直達正観の悟りの境地
二郎 日蓮大聖人が虚空蔵菩薩から授かったとされている「智慧の宝珠」「大宝珠」は法華経ではないかという話題がさっき出たね。太郎 そう。それをもっと掘り下げて勉強しなくてはいけないと話した。
二郎 そうだよね。法華経についてもっと教わりたいんだ。
太郎 日本に伝わってきた法華経にもいろいろあるんだ。
二郎 僕も知ってるよ。ところでいろいろな法華経が渡来したが、日本で法華経を真に読めた人はいたのだろうか。
太郎 日蓮大聖人は「開目抄」において次のように仰せになっている。
「日本に仏法わたりて・すでに七百余年・但伝教大師・一人計り法華経をよめり」
「日本国に此の法顕るること二度なり伝教大師と日蓮となり」
さらに「撰時抄」では、次のように仰せになっている。
「伝教大師と日蓮とが外は一人も法華経の行者はなきぞかし」
二郎 日本で法華経を元意に則って読めた人は、日蓮大聖人と伝教だけなんだ。
太郎 そういうことになるね。さらに日蓮大聖人は即身成仏について「妙一女御返事」に次のように仰せになっている。
「伝教大師の秀句に云く『当に知るべし他宗所依の経には都て即身入無し一分即入すと雖も八地已上に推して凡夫身を許さず天台法華宗のみ具に即入の義有り』云云、又云く『能化・所化倶に歴劫無し妙法経力即身成仏す』等云云、又云く『当に知るべし此の文に成仏する所の人を問うて此の経の威勢を顕すなり』と等云云、此の釈の心は即身成仏は唯法華経に限るなり」
二郎 即身成仏は法華経にかぎると日蓮大聖人が明言されている。だからこそ日蓮大聖人は十六歳にして自解仏乗され、直達正観の悟りの境地に立たれたんだ。
法華経はいつどこで説かれたのか
太郎 二郎は簡単に答えが出せていいな。その法華経なんだけれども、まず、いつ説かれてどのように日本に伝わってきたのかを知る必要があると思うよ。二郎 そうだね。歴史的な経緯は、ある程度知っておく必要がある。
太郎 法華経は言うまでもないけど、釈迦が説いたものだ。
二郎 釈迦はどこでいつごろ生まれたの?(地図参照)
太郎 釈迦は今のネパールのタラーイ地方にあったと思われる迦毘羅衛国の王子で、生年は、紀元前の五六五年としたり四六三年としたりと諸説がある。十九歳で出家し、三十歳で伽耶城近郊の林にあるピッパラ樹の下に座し悟りを開いたとされている。それから四十二年間は爾前権教を説き、その後、八カ年で法華経を説いたとされている。
二郎 伽耶城はどのあたりにあったんだろう。
太郎 現在のインド北東部のガンジス川南域にあった。今はガヤ市と呼ばれている都市がその名残だ。
二郎 ガンジス川流域ということになれば、肥沃な土地だね。
太郎 そういうことになる。釈迦が生まれるおよそ一、二世紀前の紀元前七、八世紀ごろには古代インドにおいて、この地域には十六の王国があったことが確認されている。古くから文明の栄えた地域だったんだ。
二郎 釈迦はどのようなところで法を弘めたのだろうか。
太郎 ガンジス川を挟んで北方と南方に大きな布教拠点を持っていたようだ。北方はガンジス川支流のサラブ川の北側にある舎衛城の祇園精舎で、南方はガンジス川の南側にある王舎城の竹林精舎だ。
二郎 ところで有名な霊鷲山があったのはどこなの?
太郎 霊鷲山は南方の布教拠点である竹林精舎の近くにあった。山頂の形が鷲に似ていることからこの名前がついたそうだ。
二郎 それで釈迦は何歳まで生きたの?
太郎 釈迦の没年は八十歳と伝承されている。
二郎 釈迦は、その晩年に法華経を説いたんだね。
太郎 法華経は釈迦が七十二歳から八十歳までの間に説いたものとされている。
二郎 釈迦は八十歳で亡くなったというけれども、どこで亡くなったの?
