第7章 天 魔 出 来


 第277号  1991年10月4日

日蓮正宗自由通信同盟

調御寺住職の高野は御書は大聖人の法門の「部分」だという
御書よりも法主の「指南」が重要とは御本仏への違背だ

 日顕上人が福島市にある禅寺・白山寺で、先祖供養の法要をおこなったことに象徴されるように、いまの日蓮正宗僧侶の中には、日蓮大聖人の仏法に違背している者があまたいる。大阪・調御寺の住職・高野法雄も謗法僧の一人である。
 平成三年八月二十五日に大阪・本説寺(住職・武安力道)において法華講の結成式がおこなわれた。このとき、高野法雄は次のように話した。
 「『御書直結』という言葉を耳にいたします。限りなく源流に近く、原点に立ち、純粋に、そのイメージがオーバーラップして、なんとなく聞き入れられそうな響きをもった言葉でありますが、果たしてどうでしょうか。
 『御書直結』、なるほど、御抄を心肝に染めてとありますから、あたかも御書の中に大聖人様の御法門の一切が余すところなく網羅されていると考えがちでございますが、果たしてそうでしょうか。御書があれば、六巻抄があれば、大聖人の御法門がわかるのでしょうか。断じてそうではありません」
 高野は、大聖人の教法の一切が御書には含まれていないという理由として、師敵対した五老僧らが日蓮大聖人の御書を「焼却」したり「スキカエシ」たりしたから、大聖人の御書に喪失分がある、だから伝えられていない部分があるというのだ。
 また、次のような話もしている。
 「また、このお手紙は、大聖人から頂戴した大切な物と、門外不出に秘蔵しているうちに、なんらかの事情で散逸したこともあったと、このようにも充分、考えられます」
 高野はこのように、大聖人の御書に遺漏部分があることを強調し、ついには、御書は「大聖人の御法門の部分」であると結論づけている。
 「要するに御書は、『立正安国論』をはじめ『開目抄』『本尊抄』をはじめとして、甚深の御法門が収録され、私たちが信心する上には、まことに重要このうえもない、大聖人の御指南ではありますが、大聖人の御法門、御指南が一切網羅されたものではありません。言葉を換えれば、大聖人の御法門の部分と言えましょう」
 こう話しておいて、高野は大変な邪説を述べるのである。もっとも、ここまでの話だけで、充分すぎるほど邪説ではあるが……。
 「ですから、大聖人の御法門の一切は、あますところなく日顕上人猊下が所持あそばされ、その筋目の上から種々の御指南を下されるのであります。私たちが迷うことなく、日顕上人猊下の御指南に信伏随従する所以は、ここに存するのであります」
 この高野の説に従えば、御書は日蓮大聖人の仏法の一部であり、日顕上人の「指南」こそ大聖人の仏法の全体ということになる。すなわち御書より日顕上人の「指南」が上ということになる。
 御書軽視の発言である。御書のほかに法義があるというのだ。高野の言うことは、まさに禅宗の教義「教外別伝」である。
 日蓮大聖人の御聖訓に曰く。
 「凡そ法として三世諸仏の説きのこしたる法は無きなり汝仏祖不伝と云つて仏祖よりも伝えずとなのらばさては禅法は天魔の伝うる所の法門なり如何」(諸宗問答抄)
【通解】だいたい法というもので、三世諸仏が説き残した法はないのである。それを禅宗では仏祖不伝といって、仏祖から伝えられた法ではないと主張しているが、それならば禅の法は天魔が伝えたところの法門になるのではないか。どうか。
 
