日蓮正宗の宗制宗規は、明治三十三年九月に制定された。それ以降、現在(平成三年十一月二日時点)までの九十一年間に、二十九回の「改正」がおこなわれてきた。その二十九回の「改正」のうち、なんと十六回が日顕時代におこなわれたのだ。
日顕時代の「改正」の主軸は、ほぼ法主の権限を強めるためのものである。日蓮正宗は「民主の時代」に逆行して、「独裁の時代」を指向し、法主の権限を一方的に強めてきたのだ。
そのため現在では、法主である日顕に対して、誰も、ものを言えない雰囲気が宗内をおおってしまっている。すべてが「御意のままに」おこなわれるのである。
日顕の時代は、たしかに正信会の造反事件などがあり、法主の権限を拡大強化しなければならないケースもあった。戒厳令下の非常大権が、日顕に必要なときがあったのである。
だが日顕は、正信会問題におおまかの決着を見た現在においても、ただただ法主の権限を拡大強化し、統制による恐怖の中で宗内を強権支配しようとしている。
昨年(平成二年)十二月二十七日の宗規改悪では、周知のように信徒の処分をしやすくした。信徒処分について、「言論、文書等を持って、管長を批判し、または誹毀、讒謗したとき」(第二二九条五項)という項目が付け足されたのである。
本年(平成三年)七月六日の宗規改悪では、今度は僧侶の処分をしやすくした。「第二百四十四条 僧侶に対する懲戒の種目を左の六種とする」として、新たに「奪階」を設けた。「奪階」については次のとおり規定している。
「五 奪階 現僧階を剥奪し、沙弥に降す」
僧階をいつでも一番下位の「沙弥」に降ろせるようになったのだ。袈裟・衣も着すことのできない白衣小僧に落とすというのである。僧侶という階級社会に暮らす者として、これ以上の恐怖はないだろう。
なおかつ、これまでは「降級」しかなく「一級または二級降す」しかなかったのに、今回の改悪では「降級」も強化し、「三級」まで降ろせるようにした。まさに恐怖政治である。
ちなみに日蓮正宗における僧階を示す。
「大僧正」「権大僧正」「僧正」「権僧正」「大僧都」「権大僧都」「僧都」「権僧都」「大講師」「講師」「少講師」「訓導」「権訓導」
ここまでの十三階級が教師の資格を有している。その下に、非教師である「一等学衆」「二等学衆」「三等学衆」「沙弥」の四つの僧階がある。
「奪階」とは、たとえ高位の僧階であっても一挙に「沙弥」に降ろすというのだからすさまじい。しかも、今回の改悪では「復権、復級」に期限を明示している。「奪階」に処せられた場合は、三年間は「復権、復級」できないことにしたのだ。
数十年にわたりジリジリと僧階を上がってきたのに、一瞬にして最下位の「沙弥」にまで落とされるというのだから、宗内の僧侶たちが沈黙し、盲従するのもうなずけよう。
日顕が強権を握ることは、現下の非常体制における統率のためには便利かもしれない。しかし、数年もたたないうちに、日蓮正宗はみずからの規則によって“窒息死”させられるだろう。
どのような組織体にあっても、末端の意見や願望を中央にフィードバックできる回路がなければ死滅する。民意が組織体中央に伝わる体制が制度として確立し、目的意識を持ち、活力を持った人材が要所に配置されなければ、組織は衰微するのだ。
命令伝達の情報回路、フィードバックの情報回路、そのうえで民意を吸収し、組織目的を失わない、状況に応じた緩急自在の意思決定が機敏になされなければ、組織体は時代から見離され、置き去りにされる。
日蓮正宗の場合はどうか。
意思決定は法主の感情のおもむくまま、ただやみくもに、一老人の瞋りの感情を満足させる方向にだけ突っ走る。立ち止まり、状況を冷静に判断することなどない。しかも悪いことには、日蓮正宗の宗制宗規には、法主の暴走を食い止める機能がない。アクセルだけでブレーキのない車といっしょである。
いま日蓮正宗の僧侶の多くは、法主が権力を集中的に所有していることに、さほど危機意識を持っていないが、かならずや日顕の狂刃が日蓮正宗そのものを死に至らせることになるだろう。
法主の権能を制限することに、いまだ宗内の多くの者は反対だろうが、すぐに、法主の権能を宗制宗規の上で制限し、規定しなければならないと気がつくときがくる。そうしなければ、日蓮正宗は死滅する。
いずれ手や足は腐れ落ち、脳細胞が分裂し、勝手に指令を出すときがくるだろう。宗門は、すでにそれを予見できる宗内事情にあるが、そのことに気づいている人は少ない。
日蓮正宗の宗制宗規を、国家の憲法、法律として見れば、まれに見る組織トップへの強権集中に慄然とする。このような超独裁体制が何年もつづくはずはない。
僧侶一人ひとりの意思を宗政に反映させるだけでなく、信徒の願望をも宗政に反映できる機能がなければ、日蓮正宗が活性化し、日蓮大聖人の仏法を世界に弘める組織体とはならない。
法主一人に強権が集中し、その法主が狂ってしまっている、いまの日蓮正宗になにを言っても無駄なことは充分承知している。ただただ将来のために、このことを言っておきたいのである。
日顕は規則ずくめで僧侶をしばりあげ、信徒団体を解体させる手足としてのみ使おうとしている。
一方、創価学会側は、宗教法人規則の上では何の権限もない池田名誉会長を、皆が心から敬愛し、慕っている。日顕が規則と恐怖で、いかに日蓮正宗僧俗を支配しようと画策しても、自由な魂の結合による、人々の歓喜の和を崩すことはできない。