太郎 今のガンジス川の北部、倶尸那城の郊外にある沙羅双樹下とされている。倶尸那城は現在のインドの北部、ネパールとの国境近くにあったとされる。
二郎 ところで法華経は釈迦が説いたとされているけれども、そうではないという学説もあるよね。
太郎 そうなんだ。「大乗非仏説論」といってね。だけど、この法華経は釈迦滅後二千年後の法華経の流布について述べられている。二千年後を予言できる人は、仏様しかいないよ。
二郎 僕なんかは明日のこともわからない。一年、二年先となればなおさらのことだ。
太郎 未来を予見できるのは仏だけだ。仏は三世に通暁する。だから、法華経という未来記について「大乗非仏説論」を仮説として述べるのは自由だけれども、現実に仏以外の「人」が、未来記を説けるのかということが問題となる。このように考えると、実際に伝承されてきた法華経の核の部分は、仏である釈迦の説いたものでしかないと思うんだ。言い換えれば、法華経を説いた者が仏なんだ。
二郎 そうだね。仏しかできないよ、未来を見通すことなんかは。
太郎 それも、釈迦みずからが、死んだ後において法華経が流布される状況について予言し、その法華経を布教する者を任命している。だから、法華経に登場する釈迦は、これはもう言語を絶する存在といえる。
二郎 釈迦の存在はすごいね。その仏である釈迦の不思議の法が法華経には説かれているんだ。その法華経に説かれた仏の法とは、民衆救済の根本法なんだ。
鳩摩羅什の名訳『妙法蓮華経』
太郎 その釈迦の説いた法は、インドから中国に渡る。西暦二五五年から六〇一年にかけて、法華経は六回漢訳されたようだ。現在そのうち全体が残っているのは三つしかない。このことを「六訳三存」という。二郎 なるほど。そうすると、僕たちが読誦している法華経は誰の訳なの?
太郎 それは鳩摩羅什(羅什三蔵)の訳した妙法蓮華経だよ。
二郎 僕たちが朝晩読誦している法華経は、題号に妙法蓮華経と書かれているけども、これは鳩摩羅什の訳なんだ。
太郎 鳩摩羅什の生没年には諸説あるが、西暦三五〇年から四〇九年まで生きたとされ、妙法蓮華経を訳したのは、西暦四〇六年ということだ。
二郎 羅什という人は翻訳家としてずいぶん優秀だったんだ。
太郎 羅什のお父さんは、インドから現在の中国の新疆ウイグル自治区にあったとされる亀玆国(庫車)にやってきた。僧侶だったが還俗して結婚した。結婚したのはその時の亀玆国の国王の妹だそうだ。その子供が羅什なんだが、彼は七歳の時に母と共に出家し、仏教を学ぶためにカシュガルに行っている。この後もずっと仏教を学んでいる。その後、羅什は中国の涼州に十五年ばかり滞在した。羅什の名声は皇帝にも届き、後秦の姚興が国師の礼をもって長安に迎えた。ここで羅什を中心に、国家的事業として翻訳が進められた。姚興は後秦の第二代の皇帝だよ。(地図参照)
日蓮大聖人は、この鳩摩羅什のことを次のように仰せになっている。
「仏法・漢土にわたりて二百余年に及んで月氏と漢土との中間に亀玆国と申す国あり、彼の国の内に鳩摩羅えん三蔵と申せし人の御弟子に鳩摩羅什と申せし人・彼の国より月氏に入り・須利耶蘇磨三蔵と申せし人に此の法華経をさづかり給いき、其の経を授けし時の御語に云く此の法華経は東北の国に縁ふかしと云云、此の御語を持ちて月氏より東方・漢土へはわたし給いしなり」(千日尼御前御返事)
二郎 やはり大変な経歴を持った人が法華経を訳したんだ。
太郎 そうなんだ。なかんずく羅什の法華経の訳は抜きん出ていた。日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「羅什三蔵一人を除いてはいづれの人人も悞らざるはなし」(撰時抄)
二郎 羅什の法華経の訳は、日蓮大聖人も太鼓判を押されている。
太郎 そうなんだ。羅什の名訳がなければ天台の一念三千法門も成り立たなかった。たとえば、方便品第二の十如是の件は次のとおりだ。
