第18章 現 証 歴 然


 第668号  1993年6月14日

日蓮正宗自由通信同盟

「通諜」の所有者である竜門講・稲葉「証言」は不可解極まる
「神札問題」の度に浮上する「通諜」の作成意図は明らかだ

 『慧妙』(平成五年六月一日付)は、戦後入信の法華講員が作った謀略文書「通諜」(正しくは通牒)について報道している。
 「通諜」が戦前の創価教育学会当時に作成されたものとし、戦中、日蓮大聖人の教えどおり、謗法厳戒の姿勢を貫いた創価教育学会の歴史に瑕をつけようとしているのである。
 「通諜」の内容ついては、本紙『地涌』(第60号、第61号、第62号、第666号)に詳述しているので、それを参考にしてもらいたい。
 この「通諜」は、戸田理事長(当時)名で創価教育学会の各理事、各支部長宛に出された体裁をとっており、文中、神札を「粗末に取り扱はざる様」などと書かれている。
 日顕宗の『慧妙』などは、これをもって戦中、弾圧を逃れるために日蓮大聖人の正法正義を捨て去った宗門と同じ教義違背を、創価教育学会がおこなったかのように報じているのである。
 さてその『慧妙』が、「通諜」を戦中のものであると報ずる根拠は、稲葉荘「証言」である。稲葉は、昭和三十年当時に当局より、父の稲葉伊之助の押収資料とともに、牧口常三郎会長の押収資料も返却されたとし、そのいずれかに「通諜」が入っていたとしている。
 『慧妙』は、その稲葉「証言」より邪推をなし、「『通諜』は誰の手にも渡らないまま、約三十枚がそっくり牧口氏宅から官憲に押収されたものと考えられる」(『慧妙』平成五年六月一日付より引用)としている。
 だがこの「通諜」は、本紙『地涌』が何度も報じたように、戦前においては日蓮正宗および創価教育学会と縁もゆかりもない、戦後入信の法華講員が書いた文書なのである。有力情報に基づき、書いた人物の特定がされている。
 『慧妙』は、「また『(通諜は)戦後に入信し、戦前の学会とはなんの関係もない、ある特定の法華講員が作成した』との妄説については、ならば、その『特定の法華講員』の氏名と、その人物が『作成した』という根拠を責任をもって明示せよ(どうだ、できまい? それは学会のムリな言い掛かりだからだ!)、と申し伝えておく」(同)などと、いつものことながら意気がっているが、意気がれば意気がるほど後に引き下がれなくなり、行く末、醜態を晒すことになるだけである。
 ここで、稲葉「証言」の不可解さに触れてみたい。
 『慧妙』は、「当局より、牧口氏の押収資料も一緒に引き渡され、稲葉荘氏は、ハトロン紙に包んだ返還資料を二人分(二個口)持ち帰ってきた」(同)とし、「この引き渡し洩れの牧口氏の資料の中にあったか、あるいは稲葉氏の分の資料の中にあったか、定かに区分けすることはできないが、ともかく、そのとき稲葉氏宅に残った資料の中に、ワラ半紙にガリ版刷りの『通諜』があったのである。その数、およそ三十枚」(同)と、稲葉「証言」を伝えている。
 稲葉は「およそ三十枚」という正確な記憶をなしているのに、どうしてそれが牧口会長分の押収資料か、自分の父親分の押収資料であるかの判別についての記憶がないのであろうか。
 この謀略文書「通諜」が、戦後入信の法華講員によりデッチ上げられた偽書であるとの真実を知るだけに、稲葉「証言」の記憶の偏りが気になるのである。
 稲葉は、戦後第一次の檀徒活動の中心メンバーである。昭和二十六年五月三日、戸田会長が創価学会第二代会長に就任したが、この前後、戸田会長の会長就任を快く思わない創価教育学会の元幹部たちが、反創価学会イコール反戸田の旗幟を鮮明にし、末寺に直接つき檀徒となった。
 元幹部らの多くは、戦中において国家権力の弾圧に抗さず信仰信念を曲げたが、その過去を戸田会長に指摘されることに反感を抱いていた。だが、法難に強い創価学会組織の再建をめざしていた戸田会長にしてみれば、戦中、法難に抵抗することもなくもろくも崩れてしまった幹部になあなあの評価をし、真実を蔽い隠すことなどできはしなかったであろう。
 まして、師たる牧口会長が獄中にあって死を賭して国家諫暁をなされているのに、それに背を向け逃げ出した弟子らを馴れ合いで許してしまえば、仏意仏勅の団体として創価学会を再建することなどままならない。
 広宣流布へ向けて仏の軍勢を組織化するという戸田会長の使命感が、裏切ったかつての同志たちの公的評価に私情をさし挟む余地を与えなかったと思われる。
 師を裏切った弟子らを許さなかった戸田会長を、創価教育学会の元幹部らは逆恨みした。なかんずく、創価教育学会のナンバー3の位置にあった副理事長の野島辰次は、戸田会長のみならず牧口会長まで恨んでいた。
 野島は、昭和十八年六月に宗門より創価教育学会首脳が神札を受けるように言われたとき、宗門の指示どおりにすべきであったと考え、牧口会長らが自説に固執したがために、自分は長く獄に繋がれ辛酸をなめたと、出獄後においても考えていた。
 しかも野島は、戸田会長にはなはだしい怨嫉をしていた。これらのことは、野島の手記『我が心の遍歴』を読めば歴然とする。
 この野島は、戦後まもなくより砂町教会(のちの白蓮院)を拠点に活動をおこなった。この砂町教会には、稲葉荘の父・稲葉伊之助も所属しており、これらの事情からして、砂町教会に出入りする創価教育学会の元幹部と、再建途上の創価学会との間に微妙な緊張感が生じていた。
