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第1章 発願

序章 / もくじ / 第2章

上中下根がともに即身成仏

二郎 ところで悟りってなんだろう? 僕も悟ることができるのかな?
太郎 即身成仏、一生成仏だから間違いないよ。
二郎 日蓮大聖人はなんとおっしゃっているのかな?
太郎 心配ないよ。日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、譬えば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む、法華の行者も上中下根あれども必ず一生の中に証得す、玄の一に云く『上中下根皆記別を与う』と云云」(一念三千法門)
二郎 日蓮大聖人は稲の収穫に譬えられて、人の成仏について述べられているんだね。確かに、稲には早稲と晩稲がある。一年のうちに早い遅いがあっても、必ず収穫できる。法華経を信ずる者も上根、中根、下根の三つがあるが、必ず一生のうちには成仏するんだ。ところで、上中下根がみんな成仏するということだけれども、上中下根とはどのように理解すればいいのだろう?
太郎 その上中下根について、日蓮大聖人は次のように仰せになっている。
「此の道に入ぬる人にも上中下の三根はあれども同じく一生の内に顕はすなり、上根の人は聞く所にて覚を極めて顕はす、中根の人は若は一日・若は一月・若は一年に顕はすなり、下根の人はのびゆく所なくてつまりぬれば一生の内に限りたる事なれば臨終の時に至りて諸のみえつる夢も覚てうつつになりぬるが如く只今までみつる所の生死・妄想の邪思ひがめの理はあと形もなくなりて本覚のうつつの覚にかへりて法界をみれば皆寂光の極楽にて日来賤と思ひし我が此の身が三身即一の本覚の如来にてあるべきなり、秋のいねには早と中と晩との三のいね有れども一年が内に収むるが如く、此れも上中下の差別ある人なれども同じく一生の内に諸仏如来と一体不二に思い合せてあるべき事なり」(十如是事)
二郎 日蓮大聖人は、やはり稲の譬えで述べられている。稲がその年のうちに必ず収穫されるのと同じように、僕も一生のうちには成仏できるんだ。「諸仏如来と一体不二」の境界に立てるんだ。
太郎 ところで、二郎はこの上中下根のうち、自分はどれだと思う?
二郎 下根かな。
太郎 なるほど。どうあれ一生成仏を確信することが大事なんだ。
二郎 確信しているよ。
太郎 法華経が最高だ。法華経以外の信仰だと、聖職者の仲介がないと絶対に成仏できないというのだから。
二郎 法華経以外の宗教では、生きている時には出家の加持祈禱に頼らなければならない。死んでも坊主の引導がないと成仏しないと脅すんだから、まいってしまうな。
太郎 もともと仏教は、生きている人たちのために最善を説く法であったのに、いつのまにやら葬式仏教化してしまった。
二郎 室町時代から日本の仏教は葬式仏教化してくる。今の時代の坊主らはその輩が多い。日蓮大聖人の亡くなられた頃から一挙に日本宗教界は堕落するんだ。
太郎 ところで、日蓮大聖人は、先ほどの「十如是事」のところで認められていた上中下根のいずれだと思う?
二郎 それは当然、上根だ。
太郎 そうなんだよ。日蓮大聖人はみずからの体験に基づき、上根について認められているんだ。
二郎 やはりそうなんだね。その日蓮大聖人の悟りについて具体的に話してほしいな。

