第18章 現 証 歴 然


 第667号  1993年6月10日

日蓮正宗自由通信同盟

宗門は戸田城聖会長存命中は真実露見を恐れて口をつぐみ
没後35年を経て謀略文書「通諜」を元に史実を覆そうとする

 『慧妙』(平成五年六月一日付)は、『富士宗学要集』(堀日亨上人編)第九巻に、「十八年六月には、学会の幹部が総本山へ呼ばれ、『伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう』の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた牧口会長は、その場では暫く柔らかにお受した」と記されていることを取り上げ、あたかも創価学会側が、宗門の指示する神札甘受を認めたかのように記している。
 しかも、この『富士宗学要集』第九巻の文について、「左の一編は小平芳平氏の記に依る」と『富士宗学要集』に書かれていることをもって、これを創価学会の公式見解であると解釈している。根拠は、小平氏が本稿執筆当時に創価学会教学部長であったということになる。
 たしかに小平氏は、創価学会を代表して「昭和度」の法難史を記したものであろうが、『富士宗学要集』の編者が日亨上人であることから、編者への遠慮があったものと思われる。日亨上人は昭和十八年六月、神札甘受についての宗門より創価教育学会への申し渡しに立ち会われている。
 そして、いわずもがなのことであるが、宗門の戦中の罪をかばって創価学会側が露骨な表現を避けたと考えられる。
 まして「暫く柔らかにお受けした」とは、激しく反発をせず話をいくらか聞いたといった程度のニュアンスにしかとれず、これを神札甘受にたちまち結びつけることは、やや無理がある。
 この『富士宗学要集』第九巻は、昭和三十二年十月十日発刊である。当時の管長は、戦中戦後において、創価学会の最も良き理解者である堀米日淳上人である。それだけに創価学会側は、史実を伏せて宗門をかばい、穏当な表現をしたと思われる。
 このことは、戸田第二代会長が「妙悟空」の名で著された『人間革命』の単行本発刊にもあらわれている。『人間革命』は、もともと『聖教新聞』紙上に昭和二十六年四月より昭和二十九年八月まで連載されたものである。
 この『聖教新聞』の連載をまとめて昭和三十二年七月三日に単行本にしたのだが、新聞紙上に連載の『人間革命』に記述されていた、昭和十八年六月に宗門が神札甘受を命じた箇所が単行本では割愛されている。以下に、割愛された箇所の一部を紹介する。
 「笠公〈小笠原慈聞〉は破門せられ、堀井〈堀米泰榮・のちの日淳上人〉尊師は内務部長の位置を離れた。ガサ公は野にある虎の如く宗門に喰ってかかつてゐる。
 牧田〈牧口会長〉先生の一行はこの空気の中に登山したのであつた。客殿の隣りにある広書院へ通された、正面には日恭上人、お隣りにすこし座を下つて堀御隱尊猊下が着座されている。すこしその下手に新らしき内務〈庶務〉部長渡辺慈公〈渡辺慈海〉尊師がお座りになつている。正面にむかつて下座に牧田先生の一行は静粛にかしこまつていた。
 慈公尊*師が牧田先生に向つて
  『牧田さん、今度登山をお願いしたのは折入つてよくお話したい事があるのです、それは外でもないが神札の問題です』
  『ハツ』と云つて牧田先生はあらたまつた。巖〈戸田会長〉さんと他の一行は何だ神札の事かと云う様にケロリとした顔をしていた。
  『貴方の会では神札を焼かせたり神棚をとつたり、又神札を受けないそうじゃありませんか』
  『それはどう云う事なのでしょうか』
  と牧田先生もけげんそうな顔をされた。
  『時勢がこの様な時勢だから、神札だけは各寺院でも一応は受取る事にしたのです、貴方の会でも神棚や神札にふれん様にしたらいかがですか、そうして頂きたいと此方は希望するのです』
  牧田先生は決然と言上した。
