第20章 霊 山 未 散


 第706号  1993年11月15日

日蓮正宗自由通信同盟

宗門は「沙彌の分際で弘通」した罪で蓮城房の僧籍を剥奪し
法に殉じ獄死した後も戒名に「居士」をつけ死者を鞭打った
〈仏勅シリーズ・第11回〉

 この稿は、九月七日付発信の『地涌』第696号につづくものである。これまで十回にわたり連載してきたが、前号までのあらすじは以下のとおり。
 まず、日恭の死が仏罰であることを死にざまと依文をもって示し、その仏罰は法華経の行者に対する迫害と、数々の謗法行為によることを証明するため、昭和十八年八月までの宗門の教義違背を縷々記した。それは他方で、創価学会の前身である創価教育学会の正義を立証することとなった。
 創価教育学会は、戦時下の思想統制に抗して、日蓮大聖人の仏法を正しく弘め、組織を拡大していった。そのため、昭和十八年七月六日に牧口常三郎会長、戸田城外理事長(当時)などが逮捕され、国家権力による徹底的弾圧を受けた。
 ところが日蓮正宗の僧らは、みずからが弾圧されるのを恐れて創価教育学会員を信徒除名処分にした。さらには、ただ一人逮捕されていた僧・藤本蓮城房(俗名・藤本秀之助)をも一宗擯斥処分にして僧籍を剥奪した。
 しかも、それに加えて、八月には教師錬成講習会を開いて、“庫裡に神札を祀るも止むなし”と宗内に示達したのである。
 この号では、藤本蓮城房の獄中死を描くなかで、戦中の宗門の非道を浮き彫りにしていきたい。この「仏勅」シリーズを読めば、日恭に率いられた戦中の宗門が、いかに日蓮大聖人の御精神に反した存在であったかが手にとるようにわかる。
 この邪悪な宗門により、正信の僧俗がいずれも宗門より追放され、見捨てられたのである。そして、その宗門の冷酷な「血脈」は、日顕に受け継がれているのだ。まずは一読を。
 昭和十八年七月、牧口会長ら創価教育学会最高幹部が一斉に検挙されたことに恐怖した宗門は、ついに神札を寺院の庫裡などに祀ることを宗内の僧たちに命ずる。大石寺において八月二十一、二十二日に第一回、八月二十五、二十六日に第二回の教師錬成講習会を開き、そのことを徹底した。
 この宗門の為体を獄中で嘆く僧がいた。六月十六日に「不敬罪並びに臨時取締法違反」で検挙された藤本蓮城房である。
 蓮城房は、六月二十五日には不敬罪の容疑で行政検束され、拷問による取り調べを受け、七月三十一日には東京刑事地検に送局となり、さらに検察庁において取り調べを受けていた。
 その取り調べの最中、蓮城房は体調をくずし、浅草署から浅草寺病院に移された。蓮城房は浅草寺病院に拘束されていた九月十五日、弾正講の大越頼太郎に書簡を託している。弾正講は、蓮城房が手塩にかけてつくってきた講中である。この書状は、講中の人々に、自分の心境を伝えようとしたものと思われる。
 国家神道に屈服した宗門に対し、「本山ノ破滅ガ其レ程怖イノカ 寺ガ本尊カ 寺ハ本尊デハナイ 寺ハ本尊安置ノ場所ナリ」などと痛烈な批判をし、獄中にある自分の境遇を、「当詣道場 疑フ所ナシト嘆キノ中ニ欣ビ多シ」と結んでいる。
 以下に、その獄中書簡の全文を紹介する。
 「諸宗無得道 堕地獄ノ根源ノ禁戒ヲ破ツテ本宗ノ生命ガアルカ 天照皇大神ノ札ヲマツルナラバ日蓮正宗ノ看板ヲ外シテ伊勢大神宮出張所トスベシ 僧ハ天照皇大神宮ノ神官タルベシ宜シク蓮祖ノ法衣ヲ脱ギ捨テテ一決スベシ 日蓮正宗ノ僧侶ナラバ誰ニモ判ル理ナリ 本山ノ破滅ガ其レ程怖イノカ 寺ガ本尊カ 寺ハ本尊デハナイ 寺ハ本尊安置ノ場所ナリ 如斯明白ナル事ヲ未ダ弁ヘザル者ガ僧界ニ一人デモアリトスレバ宗門破滅也 城者破城ノ所業ナリ 之ハ能化ト所化トヲ問ハザル事也 能説此経 能持此経ノ人則如来ノ使也 八巻一巻一品一偈ノ乃至題目ヲ唱フル人如来ノ使也 始中終捨テズシテ大難ヲ徹ス人如来ノ使也 蓮城ガ心ハ如来ノ使ニハアラズ 凡夫ナルガ故ナルカ サレド三類ノ強敵ニ遭フ形ダケハ如来ノ使ニ似タリ 心ハ三毒フカク一身凡夫其侭ナルモ唱題読誦スル形ハ如来ノ使ニ似タリ 過去ノ不軽ニ似タル一分モアリ悪口罵リサルノ形ハ大聖ニ似タリ 当詣道場 疑フ所ナシト嘆キノ中ニ欣ビ多シ」
