第6章 両 舌 破 法


 第239号  1991年8月27日

日蓮正宗自由通信同盟

一閻浮提総与の大御本尊様の写真掲載に深く関わった男を
日開上人は外護の勲功があったとして総講頭に任命した
 〈法難シリーズ・第17回〉

 一閻浮提総与の大御本尊様の写真を掲載した本がある。写真は、御宝蔵に御安置されていた大御本尊様を、至近距離(おそらくは数メートル)から撮影したものである。この写真は、縦十・三センチ、横七・三センチの大きさで掲載されている。
 大御本尊様の写真を掲載している本は、明治四十四年十一月十日、報知社より発行された『日蓮上人』で、著者は熊田葦城(本名熊田宗次郎)である。
 熊田葦城著の『日蓮上人』は、明治四十四年、『報知新聞』に連載されたものだ。執筆当時、熊田は浄土宗の信者であったが、この『日蓮上人』と題する伝記を著したことが縁となり、後に日蓮正宗に入信し、現在の品川区にある妙光寺の信徒になった。
 さて、この熊田の『日蓮上人』には、先述したように一閻浮提総与の大御本尊様の写真が掲載されているが、その写真の下の解説文には次のように書かれている。
 「これ日蓮上人より日興上人に傳へられたる本門戒壇の大本尊なり丈四尺六寸餘幅二尺一寸餘の楠材にして日蓮上人の眞筆に係り日法上人之を彫刻す今富士大石寺に寶藏す由井一乗居士特に寄贈せらる」
 この写真解説文によれば、「由井一乗」という人物が、大御本尊様の写真を熊田葦城に渡したということだ。
 熊田は、日蓮正宗機関誌『白蓮華』(大正四年十一月七日発行)に「余の改宗せし顛末」と題し、入信の経緯を書いている。その中に、「由井幸吉君は日蓮宗の碩学にして、最も余の記事を歓迎せられし一人なり」と記している。
 ここに「日蓮宗の碩学」とあるのは、身延派を指す「日蓮宗」ではなく、日蓮大聖人を宗祖とするという意味での「日蓮宗」であり、由井は日蓮正宗の信徒である。この手記によれば、熊田は大正二年五月、由井幸吉の折伏により入信した。
 この由井幸吉が「由井一乗」である。由井一乗は、大正十五年一月号の『大日蓮』に名刺広告を出している。肩書は大講頭である。
 熊田がその著『日蓮上人』に、一閻浮提総与の大御本尊様の写真を掲載したのが明治四十四年。その写真解説文には由井一乗が写真を提供したことが明記されているのに、由井は日蓮正宗内でなんら処罰もされなかったのだ。
 『日蓮上人』に掲載された大御本尊様の写真を見ると、燈明がともっている。左右に一本ずつのロウソクが点燈しているのである。察するに、この大御本尊様の写真は決して盗み撮りされたものではない。盗み撮りしたのであれば、燈明をともす時間も惜しむだろう。
 御開扉のときに盗み撮りしたとも考えられるが、狭い宝蔵の中でそれは不可能である。しかも宝蔵内は薄暗く、撮影に充分な露光を得ることはできない。ライティングかフラッシュが必要である。御開扉のときに盗み撮りすることは絶対に不可能である。
 また当然のことながら、在家の由井が勝手に宝蔵に入ることも不可能だ。よって、この大御本尊様の撮影は、由井の独断ではなく、僧侶の了解をもっておこなわれたと結論せざるを得ない。それも一部の僧侶ではなく、法主および能化クラスの了解があったものと思われる。いや全山あげての了承があったとするほうが自然かもしれない。
 念のために記すと、明治四十四年当時、日蓮正宗には第五十五世日布上人、第五十六世日応上人が御隠尊猊下として、第五十七世日正上人が御法主上人としておられた。
 この一閻浮提総与の大御本尊様の撮影が、日蓮正宗内で物議をかもしたという記録は見当たらない。大御本尊様の撮影は日正上人らの了解をもっておこなわれ、由井一乗から熊田に渡ったと見るのが至当だ。
 熊田の『日蓮上人』伝は、史実を克明に調べている。また、熊田は未入信ながら、ほぼ大石寺側に立って記述している。
 『日蓮上人』には、付録として、「日蓮宗身延久遠寺監督 権僧正 武田宣明」が熊田に宛てた手紙が掲載されている。