  『神詣でのついでに宗祖聖人へお目通りに来られた尼をおしかり遊ばしたと云う話も承わります、御開山上人の身延離山のその原因に地頭波木井が三島神社へ供養した事がある、と承わつて居ります。牧田は決してそんな事は出来ません』
 慈公尊*師
  『何事もおんびんにやつてもらいたいと云う主旨なのです』
  『天照大神は天皇陛下の先祖であつてかえつて我々がズケズケおまいりするのは不敬になるとしているだけなのです。今少し強く申し上げたいと思いますが、時ではないと思うので、これでも心掛けているつもりです。ただし謗法だけは我等の会員にはさせたくないと思いますが、どうしたものでしようかな』
  『一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい』
 あまりの言葉に何事にも無頓着な巖さんでも、やれやれこれは困つたもんだわいと思い出した」(昭和二十八年十二月六日付『聖教新聞』より一部抜粋。〈 〉内は筆者加筆)
 単行本化するにあたり、これらの箇所が割愛されたのは、堀米日淳上人が猊座にあり、宗門の創価学会への理解が高まっていたという時代状況にあったことと関連すると思われる。これと同様の配慮が、『富士宗学要集』の記述の仕方にもなされたのであろう。
 昭和十八年六月、宗門が創価教育学会首脳を呼びつけたときの真実は、まぎれもなく戸田会長の「創価学会の歴史と確信」に記されたとおりである。
 「当時、御本山においても、牧口会長の、宗祖*および御開山のおきてに忠順に、どこまでも、一国も一家も個人も、大聖の教義に背けば罰があたるとの態度に恐れたのである。信者が忠順に神棚をまつらなければ、軍部からどんな迫害がくるかと、御本山すら恐れだしたようである。
 昭和十八年六月に学会の幹部は登山を命ぜられ、『神札』を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうかと、二上人立ち会いのうえ渡辺慈海師より申しわたされた。
 御開山上人の御遺文にいわく、
 『時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事』(御書全集一六一八ページ)
 この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山したのであった。しこうして、その途中、私に述懐して言わるるには、
 『一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖*聖人のお悲しみを、恐れるのである。いまこそ、国家諫暁の時ではないか。なにを恐れているのか知らん』と。
 まことに大聖人の御金言は恐るべく、権力は恐るべきものではない。牧口会長の烈々たるこの気迫ありといえども、狂人の軍部は、ついに罪なくして罪人として、ただ天照大神をまつらぬという“とが”で、学会の幹部二十一名が投獄されたのである。このとき、信者一同のおどろき、あわてかた、御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、みるも恥ずかしきしだいであった。牧口、戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家とののしられたのは、時とはいえ、こっけいなものである」(『戸田城聖全集』第三巻所収「創価学会の歴史と確信」より一部抜粋)
 この戸田会長の論文は、「上」「下」にわかれており、会長就任間もない昭和二十六年の『大白蓮華』(「上」は七月号、「下」は八月号)に発表された。
 また、昭和二十七年六月十日付『聖教新聞』には、つぎのような戸田会長の談話が掲載されている。
 「戰局も悲運にかたむき、官權の思想取締が徹底化して來た昭和十八年六月初旬に総本山から『学会会長牧口常三郎、理事長戸田城聖その他理事七名登山せよ』