 拘束されている身でありながら、蓮城房がこのような過激な文章を書き、人に託すことができたのは、病院という特殊な状況下にあったためだと思われる。蓮城房の子供たちも、このとき面会しており、それが最後の別れとなった。
 蓮城房は、浅草寺病院で創価教育学会に対する弾圧事件についての話を聞いて、つぎのように語ったという。
 「自分は袈裟を許されて百日だ、僧侶の最下等の僧侶であるけれども、僧だ。在家だけが法難にあってこれはおかしいんだ。僧俗一致して法難に逢うというんなら話は分かる。だからその中の僧の自分は一番末輩だけれども、自分がその僧籍をケガした一番下であるけれども、自分もそうなった事でよかったんだ。しかし牧口さんは大変にお気の毒だなあ」(弾正講幹部・片爪氏の回想による。大塚興純著『蓮城師の法難を偲びて』より)
 満五十五歳の蓮城房が、満七十二歳という高齢で入獄している牧口会長を思いやったものと思われる。在家の前に難に逢わんとする僧こそ、真に身軽法重の僧といえる。
 蓮城房は、引きつづき浅草寺病院にいたと思われる九月二十二日、不敬罪で起訴となり、巣鴨の東京拘置所に移監された。東京拘置所は、現在のサンシャイン60のそびえる場所(東京都豊島区東池袋)にあった。
 一方、妻や子供たちの待つ藤本蓮城房の家は豊島区巣鴨七丁目にあった。それは、現在の地下鉄丸ノ内線・新大塚駅のすぐそばにあたる。
 東京拘置所と家との距離は直線距離にしてわずかに約一キロメートル。だが、無情にも鉄格子と高い塀が両者のあいだを隔てていたのである。
 そして、蓮城房は死を予感してだろうか、十月九日に東京拘置所から、「お互は 永久に会へなくとも歓喜の世界であり 歓喜の生活であらねばならぬ」という文言を含む、以下のような手紙を妻に送っている。
 「『吾等が如き智解未熟の者に来る難にはあらず 何かの間違ならざるかと不審する也 能説此経 能持此経は如来の使 八巻一巻一品一偈乃至題目ばかりを唱ふるもの之亦如来の使也 大菩薩也 大なる歓び也 勇躍なり されど 世は五濁也 悪世なるが故に斯の天下独歩たる所の偉大なる聖業を知らざる第六天の魔王の一族は之をしばって平然たり妄処たり哀れむべし されど之吾等が過去世に於て斯の法を持つ人を悪口し罵りせる宿業を今生に軽く受く是れ護法の功徳力と知れば一往は悲しみの如く見ゆるも再往之を観る時は大なる欣鳴り 魔来る事それ即ち如説修業の現証なるも之を知る人は少なり口に出す人も少なり自賛に似るが故に言わず お互は 永久に会へなくとも歓喜の世界であり 歓喜の生活であらねばならぬ 其方と吾者六年に満ざる生活なりしも今度の六年未満の生活こそ永遠の生活也不滅の生活である 一切衆生異の苦を受るは之悉く大聖人一人の苦 吾等斯の聖意(旨)に従うもの也』
  十月九日
       豊島区西巣鴨町一―三二七七
                    藤本 秀之助
 豊島区巣鴨七―一八六六
       藤本 嘉津殿」
 蓮城房は、東京区裁判所の公判で、「失言を取り消します」と言えば助かると言われたが、「僕の言ったことは失言といえるけれども、日蓮大聖人の言ったことだから失言とはいえない」と、譲らなかったという。
 蓮城房への判決は、早くも十月二十五日に東京区裁判所において下された。判決内容は、不敬の罪で懲役一年四カ月であった。蓮城房は上告せず服役した。
 蓮城房は、九月二十二日から十一月十一日まで東京拘置所に拘留されていた。七月六日に逮捕され警視庁に留置されていた牧口会長は、九月二十五日に東京拘置所に移監された。
