まえがき


 私が日顕宗の「C作戦」(創価学会分離作戦)の存在を知ったのは一九九〇(平成二)年十二月二十六日の午後十時半のことであった。同作戦書には池田先生を放逐し、創価学会を破壊し檀徒化する日顕らの謀略が、タイムスケジュールに基づき書かれていた。もしこれが現実に実行されたならば創価学会は大混乱に陥るであろうと、身の毛もよだつ思いであった。
「C作戦」が作戦書のまま実行されれば、同作戦は一月末頃までには完了する予定であった。その間、概要以下のような処置を一気呵成におこなうことが決められていた。

 一、池田名誉会長の総講頭罷免
 二、創価学会に対する要求
 創価学会の役員の半数を日蓮正宗の僧侶より選出する
 池田名誉会長は自宅謹慎する
 『聖教新聞』は池田名誉会長の発言を掲載せず、かつ同氏に関する報道も一切おこなわない
 第一庶務を解散する
 三、要求を承諾しない場合は、池田名誉会長を破門、創価学会と絶縁
 四、一般紙に日蓮正宗と創価学会は一切関係ないという公告を一週間にわたり掲載し、同旨をマスコミを通じてアピールする
 五、日蓮正宗と創価学会を分離したのち、どちらに入るかは創価学会員の選択に任せる
 日顕らは、奇襲攻撃を創価学会にかけ、壊滅させようと謀ったのである。同時にもたらされた情報には、二月には正本堂より奉安殿に戒壇の大御本尊を遷座することも検討されているという内容も含まれていた。
 まことにもって許されざるべき大暴挙である。情報を聞きながら怒りが込み上げてきた。何百万人もの信徒が赤誠をもって御供養申し上げた正本堂の意義に就き、日顕はそれを全否定しようとしている。民衆の純真なる信仰心を汲めぬ者が宗教指導者であろうはずがない。断じて戦い、仏意仏勅の団体・創価学会を守護しなくてはならぬ。池田先生を護らねばならぬ。その熱い思いが我が全身に血潮となって流れた。
 思い起こせば一九七九(昭和五十四)年四月二十四日、池田先生を勇退に至らしめたときの無念――、その思いを、弟子として二度と味わいたくない。今度こそは必ず勝つ。この「C作戦」の暴挙を全学会員が知れば、当然のことながら池田先生を中心に団結することは間違いない――。
 前回は情報の開示不足から後れをとった。このたびはあらゆる情報を公開する必要性を感じた。懸命に戦ってきた創価学会員は、正確な情報を知れば、的確な判断をしてくれるはずだ。それとともに、この難を打ち破るなかで、創価学会員のすべてが創価学会が仏意仏勅の団体であることを確信し、同時に師たる池田先生の仏法上の立場を覚知しなくてはならない。「C作戦」の情報を聞いた直後、私は怒りで体内の血が煮えたぎる思いであったが、これから始まる宗門との全面対決に備え、冷静にそのように考えた。
「C作戦」についての情報を携え創価学会本部に駆けつけたのは、二十七日午前零時十五分であった。情報の正しさは同日明けておこなわれた日顕宗の宗会で池田先生が「宗規改正」にかこつけ総講頭を実質的に罷免されたことにより裏づけられた。やはり「C作戦」は、そのプログラムどおり進行し始めたのだ。もはや、宗門の謀略に対抗するには、仏子たる創価学会員の総決起しかない。全面衝突は不可避となった。
 私がファックスでの末寺への通信を思い立ったのは十二月三十日夜のことであった。まず日蓮正宗内部に日顕の謀略を伝え、同宗内部の良心的な者に決起を求め「C作戦」を阻止するべきだと考えたからである。そのとき私は、
「雨滴が岩をも穿つ」
 との思いであった。そして一月一日より『地涌』と題し、全国の末寺宛にファックスで通信を送った。断るまでもないが、すべて自己責任でおこなったことであり、故に費用は自分で負担した。
 この『地涌』を書くにあたり、私は明確なる目的意識を持った。それは、
「このたびの戦いは、弟子たる者が師匠の正義をいかに証明するかの戦いである」
 ということであった。そのため私は、師を証明するに師の言葉を一切引用しないことにした。なぜかといえば、師を証明するに師の言葉を依文とするならば、論理的に矛盾すると考えたからである。だが実際のところ、理由はそれだけではなかった。私の心の中に渦巻く情念が、そのように私を駆り立てたのだった。池田先生が勇退されたとき、弟子として無力であった慙愧の思いが、私の心の底に澱となって長年にわたり滞っていた。その思いが弟子としての私の筆に枷を強い、それを起請させたのである。
 つまり、
「非力なりとも自力で師の正義を証明できえずして、どうして弟子を自称できようか」
