第6章 両 舌 破 法


 第232号  1991年8月20日

日蓮正宗自由通信同盟

邪義を大石寺に持ち込んだ日精上人が謗法を犯した三年後
大石寺は「本堂」「山門」「坊舎」悉く焼失してしまった
 〈法難シリーズ「逢難」改題・第10回〉

 本紙『地涌』に過去九回(第41号〜第49号)にわたって掲載した「逢難」シリーズを、親しみやすく「法難」シリーズと改題して掲載いたします。
 まず、江戸期における総本山大石寺の様子を若干記し、続いて明治以降、日蓮正宗僧侶が犯した謗法、堕落の実態を紹介します。
 なぜそのようなことを記述するかといいますと、創価学会が出現する以前の日蓮正宗のあり方を見れば、創価学会の出現によって日蓮正宗がいかに清められてきたか、と同時に興隆してきたかを知ることができるからです。
 それはとりもなおさず、創価学会出現の仏法上の必然を実感することでもあります。
 戸田城聖創価学会第二代会長は、「我々は謗法の真っ只中に、敵前上陸したのだ」とよく話されていたということですが、創価学会出現以前の日蓮正宗の堕落、謗法のさまは、本来、清流でなければならない富士の流れが、いかに濁流と化していたかということをはっきりと物語っています。
 日蓮正宗が腐敗していた事実を知ることは、「如蓮華在水」の理のままに出現した創価学会のいただく使命がいかに重大で、かつ前途が多難であるかを覚知することになります。創価学会の、広宣流布をめざしての折伏行は、法脈に忍び込んだ魔の蠢動を喚起することになるのです。
 なお、この連載は、断続的になることをあらかじめお断りいたします。

 寛永十二(一六三五)年十月十二日、大石寺は猛火に包まれ、全焼した。この事実は、日蓮正宗の歴史を綴った『日蓮正宗富士年表』(平成二年版・大石寺富士学林発行)には記載されていない。記載しなかったのは、故意あるいは不知の故であろうか。
 近年、この事実を記した古文書が発見された。天保九(一八三八)年六月に、大石寺が伊豆韮山の代官(古文書では「江川太郎左衛門」宛となっている)に差し出した「口上覚」である。以下、一部を抜粋紹介する。
 「寛永十二年十月十二之夜寺中より出火本堂山門坊舎不残焼失仕」(寛永十二年十月十二日の夜、寺中より出火し本堂、山門、坊舎残らず焼失仕る)
 本堂、山門、坊舎などが一切残らず焼失したことが記されている。
 この古文書の記録でまず注目されるのは、その日付である。あろうことか「十月十二日」と記されている。日蓮大聖人が、一閻浮提総与の大御本尊様を御図顕になった日である。決して偶然ということで片づけられるものではない。
 日蓮大聖人曰く。
 「大火の事は仁王経の七難の中の第三の火難・法華経の七難の中には第一の火難なり、夫れ虚空をば剣にてきることなし水をば火焼くことなし、聖人・賢人・福人・智者をば火やくことなし、〈中略〉賢人ありて云く七難の大火と申す事は聖人のさり王の福の尽くる時をこり候なり、然るに此の大火・万民をば・やくといえとも内裏には火ちかづくことなし、知んぬ王のとが・にはあらず万民の失なりされば万民の家を王舎と号せば火神・名にをそれてやくべからずと申せしかば、さるへんもとて王舎城とぞなづけられしかば・それより火災とどまりぬ、されば大果報の人をば大火はやかざるなり」(王舎城事)
【通解】大火については仁王経には七難の中の第三、法華経では七難の中の第一にあげられている。虚空を剣で切ることはできない。また水を火は焼くことができない。同じように聖人・賢人・福人・智者を、火は焼くことができないのである。(中略)そのとき賢人があって次のように言った。「七難の一つにあげられている大火ということは、聖人が去って国王の福運が尽きるときに起こるのである。ところが今起きている大火は、万民の家は焼いても王宮には火は近づいていない。これは王の過失ではなく万民の過失によるものであることがわかる。したがってこれからは、万民の家を王舎と名づければ、火神はその名を恐れて焼くことはできないだろう」と。王はそのようなこともあるかもしれないと思い、王舎城と名づけてみると、それ以来、火災はやんだ。この例でもわかるように、大果報の人を大火は焼かないのである。
 