 したがって、蓮城房と牧口会長とが、ともに東京拘置所に拘束されていた時期があったのである。しかし、当然のことながら、共通の思想犯として拘置されていた両者が獄舎で顔を合わせることは、おそらくあり得ず、互いにその存在は知らなかっただろう。
 蓮城房は十一月十一日に、東京・中野区の豊多摩刑務所に送監される。ちなみに、戸田会長の東京拘置所への移監は、同じ十一月十一日。藤本蓮城房が移されるのと入れ替わりに、戸田会長が警視庁から東京拘置所に移されたのである。
 創価教育学会への弾圧事件同様、弾正講への取り調べも警視庁特高課が統括していた。二つの事件はまったく別々の事件のように見えるが根っこは同じで、官憲は被疑者を分断しながら、冷酷に宗教弾圧の網をしぼっていったのである。
 東京拘置所で鉄窓より同じ空をながめたであろう牧口会長と蓮城房とは、折伏の親が一緒である。両者を折伏したのは、研心学園(現・目白学園)の校長を務めた三谷素啓という人物。
 三谷は昭和二年に蓮城房、昭和三年に牧口会長を入信させている。三谷は昭和七年五月に逝去し、率いていた直達講はこれを機に解散した。
 蓮城房は、それより前の昭和五年十二月より月刊誌『太陽』を創刊。この雑誌を舞台に、日蓮正宗の僧である佐藤慈豊・真光寺住職とともに布教を目的に健筆をふるった。
 昭和十六年一月、出版統制により『太陽』は廃刊を命じられ、これを機に蓮城房は出家する。師僧は、当時の能勢安道・観行坊住職。このとき、秀之助を改め道号を蓮城とした。蓮城房は、昭和十八年四月七日付で沙彌から、三等学衆に昇級している。いわゆる袈裟免許である。
 余談になるが、同時に袈裟免許を受けた者の中に、現在の日蓮正宗参議会議長・高野日海(永済)がいる。売僧は生き永らえ高位に座り法を穢し、聖僧は獄に散り、法に殉ずる尊さを教えた。実に玉石混交の袈裟免許であったといえる。
 さて話を戻すが、三谷素啓という在家の強信者に折伏された牧口会長と蓮城房の二人ではあったが、牧口会長は堀米泰榮住職(のちの日淳上人)に近く、最後まで在家として折伏に励む。
 他方、蓮城房は『日蓮大聖人御書新集』を刊行した佐藤慈豊住職と行動をともにし、時を経て出家することとなる。
 だが二人は、国家権力による宗教弾圧によって相前後して逮捕され、昭和十八年の秋、同時期に東京拘置所に拘置されたのであった。
 蓮城房は、判決後まもなく豊多摩刑務所に移された。蓮城房は、この豊多摩刑務所から十二月五日付で妻宛に手紙を出している。その文末には、「全身是れ法悦 肉身は未練なるも心情浄一点曇りなし 此法悦感は余人所不見也」と、法悦にひたる喜びが記されている。
 この後、おそらく日経ずして、蓮城房は長野刑務所に送られたと思われる。冬場、零下十数度にもなる長野刑務所に送られる思想犯は、殺すことを目的に送られたという。
 蓮城房は、極寒の地・長野刑務所で昭和十九年一月十日に獄死した。享年五十五歳、長野刑務所に送られて、わずか一カ月前後の命であった。
 訃報を受け、子供たちと講中の者数名が長野刑務所に行ったところ、恰幅のよかった蓮城房はひどくやせこけ、まったく変わり果てた姿となっていた。見る者の誰の目にも、蓮城房がひどい扱いを受けたことがうかがえた。
 蓮城房は半袖で膝までしかない単衣を着て赤い足袋を履かされ、毛布一枚で死んでいたという。ただし、その如是相は穏やかであったと伝えられている。
 日蓮大聖人曰く。
 「有情輪廻生死六道と申して我等が天竺に於て師子と生れ・漢土日本に於て虎狼野干と生れ・天にはくまたか*・鷲・地には鹿・蛇と生れしこと数をしらず、或は鷹の前の雉・猫の前の鼠と生れ、生ながら頭をつつき・ししむらをかまれしこと数をしらず、一劫が間の身の骨は須弥山よりも高く大地よりも厚かるべし、惜き身なれども云うに甲斐なく奪われてこそ候いけれ、然れば今度法華経の為に身を捨て命をも奪われ奉れば無量無数劫の間の思ひ出なるべしと思ひ切り給うべし」(大井荘司入道御書)
