先号につづき、総本山大石寺でおこなわれた10・17猿芝居(日蓮正宗全国教師代表者会議)における、宗務当局と馴れ合った六人の質問者の発言内容を斬る。
質問者の二番目に指名されたのは、石橋頂道(東京都青梅市・慈本寺住職)であった。石橋は、このまま創価学会の指導が徹底されると檀徒づくりができなくなるので、少しでも早く創価学会を処分してくれと要請している。檀徒づくりが思うように進まないことに焦りを感じているのだ。石橋は、その焦りを次のように表現している。
「(創価学会が)ありとあらゆる手段を講じて、宗門の批判を繰り返す、連日そういうことが情報また指導という名目において繰り返されておりますけれども、こういうことが今後もずっと続いていきますと、いま正しい信心を求めて学会にいる純粋な人たちも、早晩やはり間違った方向に導いていかれる、このことが大変に危惧される次第であります。
このような現状に鑑みて宗門当局といたしまして、できるだけ早くきちっとしたケジメをつけていただきたい、強く要望する次第であります」
末寺住職たちの焦りが手に取るようにわかる。日顕の犯した「檀徒づくりの暴言」「禅寺墓問題」などの影響で、いまや、檀徒づくりは完全に暗礁に乗り上げているのだ。
「きちっとしたケジメをつけて」何が変わると言うのだ。檀徒づくりは、創価学会に強硬措置をとっても、何ら新展開はしない。それどころか、創価学会側は、いっそう遠慮なく宗門の謗法を糾すことができるだろう。もちろん『地涌』が毎日、送られることに変わりはない。
石橋は、末寺住職らを信頼して処分を下すよう、日顕らに要望している。
「本宗の僧侶は、全員が広宣流布と令法久住という尊い使命をもって出家得道しているわけでございます。決して生活のためとか職業として我々は出家得道したわけではございません。〈中略〉私たちがこの尊い使命をもって日蓮正宗の僧侶として出家している以上は、今こそ護法の念をもってこの難局に対処し、そして、命の使い所を見誤らないように精進をし、また、この難局に対処することが、私たちの現在のとるべき道であると、このように考えております。
どうか、御当局の皆様方にお願いをしたいんですけれども、宗内の僧侶のこのような道念を信じていただいて、はっきりとしたケジメをつけていただきたい。そうすれば、私たちは御法主上人の御指南と当局の指導に従って、どこまでも宗門を守り、法を守って頑張ってまいります」
日顕らは、末寺住職のこのような美辞麗句を聞いて、処分後のことがますます不安になったのではあるまいか。昨年(平成二年)八月末、宗門中枢が綱紀自粛を言っても、末寺住職の多くは、せせら笑っているだけであった。
高橋公純(本応寺住職)などは、へたに綱紀自粛を打ち出すから、信徒に僧侶批判の口実を与えたと、みずからの堕落した生活もかえりみず、開き直っていた。その高橋の開き直りの論理が、昨年暮れ頃には反学会強硬派の僧侶の間でもてはやされていたのだ。
その頃と、この石橋の発言を比べれば、反学会強硬派の言うことも、だいぶ謙虚になったようである。だが、彼らの現実の生活は、根本的には何も変わっていない。石橋がどう美辞麗句を並べても、信徒はおろか日蓮正宗中枢も、そのような言葉は信用しないだろう。
贅沢三昧をし、寺族そろって勤行をさぼり、大法弘通などさらさら考えず、信徒に対して威張りたいだけ威張り、女房までその尻馬に乗る。昼はゴルフ、夜はクラブ、妾をかかえている住職もいれば、痴漢を働く住職までいる。片や女房は、炊事洗濯から子育てまでお手伝いさんに押しつけ、自分の下着まで洗わせる始末。それでいて、高級ゴルフ場に運転手つきで通う。
何をもって、「全員が広宣流布と令法久住という尊い使命をもって出家得道」しているなどと、石橋は言えるのであろうか。まして創価学会員は、純真な信仰心から、御本尊様に御供養申し上げてきたのだ。