 王舎城は焼けないのである。では、どうして戒壇の大御本尊様まします総本山が全焼したのか。
 近年、大石寺において大火があったのは、昭和二十年六月十七日のことであった。その前日、軍部が総本山大書院に神棚を祀るという、日蓮正宗史における一大恥辱事件があった。その翌日、客殿、大書院、六壷などが一夜にして焼け落ちた。このとき、総本山第六十二世日恭上人は客殿で焼死されている(筆者注 のち大奥に隣接する奥台所にて焼死と推定される)。
 日恭上人の時代は、総本山大石寺が謗法に染まった時代であった。国家権力の弾圧を恐れ、国家神道に追従し、伊勢神宮遥拝や神社参拝奨励を指示する日蓮正宗宗務院院達を出した。また創価教育学会に神札を受けとるように指示したり、牧口、戸田両会長が獄中にあったときは、なんらの支援もせず、牧口会長を見殺しにした。
 日蓮大聖人の弟子として「身軽法重」を信条とすべき僧が、我が身をかばい、信徒の殉教を見て見ぬふりをしたのである。
 昭和二十年六月の総本山大石寺の大火、御法主上人の焼死には、そのような時代背景があった。
 では、寛永十二年に総本山大石寺が全焼したときは、どのような時代であっただろう。当時の貫首(法主)は第十八世日盈上人であった。日盈上人は、寛永十年の年央、第十七世日精上人より相承を受け登座されている。両上人とも京都要法寺の出身である。
 大火のあった寛永十二年は、日盈上人が御当代、日精上人が御隠尊であった。その後、日盈上人は寛永十四年に退き、再び日精上人が貫首の座に登られることになる。
 さて、話はさかのぼるが、大火の三年前、すなわち寛永九年に、日精上人は大石寺の貫首となっている。
 総本山大石寺第十七世貫首となった日精上人は、この年の十一月に竣工した御影堂(古文書にある「本堂」)に、戒壇の大御本尊様を御安置(公開)した。この御影堂を含め、大石寺の主な建物の一切が焼失したのである。戒壇の大御本尊様は、当時の僧俗の懸命な守護によって遷座されたのではあるまいか。
 戒壇の大御本尊様を、時至らないにもかかわらず公開したことは、御遺命にそむくものである。大石寺が全焼してしまうという罰の因は、それで充分と思われるが、『随宜論』(「『地涌』からの通信(5)」に全文を掲載)に代表される邪義が大石寺に持ち込まれていたことも見逃せない。
 御隠尊の日精上人が『随宜論』を著したのは、寛永十年あるいは十一年の十一月である(『随宜論』の巻末には「寛永十戌年」と記されている。しかし、戌年は正しくは寛永十一年である)。『随宜論』は、本紙『地涌』(第126号)においても詳述したが、貫首の立場にある日精上人が、要法寺第十九代の広蔵院日辰の邪義を、あたかも正論のごとく書き、正信の僧俗を圧迫したものだ。
 日精上人はこの中で釈迦仏の造立、法華経一部八巻の読誦の正当性を主張した。しかも目的は、釈迦仏造立、法華経一部読誦に対する宗内の反抗を、押さえ込もうとの目的であった。すなわち、御隠尊猊下の立場をもって、宗内において御隠尊、御当代の進める邪義に抗う僧俗を鎮圧しようとしたのである。
 貫首(法主)の狂える時代に遭遇した僧俗は、権威・権力の横暴に悩まされることになる。
 日精上人が邪義『随宜論』を著した、一年あるいは二年後にあたる寛永十二年十月十二日、大石寺は全焼したのだった。法主の犯した謗法に対する罰の厳しさを伝える史実である。これはまさしく時代を超えた教訓といえる。
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