第6章 両 舌 破 法


 第241号  1991年8月29日

日蓮正宗自由通信同盟

法主人事を巡って文部省役人に訓戒された日蓮正宗僧侶が
上野村の村長の立ち会いの下で檀家総代に詫び状を書いた
 〈法難シリーズ・第19回〉

 先号に記述したように、大正十四年十一月二十日、日蓮正宗宗会は日柱上人に対して、不信任及び辞職勧告決議を突きつけた。これが総本山大石寺のお家騒動として、その後、半年間にわたり世情を騒がせた内紛の始まりとなる。
 はたしてこうした事実を、「金口嫡々唯授一人相承」のための次期法主選定の方法として受け入れることのできる僧俗がいるだろうか。血脈相承のあるべき姿とはあまりにかけ離れた史実である。
 まさに白法隠没の仏語を、みずからの身をもって示している大正時代末の日蓮正宗僧侶のこの姿こそ、仏意仏勅の創価学会出現の予兆と見るべきではあるまいか。
 日柱上人に対する圧力は、宗会の決議だけではなかった。宗会の決議は二十日だが、宗会初日の十八日の夜半、日柱上人に対するイヤがらせがすでにおこなわれていた。客殿で勤行中の日柱上人に対して、ピストルのような爆発音をさせて威嚇したり、客殿に向かって瓦や石を投げつけた。
 当時の大石寺は、夜ともなれば静寂そのものであったろう。そのしじまを破るような爆発音を響かせ、瓦や石を投げつけたというのだから悪質きわまりない。
 夜半の勤行ということだから丑寅勤行と思われるが、丑寅勤行中の日柱上人にイヤがらせをしたのは、二名の僧であった。ただし、この二人は、後に警察沙汰となってから判明した実行犯のみで、この裏には教唆した者がいたとされる。
 日柱上人に対する陰に陽にわたる圧力は、相当なものがあったと思われる。
 日柱上人は、これら宗会議員たちの圧力に押されたためか、二十二日に辞職の意思を表明、辞表を書いた。日柱上人の辞表提出を幸いとして、宗会議長の小笠原慈聞ほか三名は、同日すぐさま、文部省当局に届け出をするために上京。翌々日の二十四日、届出の手続きを完了した。新しい法主は、先の密約どおり、のちの堀日亨上人とされた。
 日柱上人が突然退座の意思を表明したとの知らせは、大石寺の檀家総代らに伝わった。だが総代らは、自分たちになんの相談もなく、ヤブから棒に事が進められていることに猛反発。翌二十三日、宗会議員らのおこなっていることは許すことのできない暴挙であるとして、宗会議員一人ひとりに檀家総代らが詰め寄るところまで、事態は紛糾した。
 宗会議長の小笠原慈聞らが、文部省宗教局に、日柱上人の退座、日亨上人の登座の届けを提出するために上京したことを知った檀家総代らは、追いかけるように、二十七日の早朝、三名の代表を急きょ東京に派遣、文部省宗教局に事情説明、陳情をおこなった。もちろん彼らは、日柱上人に対する宗会の退座要求が不当であることを主張したのである。
 文部省宗教局は、檀家総代らの陳情に基づき、二日後の二十九日、宗会側の主要人物である総務(今の宗務総監)の有元廣賀(品川・妙光寺住職)、水谷秀道(のちの第六十一世日隆上人)、松永行道(福岡・霑妙寺住職)を改めて召喚した。
 文部省宗教局は、宗会側の“クーデター”に対して強い不快感を抱いていたようだ。下村宗教局長は三名の僧に対し、「貴僧等は社会を善導教化すべき責任の地位にありながら今回の暴挙を敢て為すは何事か」(大正十四年十二月三日付『静岡民友新聞』)と厳しく追及し、そのうえで、二日後の十二月一日までに、日柱上人に対して宗会が突きつけた不信任決議書と辞職勧告書を回収して、文部省まで持参、提出するよう命令した。
 所轄官庁の宗教局としては、一宗のトップ交代が、クーデターのような形でおこなわれたとあっては、監督不行届きとなりかねないとの判断が働いたのではあるまいか。しかも、すでに辞表及び就任の書類を受理したことでもあり、ゴタゴタが表面化することを避け、円満な交代であったことを装うため、不信任決議書、辞職勧告書という不穏当な書面を撤回させ預かろうとしたのではあるまいか。
 宗会側の代表三名は、“日柱上人おろし”に成功して大喜びしていたところへ、宗教団体の監督に絶大な権力を持つ宗教局長から厳訓され、肝の縮むような思いで大石寺に帰った。
 もはやクーデターの成功を喜んでいるどころではない。ともかく宗教局長の命令どおり、十二月一日までに、不信任決議書と辞職勧告書を提出することが最優先の行動とされた。
 帰山した三名は日柱上人に対し、二通の書面の返却を懇請したが、書面はすでに檀家総代の渡辺登三郎の手に渡っていた。いまや立場は逆転し、三名の僧侶は檀家総代に返却を哀願するハメにおちいったのである。
 だが檀家総代側も、これまでの経過からして、書面の返却を二つ返事で了承するなどといったことはしなかった。
 宗会側僧侶三名は、日柱上人と上野村村長の立ち会いのもと、詫び状を檀家総代に提出し、やっとのことで二通の書面を返却してもらった。僧侶が檀家総代に詫び状を入れたのも愉快だが、上野村村長が立ち会ったというのも抱腹絶倒ものである。
 それにしても、いま日蓮正宗の僧は、「信徒の分際で……」などと平気で発言し、時代錯誤の差別観で信徒を睥睨しているが、大正時代においては、お家騒動のあげく、僧侶が信徒に詫び状を入れたこともあったのだ。それも村長立ち会いのもとにである。いったい日蓮正宗の僧が、ふんぞり返り出したのはいつの頃からなのだろうか。
 それはさておき、文部省宗教局長に恫喝され、なんとしてでも不信任決議書と辞職勧告書を手に入れなければと、切羽詰まった思いに駆られていた有元、水谷、松永の三名は、詫び状を信徒に差し入れるという予想外の出来事があったにせよ、回収すべき書面を手に入れることができた。
 書面の提出期限の十二月一日、僧侶たちは大宮駅(今の富士宮駅)を午前五時三十二分発の列車に乗り上京した。書面をたずさえた僧侶たちが緊張した面持ちで宗教局長の前にあらわれたのは、当時の交通事情からして、おそらく午後の二時か三時頃ではなかっただろうか。
 〈筆者注 本記事は、大石寺のお家騒動を報じた『静岡民友新聞』(現在の『静岡新聞』)、『東京朝日新聞』(現在の『朝日新聞』)などを参考に記述しました〉
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