【通解】衆生は生死六道を輪廻するといわれているが、われわれがインドで獅子と生まれ、中国や日本においては虎や狼や野干と生まれ、あるいは天にはくまたかや鷲と生まれ、地には鹿や蛇と生まれたことは数えきれない。あるいは鷹にねらわれた雉と生まれたり、猫にねらわれたねずみとして生まれたりして、生きながら頭をつつかれ、肉をかまれたりしたことも数えきれない。
 こうして、一劫の間に生まれて死んだところのわが身は須弥山よりも高く、大地よりも厚いだろう。実に惜しいわが身ではあるけれども、言うに甲斐もないほど簡単に生命を奪われてきた。
 したがって、今度、法華経のために身を捨て、命を奪われるならば、これこそ、無量無数劫という長い間の、このうえない思い出となると思いきりなさい。
 
 長野で荼毘に付し、遺骨を東京に持ち帰り、葬儀をおこなった。葬儀にあたり宗門から与えられた戒名は、「蓮城日秀居士」であった。
 宗門は、蓮城房が仏の法に殉じて獄死しても僧籍を復帰せず、「居士」号をつけて在家の扱いをした。しかも院号もなく、この戒名に弾正講の人々は、「これは墓檀家なみだ」と、怒りを隠さなかったという。
 ここで、蓮城房の一宗擯斥処分(僧籍剥奪)について触れておく必要があるだろう。蓮城房は死の前年、すなわち昭和十八年の六月十六日、保養のため出かけていた那須の温泉において不敬罪で検挙された。同日、蓮城房の豊島区の家にも十名ほどの刑事が来た。
 蓮城房は六月二十五日には行政検束とされ、その後、間もなく七月六日には、牧口会長らが逮捕されるのだが、宗門は逃げの一手。
 七月十二日には、宗門から弾正講幹部の飴山裕三宅に、藤本蓮城房の僧籍剥奪の電報が届く。八月一日、弾正講幹部が大石寺に行き、庶務部長・渡辺慈海に僧籍剥奪の理由をただしたところ、東京組寺会の処分要求決議があったので、それを受け処分を決定したと答えた。
 その処分の理由は、『蓮城師の法難を偲びて』(大塚興純・弾正教会第二代主管の著書)によれば、
 「一、蓮城は危険思想の所有者なる故
 一、所化の分際にて資格なく弘通し宗制宗規に違反せる故」
 という驚くべきものであったという。日蓮大聖人の教えを信じ行じている者を、「危険思想の所有者」と決めつけるほど、当時の宗門は狂っていたのである。かつ「所化」が「弘通」したことも、僧籍剥奪の理由とされたのである。評するべき言葉もない。
 こういった理不尽な理由で宗門は蓮城房の僧籍を剥奪しながら、殉教の後も僧籍を回復せず、在家のそれも墓参りだけする檀家なみの戒名をつけた。殉教の僧に対する、実に冷酷非道な仕打ちである。
 昭和十九年二月二十七日、いまは亡き藤本蓮城房の満山供養が大石寺客殿でおこなわれ、時の“法主”である日恭が導師をした。
 この満山供養において、弾正講の大塚光次氏により追悼文が読経の途中で読み上げられた。内容は、痛烈な日恭批判である。日恭を導師席に座らせて、まさに弾劾するものであった。藤本蓮城房を弔うのに、これ以上の追悼はなかったにちがいない。
 以下、長文になるが、その追悼文を掲載する。現在、日恭に非はなかったと言いつくろう日顕宗の輩は、これを読んだあとも、当時の宗門、なかんずく“法主”日恭に日蓮大聖人の弟子にあるまじき卑怯未練の心はなかったと強弁することができるだろうか。
 「   追 悼 文
 謹んで南無三世十方諸佛之御使獨一本門戒壇之大御本尊、南無一身即三身三身即一身三世常住主師親三徳、末法有縁之大教主日蓮大聖人、南無血脉付法之大導師御開山白蓮阿闍梨日興上人、第三祖閻浮提第一の御座主日目上人日道上人等代々御正師之法前に白して言さく。
 昭和十九年二月二十七日を卜して大導師六十二世日恭上人及び一山の龍象諸大徳を屈請し法席を荘嚴し上宗祖三寶に報恩の法味を捧げ奉り、一天四海皆帰妙法廣宣流布の願海に注ぎ特に新佛子蓮城日秀居士の精霊に廻向し亦兼て有縁無縁の法性界に結縁せん。