 という御命令があり、これを受けた学会幹部が至急登山、その当時の管長であられた鈴木日恭猊下、及び堀日亨御隱尊*猊下おそろいの場に御呼出しで(場所はたしか元の建物の対面所のように記憶している)、その時その場で当時の内事部長渡辺慈海尊*師(現在の本山塔中寂日坊御住職)から『神札をくばつて來たならば受け取つて置くように、すでに神札をかざつているのは無理に取らせぬ事、御寺でも一應受け取つているから学会でもそのように指導するようにせよ』と御命令があつた。
 これに対して牧口先生は渡辺尊*師に向つてきちつと態度をとゝのえて神札問題についてルルと所信をのべられた後、『未だかつて学会は御本山に御迷惑を及ぼしておらぬではありませんか』と申し上げた処が、渡辺慈海尊*師がキツパリと『小笠原慈聞師一派が不敬罪で大石寺を警視廳へ訴えている、これは學会の活動が根本の原因をなしている』とおゝせられ、現に学会が総本山へ迷惑を及ぼしているという御主張であつた」(昭和二十七年六月十日付『聖教新聞』より一部抜粋)
 この戸田会長の談話は、この年四月の狸祭り事件にまつわり出されたものである。このとき宗門は、狸祭り事件にこと寄せて戸田会長を処断しようとしている。
 戸田会長の書いた「創価学会の歴史と確信」や『聖教新聞』紙上に出された戸田会長談話に、事実に反する宗門誹謗があったとすれば、この昭和二十六年、二十七年当時、大いに問題になっているはずである。
 戸田会長存命中は、戦中の教義違背の罪を暴かれるのを恐れて宗門は口を閉ざしており、戸田会長亡き後、三十五年を経てから日顕宗機関紙である『慧妙』などで史実を覆そうとする。汚いといえばあまりに汚いやり口である。
 真実は、創価教育学会副理事長であった野島辰次がその手記の中に記している。
 野島は創価学会を嫌悪し、昭和二十七年頃に戦後第一次の檀徒活動の中核として暗躍した経歴の持ち主である。
 「あれはこの六月の末、私が学会から特派されて福岡へ一週間ほどの旅行に出かける前のこと、本山から特に招請状が来たので、真木大三郎〈牧口常三郎〉、遠田丈男〈戸田城聖〉、葉山仁之助〈稲葉伊之助〉、岩間謙三〈岩崎洋三〉、中川清右衛門〈西川甚右ェ門〉など幹部の一行に私も加わって大石寺へ詣り、そこには法主〈日恭上人〉、元法主〈日亨上人〉も列席し、主として総監亘理慈全〈渡辺慈海〉から、皇大神宮の大麻を祀ることについての取扱方、時局柄あまりこの問題で摩擦を起こさないようにという注意があったが、学会としては、この問題はこれまでにも度々論議されたことで、真木会長の指導で、一貫した理論を持っていたつもりだったので、折角の本山のえんきょくな注意を受け入れるどころか、返って逆襲した形で、勿論、こちらは真木先生が中心になって応答したのであるが、私などもその尻馬に乗って、ふだん聞かされていた天照大神天皇一元論の一端など一くさり述べたのだった」(野島辰次遺稿集『我が心の遍歴』より引用。〈 〉内は筆者加筆)
 これを書いた野島は、戦中、官憲に逮捕されたときには一心に早期出獄を願い、創価教育学会の組織壊滅の導火線となった。
 にもかかわらず、早期出獄を果たせなかったのは、牧口会長、戸田理事長(当時)らのせいであると逆恨みし、昭和十九年八月の出獄後、牧口会長の死を知ったときも、心には冷たい反応しか涌いてこなかったとし、
 「『さういえば真木先生って方がお亡くなりになったそうですね、この間兄から電話があった時にそういってましたよ』と健助〈野島辰次〉達も当然もう知ってることのようにそういわれ、ところが健助はその時初めて真木大三郎の死を知ったのだった。『ああそうですか、真木先生が……』
 あっさり聞き流すような、うわべは平気な風を健助は装ったが、ひやりと冷たいものを頸筋のあたりに何かそういうものを感じた。(中略)それほど健助は他人のちょっとした出来事を知ったほどに冷たくなっていたのだが、若し健助の心がもう一段冷たくなっていたなら、真木という恩師の死に対して、悪魔のような嘲笑をひょっとしてその口辺にただよわしたかも知れない」(同)
