば外典に云く『生れながらにして之を知る者は上なり上とは聖人の名なり学んで之を知る者は次なり次とは賢人の名なり』内典に云く『我が行・師の保無し』等云云」(妙密上人御消息)
二郎 法華経の会座に薬王菩薩はいた。その後身の天台、伝教は、二人とも「自解仏乗」の聖人なんだ。聖人という評価を受けるのは、法華経の会座にいた者で、後世において、みずからの本地を悟り「自解仏乗」した人なんだね。
太郎 もっと厳密に言えば、法華経の会座において法華経を弘める付嘱を受けた者のみが「自解仏乗」できるとも言える。
『摩訶止観』は天台法門の肝心
二郎 ところで、天台はどんな経歴をもった人なんだろう。太郎 天台は梁の大同四(五三八)年、中国の荊州華容県の名門の一家に生まれている。諱は智。紹泰元(五五五)年、十八歳の時、湘州果願寺の沙門・法緒の門に入り出家した。その後、慧思(南岳)に師事。のち天台は天台山に隠遁し修行。大建七(五七五)年に天台は、この天台山における十一年間にわたる修行において円頓止観を悟ったとされる。天台は、至徳三(五八五)年の春に、天台山を降り、再び金陵に出て、光宅寺において『法華文句』を講説した。開皇十二(五九二)年の夏、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で『法華玄義』『摩訶止観』を講説した。開皇十六(五九六)年十月に、石城寺において病没した。
二郎 天台の三大部とはどういう教えなの?
太郎 『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』というのが天台の三大部と言われている。まず『法華文句』とは、『妙法蓮華経文句』の略称で十巻からなり、法華経二十八品の文々句々の字句を解釈し、法華最勝の旨を明かしている。
次に『法華玄義』は、『妙法蓮華経玄義』の略で十巻からなり、妙法蓮華経の玄義(奥深く微妙で容易にはかり知ることのできない教義)を釈したものだ。
つまりこの『法華文句』と『法華玄義』は、法華経を釈したものだ。
『摩訶止観』は十巻からなり法華経二十八品の根本義たる一心三観、一念三千が説かれている。
『摩訶止観』は、天台の法門における肝心要だ。『摩訶止観』は天台の出世の本懐と言われている。なかんずく、この『摩訶止観』巻第五に記されている「第七重 正修」は最重要で、日蓮大聖人もたびたび、御書の中で引用されている。
二郎 天台という人は本当に法華経に透徹した人なんだね。
伝教の遺志で比叡山に戒壇堂が建立された
太郎 ところが日蓮大聖人は、この中国の天台の業績は、日本の伝教に劣るという見方もされている。それは、伝教が天台の成し遂げなかった、法華経を根本にした「円頓戒壇」を比叡山に建立したからだ。日蓮大聖人は次のように仰せになっている。「南岳・天台も未だ弘めたまわざる円頓戒壇を叡山に建立す、日本一州の学者一人も残らず大師の門弟と為る」(曾谷入道殿許御書)
「吾が師伝教大師三国に未だ弘まらざるの円頓の大戒壇を叡山に建立したもう」(同)
「されば伝教大師は其の功を論ずれば竜樹天親にもこえ天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり、されば日本国の当世の東寺・園城・七大寺・諸国の八宗・浄土・禅宗・律宗等の諸僧等誰人か伝教大師の円戒をそむくべき、かの漢土九国の諸僧等は円定・円慧は天台の弟子ににたれども円頓一同の戒場は漢土になければ戒にをいては弟子とならぬ者もありけん、この日本国は伝教大師の御弟子にあらざる者は外道なり悪人なり」(撰時抄)
「されば内証は同じけれども法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり」(報恩抄)
二郎 やはり日蓮大聖人が重きを置いていらっしゃるのは、事実の上でなにをしたかということなんだね。内証は同じとしても、実績が重視される。
太郎 日蓮大聖人は「報恩抄」で次のように仰せになっている。
「月氏・漢土・日本に但三人計りこそ於一切衆生中亦為第一にては候へ、されば秀句に云く『浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり天台大師は釈迦に信順して法華宗を助けて震旦に敷揚し叡山の一家は天台に相承して法華宗を助けて日本に弘通す』等云云、仏滅後・一千八百余年が間に法華経の行者・漢土に一人・日本に一人・已上二人釈尊を加へ奉りて已上三人なり」
釈迦、天台、伝教の三師は、インド、中国、日本と国は違うけれども、それぞれ時をも隔てながら唯一最勝のものとして法華経を説いた。薬王菩薩に絞って見れば、薬王菩薩が法華経の会座での約束に基づき、中国、日本において法華最勝を説き、二百数十年の時を隔てて法華経の「円頓戒壇」を建立したとも言える。
二郎 法華経の会座における約束を成就するためには、同じ菩薩でも時と所を変えなければいけないんだ。不思議な理があるもんだね。ところで、日蓮大聖人は本地・薬王菩薩の天台、伝教について、本質的にはどのような評価をされているのだろう。


