第5章 綺 語 誑 惑


 第188号     1991年7月7日

「僧侶が引導を渡すことによって成仏するのではない」
この日達上人の御指南を日蓮正宗の僧は忘れたのだろうか

 前々号、前号にひきつづき、時局協議会文書作成班一班の作成した「葬儀について」という文書に触れる。
 この文書は、僧侶の出席しない葬儀をおこなえば地獄に堕ちるとさんざん毒づいている。かつて日蓮正宗の寺院が数少ない頃には、僧侶抜きの「同志葬」は日本全国随所でおこなわれてきた。
 現在でも諸外国では、「同志葬」が当たり前である。なにをもって、僧侶が出席しなければ成仏しないなどというのだろうか。
 この「時局協文書」は、なにやかやと愚にもつかないことを言っているが、最後の最後には、出家の者は特別の祈祷力があるかのようなことまで言い出す。僧侶は、祈念においての「心構え」に特別なものを有していると主張しているのだ。
 これは結果として、僧侶は在家にない祈りの力を持っていることを主張していることになる。つまり祈祷力を誇る山伏の眷属とも思しき面妖な僧侶も、日蓮正宗の僧侶の中にはいるということだ。
 「時局協文書」は次のように述べている。
 「即席の学会僧には知る由もないであろうが、葬儀において導師を務め、引導をわたすことは、大変な心構えが必要なのである」
 そのような立派な心構えをしている僧侶が、葬儀にあたって導師本尊を忘れてきたり、読経中に居眠りしたりするのだろうか。おまけに男女を間違えて戒名をつけたりもする。こうした現実を見れば、たいした心構えをしているとは思えない。
 また戒名についても、次のように記している。
 「故人の無始以来の罪障を消滅させ、即身成仏へと導くことに、戒名の大事な意義が存するのである」
 そこまで言うのであれば、第二次大戦中、総本山第六十二世日恭上人のつけた、次のような戒名の数々について、日蓮正宗は公式に見解を発表し、御遺族の方々に陳謝すべきである。
 義勇院奉公日〇居士 制空院利権日〇居士 連勝院忠勇日〇居士 義烈院勇道日〇居士 国柱院武烈日〇居士 奉公院治国日〇居士 忠良院奉公日〇居士 大忠院報国日〇居士 護国院堅持日〇居士 忠勇院義烈日〇居士 高岳院勇将日〇居士 武功院芳美日〇居士 報国院忠実日〇居士 報国院実行日〇居士 忠烈院義昭日〇居士 殉国院和光日〇居士 尽忠院善行日〇居士 忠良院顕照日〇居士 賀忠院報国日〇居士
 軍勇院大行日〇居士 忠烈院当千日〇居士 勇進院護国日〇居士 堅忠院敏捷日〇居士 殉国院歓喜日〇居士 大洋院安国日〇居士 忠良院勇猛日〇居士 信義院勇進日〇居士 尽忠院興亜日〇居士 興国院誠忠日〇居士 壮烈院勇義日〇居士 英忠院義烈〇居士 四海院征南日〇居士 忠勇院航空日〇居士など
 (筆者注 これらの戒名がつけられた経緯については本紙第35号に詳報。なお、○印はプライバシー保護のため伏せ字とした)。
 そして最後に「むすびに」として、
 「ともかく、創価学会員といえども、学会員である前に、日蓮正宗の信徒なのである。日蓮正宗の信徒である以上、正しい日蓮正宗の信仰の在り方を正しく心得て、正しく貫いていかなければ、本当の即身成仏の大仏果は得られない」
 と述べている。それをそっくりお返ししておこう。
 お返しの文は次のとおり。
 「ともかく、日蓮正宗僧侶といえども、正宗の僧侶である前に、日蓮大聖人の弟子なのである。日蓮大聖人の弟子である以上、正しい日蓮大聖人の信仰の在り方を正しく心得て、正しく貫いていかなければ、本当の即身成仏の大仏果は得られない」
 さて、この権威主義そのままの「時局協文書」の中で、ほんの一部分だけまともな記述があった。「時局協文書」の書き手が、宗門内の感情論の大勢に抗して真実を記したのかもしれない。よくよく参考にしよう。
 「我々凡夫には、故人の生涯にわたる信心の厚薄など、到底、判断することができない。したがって、故人の信心の厚薄にかかわらず、追福作善をもって臨終の一念を助けて成仏得道せしめ、真の霊山浄土へと導くことが大切なのである。それが葬儀のもつ厳粛な意義である」
 まさにそのとおりである。ここにおいて、広宣流布のために共に戦った同志たちが、唱題をもって故人の成仏得道を祈ることの正当性が証明されたのである。