 法筵の催主等一同は新佛子蓮城日秀居士を輔導の父とし日蓮大聖人血脉正統冨士大石寺門流に生る、然るに未だ幾年を経ざるに三障四魔出現し此の輔導の父を拉し去る。
 而して転々信濃の国、長野の獄舎に投じ有漏の生命を絶れたり、時維れ昭和十九年一月十日酷寒零下十六度の地なりき。
 我等一往死生別離の悲みなるも生前の教訓に依り雲霧忽に散じて三世常住の日月を拝したり、今追悼の意を陳へんとす。
 新佛子蓮城常に我等に教えて云く日蓮大聖人の法義は道理と文証と現証との三証符合したる大法古今東西獨歩の妙判である、我等此の大聖人の教義に依り現在に皇国清浄土の建設を願業する者である、それには身軽法重の金言を堅く守り死身弘法の実行なくんば有るべからずと。
 而して新佛子蓮城信州長野の獄死は其の所信の不幸の結果なるが如きも之を聖者の證者なりとは知る者実に稀にして爪上の土も譬にあらざるなり。
 新佛子蓮城獄死の如是相如何 同信十余人眼前に現証を得而して言はく其の如是相を見るに平和の相ありて念嫉の相微塵も見えず身体柔軟*にして相貌平常より愛嬌あり殆ど好々爺の如しと経文の如くんば人天に生を受くる相なりと由来人天のみならず一切万物に永久の生なく永久の死なし、所謂現在の所行を因とし縁とし次第継続転々果となり報となる故に地獄、餓鬼、畜生、修羅、人界、天界と六道に輪廻して生の始めなく死の終りなきなり。
 新佛子蓮城此の因果事之一念三千の妙理を信じて十有余年未だ大悟の域に達せざるも常に三界の火宅に処して園囿に遊ぶ如しこれ死相の平和を示すと説かれしを実証して自他に方面に信心の下種を行ひしと見るものなり。
 夫大聖人の金言は現法主を通して始めて我等信徒の教規となる、此の教規を行使するは即ち我が宗務當局の諸賢なるべしここに新佛子蓮城は三等学衆を免許され日護と尊号を下し玉ふ。
 然るに昨年国諌に禍され入獄するや我宗務當局は何を考えてや僧籍を剥脱し日号を変更し居士となす、これ皆山法山規宗制等に依ての事と拝承せるも退いて一考するに宗祖の御書、開山上人の遺戒は如何、敢て當局に再三再四考慮を要望す、聞く昔し日興上人は彼の大謗法者、日朗、日頂にさへ慈悲の一手を差出し玉ふ、此れに日朗は悔悟して三十年法義を論談せず、日頂亦化を止めて冨士重須隠棲せりと、新佛子蓮城は朗、頂二師の如く誤らず謗法の行為あるにあらず心密かに宗開両祖の聖行の一分を敢て為さんとし世法の網に懸る、然るに我が本山宗務當局は世法に順し僧籍を削除す、嗚呼日興上人の御遺誡、死身弘法の行者を過する條目に違犯するを慨くや切なり。
 敢えて宗務當局に二十六ヶ条の一読を希ふ、又新佛子蓮城、常に我等に教へて云く日蓮大聖人所顕の法門は三大秘法なり、本門の本尊と本門の題目と本門の戒壇となり、三の名あるも其の体は一なり、所謂妙法蓮華経の五字なり、此の五字三世十方諸佛の師にして主師親なり、日蓮大聖人末法の一切衆生に此の事の一念三千の大法を下種され給ひ易信易行と為し給ふ。
 御義口伝に曰く畢竟とは広宣流布也、住一乗とは南無妙法蓮華経の一法に住す可きなり是人とは名字即の凡夫なり、仏道とは究竟即なり、疑とは根本疑惑の無明を指すなり、末法当今は此の経を受持する計りにて成仏す可しと定むるなり と、
 日蓮大聖人教化一門に国家諌暁あり即ち上御一人の御信仰は一国上下万民を信仰せしむる大権御発動也、故に国家諫暁を第一とす、
 宗祖大聖人は三度国諫し玉ふ。
 御書に云く『余に三度のかうみょうあり、乃至法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり』と、『又云く謗国の失を脱れんと思はば国主を諌暁し奉りて死罪歟流罪歟に可被行歟』
 又開山上人の御遺誡に云く『身命を捨てて随力弘通を致す可き事』と、
