第5章 綺 語 誑 惑


 第213号  1991年8月1日

日蓮正宗自由通信同盟

日顕上人は檀徒欲しさに「創価学会の解散」を望んでいる
出家の欲得の為に清浄な和合僧団が破壊されてよいものか

 日顕上人が、破仏法者としての正体をいっそうあらわにした。いまや「創価学会の解散」まで口に出しはじめている。
 創価学会は、これまで広宣流布を実体的に担ってきた和合僧団である。その和合僧団を解けと発言しているのだ。創価学会を解散すれば、広宣流布などできはしない。日顕上人はそれでもかまわないというのである。日顕上人は、広宣流布など二の次で、己に隷属する信徒が欲しいだけなのだ。
 昭和五十四年の日顕上人の登座以降、創価学会は日蓮正宗の僧侶たちをあまりに大事にしすぎた。信徒であれば、“僧を大事にしすぎる”などといった表現は避けるべきだと指摘するむきもあろう。だが誤解を恐れず述べれば、創価学会が僧侶を大事にするなかで、日蓮正宗の僧侶は思い上がり、生活は金満化していった。信徒が足下に額づくのは当然とまで思いはじめた。
 昭和五十九年四月以降、創価学会は百十一カ寺を日蓮正宗に寄進したが(別ページ参照)、その間、宗門側の建立した寺はわずか十七カ寺に過ぎない。しかも昭和六十年十二月以降の五年間余は、僧の身でありながら、一カ寺も建立していないのである。
 出家した者にとって、一カ寺でも建立するということは大変な誉れでもあり、住職に任じられた者は、みずからの力で必ず寺院を寄進するまでになろうとする。寺院の建立寄進は、出家した者の願業の一つともいえる。
 しかるに昭和六十年十二月以降、日蓮正宗の僧は一カ寺も建立していない。信徒には信仰の証として供養を求めても、日蓮正宗の僧自身は御本尊様に供養をしていないのである。
 人の真価はその行動で計るべきである。日顕上人らが自身の生活を切り詰め、日夜精進して大法弘通に邁進してきたかどうかを考えるべきだ。一方、創価学会は昭和五十九年四月以降百十一カ寺を建立寄進、折伏も昼夜を分かたずおこなってきた。その大進軍の指揮を誰が執ってきたかは誰しもが知るところである。
 昭和六十年十二月以降、一カ寺も建立寄進せず、僧としての本分を忘れてしまった日顕上人ら日蓮正宗の僧侶が、広宣流布を担う仏意仏勅の団体である創価学会に「解散せよ」という。まさに法華経に説かれた、「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲」そのままの姿である。
 尽くしても尽くしても足りないという。奉っても奉り足りないという。そしてみずからは、人を睥睨して贅沢におぼれるのである。
 日蓮大聖人は「末世の僧等は仏法の道理をば・しらずして我慢に著して師をいやしみ檀那をへつらふなり、但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ」(曾谷殿御返事)と、後世の弟子に誡めを残されている。
 日顕上人は自身の隠居所として、東京都目黒区八雲に地下プール付きの二十億円の豪邸を造ろうとしていた。日顕上人の夫人は、東京の一流デパートで一度に一億円を超える買い物をしていた。買ったものの中には、日蓮正宗としての買い物もあるが、それを夫人がすることは、なお問題がある。
 また日顕上人の弟子の中には、高級クラブに通い、ゴルフ場の会員となり、高級車を乗りまわしている者が数多くいる。女性関係の乱脈な僧までいる。
 その堕落した僧が、日蓮大聖人の御遺命を奉じ、広宣流布に邁進する創価学会に「解散せよ」という。まったく転倒した言いがかりである。しかも、その「解散せよ」という根拠はただ一つ、「随順」しないからだという。
 日蓮大聖人の御遺命に従い折伏行に励む者は、仏法に照らして最も尊い者である。妻帯をしながら出家を詐称し、血族をもって信徒を支配しようとする者が、どうして尊いといえるだろうか。そのうえ、行躰もいちじるしく乱れ、贅沢三昧をしている。創価学会最高首脳でなくとも、小言の一つも言いたくなるというものだ。
 それに反発し、単に気に食わないからといって、僧侶が信徒およびその団体に対し、自由に「解散」や「破門」を命ずることができると思っているのなら、時代錯誤もはなはだしい。かつ日蓮大聖人の仏法にも違背している。
 それだけではない。世間の道理にも反する。そのようなことが許されるのなら、恋人に長年貢がせて、素直に貢がなくなったことを理由に恋人を殺してしまう非道な男すら許されることになる。
 だが、日顕上人らにしてみれば、僧侶であればその非道も許されるというのだ。その根拠は、法主である故に正法正義であるという。したがって、仏の法の体現者である自分に逆らう者は、仏の名において裁くというのである。
 ひるがえって現実を見るに、日蓮正宗の正法正義を今日まで実証してきたのは誰であろうか。ほかならぬ創価学会である。
 歴史的に見ても、創価学会が出現するまでは、日蓮正宗の僧たちは堕落しきっていた。創価学会が活動を始めても、戦後しばらくの間は冷やかに見ていた。そればかりか、戦時中、創価学会が弾圧されたときは、見殺しにさえした。