寺は武装した僧の拠点となった

太郎 では、日蓮大聖人が御生誕になったのは貞応元(一二二二)年だが、この当時は、どういう時代であったかを見ておきたい。
二郎 仏法から見れば末法に入っていたんだよね。
太郎 そういうことだ。当時の常識として、永承七(一〇五二)年に末法に入ったとの認識があった。事実、それ以降、内裏が焼失したり、延暦寺と園城寺が血で血を洗う争いをしたり、熊野僧徒や延暦寺、興福寺、東寺衆徒などが朝廷に強訴を繰り返した。各寺の衆徒は仏教的権威と戦力を背景に、政治に容喙していた。それだけに留まらず、各寺の衆徒が相争い騒動を起こしていた。なかでも延暦寺と園城寺の対立はすさまじく、康治元(一一四二)年には、園城寺衆徒が延暦寺を焼き、長寛元(一一六三)年には逆に延暦寺僧徒が園城寺を焼いた。このような時代的背景の中で、安元元(一一七五)年、法然(源空)が専修念仏の布教を始めた。
二郎 仏法の正邪を、問答で明らかにしていくといった求道の精神なんか、もう吹っ飛んでいたんだね。寺は武力拠点になっていたんだ。
太郎 ちなみに、日蓮大聖人の仏法を論ずるにあたって、重要な人物である中国の天台大師は大同四(五三八)年生、開皇十七(五九七)年没。日本の伝教大師は神護景雲元(七六七)年生、弘仁十三(八二二)年没。「天台宗」の比叡山延暦寺第三代座主で「天台」を真言化した慈覚は延暦十三(七九四)年生、貞観六(八六四)年没。日蓮大聖人のお生まれになる三百六十年ぐらい前にすでに死んでいたんだ。慈覚は天台宗の一大権威として崇められていた。
二郎 専修念仏を掲げた法然はいつ生まれていつ死んだの?
太郎 末法に入ったとされてから八十一年後の長承二(一一三三)年に生まれ、日蓮大聖人が御生誕される十年前の建暦二(一二一二)年に死んだ。法然が専修念仏の布教を始めたのは安元元(一一七五)年、四十二歳の時だったね。
二郎 本当に末法らしい時代相だね。当時を生きている人たちは、本当に深刻だったと思うよ。餓えや疫病で死んだり、殺されたり、大変だ。
太郎 鎌倉幕府が生まれるきっかけとなった源平合戦も、日蓮大聖人がお生まれになる少し前にあった。治承四(一一八〇)年、源頼朝が挙兵し、文治元(一一八五)年、壇ノ浦の戦いで源氏が平家を滅ぼした。
二郎 日本を二つに分けての内戦だ。武士が力を持つ時代に入った武家政権の成立だね。
太郎 この時代の人情を知るために、源平合戦の一つの逸話を話しておく。平敦盛のことだ。敦盛は、一の谷の合戦で鎌倉方の熊谷直実に討ち取られた。
二郎 僕も知ってるよ。敦盛が死んだのは、確か十代だったね。
太郎 そうなんだ。敦盛が死んだのは、元暦元(一一八四)年二月七日であることは確かだ。ただし生年については、仁安三(一一六八)年と嘉応元(一一六九)年の二説があるから、亡くなったのは十六歳か十七歳ということになる。
二郎 若いね。
太郎 直実は敦盛の首を取るのだが、自分の子供くらいの若さなのでたじろぐ。直実は敦盛に、「なのらせ給へ。たすけまいらせん」と言うが、敦盛はその情けを受けず、名を名乗らず、「さては、なんぢにあふてはなのるまじゐぞ、なんぢがためにはよいかたきぞ。名のらずとも頸をとて人にとへ。みしらふずるぞ」と言ったというんだ。それでも直実は「たすけまいらせん」と言ったが、すでにその時には自分の味方が来ているので、逃がしてやることもできず、直実は涙を流しながら首を取ろうとする。敦盛が「たゞとくくびをとれ」とみずから言ったという。そして直実は「泣々頸をぞかいてげる」ということとなった。
二郎 武士は十六、七歳にして死は一定≠ニ思い定めていたんだ。
太郎 敦盛はこの時、祖父・平忠盛が鳥羽院から賜った「小枝」という笛を持っていたという。
二郎 この敦盛の死は能でも舞われている。織田信長が桶狭間の合戦に向かう時に舞ったといわれているのも幸若舞の「敦盛」だね。
太郎 そうそう。この件だよ。
「思へばこの世は常の住み家にあらず、草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。人間五拾年、下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり。ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか」(幸若舞「敦盛」の一節)
二郎 当時の人は、死を切実な問題として身近に感じていたんだ。
太郎 日蓮大聖人御生誕の一年前の承久三(一二二一)年には、承久の乱が起こっている。
二郎 後鳥羽上皇を中心とした朝廷方と、武家政権の鎌倉幕府とが武力衝突し、鎌倉幕府方が一方的に勝ったんだよね。
太郎 そうなんだよ。その結果、後鳥羽上皇は隠岐に、土御門上皇は土佐に、順徳上皇は佐渡ヶ島に流罪となった。
二郎 朝廷側で上皇に与したものはどうなったんだろう。
太郎 首謀者たちはことごとく惨殺されるか、あるいは自殺に追い込まれた。
二郎 朝廷側は本当に壊滅状態になってしまったんだね。
太郎 そうなんだ。朝廷に味方した御家人たちも斬首された。おまけに上皇たちに味方した者たちの所領三千余カ所は幕府に没収された。
二郎 凄まじい下剋上だったんだね。
太郎 この承久の乱で見逃してはいけないのは、後鳥羽上皇が幕府との対決を前にして、延暦寺の僧徒を味方に組み込むために自分の皇子を天台座主としたことだ。そうした上で延暦寺をはじめとする諸寺において、鎌倉幕府を調伏する祈を行なわせている。朝廷側が幕府側に負けた際、後鳥羽上皇は土御門上皇と順徳上皇を引き連れて延暦寺に避難した。
二郎 延暦寺は加持祈もするけれど、山城としての機能も持っていたということになるね。

