第16章 宝 珠 亡 失


 第566号  1992年12月5日

日蓮正宗自由通信同盟

日蓮正宗が他派と訣別し独立したのは明治三十三年だった
大石寺に清流はなく謗法と交わり自らも邪宗と化していた

 大石寺は“邪宗・日蓮宗”としての歴史は長いが、“正宗”としての歴史は意外に短い。大石寺が邪宗・本門宗から分離・独立して「日蓮宗富士派」となったのが明治三十三年九月のことで、いまから九十二年前の出来事である。
 また「日蓮正宗」と改称したのが明治四十五年六月で、今年でたかだか八十年に過ぎない。いままで言われてきた「富士の清流七百年」という偽りの謳い文句、脚色された宗門史にだまされてはならない。一教団の歴史といえども、その教団が勝手に改変したり、創作してよいものではない。
 日蓮正宗の坊主が“みずからの教団史を、どのように脚色しようと勝手である”というなら厳しく指弾されるべきである。本号では、日蓮正宗の美化された歴史にスポットを当てて糾弾する。繰り返して言う。日蓮正宗の歴史は七百年ではなく、日蓮宗富士派の時期も含めて九十二年なのだ。
 日顕宗の輩は「学会は破門されて新興宗教になった」などと主張しているが、それならば「日蓮正宗は明治後期に邪宗・本門宗から離脱した新興宗教」と言わねばならない。
 学会の六十余年にわたる慈折広布の燦然と輝く歴史に比べ、八十年ないし九十年の宗門史は、邪宗・日蓮宗時代からの残映を色濃く引きづり、広宣流布とは無縁の存在ではなかったか。
 以下、日蓮正宗の創作された歴史、宗門による仏法破壊の足跡および創価学会出現による日蓮大聖人の正法の躍動と復興の歩みを概括してみる。
 日興上人の滅後は日目上人、日道上人らによって大聖人の仏法が護持されてきたとされているが、日興上人には本六(日目上人のほか日華、日秀、日禅、日仙、日乗)と新六(日道上人に加えて日代、日澄、日妙、日郷、日助)をはじめとする多くの弟子たちがいた。
 彼らはそれぞれ各地で布教し、なかには寺院を建立した者もいる。大石寺、北山本門寺をはじめとして、日興上人やその弟子らを開祖とする各寺院の総体的な呼称を日興門流(後に富士派)と呼ぶが、そのたどってきた道は、内紛と抗争と分裂の連続であり、大聖人、日興上人の清流は、あるときは分断され、また、あるときは謗法の濁流と合流し、富士の清流は途絶えていたのだ。
 つまり、日目上人が濃州垂井宿で遷化された直後、日道上人と日郷との間で起きた継承の問題をめぐっての確執をはじめ、本六の一人である日仙と新六の一人・日代との方便品読不読の問答による日代の重須からの追放などに見られるように、日興門流、富士門流といっても内部での確執、反目、対立、抗争、分裂が相次ぎ、いわゆる総本山―末寺というような秩序ある全国的な教団ではなく、清濁入り交じった分派の連合体ともいうべき弱小教団であった。
 江戸時代にも、富士門流・大石寺は幕府から単独の教団としては認められてはいなかった。日蓮宗の勝劣派に属する少数派とみなされ、八品派、真門流、陣門流とともに勝劣派を形成していた。
 徳川幕府によって寺院の本末帳が寛永九〜十(一六三二〜一六三三)年に作成され、現存する本末帳が内閣文庫に保存されている。
 これは寛永期における唯一の史料だが、その内訳のうち日蓮宗系を見ると、寛永十年一月の日付で甲州身延山久遠寺法花宗諸寺目録、妙泉寺寺領書付、本隆寺之帳があり、以下、京本国寺、京都寂光寺、京本満寺、京頂妙寺、京妙満寺、上京妙覚寺、洛陽本能寺、洛陽本禅寺、京妙顕寺、京妙伝寺、洛陽二条寺町要法寺、京立本寺、妙蓮寺(年号不記)の各本末帳はあるが、ここには大石寺の本末帳はない。幕府の通達の不徹底か大石寺の怠慢か、その点はわからない。
 この本末帳が、ほぼ完全な形でつくられたのは天明六(一七八六)年以降のことであった。この原本は現存していないが、写本は水戸市彰考館文庫に保存されている。
 この天明六年の本末帳には、確かに「大石寺派寺院本末帳」とあるが、それは小泉久遠寺、北山本門寺、西山本門寺、光長寺などとともに「法花宗勝劣派」として記載されている。江戸時代の大石寺は単独の教団ではなく、まぎれもなく「法花宗勝劣派」に属する寺院だったのだ。
 ここで話が本筋から少々外れるので簡潔に述べるが、当時は「法主(住職)」の名称は「富士大石寺○○嗣法」となっていた。たとえば、浅間神社に安置する御本尊を書写した、とんでもない謗法をおこなった法主もいた。三十三世日元上人である。
 浅間神社といえば、古くからの富士信仰をもとに成立し、祭神は木花開耶姫命である。富士宮市東井出の浅間神社には宝暦十四(一七六四)年の、脇書に「本地久遠実成釋尊垂迹富士浅間宮」等と認められた御本尊があるが、それには「富士大石寺三十三嗣法 日元」との書き判がある。
 さて、明治元年、日蓮教団は明治政府によって一致派と勝劣派の二派に統合され、次いで同九年に勝劣派は興門派、妙満寺派、本成寺派、八品派、本隆寺派の五派に分かれた。
 このとき、大石寺は日蓮宗興門派に加わり、北山本門寺、西山本門寺、小泉の久遠寺、下条・妙蓮寺の富士五山ならびに保田・妙本寺、京都の要法寺、伊豆・実成寺とともに興門派の八本山の一つとなった。ここでも、いわゆる「邪宗・日蓮宗」である興門派の「同門」として宗派を形成していたのである。
 興門派管長は、各本山の持ち回りであった。『日蓮正宗富士年表』(富士学林発行)によると、興門派の歴代管長は次のようになっている。