 それが昭和二十六年五月三日、戸田会長が第二代会長に就任したこと、それにひきつづき創価学会が単独で宗教法人格を取得しようとしたことなどにより、砂町教会に集まる野島らの反感はいっそう強まったようである。
 昭和二十五年八月三日には、かつて創価教育学会の理事であった稲葉伊之助が死去したが、その息子・稲葉荘が砂町教会で野島らとともに活動していた。
 創価学会と砂町教会との対立が顕在化したのは、狸祭り事件(昭和二十七年四月)の直前であったようだ。
 当時、砂町教会の住職は千種法輝。この千種法輝の実母(千種花子)がなかなかのやり手で、檀徒とも親しく法務に影響力を持った。この砂町教会と創価学会が、ほんの一時期であるが表立って実に深刻に対立した。
 昭和二十七年三月二十日付の『聖教新聞』にその片鱗を認めることができる。「寸鉄」に次のように書かれている。
 「六、折伏してお寺へ新しい同士を一人案内する時の嬉しさ、折伏の苦しみを知つた者でなければ味わえない境地である。
 七、それを喜ばない坊主がいると聞く、うそとは思うが若しいたとすれば、そんな坊主は日蓮門下というのでなくて天魔門下だ。
 八、御受戒するとかせぬとかいう事は御僧侶の権威だと思つていたらあるお寺のくそ婆が御受戒をするとかしないとか威張つたそうな、イヤハヤ世の中も闇だ。
 九、それは紹介者が惡いからだろう。書式がととのつていなかつたに違いないと思う奴は大ちがい、紹介者が会長先生で折伏も会長さ。
 十、とんでもないくそ婆だ、それは創價学会にけんかを賣る氣だ見事に買つてやろうではないかといきまいた青年がいる、その時寸鉄居士曰く
   『婆というものは先に死ぬものだ、あわてるなあわてるな、いや大聖人樣からしかられてお尻に大かいおできでも出來てウンウンうなつて死ぬさ』」
 同年四月一日付『聖教新聞』の「寸鉄」にも、次のような下りがある。
 「六、会長先生にたてついた婆さんのいるお寺で、御受戒になまけ出したとさ支部長幹部ががまんの緒を切つて何故かと伺つたらお彼岸まわりで忙しいそうな
 七、日蓮正宗にお彼岸つてあるのかい、即身成佛の教ぢやないか
 八、口の惡いのがおつてそれはお彼岸廻りではない、お布施廻りだよとさ
 九、お布施まわりでもよいから御授戒だけちやんとやつたらいゝじやないか、所化さんの手が足りないんだとさ
 十、迷案を言上する、レコードにお経をふき込んで三人程手わけして信者の家でかけて居て、坊さんが自轉車にのつて、まわつて歩けば間に合うじやないか」
 野島や稲葉らが檀徒として所属していた砂町教会が反創価学会色を強め、創価学会の折伏した人の御授戒をしなくなったことが、この「寸鉄」からうかがえるのである。それに対する創価学会側のエキサイトぶりが充分、伝わってくる。
 ということは一方で、砂町教会側も極限までエキサイトしていたことになる。もともと創価学会嫌いの野島などは、ここぞとばかりに創価学会や戸田会長の悪口を言ったことだろう。創価学会に対抗するために砂町教会内に竜門講が結成された。野島、稲葉らは、その中核となって活動した。
 だが、この両者の極限までの対立も、すぐさま氷解するに至っている。創価学会は同年(昭和二十七年)六月、白蓮院鶴見支院を寄進することを決め、七月には寄進している。
 謀略文書「通諜」がどのような事情で作られたかを、もっとも強く示唆している事実がある。その事実とは、「通諜」が竜門講員である稲葉荘の手もとにしかないという動かし難い事実である。
 稲葉の証言によれば、それも「およそ三十枚」あったということである。この「通諜」について所蔵に関する記憶の定かでない稲葉が、「およそ三十枚」という意外なほど鮮やかな記憶を有していることが気になるのである。
 稲葉「証言」には、他にも不可解な点がある。『慧妙』には、
 「稲葉荘氏夫妻が、昭和十八年六月下旬当時の出来事として、『学会では、慌てて神札の取り扱い方を変え、いちおう受け取るよう、指示を流しました。私の家も、それで神札を受け取ったんです。それが、おそらく本山からのお話のあった直後のことだった、と思います』と証言していることだけ紹介しておこう」(『慧妙』平成五年六月一日付より引用)
 と書かれている。稲葉荘は、大正十一年十一月二十一日生まれ。昭和十八年六月当時、満二十歳。「稲葉荘氏夫妻」は、すでに結婚していたのであろうか。
 稲葉荘は、昭和十五年、渋谷の府立第一商業(旧制)卒業後、日満商事に就職して昭和十六年頃から満州(現在の中国・東北部)に行き、徴兵検査で一度、短期間、日本に帰ってきただけで、昭和二十一年まで外地にいたという。
 すなわち稲葉は、「昭和十八年六月下旬」には、日本にいないのである。その稲葉が、この当時の創価教育学会についての「証言」をすること自体が不可解である。
 この「通諜」のコピーが世に最初に出回ったのは、昭和五十二年のことであった。この昭和五十二年は、戦後第二次檀徒活動である正信会活動の胎動の年でもある。そして第三次檀徒活動ともいえる「C作戦」発動にあたり「通諜」が再び浮上した。創価学会切り崩しをめざした檀徒活動のたびにクローズアップされる「通諜」。
 それは、「通諜」がもともと創価学会攻撃を意図して作られたことを暗示しているかのようでもある。事実は、戦後、第一次檀徒活動をおこなった竜門講の稲葉荘の胸に秘められている。
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