日蓮大聖人はどこでお生まれになったのか

太郎 日蓮大聖人がお生まれになった時の世相と仏教界の様相は、このような状況だった。先ほども言ったけれども、日蓮大聖人は貞応元(一二二二)年にお生まれになった。日蓮大聖人の出自については、いくつかの御書で明らかになっている。
「日蓮は安房の国・東条片海の石中の賤民が子なり威徳なく有徳のものにあらず」(善無畏三蔵抄)
「日蓮は安房の国・東条の郷・清澄山の住人なり」(同)
「日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり」(佐渡御勘気抄)
「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅が家より出たり」(佐渡御書)
「日蓮は日本国の中には安州のものなり」(弥源太殿御返事)
「古郷の事はるかに思いわすれて候いつるに・今此のあまのりを見候いてよしなき心をもひいでて・うくつらし、かたうみいちかはこみなとの磯の・ほとりにて昔見しあまのりなり、色形あぢわひもかはらず、など我が父母かはらせ給いけんと・かたちがへなる・うらめしさ・なみだをさへがたし」(新尼御前御返事)
「生国なれば安房の国はこひしかりしかども」(光日房御書)
「日蓮は東海道・十五箇国の内・第十二に相当る安房の国長狭の郡・東条の郷・片海の海人が子なり」(本尊問答抄)
「日蓮は日本国安房の国と申す国に生れて候しが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり」(妙法比丘尼御返事)
「日蓮は中国・都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子にて候いし」(中興入道消息)
二郎 日蓮大聖人は海の傍でお生まれになったんだね、貧窮下賤の身分として。「旃陀羅が子なり」ともいわれているが、「旃陀羅」とはどういう身分なんだろう。
太郎 「旃陀羅」は、古代インドの身分制度において最下層の身分で、狩猟や屠殺などを仕事にしていて、チャンダーラの音訳だよ。日蓮大聖人はこのように自分が社会の下層の出自であることを明言されている。しかしこのことについても、実は日蓮大聖人は武家のだれそれの末裔だとか、貴族の血を継ぐものだとか様々な学説を述べる学者がいるが、その根拠は確かなものではない。
二郎 別に日蓮大聖人が嘘を書かれるはずがない。安房の国でその出身に箔をどれほどつけてもたかが知れている。日蓮大聖人の血筋を云々する学者はどの程度まで、日蓮大聖人の身分を上げたら気がすむのだろうか。
太郎 日蓮大聖人は磯の香のするところで、少年時代を送られた。それも太平洋という大海原を目の前にして。
二郎 このように御書を読めば、日蓮大聖人の幼い頃のイメージは充分に湧く。
太郎 末法の御本仏は、釈尊のように王様の子である必要はない。
二郎 それは色相荘厳の考えにつながる。
太郎 示同凡夫こそが、末法の御本仏のしかるべき姿。それを色相荘厳にしようと出自を無理にこじつけ、少しでも社会の上層に結びつけようというのは、法華経とは無縁の差別的な考え方といえる。
二郎 出自による差別はよくない。
太郎 貧窮下賤の者、旃陀羅が子と日蓮大聖人が仰せになっているんだから、そのまま素直に受け取ればいい。末法の御本仏にとって出自などは関係ない。
二郎 御書を素直に拝することが正しいと思う。変なところで日蓮大聖人を潤色するのはよくないことだ。