  〈就任年月日〉        〈管  長〉
一八七六年二月二十三日  要法寺釈日貫(臨時)
一八七六年四月六日    要法寺釈日貫
一八七九年五月三十日   伊豆実成寺大井日完
一八八〇年五月十四日   富士妙蓮寺堀日善
一八八一年五月十六日   大石寺日布上人
一八八二年四月二十七日  西山本門寺寿日
一八八三年九月十一日   小泉久遠寺富士日霊
一八八四年十二月     北山本門寺天野日観
一八八五年十一月十三日  西山本門寺高橋日恩
一八八七年四月二十九日  北山本門寺天野日観
一八八八年四月十三日   保田妙本寺富士日勧
一八八八年十一月五日   小泉久遠寺富士日霊
一八八九年四月六日    富士妙蓮寺稲葉日穏
一八九〇年四月八日    伊豆実成寺大井日住
一八九一年四月七日    大石寺日応上人
一八九二年四月七日    京都要法寺坂本日珠
一八九三年四月二十四日  小泉久遠寺妙高日海
一八九四年五月一日    西山本門寺寿日
一八九五年八月二十一日  小泉久遠寺富士日霊
一八九六年六月十日    北山本門寺芦名日善
一八九七年四月八日    富士妙蓮寺稲葉日穏
一八九八年四月二日    伊豆実成寺大井日住

 この表で明らかなように、宗門・大石寺は長い間“謗法の管長”の支配下にあったのである。また、大石寺の日布上人、日応上人が管長であったときも“謗法の教団”を管理していながら、“善導”も“破折”もしなかった。
 ただ、日応上人が明治二十三年、管長を退いた後に驥尾日守著の末法観心論について書面で興門派管長を難詰したことが、当時の機関紙「法王」に掲載されている程度である。
 このように指摘すると、日顕宗の狡猾な坊主どもは、多分、悪知恵を働かせて日胤上人、日応上人らが再三にわたって独立願書などを提出するなど分離独立の運動を試みたが当局が認めなかった等々と弁明するだろう。
 しかし、いかに言葉巧みに弁解しようとも、長い間「邪宗・日蓮宗」の輩と同門の「勝劣派」であり「興門派」であったという史実は変えられまい。
 大正年間に、当時の日蓮正宗管長・阿部日正が邪宗・日蓮宗各派の管長と並んで喜んで記念撮影に納まり、さらに勤行まで一緒にしていた事実が発覚。“法灯連綿七百年”という伝説を信じていた純真な信徒は驚愕し、仰天した。
 ところが、法華講員らは開き直って、「一緒に写真を撮ったからといって何が悪いか」「他宗の僧と並んで勤行しても、手を合わせていなければ謗法ではない」などと訳のわからない屁理屈を言っているようだが、なるほど宗史を見てみると、“記念撮影も勤行も、かつての同類・仲間との付き合いであったのか”と、妙に納得してしまう。
 また、宗門は戦時中、すすんで神礼を受けた。その言い訳として現在の日蓮正宗時局協議会の坊主どもが、日蓮正宗を邪宗・日蓮宗と統合しようとする軍部の策謀から大御本尊と血脈を守るため「やむなくおこなった妥協が『神札』を受けることであった」(日蓮正宗時局協議会文書「日蓮正宗と戦争責任」より)などと愚にもつかない弁解をしていたが、これがいかにゴマカシの論法に過ぎないかがわかる。大石寺は、もともと邪宗と同一の宗派に属し、明治三十三年までは邪宗教団を含む興門派の管理下に置かれていたではないか。
 この興門派は、明治三十二年に「本門宗」と改称した。このときも大石寺は「本門宗」の一派となった。翌三十三年九月になって、はじめて大石寺のみが、この本門宗から離脱して「日蓮宗富士派」と称し、独立した宗門となったのである。
 明治三十三年といえば、戸田城聖・創価学会第二代会長の誕生の年である。「日蓮正宗」の真実の歴史は、ここに始まるといっていいだろう。それまでは「邪宗・日蓮宗」としての、「謗法と同座」しての宗門史なのである。“富士の清流”など、どこに流れていたというのか。
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