日顕上人は、平成元年七月十七日の午後、曹洞宗白山寺(福島市荒井所在)の墓地で阿部家先祖代々の墓建立の法要をおこなった。
法要に列席した日蓮正宗僧侶は、数学部長の大村寿顕、大石寺理事の石井信量、阿部信彰(東京・大修寺住職)夫妻、早瀬義純(東京・妙國寺住職)夫婦などであった。法要参加者は、親族を含めて七十〜八十人だった。
禅寺の墓地に五百五十万円かけて新しく墓を建立し、法要をおこなう者が、日蓮大聖人の嫡流たる日蓮正宗の法主であってよいはずがない。日顕上人は法主として、明らかに失格である。御本仏のお怒りを恐れなければならない。
だが、日顕上人にそれを言っても無駄であろう。日蓮大聖人の御本尊様を、もったいなくも書写する立場にありながら、邪宗の寺にある墓で法要をしても、何の悔しさ、何の恥ずかしさももっていないのだ。要は信心の根本に狂いが生じているのだ。
日顕上人らは、法要後、福島市内の一流料亭「花月」で盛大な宴会を開いている。出席者は、日顕上人の親族、僧侶、法華講の代表などであった。日顕上人としては、五百五十万円を出して豪華な墓を建て、親族への顔向けもできたと、晴れがましい気持ちでいたのだろう。おそらくは、この宴会の費用も日顕上人の負担ではなかろうか。
日蓮大聖人の教えに生涯を捧げる出家の身でありながら、世俗にまみれた考えしかできないのが、日顕上人の信心の無さである。邪宗の寺に先祖代々の墓を五百五十万円かけて建立するぐらいなら、正宗寺院内に新しく建立すべきではなかったか。邪宗の寺の中に、日蓮大聖人の教法に背いて、いくら豪華な墓を建立しても、本当の意味での先祖供養になどならない。
日蓮大聖人の仰せに曰く。
「涅槃経に云く『若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり』云云、此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、南岳大師の云く『諸の悪人と倶に地獄に堕ちん』云云、謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり」(曾谷殿御返事)
【通解】涅槃経には「もし善比丘がいて、仏法を破るものを見て、それを放置して、呵責し、駈遣し、挙処しなければ、まさにこの人は仏法の中の怨であると知るべきである。もしよく駈遣し、呵責し、挙処するならば、この人は我が弟子であり、真の声聞である」と説かれている。この文中に「法を破る者を見て」の「見」と、「置いて呵責せず」の「置」とをよくよく心肝に染めるべきである。
法華経の敵を見ながら、そのままに置いて責めなければ、師も檀那もともに無間地獄に堕ちることは疑いない。南岳大師は「諸の悪人とともに地獄に堕ちる」と言っている。
謗法を責めないで成仏を願うことは、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるようなものである。はかないことである。はかないことである。
いかに法華経を信じていても、謗法があれば必ず地獄に堕ちるのである。漆千ばいに蟹の足を一ついれたようなものである。「毒気が深く入って本心を失えるがゆえ」とあるのはこのことである。
日蓮大聖人の教えられていることを、寸分、了解していない恐るべき法主が、日蓮正宗に出たものだ。「毒気深入・失本心故」とは日顕上人のことである。
さて料亭「花月」では、日顕上人は相当に御機嫌だったようで、その雰囲気を察してカラオケなども歌われた。教学部長の大村寿顕が、みずからマイクを握ったことも判明している。
この様子から察してもわかるように、日顕上人一行は、邪宗の寺で先祖代々の墓の建立法要をおこなったことについて、なんら慚愧の念はなかったのだ。
ここまでの事実経過をもってしても、まともな日蓮正宗の僧俗は、「このような法主がいてよいのだろうか」と疑念を生ずるのではあるまいか。ところが日顕上人のおこなった事実は、もっと悪辣非道なものであった。
