第8章 仏 子 哄 笑


 第295号     1991年10月22日

恩に報いようとするのであれば狂った日顕を断固糾すべし
正邪を選ばないで日顕に追随することは畜生にも劣る

 先号につづき、総本山大石寺でおこなわれた10・17猿芝居(全国教師代表者会議)における発言者六名の発言内容を斬る。
 10・17猿芝居において三番目に発言したのは、中九州布教区宗務支院長の高野法尊(熊本県・涌徳寺住職)であった。高野は、日顕ら宗門中枢との馴れ合いをよくわきまえ、原稿を棒読みする忠実さを示した。
 司会者は発言を促して、冒頭に、「それでは御意見のある方、どうぞ挙手をお願いします」と、まったく芝居がかった一声をかけた。
 だが、高野の発言を検証すれば、高野がわざわざ原稿まで用意して持論を述べるような意識レベルにないことがわかる。事前に「指名」を仰せつかって、緊張して原稿を棒読みにしただけのことである。
 このような猿芝居が、一千万信徒の信仰上の権利を剥奪することを正当化するのに、どれほどの効果があるというのだろうか。日顕および日蓮正宗中枢が、いかに信徒を愚弄しているかが知れようというものだ。
 高野は次のように話した。
 「宗教法人設立に際しての三原則の約束、三宝破壊をはじめ冠婚葬祭まで学会自営の施行等々考えますれば、学会は独立のため宗門よりの処分を願っての、これでもかこれでもかの行為としか考えられません。その処分を待っての後の独立の言い訳、指導、説明は見え見えのような気がいたします」
 高野は信仰についての理解がまったくないのではないか。創価学会員の信じ奉るものは、日蓮大聖人の教法である。であれば、戒壇の大御本尊様から片時も離れるようなことはない。また日蓮大聖人も、法主の謗法を責めて一歩も譲らぬ仏子を、温かく慈悲をもって包んでくださっている。
 悪鬼入其身の法主が、いかに権威・権力をもって仏子らを脅かそうとも挫けるものではない。法主が禅寺に墓を建ててよいわけはなく、禅寺の墓所で法要をしてよいはずもない。
 また、一宗を教導する法主が、「C作戦」という創価学会解体を目的にした奸計をもって、破和合僧を策してよいはずがない。間違いがあれば、仏の法を示して諭せばよいのだ。教法をもって諭すこともなく、謀略をもって、闇討ちのように和合僧団を破壊しようとする。これは、まさしく「天魔の所為」にほかならない。
 法主が間違っていれば、身命をかけて糾す。日蓮大聖人の教法に照らせば、当然すぎるほど当然の行動である。道理明解なことだ。
 禅寺に五百五十万円もの金をかけて墓を建立し、法要した者は、日蓮大聖人より「破門」されてしかるべき者だということである。創価学会が「独立」するなどと、血迷ったことを言わないことだ。ただ法主の過ちを糾し、与同罪をまぬかれ、その後は御仏智に従えばいい。
 創価学会員という日蓮大聖人の仏子たちは、いま、このような澄んだ気持ちにある。何を恐れることがあろう。何をあわてることがあろう。御本仏日蓮大聖人の御照覧を信ずる仏子として、卑しき道だけは歩きたくない。
 創価学会員を処分しようとしている禅天魔の体現者である日顕は、すでに御本仏日蓮大聖人より破門されている。その日顕からの処分を前にして、何をたじろぐというのだ。
 熱き信仰心の故に、泰然自若としていることをもって、「独立」の証左であるなどとする荒唐無稽な論を、高野は立ててはならない。それでは、高野は信仰ということに無理解ということになる。
 創価学会員が冠婚葬祭に僧侶を招かないことが不思議のようだが、仏子らが冠婚葬祭に謗法の者を招かないのは当然のこと。与同罪を恐れるからだ。なおかつ、謗法を犯している僧に供養しないことは、仏子のわきまえるべき道である。
 日蓮大聖人の仰せに曰く。
 「唯偏に謗法を悪むなり、夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む」(立正安国論)
【通解】ただひとえに謗法を悪むのである。いったい、釈尊以前の仏教においてはその罪を斬ったのであるが、釈尊以後の教説は、すなわちその布施を停止するのである。
 