 之を拝するに新佛子蓮城の所行は宗開両祖の御所行の万分の一に當るも我宗務當局諸賢の行動は然らず千万分の一も叶はずと見え僻見なからん事を祈る者也、然らば故、蓮城房は血脉相承の法主にあらず一名字の凡僧を以て栄誉ある宗祖大聖人並に諸先師の芳躅を偲び敢て此の国諌を企て未だ聖聞に達せずして中途牢獄に入ると雖も之慥かに聖意に随ひ奉り而して悪酒に酔へる時代的僧侶に覚醒を促す一大警鐘なり、且つ夫たるや當時の裁判所、當局の聴取書に明かなる如く日蓮大聖人が弟子たらんものは来りて此の聴取書を翫味すべき也。
 御義口伝に云く 事理の不借身命之有り、法華の行者田畠等を奪はるは理の不惜身命也、命根を断つを事の不惜身命と云ふなり、今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は事理共に難に値ふなりと。
 御書を心肝に染め極理を師伝する流を汲みたる故蓮城房の斯事は本宗大石寺信行史に燦然たる一頁を加ふべき名誉にして大顕彰に値すべきもの也。
 然るに宗務當局は大忠に無比なる日蓮大聖人の御跡を偲ぶ蓮城房の僧籍を削除せり之を聞く者親疎を問はず唯呆然たるのみ、近くは本山五十二世日霑上人は幕府を諌暁して用ひられざるも其の忠誠を嘉称せられたり而来僅か百年に足らず其の流れを汲むべき宗務當局は此の初心の行者を蔑如して僧籍を削除す実に前例に見ざる極悪不法の処置なり、知らず當局諸賢は自己の良心に恥ざるや否や。
 宗祖日蓮大聖人玉はく、哀哉今日本国の万人日蓮並に弟子檀那等が三類の強敵に責られ大苦に値ふを見て悦んで笑ふとも昨日は人の身の上今日は我身の上なれば日蓮竝びに弟子檀那共に霜露の日影を待つ計りぞかし、只今仏果に叶ひて寂光の本土に居住して自受法楽せん時汝等阿鼻大城の底に沈みて大苦に値はん時我等何計り無慚と思んずらん汝等何計りうらやましく思んずらん、一期を過る事程も無ければいかに強敵重なるともゆめゆめ退する心なかれ等云云。
 此の聖教を拝せば一日片時の惰眠は許されず夫れ大聖人の金言は一言一句たりと雖も忽諸し奉るを許さず、況や之を抹殺するに於てをや、何に況んやこれを侵せば聖意に逆く大謗法罪也、而して開山日興上人二十六ヶ条の御遺戒文は本宗唯一無二なる僧侶の亀鑑たり万代不易の亀鏡なり、反くは大逆師敵対の邪説、己義の法門也、宗義也、堕地獄の根源也。誡めらるるに後代の学侶敢えて而も疑惑を生ずること勿れ、此の内一ヶ条においても犯す者は日興が末流に有るべからざる者也。
 之によって之を思へば故蓮城房の所行は宗開両祖の納受を得たる明し也と、故に不幸我が賢明なる當局諸大徳には未来所罰の因となれり、今三寳法前に故蓮城が獄中より教訓の一部を奉告し奉る。
 昭和十八年十月二十二日付
 『獄中の弁当にて満足し居れり但し腹半分也(中略)諸天加護なしと疑ふ勿れ成仏疑ひなしといふ大証明なり、現在の境遇を不幸とのみ見るは之偏見なり、之護法の功徳力也 蓮城は此の侭死すとも観喜なり。妻子は今の苦が如説修行也、同信の諸師は僕の為に苦労をされるが、如説修行なり、蓮城は〆殺さるるとも大聖人の御意にソムキ居らざるつもり也。凡夫の常気付かざる事は知らず 国家の禍の源を知り乍ら聴き乍ら見乍ら言はざれば不忠也、不敬也。
 正直に申し上げて難に遭ふ 破仏法の因 破国の因を直言して罪に問はる 之れ過去に正法を持つ人を罰せし宿業なること疑ひなし、(中略)僕は保釈も不能、執行猶予なしとすれば第一審で服罪した方が宜敷かとも考えて居る。僕の弁護士は日本国には無き筈なり、或いは不知童子をして衛護せしむと云ふ佛語あり、見方に依れば刑務所も正法の道場也、されど娑婆一年の修業は刑務所一週間の功に及ばずか乃至すべては御妙判に依り御判断相成たし。
                       合掌』
 嗚呼 大聖人を思い信ずるは之にすぎたるはなし、国を憂ふに之にこえたるはなし、此の時身命を惜しむならば又何時の世に仏になるべきか。僅かの小嶋の主等がおどさんに恐れては閻魔王の責めをば如何せん、仏の御使と名乗り乍らおくせん事は無下の人々なり、魔来らざれば正法に非ず、魔来る事それ即なり、即ち大聖人の金言を口伝するものなり。