 と自責したのであった。今度は捲土重来を期す。へん*身に汗を流し、弟子として我が文章力をもって邪師を下し正師たる池田先生を宣揚し、弱卒なりとも一矢を報いたいとの思いであった。
 すなわち日蓮大聖人の御金言に基づき我が創価学会が仏意仏勅の団体であることを証明し、初代会長・牧口常三郎先生、第二代会長・戸田城聖先生、第三代会長・池田大作先生と連なる師子奮迅の戦いにより広宣流布が推し進められたことを事実をもって示し、金剛不壊のこの団体をよりいっそう強固にすることを目的としたのである。
 しかしその反面で学会と宗門との和解がなれば、多感な頃より私を育んでくれた心の故郷である創価学会から除名されることも覚悟した。だがそのような一抹の不安よりも、
「師を、そして創価学会を護らなければならない」
 との気持ちが私の心を強く支配したのであった。この難を乗り切るには師弟不二こそ至高の価値であることを訴えなければならない。それがあればこそ難を乗り切ることができると確信したのだった。
『地涌』は一九九一(平成三)年一月一日より一九九六(平成八)年二月十六日の第901号まで発行された。そのうち「『地涌』からの通信」として単行本とされたのが三十四冊。その他に別冊として『地涌からの通信・別巻(1)資料編』『地涌からの通信・別巻(2)歴史編』を上梓した。単行本「『地涌』からの通信」全三十四冊の巻末には、師弟論を基調に「おわりに」を付記した。
 一九九八(平成十)年四月五日、正本堂より大御本尊遷座。同年五月より天魔である破仏法者・日顕の命ずるところにより正本堂が解体工事に入り、現在、正本堂はその威容をとどめていない。当初、日顕が奇襲を企図した「C作戦」は、変容しながらも歳月を経て遂行され、池田先生の総講頭職罷免、創価学会破門、大御本尊遷座、正本堂破壊をもって完了したのである。
 大石寺が食うに食えない貧乏寺から、全国一の富裕な寺になったのは、創価学会代々会長の外護と創価学会員らの登山会を通じての御供養などによる。まったくそれ以外にはない。末寺の寄進にしても、そのほとんどが創価学会の寄進による。それこそ今回、正本堂を破壊した工事費にしてから、創価学会員のかつての御供養の一部であろう。檀徒ですらそのほとんどは創価学会員の落ちこぼれである。その現実を直視すれば、日顕がお山の大将のごとく教義を誑惑し、正絹の袈裟・衣で身を飾り、権威を振りかざしたところで、所詮、盗賊の頭目ほどの器量も持ち合わせぬ禿人にすぎないことは明瞭である。盗んだものは、一切が自分一人のものなのである。その日顕が仏教史に赫然たる業績を残した池田先生の業績をことごとく破壊し、ついに正本堂まで瓦解せしめたのである。三大秘法の一つに位置づけられた「本門事の戒壇堂」が、池田先生によって建立され、完結されたことがいかにも妬ましく、狂おしかったのであろう。
 正本堂は瓦礫に帰した。
 しかしながら私の脳裏にはきわめてあざやかにあの情景がよみがえってくる。それは一九七二(昭和四十七)年十月の正本堂落慶を記念する一連の祝賀行事の場面である。池田先生が式にあたり僧俗を引き連れ先頭に立って颯爽と歩いている姿である。
 日蓮大聖人曰く。
「問うて云く如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法とは何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(法華取要抄)
 日蓮大聖人の三大秘法は池田先生の発願により完結した。その事実は、日顕が狂乱し正本堂を瓦解させようとも変えることはできない。創価学会員の真心からの御供養も福徳となり一人ひとりの生命に宿っている。正本堂はいまも聳える。霊山一会儼然未散と同意なり。而して本門事の戒壇堂は謗法の山に存さず。
 御義口伝に云く。
「今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」
 師のもとに団結し、仏意仏勅の和合僧団に連なる地涌の菩薩らの胸中に、「寿量品の事の三大事」たる本尊と題目と戒壇は燦然たり。受持即観心なり。
 創価学会は勝利し、いま池田先生の下に、世界の梵天・帝釈が訪うている。弟子等一同、師の無念をそそいで勇退二十周年を迎えることができた。よって民衆凱歌の記念碑である『地涌』をここに選集として著した。

 一九九九年五月
不破 優
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