第5章 綺 語 誑 惑


 第201号     1991年7月20日

添書登山に参加せよと法華講に目一杯の動員をかけたが
終わってみれば昨年のわずか5.7%の登山者数だった

 七月度の添書登山が本日二十日をもって終了した。二日より二十日まで、十九日間の登山者総数は九〇三八名であった。昨年の同月度の創価学会員の登山者総数は、十五万七千名余だったから、その五・七パーセントである。
 本紙『地涌』が、添書登山者数を毎日発表した(筆者注 末寺向けファックス通信では「添書登山情報」として登山者数を毎日報道した)ので、総本山も末寺も、必死になって動員をかけたようだ。動員をかけられたのは主に法華講である。バス何台かを連ねて団体登山をした末寺もあった。
 いずれにしても、末寺の住職は、総本山側にはっきりと人数がわかってしまうだけに、それで忠誠度を評定されるのではないかと懸命に登山者を募った。これは、いままでの末寺の住職には見られなかったことである。
 ところが、登山者を募るといっても、その根本精神はみずからの保身であるのだから、参加者に対する信心指導など、当然なされていない。明らかに員数合わせで連れてこられたと思われる者も多数いた。
 事実、末寺の中には、バスをチャーターし、参加者の一部には交通費を支給してまでして登山させたところもあった。
 このようなことだから、御開扉を受けるにあたって合掌もせず、もちろんのこと読経、唱題もできない。はなはだしい場合は、念珠を持っていない者すらいる。もとより入信しているのかどうかすら疑わしい者までいた。
 このような、御開扉あるいは登山の意義も理解していない人々がほんの数百人、あの広い正本堂の前数列にすわっているのである。夏なのになぜかうすら寒い光景であった。この先、寒い冬に向かうにしたがって、いったいどのようなことになるのだろうか。
 この添書登山の哀れな様が伝わるほどに、日顕上人に対する非難の声が、宗門僧侶の中に広がりはじめている。総本山の地元では、日顕上人に対する怨嗟の声もあがっている。
 日顕上人は実に愚かな判断をしたものだ。池田名誉会長を総講頭罷免にし強硬姿勢を貫けば、総本山と末寺が食っていくに足りる最低ライン=二十万世帯の信徒ぐらいは確保できると考えたのが、そもそもの誤算であった。
 今では、当初考えていた池田名誉会長の破門もできなければ、創価学会との絶縁もできない。明日になれば一人でも多くの脱会者が来るのではないかと、そのことのみに一縷の望みをかけ、切ない思いで待っているだけである。
 やっていることといえば、創価学会の悪口を言っているだけで、外に対する折伏などまったくしていない。なんとも性根の卑しい、自称・日蓮大聖人の弟子がいたものだ。
 そのような根性で広宣流布が進むと思っているとしたら愚の骨頂である。創価学会が発展してきた原動力は、代々の会長の、一念に億劫の辛労を尽くす広宣流布への大情熱につきる。信徒の折伏した者を掠め取り、供養をさせ、人よりいい生活をしようなどという魂胆でどうして広宣流布ができようか。
 釈迦以来の滔々たる仏教史の流れの中で、創価学会が特筆すべき大発展をとげてきた理由をよくよく考えてみることだ。使命なくしてできることではない。創価学会が釈迦の未来記たる法華経を現実のものとし、日蓮大聖人の御遺命を達成するために出現した仏意仏勅の団体であることを識るべきだ。
 その仏意仏勅の団体を裏切った者をかき集め、登山させ、なんとか添書登山の体裁だけを整えようとした、この日顕上人らの企てはみごとに失敗した。添書登山の総数約九千名のほとんどが法華講員で、創価学会の脱会者は一割程度の九百名前後と見られる。
 添書登山は、三月十六日に創価学会側に通告され、七月二日より実施された。日蓮正宗側は、この急激な変化の中で動揺し、こぼれ落ちた創価学会員を拾い集めようとしたのだが、逆に、みずからの無力ぶりを満天下に晒すことになったのだ。当然の帰結とはいえ、実に哀れである。
 日顕上人らにとっての悲劇はそれだけにとどまらない。添書登山の員数合わせによるしわ寄せは法華講に及び、住職の一方的な圧力に法華講内部で不満が渦巻きはじめた。いずれ法華講員の一人ひとりが、自分たちの登山が住職の面子を保つための員数合わせにすぎなかったことがわかるときが来る。そのときこそ、日蓮正宗中枢が“虎の子”と考えている、法華講が自壊していくときである。
 日顕上人ら日蓮正宗中枢の策した添書登山の謀が、彼らにとってまぬかれ難い悲劇的結末をもたらすことは必至だ。慢心した聖職者の演ずる悲劇は、信心ある者の眼より見れば喜劇でさえある。
 信心なき僧のもとに地涌の菩薩が結集する道理がない。それが日顕上人らにはいまだにわからないのである。
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