 噫大聖人滅後六百余年の間斯くの如くして仏意に従い奉りし人幾人有りや、恐らくは十指に満たざるべし、而るに我が宗務當局は蓮城房の舌禍入獄を機とし之が僧籍削除を宣言し了ぬ、実に冒涜の極みなり、位階の高下智解の多少に或は隔歴あるも信法信行に至っては師に譲らざる概あるなり、云く、畜生の心は弱きをおどして強きをおそる。
 諸師は此の御聖訓に恥ざるや。
 出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是れ仏在世の六師外道が弟子也と、
 此の誡めを、又開山上人の御遺戒に反き奉らば必ず頭破作七分して阿鼻大城に堕し一劫十劫百劫継歴して大苦悩を受くること疑ひなからん。
 大聖人の金言に、『今日蓮が弟子等も亦是の如し、或は信じ或は伏し或は従ふ但名のみ之を仮りて心中に染めず信心薄き者は設ひ千劫を経ずとも或は一無間、二無間乃至十百無間疑ひ無からん者か』と。
 吾人異体同信之輩、無量劫に得難き身命なるを知る故に此の金言を心肝に染めん事を三寶御寶前に誓ひ奉り謹んで宣誓する者也。
 吾人に直言を許せ今にして猶徒然たる宗務當局は財魔、色魔、酒色妻子に法魂を奪はる也、名聞名利の風に折角の妙華を散らすものなり、従って智解の清水は凅渇せられ錯覚と迷惑に翻弄され不惜身命の法の為に願い給はざると噂頻々たり徒らに長命を願ひて何の詮か有らん、諸士の安逸を貪るを羨むに非ず吾等只だ自他一同仏にならんと願ふばかり也。
 されば我等は日蓮大聖人に従ひ奉り強盛な信行に勇猛精進し法王が家人として恥じず佛祖の御跡を紹継せんとする者也、維れ蓋し佛祖竝に正師上人の御報恩にして抑亦特に吾等の恩師に酬ゆる報恩の資料と成さん、願くは此の大願を以て已謗と未謗の一切衆生に与え結縁し佛身を成就せんと念願し奉る。
 謹んで新佛子蓮城日秀居士追悼の辞とす。

 如説修業の現証なるも之を知る人は少なり、又口に出す人も僅かなり、正法治国邪法乱国、吾等も此の全世界を挙げての未曾有の大動乱 本国土妙大日本国の危機一大事に直面して国を憂ふ事何人にも不劣と自負する者也、即ち佛の金言を守るが故也、国民の本分を盡すが故也、今眼前に国家の禍の源を知って言はざるは大不忠也、大不敬也、在家なりと雖も此の聖訓を心肝に染むる者也、況んや出家者に於てをや、重ねて言ふ現事局を何と見るか吾人已に大聖人の御許を得たり
 幸に時宜を得んか直に不惜身命の実行せんの覚悟や切なり、此処に故蓮城房の身読と判決文の概略を三寶御寶前に謹告し奉る。
   要 旨 蓮城房の曰く
 正法に依て戦勝の祈念をすれば即ち易く勝ち、邪法に依て戦勝の祈念をすれば不利の状態に立ち至るのであります、ですから正法に依て国教樹立し正法に依て戦勝祈念をしなければ全人類を救ふことは出来ませんのであります、我が国には其の使命があります。
 私は身分低い為どうか検事殿から天皇陛下に此の正法を保って戴きます様御進言申し上げて頂きたいので有ります、而して私の身命は喜んで国法の下に服従するものであります。閻浮提第一の御本尊は日蓮大聖人より第二世日興上人に下し給った唯一無二の大本尊であります。血脉相承ある冨士大石寺に於いてお守り申しております。此の安置の戒壇には大梵天王帝釈等の古き国神も来下してふみ給ふべき御誓約であります。
以上

  判決言渡要旨
 正法に依って大石寺の曼荼羅を以て右の如く言ふは天皇陛下の御威勢を云云する事と相成り懲役一年四ヶ月未決通算二十日の判決を言渡す者也
 但し右判決不服の場合は五日以内に上告すべし
以上

 幸に吾人等は諸天の加護を得たり、當日此の席に列り判決を眼前に聞くを色心共に感激に躍動せり、大法悦也、爪上の土のみ之を知る、之を要するに我等の善なる導師蓮城房の言行は些の私事を見出さず、其の進言は常に広略を捨て要に取る所謂要中の肝要なる者也、実に一語の己説を混へざる。
  昭和十九年二月二十七日