清澄寺はどのような寺だったのか

太郎 さて、日蓮大聖人の出自についての話はその程度にして、日蓮大聖人が清澄寺に登られた前後の様子はどのようなものだったろうか。そのことを伺うことができる御書は次に示すとおり十一ある。
「立正安国論」「題目弥陀名号勝劣事」「善無畏三蔵抄」「佐渡御勘気抄」「神国王御書」「清澄寺大衆中」「報恩抄」「破良観等御書」「妙法尼御前御返事」「妙法比丘尼御返事」「本尊問答抄」
二郎 では、日蓮大聖人は御自身の幼い時の様子を、どのように書かれているんだろう。
太郎 それらの御書を拝するにあたり、清澄寺は「天台宗」を真言化した延暦寺の第三代座主・慈覚が開創したという伝承がある寺だということを認識しておく必要がある。慈覚は常行三昧法において念仏を称えることを説いていた。その影響もあって法然の弟子等が布教した念仏が容易に入り込む素地があった。したがって日蓮大聖人が登られた当時の清澄寺は、法然の念仏がはびこっていた。
二郎 なるほど。
太郎 それでは、日蓮大聖人の幼少の頃の様子について、「題目弥陀名号勝劣事」を見てみよう。この御書で日蓮大聖人は、
「弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は妙法蓮華経の五字を習つてこそ仏にはならせ給ひて侍れ、全く南無阿弥陀仏と申して正覚をならせ給いたりとは見えず」
 とおっしゃった上で、
「妙法蓮華経は能開なり南無阿弥陀仏は所開なり、能開所開を弁へずして南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よと物知りがほに申し侍るなり、日蓮幼少の時・習いそこなひの天台宗・真言宗に教へられて此の義を存じて数十年の間ありしなり、是れ存外の僻案なり」
 と述べられている。
二郎 日蓮大聖人は、幼い時に、「天台宗」やそれに入り込んだ真言宗の者たちに教えられて、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経は同じだと、教えられていたんだ。清澄寺あたりの当時の様子はこのようなものだったんだ。
太郎 この「題目弥陀名号勝劣事」には、さらに同様のことが書かれている。
「然るを仏教の中の大小権実をも弁へざる人師なんどが仏教を知りがほにして仏の名号を外道等に対して如意宝珠に譬へたる経文を見・又法華経の題目を如意宝珠に譬へたる経文と喩の同きをもつて念仏と法華経とは同じ事と思へるなり、同じ事と思う故に又世間に貴と思う人の只弥陀の名号計を唱うるに随つて・皆人一期の間一日に六万遍・十万遍なんど申せども法華経の題目をば一期に一遍も唱へず、或は世間に智者と思はれたる人人・外には智者気にて内には仏教を弁へざるが故に念仏と法華経とは只一なり南無阿弥陀仏と唱うれば法華経を一部よむにて侍るなんど申しあへり是は一代の諸経の中に一句一字もなき事なり」
二郎 日蓮大聖人の御在世当時、いかに仏教界が混乱していたか、よくわかる。混乱に乗じて念仏が勢いを盛んにしていた。
太郎 さて、先に引用した日蓮大聖人の「幼少の時」を示した箇所の文脈は、引用の前の部分で念仏批判が行なわれており、後の部分で次のように仰せになられている。
「人師の釈の中に一体と見えたる釈どもあまた侍る、彼は観心の釈か或は仏の所証の法門につけて述たるを今の人弁へずして全体一なりと思いて人を僻人に思うなり、御けい迹あるべきなり、念仏と法華経と一つならば仏の念仏説かせ給いし観経等こそ如来出世の本懐にては侍らめ、彼をば本懐ともをぼしめさずして法華経を出世の本懐と説かせ給うは念仏と一体ならざる事明白なり」
 そして、この御書において日蓮大聖人は、このようなことは謗法であることを明らかにされている。
二郎 御書を読む時は、文脈を大切にしなくてはいけないね。