なんとこの翌日、つまり平成元年七月十八日には創価学会より寄進された清徳山開蓮寺の落慶入仏式がおこなわれたが、それに平然と出席しているのである。開蓮寺は学会による二百カ寺寄進の九十五番目の寺院である。
日顕上人は、この開蓮寺の落慶入仏式の日程に合わせて、阿部家先祖代々の墓の建立法要を禅寺でおこなったのだ。日程的にも調整をおこない、実に計画的であったことがうかがわれる。
広宣流布の法城の落慶入仏式の前日、邪宗の墓地で先祖供養する日蓮大聖人の弟子がいてよいはずがない。落慶入仏式にあっては、その地域の邪宗を根絶やしにする意気で臨むべきであろう。
しかし日顕上人、言うことだけは立派なのだ。開蓮寺の落慶入仏式において、曽祖母の「阿部トイ(妙俊)」が入信したことを紹介し、次のように話している。
「その縁故によりその後、親縁の人々が信仰を持つようになり、明治二十二年に総本山へ上がって日応上人の弟子となりましたのが、その妙俊さんの孫に当たる六十世日開上人であります。その関係で私も実は今日、ここにこうして宗門の僧侶として及ばずながらただいままで御奉公させていただいてまいりました」(『大日蓮』平成元年九月号より一部抜粋)
日顕上人は、実に謙虚そうに先祖の信仰により自分がいま宗門僧侶として奉公させていただいていると話しているのだ。前日、邪宗の寺で共々に先祖供養をした教学部長の大村らは、この話をどのような気持ちで聞いていたのだろうか。信仰上の羞はなかったのだろうか。それとも信徒の前で綺語を並べるのは、当たり前と思っているのだろうか。恐るべき口舌の徒たちである。
日顕上人は、次のようにも話している。
「正法護持のために挺身できることは、取りも直さず先祖の正法護持の功徳がそこに深く報われてきておるものと考えるのであります」
先祖の何名かが信心をやったとしても、現に邪宗の寺に、先祖代々の墓があるようでは仕様がないではないか。この日顕上人の弁をそのまま借りれば、先祖代々の邪宗護持の罰が日顕上人に「深く報われてきておるものと考えるのであります」ということになる。
恐るべきは、「禅天魔」である。
日顕上人はさらに綺語を重ねる。
「これはやはり仏法というものが本当に人生宇宙の道の指南であるということ、しかもその正法正義というものを邪法邪義の立場からはっきり区別をして、そしてそこに正しい信心修行、行学を増進していかなければ本当の幸せはこないのであるということが、我々日蓮正宗の僧俗の信念でなければならないと思います」
まったく日顕上人は言行不一致である。「正法正義」「邪法邪義」の峻別をしなければならないのは、当の日顕上人である。
この日顕上人の言葉を破すのに多くの弁はいるまい。
「日顕上人は、口先だけの男だ!」
の一言である。前日、邪宗の寺で先祖供養の法要をおこなってきた、あわれな禿人のなす言葉ではない。因習と戦い、邪法邪義の邪師と戦い、一箇寺を建立寄進した仏子たちの前で話すには、あまりにおこがましい言である。
日顕上人は、本年(平成三年)二月十九日、本慧寺(三重県)新築落慶法要の際、「十悪」について話している。「十悪」とは、心に貪・瞋・癡、行為に殺生・偸盗・邪淫、口に悪口・両舌・妄語・綺語であると日顕上人は説き、「悪業によって得るものは苦しみであります。故に煩悩によって業をなし、業によって苦を得る。それが迷いの因果です」と述べている。
まったく日顕上人の今日の姿は、「迷いの因果」そのものである。依ってきたる根本原因は、禅宗の害毒である。
宗祖日蓮大聖人の四箇の格言のうち、「禅天魔」とは、日顕上人を指し示すものである。邪宗の害毒の恐ろしさを感ずる。
日顕上人は、禅宗の害毒そのままに、日蓮大聖人の御心を了解しているかのような大慢心に陥り、先師方の指南、業績を踏みにじっている。かつその大慢心の故に仏法を破壊しようとしているのだ。
〈編集部よりのお断り 白山寺での法要、「花月」での宴会の模様は、宗教専門紙『中外日報』の九月二十七日付を参考にしました〉