       異体同心者  大 塚 光 次
                       合 掌
  唱題三返」
 この追悼文は、弾正講の大塚光次氏と飴山裕三氏が書き、佐藤慈豊住職が手を入れたという。
 満山供養にあたり、この追悼文を日恭を前にして読み上げた大塚光次氏は、のちに弾正講講頭となり、昭和二十一年、能勢安道住職を師僧に出家し道号を興純と称し、千葉県市川市の弾正教会(現・弾正寺)第二代主管となった。
 なお、ここで明記しておきたいことは、獄にあってよく法を護持した真正の僧・藤本蓮城房について、日蓮正宗はこれまで、まったくといっていいほど真実を公表してこなかった。また、ふさわしい顕彰もなさなかった。
 それは、ひとえに戦中における日蓮正宗の旧悪が露呈することを恐れたが故である。そのため、日蓮正宗においては、いまでは蓮城房より日恭が尊ばれ、正邪は転倒している。この狂いが、いま日顕という魔僧の跳梁を許しているのである。
 最後に、日蓮大聖人の御聖訓をもって藤本蓮城房を追悼する。
 「法華経を余人のよみ候は口ばかり・ことばばかりは・よめども心はよまず・心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」(土籠御書)
【通解】他の人々が法華経を読んでいるが、口ばかり、言葉のうえだけで読んでいるだけで、心では読んでいない。たとえ心で読んでも身では読んでいない。あなたのように色心の二法にわたって法華経を読まれたことこそ、まことに尊いのである。
 
〈参考資料〉
 「    藤本秀之助に對する起訴状

 被告人藤本秀之助は兵庫縣美嚢郡志染村志染尋常小學校卒業後、農業の手傳等を爲し、明治四十四年頃上京一時新聞社等に勤務し大正三年頃より獨立して經濟雑誌の發刊豫約出版關係事業等に從事し、昭和二年頃日蓮宗の一派日蓮正宗の強信者三谷六郎より日蓮正宗の教義の解説を受け、之を信仰するに至り昭和五年頃より月刊雑誌『不二評論』(後に『太陽』と改題)を發刊し、日蓮正宗の教義の流布竝に同宗を國教と爲すべき旨の主張を爲し來りたるものなるが、昭和十六年一月『太陽』を廢刊し日蓮正宗の僧侶となり、爾來毎週土曜日東京市豐島區巣鴨七丁目千八百六十六番地の自宅に信者を集め、同宗教義の解説に努め居りたるものなるところ、今次大東亞戰爭は、畏くも天皇陛下が日蓮正宗を國教として採用せられざる結果發生したるものなるを以て、天皇陛下に於て速に日蓮正宗を國教として採用せらるべきものなりと做し、昭和十七年一月頃以降同十八年六月頃迄の間前後數囘に亘り右自宅に於て信者高鹽行雄他十數名に對し、今次大東亞戰爭に際し『大東亞戰爭は日本が先に手を出したから英米から反撃されるのも當然だ此の報ひは天皇陛下にも來るのである。天に唾を吐けば自分の顔にかゝり壁に球を打ちつけると強く跳ね返つて來るのと同じだ。今日本は物が不足し餓鬼道に堕つて居る。日蓮大聖人の言はれた通り末法三災七難が來たのである。此の正法(日蓮宗を意味す)を用ひない爲に物資不足戰爭大水暴風雨の災難が起きて居るのだ。戰爭によつて斯樣な苦しみが來て居るのも天皇陛下が正法を國教として御用ひにならないからである。第一次歐州大戰の時に負けた樣な憂目を見る。折角取つた占領地も亦取られる樣な事になるから、此法を早く天皇陛下が國教として御用ひになる樣にしなければならぬ。
 天皇陛下が此の正法を國教として御用ひになる樣になると、富士の大石寺には日蓮大聖人が日興上人に與へられた曼荼羅があるから、此の本尊により天皇陛下も授戒せられ大石寺に國立の戒壇が出來るのである。』
 との旨申聞く畏くも御聖徳を誹議し奉り以て天皇陛下に對し奉り不敬の行爲を爲し且つ戰時に際し時局に關し人心を惑亂すべき事項を流布したるものなり。
檢事 吉 田 榮」
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