臨終から生命の実相を見る

太郎 さて、このような雑乱した仏教の中において、幼少の頃の日蓮大聖人は、人々の亡くなる時と亡くなった後のありさまについて強い関心を持たれるようになったようだ。次に紹介する御書にそのことが書かれている。
二郎 日蓮大聖人は雑乱した仏教の中で、死という問題を直視されるようになったんだ。
太郎 「妙法尼御前御返事」の一節だ。
「法華経に云く『如是相乃至本末究竟等』云云、大論に云く『臨終の時色黒き者は地獄に堕つ』等云云、守護経に云く『地獄に堕つるに十五の相・餓鬼に八種の相・畜生に五種の相』等云云、天台大師の摩訶止観に云く『身の黒色は地獄の陰に譬う』等云云」
 このように臨終の相にふれられた後、日蓮大聖人は次のように述べられている。
「夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引き向えてみ候へばすこしもくもりなし」
 日蓮大聖人は臨終の相について、過去の人師論師の釈に照らせば、ことごとくが符合すると言われている。そして次のように仰せになっている。
「法華経は実語の中の実語なり・真実の中の真実なり、真言宗と華厳宗と三論と法相と倶舎・成実と律宗と念仏宗と禅宗等は実語の中の妄語より立て出だせる宗宗なり、法華宗は此れ等の宗宗には・にるべくもなき実語なり、法華経の実語なるのみならず一代妄語の経経すら法華経の大海に入りぬれば法華経の御力にせめられて実語となり候、いわうや法華経の題目をや」
と述べられている。
二郎 日蓮大聖人は幼少の時より人が亡くなる様を見て、臨終のことがいかに大事かということを考えられていた。また臨終の相の善し悪しは、「一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として」考えることができるとされている。人の臨終と仏法との間に深い因果関係があることを、幼少の砌においてすでに存知しておられたんだ。そして法華最勝の思いにあられた。
太郎 日蓮大聖人は「妙法比丘尼御返事」の中で、まず善因善報の因縁についてふれられた後、次のように述べられている。
「而るに日蓮は日本国安房の国と申す国に生れて候しが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり、此の度いかにもして仏種をもうへ生死を離るる身とならんと思いて候し程に、皆人の願わせ給う事なれば阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱え候し程に、いささかの事ありて、此の事を疑いし故に一の願をおこす、日本国に渡れる処の仏経並に菩薩の論と人師の釈を習い見候はばや、又倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申す宗どもあまた有りときく上に、禅宗・浄土宗と申す宗も候なり、此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分に・はしりまはり十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に・一の不思議あり、我れ等が・はかなき心に推するに仏法は唯一味なるべし」
 この御書の引用箇所に続いて、日蓮大聖人は真言宗などの諸宗を批判された後、承久の乱について触れられている。この御書によっても、日蓮大聖人が幼い頃、人々のために良かれと思い弥陀念仏を称えておられたことがわかる。ところが「いささかの事」があって「一の願」を起こされたんだ。
二郎 「いささかの事」とはなんだろう。
太郎 先の「妙法尼御前御返事」と考え合わせるとわかる。清澄寺あたりで念仏を称えていた者の、臨終にあたっての苦しみようと死相の悪さだろう。
二郎 「一の願」とは、なんだろう。
太郎 それは、仏教に諸派があるけれども、どれが仏法の真実の教えなのかということを知りたいという大願だ。日蓮大聖人は幼少の時、仏法中の最高の教えを求められた。日蓮大聖人の願いはその一点につきる。