 高野法雄は、日顕上人同様に「禅天魔」に連なる者である。御本仏が御聖訓に記されなかった法門とは、まことに「天魔の伝うる所の法門」としか考えられない。
 御本仏日蓮大聖人の御聖訓をないがしろにして、「三惑未断の凡夫」である日顕上人の言葉を最優先しろという高野の主張は、恐るべき天魔の所為だ。
 日蓮大聖人の仰せに曰く。
 「当世の禅者皆是れ大邪見の輩なり、就中三惑未断の凡夫の語録を用いて四智円明の如来の言教を軽んずる返す返す過てる者か、疾の前に薬なし・機の前に教なし・等覚の菩薩すら尚教を用いき底下の愚人何ぞ経を信ぜざる云云、是を以て漢土に禅宗興ぜしかば其の国忽ちに亡びき本朝の滅す可き瑞相に闇証の禅師充満す、止観に云く『此れ則ち法滅の妖怪なり亦是れ時代の妖怪なり』云云」(蓮盛抄)
【通解】当世の禅宗の者は、みな大邪見の者である。なかでも三惑をいまだ断っていない凡夫の語録を用いて、四智を円満・明了に備えている如来の言教(経典)を軽んじている。どう考えても過まった者ではないか。病気の前に薬を与えることはなく、衆生の機根が整うまでは教えは説かれない。等覚の菩薩でさえ、なお教えを用いている。機根の低い愚かな人たちがどうして経を信じないのか。このために漢土(中国)に禅宗が興ったために、その国がたちまちに滅んでしまった。日本が滅びる瑞相に、仏法に暗い禅僧が充満している。摩訶止観に「これはすなわち法を滅ぼす妖怪である。またこれは、時代の妖怪である」とある。
 
 日顕上人、高野法雄らはまさに「法滅の妖怪」「時代の妖怪」である。「二枚舌」「瞬間湯沸器」などの異名をとる破仏法者である日顕上人の「指南」、すなわち日蓮大聖人仰せの「三惑未断の凡夫の語録」を、どうして日蓮大聖人の御書に優先してよいものか。
 御書を軽視する者は五老僧の眷属であり、破仏法者である。日興上人は「富士一跡門徒存知の事」の中の「聖人御書の事 付けたり十一ケ条」において、御書の重要性を述べられている。そして、御書を軽視した五老僧の所業について、五老僧は、日蓮大聖人の御聖訓を大事にする日興上人を、次のように非難したと、日興上人みずから記されている。
 「(五老僧が言うには)而るに日興、聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是れ先師の恥辱を顕す」
 日興上人は、日蓮大聖人の御聖訓がないがしろにされ御業績が破滅されることを恐れ、「此くの如く(五老僧が)先師の跡を破滅する故に具に之を註して後代の亀鏡と為すなり」(同)として、十大部を定められた。日興上人は信仰の要に御書を据えることを、日蓮正宗僧俗に厳しく言い残されているのだ。
 『大日蓮』(昭和七年八月号)に、「富士一跡門徒存知事聞書」が掲載されている。堀日亨上人の御説法を、後の堀米日淳上人がまとめられたものだ。ここには、日亨上人が五老僧について、「この御書を軽く見たということがたしかに聖祖違背である」と明言されたことが記録されている。御書を軽視したことが、五老僧らの大謗法の根本的原因の一つであったのだ。すなわち、御書軽視は日蓮大聖人に違背することなのである。
 日興上人の仰せに曰く。
 「但し西天の仏法東漸の時・既に梵音を飜じて倭漢に伝うるが如く本朝の聖語も広宣の日は亦仮字を訳して梵震に通ず可し」(五人所破抄)
【通解】ただし、インドの釈尊の仏法が次第に東へ伝わったときに、すでに梵語を翻訳して日本・中国に伝えたように、日本の仏の言葉も広宣流布の日には、仮名文字を訳してインド・中国に通じさせるべきである。
 
 日蓮大聖人の御聖訓は、「広宣の日」には世界各国の言葉に訳され、世界に流布されることが示されている。
 日蓮大聖人の御聖訓は、いまや世界のあらゆる言葉に訳され伝えられている。「広宣の日」の事相を現実のものにしたのは、創価学会である。なかんずく、世界広布は池田名誉会長の指揮によって進められた。
 池田名誉会長の時代に、多くの妙法の未開地に仏種が植えられたのだ。日興上人のお喜びはいかばかりであろうか。「五人所破抄」に示された「広宣の日」そのものの諸相である。
 御書以外に法義の重要部分があるとして、「教外別伝」を唱える「法滅の妖怪」が日蓮大聖人の法脈に巣くっているのも、広宣流布の諸相の一つである。高野の発言などは、「妖怪」の断末魔のあがきでしかない。
 「法滅の時にあたってこそ、広宣流布の機会なのです」との戸田城聖第二代会長の指導が想起される。現に池田名誉会長のアメリカなどでの活躍は、世界広布が二十一世紀に向けて具体的に、しかもスケジュールどおりに進んでいることを示している。仏子らの前途には、“生命の世紀”が開けているのだ。
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