 謗法を犯し、懺悔もせず、開き直って、仏子を迫害する。さらには、瞋りのままに和合僧団を破壊しようとする。その日顕に率いられる謗法の輩は、インド応誕の釈尊の出現以前にあっては殺害すべきであるが、「能忍の以後」の今時にあっては、「施を止む」のである。
 我らは日蓮大聖人の弟子であり、御本仏の仰せのとおりに戦うのである。挑発に乗らず整然と楽しく戦うのだ。日蓮大聖人の仰せのとおり戦い、どうして負けることがあろうか。池田名誉会長を中心に団結し、整然と楽しく戦う中で、仏子らの福徳は、よりいっそう輝く。
 日顕らは、自分たちの犯している大謗法の罪を隠し、それを責める仏子らの正法正義に基づく戦を、「独立」の野心に基づくものと顛倒した論を吐く。御本仏日蓮大聖人の御眼から見れば、日顕らこそ「独立」(離反)している師敵対の者と映っていることだろう。
 高野は、創価学会首脳が長年にわたり、大法弘通のために止暇断眠の日常を送ってきた現実を知らないようだ。日蓮大聖人の本眷属としての自覚なくして、どうして間断なき苦難の道を歩めようか。
 「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(百六箇抄)
 仏意仏勅の団体である創価学会は、御本仏の思し召しのまま、一閻浮提総与の大御本尊様のもとに出現したのだ。いかに日蓮大聖人の法脈に、六師外道がその姿をあらわし、仏子を圧迫しようとも、寸時たりとも一閻浮提総与の大御本尊様より離れることなどない。
 その渇仰の気持ちは、佐渡流罪中の日蓮大聖人を慕われた弟子の方々にも決して負けるものではない。だからこそ、これからもますます狂乱し暴虐のかぎりを尽くすであろう天魔・日顕に、絶対に屈伏しないのだ。
 高野は、創価学会が「独立」を企図していると前置きした後で次のように話した。
 「もしそれならば、処分の前に、過日名誉会長に対し、教師一同連署をもっての謝罪要求書の如く、今回も我々一同の総意にて、またこのことは法華講員の一同も連日憂慮しておりますれば、法華講幹部を含めての日蓮正宗総意にて、独立宣言の勧告書を提出したらいかがなものでございましょうか」
 これには、さすがに場内に笑いが洩れた。
 高野の話は、人前で開陳するレベルに達していない。このような意見具申が根拠になって、創価学会員一千万人が処分されるのか。これは、悲劇ではなく喜劇だ。もっとも、猿芝居が悲劇であろうはずはない。真面目に演ずれば演ずるほど喜劇となる。
 高野は、「日蓮正宗本来の信仰姿勢たる御本尊、法主の正しき血脈、正しき化法化儀を、一時も早く御自覚くださいの如き、僧侶一同の正信教導書とも言うべきものを作り、一人でも多くの会員に渡してみたらいかがなものでございましょう」と述べている。高野は本心では、「正信教導書」というものを出せば、檀徒がつくれると思っているのだ。
 一番大事なことは、日顕が己の犯した謗法を懺悔することである。事の本質を回避し、追い詰められても、まだ檀徒づくりを夢見ている。「正信教導書」など何の意味があろうか。沈む船の中で貯金通帳を握りしめているようなものだ。
 このような譬えを示すのも、高野はどうも譬喩が好きなようだからだ。
 「御法主上人猊下はいつぞやの指導会におきまして、ものごとをなす手段方法において緩急強弱の二とおりがある。その好例として、旅人のマントを脱がせる方法として、北風と太陽の譬えがあるとご教示くださいました。
 その教えを私なりに考えますれば、太陽とはもとより宗祖日蓮大聖人御自ら日輪の偉徳を自称せられまして、以来唯授一人血脈付法の歴代上人の御指南は、ことごとく太陽の如き暖かき御慈悲の正論と拝するものでございます。
 当然、御当代日顕上人猊下の数々の御指南もしかりでございます。それが一度、学会幹部の耳目を通れば、これがことごとく北風、台風、暴風雨に変わってしまうという摩訶不思議な今日でございます。
 特に今、学会指導のきたる目標は、御法主上人猊下のイメージダウンを目的にしているようでございます。たとえば八月二十九日の教師指導会の一部分を文書はもとより、テープまで末端会員にまでわざわざ聞かせているそうですが、これとて、私ども僧侶たるもの、御書に仰せの如く、『伯瑜杖になく』の教えの思いでありがたく拝受しておりますが、これらをはじめ、御慈悲の御指南ことごとくが、揚げ足、逆手に取られ、正しく一般会員信徒に伝達でき得ぬという現状の責任は、私ども猊下の弟子たる者、また末寺をお預かりする僧侶にも一端はあろうと思うものでございます」