「諸法実相・所謂諸法・如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」
だけれども、梵本では十如是にあたる部分が十そろっているわけではない。梵本の和訳はいくつかあるが、最近の代表的なものをあげてみよう。なお、以下の引用に出てくる「シャーリプトラ」とは、釈迦の十大弟子の一人、舎利弗のことだ。
「あらゆる法を、シャーリプトラよ、如来こそが説き示し、あらゆる法を如来のみが知る。それらの法は何であるか、それらの法はどのようなものか、それらの法はどのような様態か、それらの法はどのような特徴があるか、それらの法はどのような本質があるか。すなわち、それらの法が何であり、どのようなものか、どのような様態か、どのような特徴があるか、どのような本質があるかという、これらの法について、如来だけが知覚でき、明瞭に知る」
これは、なかほどの「すなわち」を境として二度、同じことが反復されているように思うけれども、前半では様々な如来の説く諸法について触れている。後半部分ではその如来の説き示すところの、より本質的な実相を説いていると言うことができる。極めて重要なところだ。そこで、羅什三蔵はこの部分を「諸法実相」と訳し、竜樹の説いた「大智度論」を参考として今の十如是の形に訳した。
法華経が日本に伝来
二郎 では、日本に法華経が伝わったのはいつなの?太郎 日本に法華経が伝わったのは、中国から朝鮮半島を経由してだ。一説によれば、第二十九代欽明天皇の十三(五五二)年十月、百済国の聖明王が仏像とともに伝えたという。仏滅後一五〇〇年頃だ。
日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「漢土には仏法わたりて二百余年・後秦王の御宇に渡りて候いき、日本国には人王第三十代・欽明天皇の御宇治十三年・壬申十月十三日辛酉の日・此れより西・百済国と申す国より聖明皇・日本国に仏法をわたす、此れは漢土に仏法わたりて四百年・仏滅後一千四百余年なり、其の中にも法華経はましまししかども人王第三十二代・用明天皇の太子・聖徳太子と申せし人・漢土へ使を・つかわして法華経を・とりよせ・まいらせて日本国に弘通し給いき、それより・このかた七百余年なり」(千日尼御前御返事)
二郎 たしか、その後日本では、国分寺や国分尼寺を建てて法華経を大事にしたね。
太郎 そうなんだ。第四十五代・聖武天皇は、天平十二(七四〇)年六月、諸国に命じて法華経を書写させ、二年後の天平十四(七四二)年二月に国分寺、国分尼寺建立の詔を出し、鎮護国家をはかった。
二郎 そのまま法華経を中心にして鎮護国家をはかっていけばよかったのに、さまざまな経が渡来してきて、いろいろな宗派ができて、日本の仏教界は混乱し始めるんだね。
伝教の公場対決
太郎 その混乱する日本の仏教界の中で法華最勝を主張し、法華経を第二、第三などと下していた他宗派を破したのが伝教大師最澄だ。二郎 伝教はどうして法華最勝がわかったのだろうか。
太郎 実は、鑑真という中国唐代の高僧が孝謙天皇の時、天平勝宝五(七五三)年に日本に着き、翌年正月、平城京に入った。鑑真は東大寺大仏殿前に戒壇を造り、そこで聖武天皇以下、多くの僧たちに小乗教の戒を授けた。後に鑑真は聖武天皇より戒壇院として唐招提寺を賜っている。この鑑真がもたらした天台の『法華玄義』『法華文句』『円頓止観』などを、伝教はみずから学び、法華最勝の理を見出した。ちなみに『円頓止観』とは『摩訶止観』の別称だよ。
二郎 伝教は鑑真から直接、学ぶことはなかったんだ。
太郎 鑑真が死んだのは天平宝字七(七六三)年、伝教が生まれたのは神護景雲元(七六七)年。だから二人は会うことはなかった。
二郎 日蓮大聖人は、このような経過について知っておられたのかな?
