第6章 両 舌 破 法


 第245号  1991年9月2日

日蓮正宗自由通信同盟

血脈相承を円滑に行うために柱師の「隠尊料」が決められた
その内訳は現金1000円と白米25俵だが反古にされた
 〈法難シリーズ・第23回〉

 二月十七日午前九時五分より、日蓮正宗管長候補者選挙の開票がおこなわれた。開票結果は次のとおり。
 総投票数八十七票のうち、棄権が二票、有効投票八十五票中、
 八十二点 当選 堀 慈琳師
 五十一点 同  水谷秀道師
 四十九点 同  有元廣賀師
   三点 次点 土屋日柱師
 日柱上人の得票は、たったの三票であった。当人の一票もあるので、時の法主であった日柱上人に「信伏随従」していた者は、たったの二名しかいなかったことになる。僧侶たちは、信徒には「信伏随従」を言うが、それはそのほうが自分にとって有利だと判断されたときだけである。
 大正十五年二月の管長候補者選挙の投票結果は、僧侶の「信伏随従」の程度を数量的に示した数少ない事例である。「信伏随従」した者は、投票権を有した僧侶八十七名中たったの二名、二・二パーセントである。これが僧侶の「信伏随従」の数値である。お寒い限りだ。
 ともかく選挙は、日亨上人の圧倒的な勝利であった。あとは形だけの評議員会を開き、日亨上人を管長と決定し、文部省に申請して許可をもらうだけとなった。
 これで、まる三カ月にわたって続いた泥沼抗争にも終止符が打たれるかと思われた。だが、またも事態は暗転する。
 反日柱上人派は、開票当日の午後、大奥(大坊)において、“戦勝”を祝って日亨上人を囲み歓談していた。そこへ大宮警察署の疋田警部補が、数名の制服警官を伴ってあらわれた。この日は形だけの捜査で終わったが、翌十八日より関係者一同は、大宮署において取り調べを受けることになる。
 日蓮正宗宗会議長の小笠原慈聞を筆頭に、宗会議員、評議員総計二十一名に対する告訴が、日柱上人擁護派より出されていたのだ。日柱上人がやむなく辞表を書いたのは、脅迫によるものだ、と訴え出ていたのである。
 翌十八日は、あわただしく明けた。早朝、評議員会を開き、日亨上人を管長として文部省に申請することを決定。総務・有元廣賀、参事・坂本要道二名が旅装をして急きょ上京し、翌十九日には文部省に管長認可に必要な書類を提出した。警察の介入に驚き、急いで法手続きを済ませたのだ。
 さて話は、警察の取り調べにもどる。
 まず十八日は、小笠原慈聞ら九名が午前九時より取り調べを受けた。取り調べは、署内の武道場に全員を入れ、そこから順次一人ひとりを取り調べ室に呼び出し、徹底的におこなわれた。調べは夜遅くまでつづいた。
 ここに至って、前年の秋以来つづいた日蓮正宗の宗内抗争は、警察権力介入という最悪の事態に突入してしまったのだ。
 訴えられた他府県に所在する僧たちは、後日順次、大宮署に召喚された。大宮署の苛酷な取り調べは、その後も連日のようにつづいた。
 一月二十四日には早くも二名の者が書類を検事局に送られた。書類送検されたのは、日蓮正宗宗務院の加藤慈仁(慈忍という報道もある)と蓮成寺住職の川田正平(米吉という報道もある)の二名。この二名は前年十一月十八日、丑寅勤行中の日柱上人を脅すため、ピストルのような音をたてたり、瓦や石を客殿に投げたことを自供した。
 警察署から検事局に送られた書類には、その他、水谷秀道(静岡県・本廣寺住職、のちの日隆上人)、小笠原慈聞(宗会議長)、有元廣賀(品川・妙光寺住職)、相馬文覚(理境坊住職)、中島廣政(寂日坊住職)、西川真慶(観行坊住職)、坂本要道(百貫坊住職)、早瀬慈雄(法道院主管)、松本諦雄(『大日蓮』編集兼発行人)、太田廣伯(静岡・蓮興寺住職)などの名が載っていた。日柱上人に対する脅迫の嫌疑をかけられていたのだった。さらに捜査は続行した。
 富士大石寺の法主(管長)の座をめぐる争いは、脱することのできない袋小路に入った。大石寺始まって以来、最悪の事態だ。
 だが解決の日は、意外にも早く来た。
 三月六日午後一時五十三分の富士駅着の列車で、日柱上人、夫人、持僧と正法擁護会の者二名が到着。一行は自動車で大宮町(富士宮市)橋本館へ。
 そこで大石寺檀家総代三名と合流し、打ち合わせを始めた。夜には東京の正法擁護会の者二名が新たに加わった。打ち合わせは、深夜まで続いた。
 翌三月七日、日柱上人らは二台の自動車に分乗して、大石寺に登山。登山の目的は、日亨上人に相承をおこなうことであった。
 三月七日午前七時より総本山大石寺客殿において相承の式を挙行、午後一時に終了。午後は酒宴となった。三月八日午前零時より一時にかけて、血脈相承が日柱上人と日亨上人のあいだで執りおこなわれた。翌月の四月十四日、十五日には、日亨上人の代替法要が催された。
