第9章 破 門 空 言


 第337号  1991年12月3日

日蓮正宗自由通信同盟

池田名誉会長は僧俗和合をめざし忍耐強い努力をしてきた
その歴史的事実を日蓮正宗全僧侶はいま認めるべきである

 日顕および総監・藤本日潤名で創価学会側に送りつけてきた「創価学会破門通告書」には、次のように書かれた箇所がある。
 「創価学会における、たび重なる巨額の金銭不祥事にまつわる社会的不正・疑惑事件は、創価学会自体が、宗教法人としての資質や責任を厳しく問われる、反社会的実態を露呈したものであります。これは、同時に、本宗の社会的信用に著しく傷を付け、広宣流布への大きな障害となっております」
 創価学会側の外護によって、これまで守られてきたことも忘れ、ずいぶんと勝手なことを言うものだ。今日の事態に至っても、日蓮正宗の社会的不正や不祥事について、創価学会側はほぼ沈黙を守っている。そのことすらわからず、日顕らは創価学会を誹謗しているのである。
 だが今号では、時代背景を説明するために、総本山大石寺の「社会的不正・疑惑事件」に触れなければならない。そのことをあらかじめ述べておく。
 「創価学会破門通告書」の先に紹介した文につづき、「山崎・八尋文書」(昭和四十九年四月十二日付)、「北条文書」(昭和四十九年六月十八日付)を紹介している。なお、これらの文書は、山崎正友が造反時に、創価学会に独立の下心ありと喧伝し、宗門僧侶を煽るために持ち出したものである。
 しかし、これらの文書が書かれた当時の状況を知れば、このような「山崎・八尋文書」が、なぜ書かれたかが充分、納得できるはずである。
 日顕一派は「創価学会破門通告書」に関する記者会見で、これらの文書を記者に配り、創価学会はかねてから独立の意志があったと主張した。山崎正友の謀略の延長線上で創価学会攻撃をしているのだ。
 さて「山崎・八尋文書」の中には、
 「本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて二とおり考えられます。一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向う三年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固めるという方法です。本山管理に介入することは、火中の栗をひろう結果になりかねない危険が多分にあります」
 などの記述がある。
 まず、知っておかなければならないのは、当時の宗門と創価学会の関係が相当ギクシャクしていたということである。だが、このような状況下にあっても、この山崎提案は、池田会長(当時)によってはっきり不採用にされている。
 また「山崎・八尋文書」となっているが、八尋頼雄弁護士は山崎の書いたものを清書したにすぎない。もともとの山崎手書きの原文は、山崎正友の恐喝事件裁判で裁判所に提出されており、八尋弁護士が単に清書役であったことは、公的に確認されている。
 繰り返すようだが、この山崎正友の創価学会首脳への提案は却下されたのだ。
 それでは、この「山崎・八尋文書」は、どのような時代背景で書かれたのだろうか。これを知ることは、先に記した「宗門と創価学会の関係が相当ギクシャクしていた」という表現を理解することでもある。
 「山崎・八尋文書」の一ページ目から二ページ目に、次のような記述がある。
 「今回の道路問題、土地問題は、よほどこたえたとみえて、改革には、本山も覚悟をきめてとりくむつもりのようです。ことに早瀬理事が積極的で、自分は六年間、苦しみながらこの機会を待っていた。今思い切ってやらなければやるときがない。今まで何度云ってもうんといわなかった猊下が、やっと折れたのだから、気の変わらぬうちに、進めたいと思っており、自身で宗教法人法の勉強もしています。宗制宗規、本山規則の改正も辞さないとの考えを述べておりました」
 この文で判明することは、「道路問題、土地問題」があり、それを受けて本山の改革が進められようとしていた当時の事情である。それでは、「道路問題、土地問題」とはなにか。それを解説する前に、「山崎・八尋文書」の次の記述を読んでもらいたい。
 「要するに、本山と学会と一体不二の体制になって、広宣流布という宗教的使命感は感じられず、むしろ、寺の維持、僧侶という職域の維持ということに徹しているのではないかとの印象を受けます」
 のちに信心がまったく狂ってしまう山崎正友が、日蓮正宗に「広宣流布という宗教的使命感は感じられず」と記述していることは注目に値する。このとき、すでに山崎は、僧侶たちが自分たちの繁栄しか考えていないと喝破している。
 山崎正友が後年、宗門と創価学会とを離間することができたのも、日蓮正宗僧侶に対して幻想を持たず、堕落した僧侶の本質を正確に見抜いていたことによるものと思われる。
 山崎は、当時、部下の一人に、次のように話していたという。
 「日蓮正宗の坊さんは、信徒が勤行したり、教学を研鑚することなど願ってはいない。そんなことをされると坊さんは困るんだ。自分たちだけが御経を読むことができ、教学も独占したいんだ。信徒は知らしむべからず、由らしむべしと考えている。そのほうが、御供養をもらいやすいだろ。坊さんの考えていることは、威張ることと、金だけだよ」