 というふうに『我が心の遍歴』で述懐している。
 この野島は、自分を含めた創価教育学会首脳が、昭和十八年六月の宗門の指示を聞き入れなかったことが、災いの因となったと考えていた。もっと率直に述べれば、このときの「御指南」に逆らったから、罰を受け投獄され家族ともども地獄の苦しみを味わったと、牧口会長を心底、恨んだのであった。
 その野島が創価学会側に立ち、昭和十八年六月の状況を創価学会側に有利に美化する必要などないのである。それだけに、国家権力による法華経の持者に対する弾圧を、法難と受けとめず災い(罰)と考える野島による件の情景描写は信用できるのである。
 野島は、昭和二十六年、戸田会長が会長就任したことを面白く思わず、砂町教会(のちの白蓮院)を拠点に反創価学会の活動をおこなった。このとき、野島とともに戦後第一次の檀徒活動をしたのが、牧口会長の縁戚でもある稲葉荘である。
 その稲葉が「通諜」(正しくは通牒)を今さら持ち出し、真実めいた「証言」をしている。
 稲葉が、この「通諜」が真実であると確信していたのなら、昭和五十二年頃に「通諜」のコピーが出回ったとき、どうして正々堂々と“返還された押収書類”と証言しなかったのだろう。檀徒活動の先輩らしくないではないか。その事情は後ろめたさから、話せなかったものと思われる。
 さて、『慧妙』の記事に話を戻そう。
 『慧妙』は、『富士宗学要集』に創価学会側の書いた文として、「牧口会長はその場で暫く柔かにお受した」(『富士宗学要集』第九巻より引用)と記述されていることにつづき、同文の、「合同問題のもつれと、小笠原一派の叛逆、牧口会長の国家諫暁の強い主張等を背景とし、直接には牧口会長の折伏が治安を害するといい、又神宮に対する不敬の態度があるとして、弾圧の準備が進められたから会長の応急策も已に遅し」(同)との箇所を引用している。
 非常に読みづらい文ではあるが、『慧妙』はこの文に書かれた「応急策」という文字に着目し、この「応急策」について牽強付会にも、つぎのように述べている。
 「この文中、すでに手遅れだった『会長の応急策』とは、まさに六月二十五日付『通諜』をさすことは明白である。もし、そうでないというなら、六月二十日に総本山で『忠告を受けた』後、七月二日に地方へ発つまでの間に打った『会長の応急策』とは、いったい何だったのか、また、どうして『すでに遅し』だったのか、それらを明らかにした上で反論しなければなるまい」(平成五年六月一日付『慧妙』より一部抜粋)
 だが、これも先に詳述したように、真実は「牧口会長はその場で暫く柔かにお受した」ではないのだから、それを受けての「応急策」として神札甘受を組織徹底する「通諜」が出されたと結論することは、はなはだ無理な、根拠なしの推論ということになる。
 『慧妙』の推論の根拠自体が、史実ではないのである。ここに創価学会を、宗門と同等の教義違背者としようとする『慧妙』の試みは破綻したといえる。
 それも当然といえば、あまりに当然である。この「通諜」、戦前の創価学会とは縁もゆかりもない戦後入信した法華講員が書いた謀略文書であり、筆者も判明している。その謀略の真相を、「通諜」の所有者・稲葉荘が知らないはずはないと思うのだがどうであろうか。
 創価教育学会の弾圧にあたり稲葉荘の父・稲葉伊之助は取り調べの最中、二階から飛び降りるほど苦しんだ。だが、戸田会長は、法難に敢然と立ち向かわなかった稲葉に対し、「四か年の刑をおそれて畜生界のすがたであった」(「創価学会の歴史と確信」より一部引用)と記している。
 この戸田会長の評価を恨む息子・稲葉荘の気持ちはわからぬでもないが、戦後作成された謀略文書「通諜」を、戦中の真書と思わせるような発言はやめるべきである。
 最後に再び念を押しておくが、謀略文書「通諜」の筆者は判明しているのである。
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