その浄財をかすめとり、寺院の必要経費としてゴルフ代、飲食代、お手伝いさん代などを費用化してきたのは、日蓮正宗の堕落した住職らである。信徒の幸せなど願いもせず、宗教貴族然とした生活をしていて、はたして「広宣流布」「令法久住」という、宗開両祖が生命を懸けられた大目的を口にする資格があるのだろうか。
自分たちの「尊い使命」を口にするのであれば、日蓮正宗僧侶が総懺悔するときにしてもらいたい。自省のときに、己の堕落した心に向ける刃として用いるべきである。何も、献身的に奉仕してきた信徒団体を理不尽に処分するときに、ことさら強調する必要などないのだ。
ことここにいたっては、袈裟・衣をまとい高所より美辞麗句を述べれば、人に超えた飽食のときを過ごせるなどといった、これまでの甘い経験に基づく幻想は捨て去ることである。
虚飾に充ちた権威・権力者たちの言葉が、みずからの堕落した生活を支える、実に便利な道具として使われてきたことを、すでに信徒、大衆ははっきりと見抜いている。大衆の純真なる心を利用して丸々と太る偽りの聖職者たちは、すべての信仰者から拒否されていることを知るべきである。
子供の幸福を願う父や母のやさしい心を利用し、虚栄をむさぼろうとする者を許してはならない。父や母の長寿と安寧をひたすら祈る子供たちの心を誑かし、心根のおだやかな人々を隷属させようとする者を見逃してはならない。
日顕ら偽りの僧形をなしたる者は、もはや孤立していることを知らなければならない。猛り狂う瞋りに信徒を隷属させようとする日顕が、日蓮大聖人の大慈悲とはまったく異次元の存在であることを、日蓮大聖人の教法を信ずる者のすべてが、すでに知っている。
馴れ合いの発言をする石橋もまた、美辞麗句をもって徒食を重ねようとの試みを止めるべきだ。石橋は、日顕らの意を汲み、結論的に次のように述べている。
「もはや学会は、昭和二十七年に法人を設立したときに、宗門に約束をいたしました三カ条の、一つとして、まともに守っている条項はございません。そこで、当初の約束をしたことから大きく懸け離れて、もうすでに存立の基盤というものを失っているような現在において、その法人の設立に同意をし、また認めた宗門として、やはり、そこに一つのケジメとして、法人の解散勧告というようなものを宗門の総意をもって提出する、学会のほうに提出することが、現在のこの状況を解決する一つの方策ではないかと、手段ではないかと、このように考える次第でございます」
石橋は、創価学会が法人設立をしたときの三カ条として、「一つは折伏をした人は、かならず日蓮正宗の末寺に所属をさせる。二つ目は本宗の教義を守る。三つ目は本宗の三宝を守る」を挙げている。
創価学会員が友人を入信させ、どこか他の宗派の末寺に御授戒に連れていったことがあるだろうか。新入信者は例外なく、日蓮正宗の末寺で御授戒を受けている。では、御授戒を受けた新入信者のところへ、僧侶が「このたびは入信おめでとう」と言ってハガキの一通でも寄こしたことがあっただろうか。ありはしない。
懶惰懈怠にして、信心指導を怠ってきたのは末寺住職である。全国の末寺の中で、御授戒を受けた創価学会員の氏名、住所などを整理し、記録として残している者が、何名いるだろうか。多くは長いうちに整理もされず、破棄されてしまっている。そして、今頃になって創価学会員の名簿がない、文書が送れないとうろたえているのだ。
創価学会幹部は、創価学会員が他所から引っ越してきた場合、一枚の移転を知らせるカードに基づき、信心指導のために何度も足を運ぶ。末寺住職はどうであろうか。
信徒である創価学会員のために、骨身を削ることもなければ、思いやりのある言葉ひとつもかけないで、寺に来ないのは創価学会幹部が来させないなどとは、事実誤認もはなはだしい。
信徒が慕ってこないのは、みずからがいたらないからだと猛省すべきではなかろうか。それでこそ僧道を歩む者といえる。
したがって、一番目の「折伏をした人は、かならず日蓮正宗の末寺に所属させる」を実質化できなかったのは、末寺住職の大法弘通に対する情熱のなさの故である。