 これをもって、日蓮正宗の法主の座をめぐる争いは終了した。
 抗争劇は実にあっけない幕切れとなったのだが、日柱上人側が強硬な態度から、一挙に柔軟な態度に転じた背景には、文部省の下村宗教局長の調停があった。
 調停がおこなわれたのは、二月の終わりか三月の初めと思われる。
 大方の予想に反して、ただ一回の調停で和解が成立したという。
 その場で五カ条の合意を見た。残念ながら、文部省の誰が調停の場に臨んだのかは判然としない。だが、誰が代表で調停の場に出て合意したにしろ、それに基づき両派の睨み合いが解消されたことはたしかだ。
 ただし五カ条の合意内容は、当時、複数の新聞で報じられている。
 一、宗體の維持に就ては前法主派、法主互いに協力する事
 二、新法主は山中及び宗門を改正する事
 三、宗門の重大事に就て新法主前法主相談する事
 四、新法主は宗門の雑事には容喙せぬこと
 五、新法主は僧俗の信行を増進すること
 この五項目以外にも、日柱上人の「隠尊料」が問題にされた。その内容については、正法擁護会のメンバーである田辺政次郎が、日亨上人登座後の同年九月、『異体同心の檄文』という文書の中で一部明らかにしている。
 田辺は、日蓮正宗側が日柱上人に約した「隠尊料」を履行しないということで、合意内容を暴露したのである。
 その中で田辺は、以下のことを明らかにしている。
 「然して日柱上人隠尊料は(現金三千円之れは『正鏡』にも記載あり)白米七十俵本山より供養すべき内約を大石寺檀徒惣代人の意見として相談せし事、然れども此事は同三月八日御相承の後ち再び改め減額せられた即ち白米廿五俵現金壱千円となりし是れも約束だけで実行はせぬ事に聞及びたり」(筆者注  『異体同心の檄文』一部抜粋、文中『正鏡』とあるのは反日柱上人側の出した文書)
 驚くべき事実である。血脈相承を円滑におこない御隠尊するにあたり、「隠尊料」が払われる約束になっていたと暴露しているのだ。しかもそれが相承を支障なくおこなう条件として、相承の前後に話されていたことがわかるのである。
 隠尊料は調停合意の時点では、現金三千円と白米七十俵が、大石寺檀家総代の意見として述べられた。新管長側がそれをその時点で承諾したのかどうかは定かではないが、三月八日の相承のあとで、現金一千円と白米二十五俵に減らされてしまったと、日柱上人側の田辺は暴露している。
 田辺が隠尊料のことを暴露したのは、まだ宗内抗争の傷も癒えぬ頃である。関係者全員健在であろうし、田辺の記すことが、あながちウソとは思えない。
 隠尊料の実行不実行が、日蓮正宗内で人口に膾炙するようになるとは、「金口嫡々唯授一人相承」の金科玉条も、当時はその権威を失ってしまっていたと思われる。
 ちなみに現金一千円が今日のどの程度の金額に相当するか換算してみる。大正十五年当時、十キロの米はおよそ三円二十銭である。今日の米の値段をかりに十キロ五千円とすると、隠尊科の一千円は、現在の約百五十万円となる。公務員の初任給は大正十五年当時七十五円。現在十三万円として換算すると、大正十五年の一千円は現在の百七十万円となる。
 もう一つおまけに換算してみよう。当時の『大日蓮』は十五銭、いまの『大日蓮』は三百円。すると隠尊料一千円は、約二百万円となる。
 どうやら日柱上人の隠尊料は、現在の百五十万円〜二百万円程度だったようだ。だが、日柱上人はそれすら与えられず、宗内の者ことごとくに敵対され、放逐されたのだった。
 しかも猊座についていた期間は、二年三カ月という短期間であった。
 日柱上人に対する日蓮正宗僧侶の仕打ちは、酷いものがあったと思われる。
 新しく法主に登座された日亨上人は、学究肌の方であるから、「隠尊料」の取引に関与されることなど考えられない。
 おそらく、このクーデターの筋書を書いた“政僧”たちが、日柱上人や正法擁護会の人々を宥めるために、その場しのぎの懐柔をおこなったものだろう。人のよい日亨上人を利用し、日蓮正宗を我が物にしようとする“政僧”たちの息づかいが聞こえてくる。
 ただ、ぶざまな抗争で世の顰蹙を買ってしまった日蓮正宗であったが、日亨上人が総本山第五十九世として登座されたことは、なによりのことであった。日亨上人の人徳がなければ、抗争がこのように一挙に解決することもなかっただろう。
 しかし、人徳、識見ともに、石山が仏教界に誇る至宝ともいえる日亨上人を、同門の者たちが抗争の中で容赦なく傷つけたことは、かえすがえすも残念なことであった。
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