 山崎は早くから、今日、宗門問題として噴出している僧の暗部を見抜いていたのである。だが、山崎の勘違いは、そのことをもって信仰そのものをナメてかかったことだ。堕落した僧の本質を見て、それが日蓮大聖人の仏法の本質と思い、勘違いしてしまった。そして、金と女に転落していったのである。
 話を戻そう。「山崎・八尋文書」からは、「道路問題、土地問題を契機に、創価学会が本山改革に乗り出そうとしていた。ところが僧侶側は僧俗一致して広宣流布を進めようとの気持ちがなく、僧の権益のみにこだわっていた」(要旨)という当時の状況が浮かび上がってくる。
 「山崎・八尋文書」は、広宣流布を僧俗一体になって進める気のない日蓮正宗の本質に、創価学会首脳が業を煮やしていた――そうした時代背景の中で書かれたものだった。
 それでは、「山崎・八尋文書」にある「道路問題、土地問題」とはなんだろうか。創価学会側が、本山改革をしなければ広宣流布がおぼつかない、とまで思い詰めた問題とはなにか。
 前出の二つの文書が書かれた前年の昭和四十八年六月二十一日、富士宮市議会の上杉三郎副議長、内藤寛前富士宮市議、渡辺春雄(いま有名になっている富士宮半野地区の法華講員)は、細井日達管長と池田大作創価学会会長を富士宮署に告発した。
 告発の内容は、正本堂建設にあたって富士宮市の市道を無断で占拠し使用しているということであった。告発状によれば、それは「道路法第九九条違反、刑法第二三五条の二(侵奪罪)」にあたるというのである。
 この告発は、『毎日新聞』の静岡版および地元紙に報道された。管長が告発されたのだから日蓮正宗はテンヤワンヤの大騒ぎ、地に足のつかないありさまであった。もちろん、創価学会側もこの青天の霹靂ともいえる事件に肝をつぶした。
 創価学会側にしてみれば、土地や道路の処理は、総本山大石寺が一手におこなっていたので安心しており、まさか、そのような法律違反をやっていようとは夢にも思っていなかった。池田創価学会会長は、総本山大石寺の法的処理がズサンであったために巻き添えで告発されたのである。
 考えられないことだが、正本堂建設事業に関するあれだけ広大な土地の処理をするのに、総本山大石寺は弁護士も雇わず、村の司法書士に任せていた。その司法書士が小手先で違法な処理をしていたのだ。
 ともあれ、大石寺代表役員である日達上人は、どのように言い逃れても罪をまぬかれることのできない状況にあった。創価学会側は、全力をもって宗門を外護するため、なかんずく日達上人を助けるために、総本山大石寺の地元対策に入った。
 ところが、地元の実情を調べる過程で大変な事実が判明した。告発の中心者である上杉副議長が、厳秘であるはずの総本山大石寺の土地台帳一式の写しをすべて持っていたのだ。
 しかも、総本山側の法的処理のミスは道路に関することだけでなく、農地転用の法的処理でも重大な違法行為をしていたのである。
 上杉副議長は土地台帳に基づき、どの土地がどのように違反しているかを詳しく知っていた。上杉副議長らは、市道占拠につづいて農地法違反などでも告訴することすら考えていたという。大石寺代表役員である日達上人は、法的責任をまぬかれる術もなかった。
 だが、この告発騒ぎは、創価学会側が富士宮市に対し公民館を寄付するなどの地元貢献の積極姿勢を示すことでなんとか収まった。同四十八年七月二十六日には告発は取り下げられた。告発後、およそ一カ月後のことであった。
 ところが、告発騒ぎが収まっても、解決されない大きな謎が残った。総本山大石寺の厳秘である土地台帳一式の写しが、なぜ流出したのかという謎である。
 この当時の日達上人の側近は、反日達上人派の僧侶が当代法主を陥れるために機密漏洩したと最終的に判断したようだ。広宣流布を考えない僧侶たちの足の引っ張りあいが、告発騒ぎとして外部に噴出したのだった。
 巻き添えとなった創価学会側は憤懣やるかたないものがあった。膨大な正本堂御供養をしたあげく、創価学会会長が刑事告発をされた。しかも、その原因は、総本山大石寺による法的手続きの怠慢と無知、そして引き鉄となったのは、広宣流布を忘れた僧侶たちの足の引っ張りあいだった。
 日蓮大聖人の御遺命である広宣流布成就のためには、どんなことがあっても宗門改革をしなければならない――そうしなければ広宣流布を推し進める途上で、どのような障魔が出来するかもしれない――創価学会首脳が宗門改革に対し悲壮な決意をしたのは無理のないことであった。
 だが、いざ宗門改革を進めようにも、僧侶側は広宣流布よりも自分たちの立場や権益のみを考え、反発するだけだった。そして、時の移ろいとともに、宗門は「道路問題、土地問題」に対する深刻な総括すらも忘れ去ってしまった。
 それどころか、総本山側の会計処理、法人事務処理を広宣流布推進の上から親身になって心配し、書類を点検している創価学会側に対し、お金をいくら持っているか調べているのではと邪推するありさまであった。
 こうした一連の宗門側の対応に創価学会側は心底、落胆し、憤りも感じたようである。そのうえ、世界広布推進のために設立されようとしていた「財団法人 日蓮正宗国際センター」について、日蓮正宗を包括し下に置くために創価学会側がつくっていると、これまた邪推し設立に反対したのだった。