 日蓮正宗の正法正義が世に実証されたのは、創価学会あったればこそである。一閻浮提総与の大御本尊様のもとに、仏意仏勅の団体が出現した不思議をよくよく考えてみることだ。宗門、世間ともに大謗法に染まっているとき、創価学会が「如蓮華在水」の理に従い、日蓮大聖人の仏法をもって民衆を救済せんと出現したことは、仏法から見れば決して偶然ではない。
 日顕上人は今、その創価学会を「解散」させることを望んでいる。
 七月二十一日、総本山大石寺でおこなわれた全国教師指導会で日顕上人は、「戸田城聖氏は日淳上人に対し奉り、将来、学会が宗門の人事に口を差しはさんだり、宗門のためにならないような状態が起こったときは、ただちに創価学会を解散してくださいと申されたということであります」と述べた。
 戸田会長の発言の真偽のほどは不明であるが、よしんばそのような発言があったとしても、今回の場合、「解散」が妥当とされるだろうか。
 創価学会は、宗門の人事に口を差しはさんだりなどしてはいない、宗門のためにならない状態が起こっているわけでもない。それは、創価学会の貢献に対して日顕上人自身が述べていることでも明らかだ。本年の「新年の辞」(『大白蓮華』平成三年一月号)で、日顕上人は次のように述べている。
 「創価学会創立六十一年の出発に当たり、私ども宗門においても、心からその功績を賛嘆いたします。
 戸田先生の逝去後、間もなく、第三代会長の任に就かれた池田先生は、鉄桶の組織と当千の人材を見事に活用され、且つ、信心根本の巧みな指導をもって国内広布の大前進を図り、十倍ともいうべき多大の増加を来したことは、耳目に新しいところであります。
 特に、池田先生の指揮において大書すべきは、戦後の世界的な移動交流のなかで、各国に広まった信徒の方々を組織化した、世界広布への大前進が図られたことであります。今日、地球的規模による広布の着々たる進展がみられることは、撰時抄の御金言のごとく、実に広布史上すばらしいことと思います。
 また、戸田先生のころより始まった総本山への諸供養や末寺寄進は、池田先生によって本格的に行われ、先師日達上人の数々の賞辞が残っております」
 まさに事実に即した賞賛の言葉である。
 その日顕上人が突然、信徒を隷属させようと、悪鬼入其身の姿を現じ、広宣流布を空中分解させようとしているのだ。一切は日顕上人の貪瞋癡の三毒から始まっているといっても過言ではない。
 この悪鬼入其身の姿を現じている。日蓮正宗の法主にあるまじき日顕上人を糾すことは、地涌の菩薩であれば避けて通れぬ戦いである。日蓮大聖人の法脈に巣くう悪比丘たちと戦うことは、日蓮正宗を外護する創価学会本来の使命の一つである。
 戸田城聖創価学会第二代会長は次のように述べられている。
 「僧衣をまとえば、お小僧さまたりと尊仰するは、われわれ信者の当然の道であるが、この掟を“かさ”にきて、正しき信心、たえざる行学への苦悩もなく、名誉と位置にあこがれ、財力に阿諛するの徒弟が、信者に空威張することなきよう、大御高僧の指導を懇願するものである」(『大白蓮華』昭和二十六年八月号「巻頭言」)
 この戸田会長の心配が現実となり、本来ならば徒弟を指導しなければならない日顕上人自身が、権威・権力の虜となり、「信者に空威張り」しているのである。実に悲しむべき事態だ。
 「平左衛門の後身宗会議員と現る。仏恩広大にして逆縁の輩、今大聖人様の仏法の中に生まれて、唯一人の大信者をそねみ恨む、習性恐るべし」(昭和二十七年七月二十日付『聖教新聞』「寸鉄」)
 日顕上人らは、この『寸鉄』に書かれたとおりの姿を現出している。
 日蓮大聖人の御聖訓に曰く。
 「末法の法華経の行者は人に悪まるる程に持つを実の大乗の僧とす、又経を弘めて人を利益する法師なり、人に吉と思はれ人の心に随いて貴しと思はれん僧をば法華経のかたき世間の悪知識なりと思うべし、此の人を経文には猟師の目を細めにして鹿をねらひ猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして在家の俗男・俗女の檀那をへつらい・いつわり・たぼらかすべしと説き給へり」(法華初心成仏抄)
【通解】末法の法華経の行者は、人に憎まれるほどに受持するのが真実の大乗の僧であり、経を弘めて人を利益する法師であるとしている。人によく思われ、人の心に従って貴しと思われる僧は、法華経の敵であり世間の悪知識であると思いなさい。この人を経文には、猟師が目を細目にして鹿を狙い、猫が爪を隠して鼠を狙うようにして、在家の俗男俗女の檀那に諂い、偽り、たぶらかすであろうと説かれている。
 
 創価学会の組織を切り崩し、檀徒作りを画策するいまの日蓮正宗の僧侶の姿そのものである。「人の心に随いて貴しと思はれん僧」とは、まぎれもなく日顕上人らのことであり、まさしく「法華経のかたき世間の悪知識」である。
創価学会が日蓮大聖人の仏法を「人に悪まるる程に持つ」現実こそ、末法の法華経の行者であるとの証左にほかならない。
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