第5章 綺 語 誑 惑


 第216号  1991年8月4日

日蓮正宗自由通信同盟

祭祀特権階級になろうと日蓮正宗に巣くう悪比丘たちは
日蓮大聖人の仏法を欲得で解釈し純真な信徒を迫害する

 創価学会員が「同志葬」「友人葬」「家族葬」をおこなうことに対して、日蓮正宗の末寺住職がなんとも過剰な反応をしている。
 信徒の成仏を祈念できるのは出家のみで、出家の念ずる引導文なくしては故人は成仏できない――、などと思い上がっていた末寺の住職にとっては、平然と「同志葬」「友人葬」「家族葬」がおこなわれている現状に、冷水を浴びせかけられたような思いを抱くのだろう。
 しかし、よく考えてみれば、成仏・不成仏は、故人の一生を通しての信仰生活の帰結であり、なかんずく臨終において正念を抱けるかどうかは、まさに命終しようとしている当人の信仰上の確信にかかっている。
 余人がなしうるのは、臨終に際して当人が正念を抱くにあたり、障碍となりうる言動をなさないことを気遣う程度で、あとはひたすら唱題し、命終せんとする人の成仏を御本仏に祈るのみである。
 日蓮大聖人を恋慕渇仰し、三世の生命を確信して、いまわの際においても、ひたむきに唱題しつつ息を引きとっていった故人。御本仏・日蓮大聖人と故人とのあいだに、言葉を差しはさむ余地もなければ、余人の介在する間隙もない。そこにあるのは、日蓮大聖人の仏法を最後の最後まで寸毫の疑いもなく信じつづけた信仰者の至福と誉れと勝利である。
 しかし、それでは困る人々がいる。かつてのバラモン(祭祀特権階級)のように、神仏と人々の間に介在しなければ自己の存在を主張できない人々である。そのバラモンが、現代の日本にあって、日蓮大聖人の法脈に巣くっている。彼ら現代のバラモンは、「我々が引導文を念じなければ故人は成仏しない」というのである。
 日蓮大聖人の仰せに曰く。
 「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり、所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を『是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣』と説かれて候、悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し」(生死一大事血脈抄)
【通解】このように十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏の象徴である久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経である南無妙法蓮華経と我等九界の衆生の三つは全く差別がないと信じて妙法蓮華経と唱え奉るところを生死一大事の血脈というのである。このことが日蓮の弟子檀那の肝要である。法華経を持つとはこのことを言うのである。所詮、臨終只今にありと覚悟して信心に励み、南無妙法蓮華経と唱える人を、普賢菩薩勧発品には「是の人命終せば、千仏の手を授けて恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを得」と説かれている。喜ばしいことに、一仏二仏ではなく、百仏二百仏ではなく千仏までも来迎して手をとってくださるとは、歓喜の涙、押さえがたいことである。
 
 まことにありがたい仰せである。日蓮大聖人の衆生に対する大慈大悲を感ずる。そこにはなんの差別もない。
 創価学会員のおこなう「同志葬」「友人葬」「家族葬」は、御本仏・日蓮大聖人の威を借り、不当な特権を主張する日蓮正宗僧侶に対する、信徒側からの拒否反応の一つである。それはとりもなおさず、日蓮大聖人の仏法の本義に立ち還ることにもつながる。
 それだけに、現代のバラモンたらんとする日蓮正宗の一部の僧からの反発も異常なものがあった。
 岐阜県多治見市において本年(平成三年)五月におこなわれた葬儀は、「友人葬」であった。五月三日に通夜、五月四日に密葬、そして五月八日、創価学会東濃文化会館において本葬が営まれた。
 喪主は夫を亡くした夫人であった。ところが、この地域を受け持つ日蓮正宗の末寺・開顕寺の住職である田村慈観が、喪主に対してイヤがらせをしてきたのである。
 本葬(八日)を前にした六日頃、住職の田村は、開顕寺の人目につくところに、「開顕寺信徒にも学会独自の葬儀が執行された」と題する書面を貼り出した。
 それにはおおむね、次のようなことが記されていた。
 「『当家が開顕寺に葬儀を依頼したところ、葬儀執行にあたって二〇万円の御供養を要求したので、やむを得ず、自分たちで葬儀を執行した。』と捏造情報を組織に流しているようである」
 喪主および家族の者が、このような情報を組織に流したことは一切なかった。明らかに、「友人葬」をおこなった喪主に対するイヤがらせである。そうすることにより、次に続く「友人葬」を阻むことを企図したと思われる。
 夫を亡くして悲嘆の思いにくれる夫人に、ムチ打つような行為をおこなった開顕寺住職の田村慈観に、地元信徒から非難の声があがったことは言うまでもない。
 平成三年五月十五日、喪主は、住職の田村が名誉を毀損したとして岐阜県地方裁判所に訴え出た。
 日蓮正宗の僧侶の中には、信徒は煮て食おうと焼いて食おうと自由であると思っている者がいる。出家とは、日蓮大聖人に代わり信徒を慈愛で包み、信徒が世間から迫害されるときには、我が身に替えても信徒を守るべき立場にある。だからこそ出家は信徒にも尊敬され、慕われるのである。
 それをなにを間違ってか、我に信伏随従しなければ、日蓮大聖人に逆らうのと同然であると脅し、さらには、地獄に堕ちると威嚇するのである。そして、広宣流布に共に戦った同志たちがおごそかに唱題しながら故人を送れば、成仏しないと誹謗、中傷する。
 悪比丘たちが、己の欲得のために仏法をもてあそんでいるのである。
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