巻末に添えて


 地涌の菩薩として、師に扈従する者にとって、いま書き留める「あとがき」はない。真実の「あとがき」となるべきは、我が臨終にあたっての己が相である。私の戦いは、死の一瞬まで続く。請い願わくば生涯にわたり師弟の道を寸分たりとも違えることなく生き抜きたい。
 御義口伝に云く。
「四面とは生老病死なり四相を以て我等が一身の宝塔を荘厳するなり、我等が生老病死に南無妙法蓮華経と唱え奉るは併ら四徳の香を吹くなり」
『地涌』の記述並びに編集の作業は、生業の狭間を縫っておこなわれた。あるときは仕事を終え、夜の九時あるいは十時を過ぎてから執筆したこともあった。知らぬ間に長文となり、白々と夜が明けるまで書いたこともあった。ただただ夢中の五年有余であった。
 しかし今になって不思議なことは、繭の糸がほつれるがごとく文章がほとばしり出たということである。まるで最初の一字を書いたときには最後の一字が定まっていたかのように思われる。不思議な体験であった。大変な重圧の中での日々であったが、私の人生においてなにものにも替え難い法悦の一日一日であった。
 私は『地涌』を書くにあたり、
「このたびの戦いは、弟子たる者が師匠の正義をいかに証明するかの戦いである」
 と位置づけ、
「非力なりとも自力で師の正義を証明できえずして、どうして弟子を自称できようか」
 と思い詰めた。そのため私は師の正義を証明するに師の言葉を一切引用しないことを心がけた。
 なお『地涌』に池田先生の文章を引用したのは、第51号(『若き日の日記』に記された事実をもって龍年光の嘘を破すために引用)、第504号(日顕宗教学部長・大村寿顕の「生死一大事血脈抄」講義が、『池田会長全集』よりの盗作であることの証拠として、盗作された該当箇所を引用)、第437号(創価学会の葬式に対する見解が変わったと日顕宗が事実に反する論難をなしたので、昭和四十三年十一月二十五日の池田先生の家族友人葬についての指導を引用)のおもに三ヵ所である。その他、11・16スピーチにつき、日顕宗が改竄したので、正しいものを示すために何箇所か引用した。
 従って、『地涌』を書くにあたっての初期の目標は、達成することができたと総括する。
 私は、遥か、遥か、遥かに続く、太陽に照らされた白い砂浜の一粒の砂である。『地涌』編集部は私を入れて市井の三名であったが、発行するにつれ僧俗の隔たりなく多くの人々が協力してくださり、情報、資料が集まった。とりわけ日顕宗内部より危険を顧みず貴重な録音テープを継続的に提供してくれた人々、ならびにそれを速やかに伝達してくれた方々がいたことは大変にありがたいことであった。いまだ情報および資料収集ルートのすべてを詳述することはできないが、信心の連帯あっての勝利であった。
不破 優
●トップページ