 創価学会首脳は、広宣流布よりも僧の立場や利益ばかり考えている宗門に失望した。「北条文書」は、そのような流れの中で書かれたのである。
 「創価学会破門通告書」は、「創価学会首脳が、宗門支配という恐るべき陰謀を企てていたことが、明記されているのであります」と記述し、「北条文書」の次の箇所を引用紹介している。
 「長期的に見れば、うまくわかれる以外にないと思う。(中略)やる時がきたら、徹底的に斗いたいと思います」
 そして重ねて、「宗門から独立せんとする謀計が記されております」と強調しているのである。この「北条文書」についての創価学会側の立場を理解するには、先師日達上人の発言に触れなければならない。しかしここでは、これを省く。詳細を知りたい人は、「北条文書」全文を読むことが一番だ。
 この「北条文書」(六月十八日付)に先立ち、五月十日付でも「北条文書」が書かれている。それには宗門について次のように書かれている。
 「先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえすも残念です。
 広宣流布など全く考えていない、自分たちの私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足という風にしか考えられません」
 当時、北条理事長が広宣流布に対する情熱の故に、どれほど宗門に対し義憤を抱いていたかが知れようというものだ。その日蓮大聖人の御遺命達成に向けての熱誠の故に、北条理事長が激して書いたこの「北条文書」をことさらに取り上げ、日顕一派は「宗門から独立せんとする謀計が記されております」と解説しているのだ。
 先に述べた当時の状況、「北条文書」の全文を読めば、日顕一派の解説がいかに事実と反した意図的なものであるか、誰でも納得できるだろう。
 なお池田会長は、この「北条文書」などに接しても、宗門外護の姿勢は変えなかった。このような状況後も、あくまで僧俗和合を進め、日蓮正宗僧侶が自覚を高め、広宣流布への情熱をいっそう確かなものとするよう、腐心されていたのである。
 池田会長の僧俗和合して世界広布に臨もうとの意欲は、翌年(昭和五十年)一月二十六日、グアムにおける第一回世界平和会議の開催、国際仏教者連盟の発足という形で結実した。この世界広布史上記念すべき会合には、日達上人が御臨席され、世界五十一カ国の代表が集い寄った。このとき、池田会長が推挙されSGI会長に就任したのである。
 昭和四十九年当時の宗門側の無理解による宗門と創価学会の軋轢は、池田会長の僧俗和合を希求する粘り強い戦いによって見事に克服されたのであった。この池田会長の僧俗和合を求める姿勢は、昭和五十二年に発する宗門と創価学会との軋轢修復においても変わらなかった。
 日顕一派は、「創価学会破門通告書」に「池田氏は、過去にも、あろうことか何体もの板御本尊を、勝手に模刻するという大罪を犯しております」と書いている。
 本尊模刻問題については先師日達上人が、「今後は創価学会の板御本尊のことに関しては、一切論議を禁止する」と御指南されている。日顕と藤本は、ここでも先師に敵対しているのだ。
 当代法主と総監がウソまでついて池田名誉会長に汚名をかぶせるのであれば、真実の一端を書かなければならない。黙して語らぬことは、天魔の勢いを増し、仏子らを惑わすことになるからだ。だが、多くは語るまい。池田名誉会長の、先師日達上人に対する思いと、能忍の心を損ねることを慮るからである。
 日顕および藤本は、池田名誉会長が「板本尊を、勝手に模刻するという大罪を犯しております」と決めつけているが、紙幅の御本尊から板本尊をつくったのはほかでもない、日蓮正宗唯一の仏師である「赤澤朝陽」である。
 この「赤澤朝陽」には、御謹刻当時、日達上人が直接、電話を入れられ進捗状況まで聞かれている。なにをもって日顕らは「勝手に模刻」したと言っているのだろうか。
 なお当時、聖教新聞社の地下で写真を撮って、それを板に貼りつけ創価学会側で彫ったなどといったことが、まことしやかに週刊誌などで報道されたが、一切デタラメである。
 このとき、模刻されたという御本尊は、問題にされたあとで総本山に運ばれ、奉安殿に納められている。その事実がなにを物語るか、よくよく考えてみることだ。ニセ本尊であれば、奉安殿に納められることなどない。もっとも、日顕も藤本も事の真相を知っていて、池田名誉会長を讒謗することを平気で書いているのだ。
 この「創価学会破門通告書」の「模刻」についての文を見て、宗内のある僧は真実を知る者として、「先師日達上人をかばわれた池田名誉会長の気持ちがわからないのか。情けないことだ」と述べていた。
 昭和四十八年の正本堂にまつわる道路・農地の問題、本尊模刻の問題。これらの諸問題を克服して、まがりなりにも僧俗和合が保たれてきたのは、池田名誉会長の忍耐と衆生済度にかける情熱の故である。日蓮正宗僧侶は、恩讐の壁を乗り越え、この厳粛なる事実を受け入れるべきである。
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