第6章 両 舌 破 法


 第242号  1991年8月30日

日蓮正宗自由通信同盟

総本山大石寺の中で旧管長派と新管長派が睨み合っていた
その緊迫した状況下で首謀者の役僧が信徒に拉致された
 〈法難シリーズ・第20回〉

 宗会側を代表する僧侶三名は、日柱上人に突きつけた不信任決議書と辞職勧告書を撤回のうえ、回収した。そして文部省宗教局長から指示された、提出期限の十二月一日当日、なんとか差し出すことができた。だが、それですんなりと事態が収拾され、新法主の誕生ということにはならなかったのである。
 宗会議員や評議員のクーデター派は、次の法主にのちの堀日亨上人(当時は堀慈琳を称し立正大学講師であった)を擁立するということで盟約し、日柱上人に辞表を書かせ、日亨上人の就任承諾も得たうえで、十一月二十四日に管長(法主)の交替を文部省に届け出ていた。
 しかし日亨上人は、その後のゴタゴタに嫌気が差し、新管長(法主)への就任を見合わせるとの意志表示をした。不就任を表明したのは、宗会側の三名の僧が宗教局長に弾劾された十一月二十九日の直後と思われる。
 一方、大石寺地元の檀家総代らは、日柱上人擁護の運動を広げるために、十二月二日に上京した。上京したのは渡辺、笠井、井手の三檀家総代であった。三人の檀家総代は、篠原・東京信徒総務に面談、情報を交換するとともに今後の運動の展開などについて話し合った。
 このとき総代らは、日亨上人がいったん意思表示した管長不就任をひるがえし、再び就任の決意をしたことを知る。日亨上人としては、自分が管長就任を承諾しなければ、日柱上人の辞表がすでに文部省宗教局に受理されている現状からして、管長不在の状態が続き、無用の混乱を招くと判断したためと思われる。
 この日亨上人が管長(法主)就任を再び承諾したことは、日柱上人を擁護しようとする大石寺の檀家総代らにとってはきわめて不愉快なことであった。日柱上人派の不利な先行きを予想させるからである。
 そして、このニュースは、檀家総代らが白糸村村長・渡辺兵定宛に打った電報によって、大石寺の地元にもたらされた。大石寺のクーデターは、すでに多数の地元有力者を巻き込んでの紛争になっていたのだ。
 すでに十一月二十七日、大石寺の地元より三人の総代が、宗教局に日柱上人留任の陳情をしていたが、それ以来、静岡と東京の信徒は連携を取り合いながら、代表が連日、宗教局に押しかけた。
 しかし日柱上人の辞任届と日亨上人の就任届が、監督官庁である文部省宗教局に受理されている以上、法的に有効であり、それを覆すにはよほどの法的事由が必要となる。だが、日柱上人側も、クーデターを無効にする決め手には欠けていた。
 さて、十二月六日、日亨上人は、日蓮正宗の管長(法主)に就任するため大石寺に入山した。明けて七日、日亨上人は前管長の日柱上人に事務引き継ぎを申し入れる。
 ところが事務引き継ぎに不可欠の檀家総代の立ち会いが得られず、引き継ぎはできなかった。総代がこぞって立ち会いを拒否したのだ。
 新管長としての職務を遂行するために入山したにもかかわらず、事務引き継ぎができないため、日亨上人の管長就任は完全に暗礁に乗り上げてしまった。
 日柱上人は大坊にそのままいつづけたので、日亨上人はやむなく、塔中寺院の浄蓮坊に入った。これ以降、同じ大石寺の境内で、日柱上人を擁するグループと日亨上人を擁するグループとが二派に分かれ、深刻な対立をすることとなった。
 日柱上人の側には、大石寺の檀家総代をはじめ、主に東京などの檀信徒がついた。大石寺の檀家総代らにしてみれば、全国から集まった僧侶らが、なんの権限があって自分たちの大石寺住職(法主)を放擲しようとするのかということで、どうにも許せないものがあったのだろう。
 当時の新聞などの論調を見れば、日蓮正宗という宗派(包括法人)の僧侶たちが密議し、大石寺(被包括法人)を乗っ取ろうとしている、といった論調が目立つ。「大石寺派」(日柱上人のグループ)と「日蓮正宗派」(日亨上人のグループ)といった表現も、新聞報道の中に散見される。
 両派が大石寺内で深刻な対立を続けている十二月十日頃、ある事件が起きた。十一月十八日の宗会開始以来、本山に陣取り、阿部法運(のちの日開上人)の意を受けて日柱上人おろしの中核として動いていた東京・品川の妙光寺住職・有元廣賀総務(今の宗務総監にあたる)が、東京の信徒代表十二名によって強引に拉致され、東京に連れ去られてしまったのである。
 もともと日柱上人に対するクーデターは、この有元総務が、日柱上人に取り立てられた経過を無視して、日柱上人に敵対し、阿部法運側に寝返ったことによって可能になったとされる。ナンバー2のナンバー1への裏切りがあったればこそ、日柱上人降ろしが成功したのだった。そのクーデターの首謀者の一人が、信徒らによってあえなく強制下山させられてしまったのだ。大正時代の末寺住職は、日頃、信徒に世話になっている手前、信徒の意向に面と向かって争うことはできなかったようだ。大正十四年は、両派ともに決定的な対抗策を講ずることもできないまま、暮れようとしていた。だが、暮れも押し迫った十二月二十八日、日柱上人側が動きを見せた。突如、日柱上人が大石寺を下山し、東京に向かったのである。
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