 低レベルすぎて、多くを語りたくない。大仰な修飾語ばかりで中身はカラッポ。高野は、八月二十九日に日顕が正体を露わにした暴言のどこを、「太陽の如き暖かき御慈悲の正論と拝する」ことができるというのであろうか。
 日顕の血迷った暴言を、ここに再録する。
 「うん? そのなぁ、いつまでたっても学会にいるから、(学会に)籍を置かしておいて、どうのこうの君がブーブー言ったってねぇ、そんなことは問題解決しないよ! それをはっきりしろ! いいか!
 学会を脱会させて、君のところのお寺の信者にして、きちっとして、君がその指導教師として指導していくということなんだ。まだ、法華講の結成はないにしてもだな。そういうことにおいて問題があるということなら、あれだけど、そうじゃないなら、学会にいてどうのこうの、言いたい放題のこと言っているんだから。信心がいやになろうが、何しようがそんなことは関係ないんだ! 君にとっては!
 そんなこと、そんなくだらないことを言っておってはだめだってことを、頭から少しかましてやればいいんだ、そんな者に対しては」
 単に、一人の老人が依怙地になり猛り狂っているだけだ。修羅の姿である。慈悲の片鱗もうかがえない。
 これを「太陽の如き暖かき御慈悲の正論と拝する」高野は、通常人とは住む世界も違えば、趣味も違う。相当に倒錯している。
 高野は、「伯瑜杖になく」の「聖愚問答抄」に書かれた故事を引いている。その故事は「問」の部分に引かれているが、高野はそれを受けての大聖人の仰せに、どうして心を開かないのであろうか。大聖人の「答」を以下に引用する。
 「聖人云く汝此の理を知りながら猶是の語をなす理の通ぜざるか意の及ばざるか我釈尊の遺法をまなび仏法に肩を入れしより巳来知恩をもて最とし報恩をもて前とす世に四恩あり之を知るを人倫となづけ知らざるを畜生とす、予父母の後世を助け国家の恩徳を報ぜんと思うが故に身命を捨つる事敢て他事にあらず唯知恩を旨とする計りなり、先ず汝目をふさぎ心を静めて道理を思へ我は善道を知りながら親と主との悪道にかからんを諫めざらんや、又愚心の狂ひ酔つて毒を服せんを我知りながら是をいましめざらんや、其の如く法門の道理を存じて火・血・刀の苦を知りながら争か恩を蒙る人の悪道におちん事を歎かざらんや、身をもなげ命をも捨つべし諫めても・あきたらず歎きても限りなし、今世に眼を合する苦み猶是を悲む況や悠悠たる冥途の悲み豈に痛まざらんや恐れても恐るべきは後世・慎みても慎むべきは来世なり、而るを是非を論ぜず親の命に随ひ邪正を簡ばず主の仰せに順はんと云う事愚癡の前には忠孝に似たれども賢人の意には不忠不孝・是に過ぐべからず」(聖愚問答抄)
【通解】聖人は言う。あなたはこの法理を知りながら、まだこのようなことを言う。道理が通じないのか、心がおよばないのか。私は釈尊の遺法を学び、仏法に身を入れたときからこれまで、恩を知ることを最高とし、恩を報ずることを第一としてきた。
 世の中には四恩がある。これを知る者を人倫と名づけ、知らない者を畜生という。私は父母の後生を助け、国家の恩徳を報じようと思うゆえに身命を捨てることは、ほかのためでなくただ知恩を大切に思うからにほかならない。
 まずあなたは目を閉じ、心を静めて道理を思いなさい。自分は善道を知りながら、親と主君とが悪道に堕ちるのを諫めないのであろうか。また愚人が狂うほどに酔っ払って、毒を飲もうとするのを知りながらこれを制止しないであろうか。そのように、法門の道理を知り、火、血、刀の苦しみを知りながら、どうして恩を受けた人が悪道に堕ちることを嘆かないでいられようか。身をも投げ、命をも捨てて諫めるべきである。どれほど諫めても充分ではなく、嘆いても限りはない。今世に眼に映る苦しみさえ、なお悲しむ。まして永劫にわたる冥途の悲しみを嘆かないでいられようか。まことに恐れるべきは後世であり、まことに慎むべきは来世である。
 そうであるのに、是非を説かないで、親の命に随い、邪正を簡ばないで、主君の仰せに従うということは、愚癡の者には忠孝のように見えても、賢人の心によれば、これに過ぎる不忠不孝はない。
 
 日蓮大聖人の教法に背を向け、謗法を犯して懺悔すらしない――。その日顕が悪道に堕ちていることは歴然としている。高野は、恩ある日顕を命懸けで諫めるべきである。正邪を判断しないで日顕に従うことは、仏法からみれば、これ以上の「不忠不孝」はないのだ。
 宗内の僧侶は、いまこそこの御聖訓を心肝に染めるべきときである。
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