二番目の「本宗の教義を守る」は、創価学会こそもっとも忠実におこなってきたことである。日顕ら日蓮正宗中枢は御書を軽視し、御書以外に別伝があるかのような異流義を立て、この頃では、日顕の己義を大聖人の教えに背いて正当化しようとさえしている。
日顕が禅寺に先祖代々の墓を建て、父・日開上人の法要をしても、「御法主日顕上人猊下には当然のことながら、本宗の信心において一分の誤りも無いお振る舞いであった」(日蓮正宗時局協議会文書)として、法主の大謗法を褒めそやすのである。
法主が宗開両祖の教えに背いても、宗内で誰一人として命を懸けてそれを諫めようとしない。「本宗の教義」を守っていないのは、僧衣をまとっている禿人たちである。
三番目に挙げられた「本宗の三宝を守る」ということだが、これまでに何度も述べたように、三宝の破壊をおこなってきたのは日顕らである。日蓮正宗中枢は、仏宝・日蓮大聖人、法宝・南無妙法蓮華経、僧宝・日興上人という本宗教学の根幹をないがしろにし、法主は「現代における大聖人様」「大御本尊と不二の尊体」であるなどとしている。前代未聞の三宝破壊である。
しかも、信徒に隷属を強いるために、日顕を宗祖日蓮大聖人と同等の地位に高めようとしているのだ。日顕らは、自分たちの貪瞋癡の三毒強盛なるが故に、それを満足させる方策として、日顕が御本仏と同等だと主張しているのである。三毒強盛な者が、いつから仏と呼ばれるようになったのだろうか。
いずれにしても、石橋の主張する宗教法人設立時の「三カ条」を、創価学会がいささかも違えていないことははっきりしている。石橋の言っていることは、単なる言いがかりである。石橋の心の中には、強硬処分をしたいという瞋恚の思いが煮えたぎっている。その思いを遂げるために、屁理屈を言っているだけだ。
閉鎖社会の傲り高ぶった特殊な論理で、後々のことも考えずに処分をおこない、法廷で日顕が立ち往生して世の笑い者とならないようにすることである。石橋の言っていることのどこに、万人を納得させることのできる道理があろう。
この際、法的な助言をしている者に言っておくが、法を無視した処分の後、どの程度の裁判が控えているかを、よくよく考えてみることだ。小手先で小細工を弄していれば、ことごとくアダとなる。思わぬところから証人が真実を暴くことになるかもしれない。これまでの法律的経験が通用しない、空前絶後の大裁判となることを覚悟しておくことである。
日顕が、正本堂に関して池田名誉会長を慢心であると「教導」していることなどは、単に日顕が刑法上の名誉毀損をおこなっているにすぎないことを知るべきだ。
世間知らずの高慢な者たちの主張を鵜呑みにしてかかれば、かならず失敗する。一方で、教学もわかっていない者が、宗教に関わる裁判の訴訟指揮などとれると思っていたら、大きな錯覚である。
さて石橋は、そもそもなにをもって、この「三カ条」の不履行を理由とした創価学会処分を主張しているのだろう。昭和二十七年来、創価学会の宗門に対する接し方は変わっていないはずだ。
戸田会長の時代にもなにも指摘せず、池田会長の時代にあっても三十年間は何も言わず、昭和二十七年から時を経ること、四十年近くなって古証文を出し、創価学会の処分を口にする。
その魂胆は見えすいている。ただただ創価学会を処分したいだけなのである。しかも創価学会は、先述したように「三カ条」を遵守している。石橋らは奇弁を弄するものではない。仏子らは、このような奇弁など歯牙にもかけないだろう。
われわれが恐れなければならないのは、日蓮大聖人のお怒りである。我々が従わなければならないのは、日蓮大聖人の教法である。法主の犯した謗法を諫めることもできず、お追従しか言えない破仏法の者どもの脅しに、どうして屈しようか。
いま、日顕に率いられる謗法の日蓮正宗中枢に処分されることは、法主の犯した与同罪をまぬかれることになる。このときこそ、日顕らの破仏法にして謗法の数々を、勇んで弾呵するものだ。