日本第一の智者となるために

二郎 ここに「十六の年より三十二に至るまで」修学のため寺々を訪ねられた、と書かれておられるけど、日蓮大聖人はその中で本当に正法を発見されたのかな。仏法は「唯一味」としてどれでも一緒と当時の人たちは考えていたようだが?
太郎 だからこそ日蓮大聖人が誰かから正法の真髄を教えてもらったのではないことが、なおさらわかる。修学の前に日蓮大聖人はなにが正法であるかは存知されていた。
二郎 そうじゃなきゃ大変だ。どこの僧も混濁した考えしかもっておらず、経蔵も、これまた雑乱したままの状況だったろう。そこを闇雲にどう歩かれても大変なことだ。一生かかっても立宗の偉業なぞできはしない。
太郎 日蓮大聖人は、十六歳から三十二歳にわたり方々へ行き修学された。この修学にあたって、日蓮大聖人はみずからの悟りによって、思想的立脚点をもたれていた。その立脚点に立ち、どのような経過を踏んで仏法が雑乱したのか腑分けされ、民衆の妄を開く法門の確立と布教戦略を修学の中で練られた。
二郎 悟りの様子はどうだったんだろう。
太郎 そのことはもう少し後で述べよう。まずは次の御書だ。「神国王御書」において日蓮大聖人は、日本国始まって以来の下剋上である承久の乱にふれられた後、次のように述べられている。
「而るに日蓮此の事を疑いしゆへに幼少の比より随分に顕密二道・並びに諸宗の一切の経を・或は人にならい・或は我れと開見し勘へ見て候へば故の候いけるぞ、我が面を見る事は明鏡によるべし・国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず」
二郎 日蓮大聖人は幼い時から、承久の乱と仏法との相関性について考えられていたんだ。
太郎 そうなんだ。先に日蓮大聖人は人の一生の盛衰の帰結である臨終を仏法の「明鏡」によって見れば明らかであると述べられていたが、国の盛衰も仏法に因るのではないかと幼少のころより、ずいぶんと考えられていたことがわかるね。
二郎 人の生死と国土の盛衰について、日蓮大聖人は仏法の因果の理から見られていた。
 日蓮大聖人は幼い時から大変な御境界の持ち主だったと言える。
太郎 さて、次の御書を拝しよう。「本尊問答抄」には真言批判が述べられており、真言によって「上一人より下万民にいたるまで法華経の大怨敵」になったと論じられた上で、次のように仰せになっている。
「生年十二同じき郷の内・清澄寺と申す山にまかり登り住しき、遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし然而随分・諸国を修行して学問し候いしほどに我が身は不肖なり人はおしへず十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏菩薩に祈請して一切の経論を勘て十宗に合せたるに倶舎宗は浅近なれども一分は小乗経に相当するに似たり、成実宗は大小兼雑して謬あり律宗は本は小乗・中比は権大乗・今は一向に大乗宗とおもへり又伝教大師の律宗あり別に習う事なり、法相宗は源権大乗経の中の浅近の法門にてありけるが次第に増長して権実と並び結句は彼の宗宗を打ち破らんと存ぜり」
 この後、日蓮大聖人は権教実教の雑乱ぶりを述べられた後、仏法の邪正が乱れれば国が乱れることを示され、その現証として承久の乱に言及されている。
二郎 まず、この御書により、日蓮大聖人が十二歳の時に清澄寺に登られたことがわかるね。しかし清澄寺にはしかし清澄寺には修学の人はいなかったんだ。
太郎 清澄寺は念仏化し、天台宗や真言宗などの教義も乱れ、念仏がはびこっているような様子だったからね。
二郎 しかし兄さん、この「本尊問答抄」を読むと、日蓮大聖人が諸国を修行して廻って「仏菩薩に祈請して」、経論の高低浅深がわかったかのように書かれているよ。はたして兄さんのいうように、清澄寺で日蓮大聖人は悟りを得られて、その後、諸国に修行に出られたのだろうか。この御書を読む限りは、兄さんの主張が破綻しているように思えるけれども。
太郎 御書を読むには、その御書の書かれた時代背景や、どういう主旨で書かれたのかをよく考える必要がある。この「本尊問答抄」は弘安元年に認められたものだから、日蓮大聖人が身延において書かれたものだ。とはいえ、これは「本尊問答抄」という題号からもわかるように、真言宗との対決に備え、法論に臨んでどのように破折するかを御指南されたものだといえる。だから日蓮大聖人が弟子に対して、ご自身の経緯についてはこのように話しなさいと言われているにすぎない。
二郎 なるほど。法論の場において、日蓮大聖人の悟達に論及する必要はない。論陣を張るにあたり、「諸国を修行して学問し候いしほどに我が身は不肖なり人はおしへず十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏菩薩に祈請して」という表現をされても不思議ではない。
太郎 さらにこの御書の引用箇所のあとを拝読すれば、日蓮大聖人は御自身がお生まれになる前に起こった承久の乱が、仏法の乱れの故に起こったと考えられていたことがわかる。
二郎 十二歳で清澄寺に登り修学されていた時の日蓮大聖人の問題意識は、そのようなものだったんだ。
太郎 「破良観等御書」で日蓮大聖人は、法華最勝を述べられ真言批判をされた後で、次のように仰せになっている。
「予はかつしろしめされて候がごとく幼少の時より学文に心をかけし上・大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしより此の願を立つ其の所願に子細あり今くはしく・のせがたし」
二郎 日蓮大聖人は、十二歳で清澄寺に登られる前の「幼少の時」より学問を懸命にされていたんだ。そして日蓮大聖人は十二歳で清澄寺に登られ、そのどこかには虚空蔵菩薩が安置されていた。この虚空蔵菩薩の前で、「日本第一の智者となし給へ」と祈られたんだ。先ほどの「本尊問答抄」には、「生年十二同じき郷の内・清澄寺と申す山にまかり登り住しき」と書かれていたから、これと合わせて考えると、きっと日蓮大聖人は清澄寺のあった同じ郷の、もっと小さな別のお寺で学問をされていた。そして志を持って清澄寺に登られたんだ。この時、日蓮大聖人はどのような思いを持たれていたんだろう。
太郎 「立正安国論」には次のように書かれている。
「夫れ出家して道に入る者は法に依つて仏を期するなり」
二郎 末法に入り、不安と恐怖そして死に直面していた民衆を救済し、安国のために仏となることが、日蓮大聖人の出家の目的だったんだ。
太郎 「佐渡御勘気抄」では、次のように書かれている。
「本より学文し候し事は仏教をきはめて仏になり恩ある人をも・たすけんと思ふ、仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる」
二郎 すさまじい決意だ。十二歳にして大慈大悲の御境界で、学問することを志された。