 手紙の内容は、熊田の『日蓮上人』が「単に興門派の所伝にのみ拠りて日蓮宗の史実を参案とし給はざりしは甚だ遺憾に存候」として、抗議をしたものだ。熊田の書いた『日蓮上人』伝は身延派の憤激をかったようで、バランスを取るため、付録として身延派の僧の抗議文を掲載したものと思われる。
 逆に言えば、熊田の著書『日蓮上人』に対する富士大石寺側の評価はそれだけ高かったのだろう。一閻浮提総与の大御本尊様が撮影され、熊田に渡った背景には、そのような事情があったと推測される。
 それを裏づける広告が、昭和七年一月号の『大日蓮』に掲載されている。
 その広告は「熊田葦城先生著 日蓮大聖人」と大書され、次のような宣伝文が続いている。
 「本書は熊田葦城先生が心血をそゝひで執筆せられた、宗祖日蓮大聖人の御一代の歴史でありまして數ある日蓮大聖人の御傳記中尤も正確のものであります」
 また定価二円を、日蓮大聖人六百五十年「御遠忌記念」として、一円三十銭に値引きしていることも告げている。広告主は「大日蓮社」。日蓮正宗機関誌『大日蓮』の発行元である。
 これらの事実から推して、一閻浮提総与の大御本尊様の写真が流出したことについて、日蓮正宗の僧侶の面々はなんの痛痒も感じていなかったことが判明するのである。
 「此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず正像末に未だ弘通せざる本尊なり、然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては左右無く子孫にも譲り弟子等にも付嘱すべからず、同一所に安置し奉り六人一同に守護し奉る可し、是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し」(富士一跡門徒存知の事)
 日興上人の遺言により、本化の菩薩が到来する日まで固く守護するように誡められている大御本尊様を、写真に撮って世間に公開するとは、日興上人の末流としての自覚に欠けるのもはなはだしい。御本仏日蓮大聖人の御遺命を無視し、大聖人を裏切る行為である。「守護」を命じられている者が、勝手に大御本尊様を写真に撮って世間に公開するなど、絶対に許されるべきことではない。
 熊田の著書『日蓮上人』に一閻浮提総与の大御本尊様の写真が掲載されたことからはっきりしたこと――それは、少なくとも明治の終わりから大正、さらに昭和の初めにかけての日蓮正宗の僧侶には、広宣流布の時を、自分たちでどのように構築していくかというプランも、その前提となる大情熱もまったく欠落していたということだ。「本化国主の御尋ね」を、より現実的なものとして感じていれば、時が来れば本門戒壇堂に安置されるべき一閻浮提総与の大御本尊様を、写真に撮って公表するなどということはありえない。法義の根幹を完全に忘れ去った姿であったことがうかがえる。
 熊田葦城に一閻浮提総与の大御本尊様の写真を渡した由井一乗は、昭和四年五月十三日、総本山第六十世日開上人より総講頭に任命された。そのとき、日開上人より由井一乗に「賞与大漫荼羅」(賞与御本尊)と賞状が与えられた。
 賞状には、由井を称えて、「多年爲法外護ノ勳功ニ依リ大漫荼羅ヲ賞與シ之ヲ表彰ス、昭和四年五月十三日 總本山日開在判」とある。
 一閻浮提総与の大御本尊様の写真を世間に公表してしまった謗法の者が、総講頭に任じられ、賞与御本尊を下され、外護の勲功を称える賞状までもらっているのだ。どこかがおかしい。ちなみに日開上人は、日顕上人の実父である。
 由井一乗が総講頭に任命されたのが昭和四年五月。創価学会の牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長の入信は前年の昭和三年六月頃である。後に戸田会長がしばしば語ったとされる、「我々は謗法の真っ只中に敵前上陸した」との発言が、実感をもって蘇る。
 一閻浮提総与の大御本尊様を守護すべき日蓮正宗にしてから、このようなありさまだったのだ。
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