 「時局協文書」は、たくさんの引用文を用いているが、葬儀についての日蓮大聖人の御聖訓は一文もない。それはなぜか。そのような文証はないので、引用しようにも引用できないのだ。追善供養などは、日蓮大聖人みずからなされていることはあっても、葬儀に立ち会われ、導師をされたという記述はない。むしろ「同志葬」こそ、葬儀本来の姿なのである。
 最後に、日達上人と日顕上人が、「成仏は南無妙法蓮華経による。自らの信心、自らの修行によって仏になっていく。決して僧侶の力ではない」(趣意)と述べられている御説法を紹介する。
 宗内の僧侶は、我見でものを言っていないで、次に掲げる文をよくよく読んでいただきたい。ことに、脅し専門の時局協議会文書作成班一班のメンバーは、虚心坦懐に御指南を拝する必要がある。
 【昭和五十二年一月六日 日達上人猊下ご説法】
――全国教師・寺族初登山の砌於 大講堂
 「葬儀というものは、結局南無妙法蓮華経の力によって、功徳によって成仏するのであって、どんな偉い人であっても、自分の力で人々に引導を渡して成仏させるのでは無い。唯我々は自分の信心の力によって、南無妙法蓮華経の力をお借りして、即身成仏乃至臨終の正念を願ってやるのでございます。
 或る所化は、東京へ出た時にお葬式に連れて行かれた。自分はまだ初めてお葬式に行くのであるからして、お葬式は御経をあげてどうしたらいいか解らない、自分はまだ人を成仏させる程力がないから嫌だと言って、逃げて行った人があります。又、一時そういう人も出た。真実にそうである。若い人が所化になって、お葬式に初めていく時は皆そんな考えで何にも解らない。私も若い時に、お葬式に初めてやられた時に、昔は丸い棺ですが、死んだ人はそこに座って回りを取り巻いて、皆んな家中揃って泣いています。私は、坊さんって泣かなければいけないのかと思ったこともあります。
 それは、何にも解らないからでありまして、御題目の利益、大聖人様の御本尊の御利益によって死んだ方が成仏して行くのである。決して我々の力じゃ無い。それを、我々の力だと思って、お葬式をしてやったからいくら持ってこいなどという様な、とんでもない考えを持ったならば、それは大変な事である。他宗でそういう事を言ったからといって、本宗は決してそんなことを言ってはいけない。たとえ、御供養が有っても無くても、信者であるならば供養してやるのは当然であります。その心掛けが最も大事である。唯、我々は大聖人様の御本尊を信じて、御題目を唱え、法華経を唱えて、即身成仏の境涯を開かれる様にお勧めすればいいのである。
 決して自分の力ではない。それを自分の力だと思うからして、一日費やしたからいくらくれ、院号を付けたから何万持ってこいなんて、とんでもない考えを起こす人があったならば、それこそ師子身中の虫とでも言うか、或いは、宗門の僧侶としてはもう一番悪い根性である。どうか根性を叩き直して、本当に清い心であって戴きたいと思います。
 それは、解らない人は供養も少ない、或いは沢山の供養の中に空っぽの時もあるでしょう。しかし、それは当然である。間違って入れ損なった人もあるのである。そんな事を一々咎めるものではない。我々は大聖人様の教えを、そのまま布教して行く、御題目を唱えて行けばいいのである。必ずそこには立派なお寺もできていき、又新しい寺もできてゆくのであります」

 【昭和五十八年九月二十一日 日顕上人猊下ご説法】
――北清山法浄寺 移転新築・寺号公称落慶入仏法要の砌
 「今の世の中において色々な悪いことや不幸なことが様々な姿をもって起こっておりますが、大聖人は七百年の昔において、その根本は誤った宗教にあるということを御指南でございます。この誤った宗教の姿は、いわゆる特殊な職業僧侶がいて、その職業僧侶が誤った法を説き、また、その誤った法によって加持・祈祷を願い、死んでからあとの回向を願うというところの姿にあるのであります。(中略)
 要するに、真実の道によって、すなわち仏力、法力に対する自らの信心と自らの修行とによって仏になっていくということが、大聖人の真実の大慈大悲でございます。僧侶の力とか、あるいはお布施を出してお経をあげてもらい、あるいは祈祷をしてもらえば幸せになれるとか災いが払えるとか、そういう考えがそもそも邪の、誤った宗教なのであります。故に大聖人は、僧俗ともに正しい仏法を命懸けで受持し、南無妙法蓮華経と唱えるところに未来永劫の真の即身成仏があることを御指南でございます」
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