太郎 もちろん御存知だよ。日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「今日本国は最初に仏法渡りて候し比・大小雑行にて候しが人王四十五代聖武天皇の御宇に唐の揚州竜興寺の鑑真和尚と申せし人漢土より我が朝に法華経天台宗を渡し給いて有りしが円機未熟とやおぼしけん此の法門をば己心に収めて口にも出だし給はず、大唐の終南山の豊徳寺の道宣律師の小乗戒を日本国の三所に建立せり此れ偏に法華宗の流布すべき方便なり、大乗出現の後には肩を並べて行ぜよとにはあらず例せば儒家の本師たる孔子老子等の三聖は仏の御使として漢土に遣されて内典の初門に礼楽の文を諸人に教えたりき、止観に経を引いて云く『我三聖を遣して彼の震旦を化す』等云云、妙楽大師云く『礼楽前に馳せ真道後に啓く』と云云、仏は大乗の初門に且らく小乗戒を説き給いしかども時すぎぬれば禁めて云く涅槃経に云く『若し人有つて如来は無常なりと言わん云何んぞ是の人舌堕落せざらん』と等云云、其の後人王第五十代桓武天皇の御宇に伝教大師と申せし聖人出現せり始めには華厳・三論・法相・倶舎・成実・律の六宗を習い極め給うのみならず、達磨宗の淵底を探り究め給ひ剰へいまだ日本国に弘通せざる天台真言の二宗をも尋ね顕わして浅深勝劣を心中に究竟し給へり、去延暦二十一年正月十九日に桓武皇帝・高雄山に行幸なり給い、南都七大寺の長者・善議・勤操等の十四人を教大師に召し合せて六宗と法華宗との勝劣を糾明せられしに六宗の碩学宗宗毎に我宗は一代超過の由各各に立て申されしかども教大師の一言に万事破れ畢んぬ」(下山御消息)
二郎 鑑真は、法華最勝とする天台の三大部を伝えてきていたが「円機未熟」と考え、それを弘めることはなかったんだ。まず小乗が弘まり大乗が弘まるというのは仏の法の上での決まりごとなんだ。
太郎 伝教が、鑑真のもたらした『法華文句』『法華玄義』『円頓止観』などの法華経についての天台の釈を読み、法華最勝の確信をもったことについて、日蓮大聖人は「報恩抄」においても同様の記述をされている。
「其の書を見んと申されしかば取り出だして見せまいらせしかば一返御らんありて生死の酔をさましつ此の書をもつて六宗の心を尋ねあきらめしかば一一に邪見なる事あらはれぬ」
二郎 伝教はすごいね。伝教は天台の著した『法華玄義』『法華文句』『円頓止観』などを読んだだけで、すぐさま法華最勝がわかったんだ。これはすごい。伝教という人はどういう経歴の持ち主なんだろう?
太郎 伝教は神護景雲元(七六七)年に近江国滋賀郡古市郷坂本村に生まれた。十四歳の時、近江国分寺において得度し、この時、名を最澄と改めたそうだ。延暦四(七八五)年に比叡山中に草庵を構えた。この時、伝教は十九歳だ。その後、三年間をかけて鑑真がもたらした天台の釈などをみずから学び、法華最勝を知る。そして延暦七(七八八)年に草庵を改めて、それを根本中堂として創建した。この時、伝教二十二歳。寺の名を比叡山寺とした。
延暦十六(七九七)年、桓武天皇の信任を得て、宮中内の道場に供奉する十人の高僧の一人となった。この時、伝教三十歳。先ほどの「下山御消息」に書かれていたように、延暦二十一(八〇二)年、桓武天皇は法華最勝を主張する伝教と、その伝教の主張に対立する南都六宗を代表する七大寺の高僧十四人との対論を命じたのだ。これによって、伝教と南都六宗の公場対決が実現した。伝教は公場対決の場で、六宗の立義を一々に破し勝利した。この時、伝教三十六歳。
二郎 伝教は、たいしたもんだね。
太郎 自力で法華経の深意がわかった。自解仏乗の像法時代の聖人だ。


