日蓮正宗の時局協議会文書作成班一班は脅しの集団である。信徒が「友人葬」「同志葬」をおこない、僧侶を葬儀に呼ばないことを怒り、信徒をひたすら脅すのである。
以下、同班の作った「葬儀について」という「時局協文書」を引用する。
「現当二世にわたる人間の尊い生命の葬送を、浅はかな人間の凡(筆者注 凡智か)で安直に考えること自体が、増上慢の証拠である。まして、無理やりそれに従わせようとする学会首脳幹部の暴挙は、第一に大聖人以来の日蓮正宗の法灯を受け継がれた御歴代上人の遺訓を冒涜するものであり、第二に親や兄弟を成仏の道から引きずり降ろすものである」
大聖人の仏法を「冒涜」しているのは、日顕上人その人である。「C作戦」などという奸計をめぐらし、広宣流布を空中分解させようとしている。それも瞋恚の故にだ。
いまや御歴代上人の謗法や御本仏の教えに違背していることも、問題にされているときである。この七百年間に知らず知らずのうちに、積もり積もった日蓮正宗の垢を取り除き、真実、日蓮大聖人の仏法はなんであったかを知りたいと皆が思っている。いま僧侶のやらなければならないことは、そういった意味での教学の研鑚である。
それを「御歴代上人の遺訓を冒涜するものであり」と威丈高にしか言えない僧侶には、心の底から失望する。現在、進行している宗教改革運動の質が見えていないとしか思えない。
現象的には僧俗の対立にしか見えないかもしれないが、いま創価学会員の胸に去来する思いは、日蓮大聖人の本当の教えはなんだったかという切実な思いである。
そうした問題意識は、信徒に対して権威的な対応しかしない日蓮正宗の僧侶への失望の中から、逆に培われてきたものだ。その本質も理解せず、封建時代の信徒への対応そのままの振る舞いしかできない日蓮正宗の僧には、どうしようもない限界を感じる。
「時局協文書」はさらに脅しつづける。
「かかる己義を、平気で人に勧めていく罪障の深さたるや、到底、量り知れるものではない。学会首脳幹部、あるいは師範・準師範の学会僧、さらにはこのような学会の葬儀観に迎合する学会員は、親や先祖はもとより、子孫末代をも、永久に地獄の淵に沈めることになる。その罪の深さを、まことにもって恐れなければならない」
日蓮大聖人の大慈悲の境涯とは真反対の、無慈悲な言葉の羅列である。「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と、子供が孫が夫が妻が、ひたすら故人の成仏を祈り唱題をする。なにをもって「子孫末代をも、永久に地獄の淵に沈めることになる」と結論するのだろうか。
御本仏も、成仏も不成仏も、ありとあらゆる仏法用語も、僧侶自身が自分の支配欲をまっとうし、我慢偏執を満たす目的で使っているのだ。これこそ悪比丘の典型である。
これだけ脅してもまだ気がすまないようで、「時局協文書」はさらに脅しをかける。
「僧侶は、その法衣を着するがゆえに、大聖人の代理、血脈付法の御法主上人の代理として、葬儀等の諸法要を営むのである。
僧侶の資格もないのに、その資格があるかのように振る舞い、葬儀の導師を務め、引導をわたす学会僧は、まさに悪鬼入其身の私度僧というべきである。三宝を失い、師範・準師範という私度僧を立てて葬儀を執行しようとも、そこに即身成仏の功徳など、全くあろうはずがない。かえって、故人も導師も、もろともに悪業の因縁を増し、無間の業火に苦しみあえぐだけである」
ここでは、「法衣」の権威に頼り、その権威のみをもって脅そうとしている。「僧侶の資格」とは「法衣を着する」ことにあると考えていること自体が大きな誤りである。
妻帯をし、金満化した生活をし、信徒の幸福を願わず、折伏もせず、みずから勤行もせず家族にもさせず、何をもって「僧侶」というのか。これでは、釈迦が末法に出現を予言していた「悪比丘」そのものである。
そのうえ、この悪比丘たち(日蓮正宗の僧の一部)は怨念を宿しているのだ。弔辞のときに、「故人の池田先生を慕う気持ちは誰にも負けないものがありました。故人は、創価学会員であることを最高の誇りとして、生涯を生き抜いたのでした」などと、誰かが述べでもしようものなら、それこそ大変である。押さえ難い怒りの感情を心の内にメラメラと宿すだろう。
その瞋恚の生命猛々しい者が、臨終して間もない大事なときに故人のそばに近づき、しかも音声を発するのだ。こう考えると、「なんだか僧侶を呼ぶのが怖くなる」という創価学会員も多いのではあるまいか。そのような信徒の思いも知らず、「時局協文書」は、怒りの気持ちのままに信徒を脅すのである。
さらに、古い文書であればなにを引用しても権威があると考えているようで、「保田妙本寺の日継師の『当家引導雑雑記』」を引用している。
「仰に云く不知案内にして亡霊の引導は悪道に堕すべし、是は法然弘法に超え過ぎたる罪障なり、彼れは謗法の衆生を悪道に引く、是れは持経者として其の霊を悪道に引き入れん事浅間敷き事なれば、我が檀那なりとも智者を頼み引導さすべきなり云々」
九十一年間、ケンカの相手であった保田妙本寺の古文書まで持ち出しているのだ(筆者注 保田妙本寺は、のちの平成七年五月四日に日蓮正宗より離脱)。この程度の文を引用しなければならないということは、それだけ在家のおこなう葬儀を阻止しうる依文がないことを意味している。
まったく愚劣の極みであるが、この引用文の後の脅し文句は注目に値する。同志や友人が故人の成仏を祈れば、「法然や弘法」と同じだといっている。
もうメチャクチャである。いったい、この文を書いた者は、御書を読んだことがあるのだろうか。日蓮大聖人の大慈悲に思いをめぐらしたことがあるのだろうかと疑わざるを得ない。
広宣流布をめざし共に戦った者たちが、御本尊様に故人の成仏を祈る。この和合の姿を見て日蓮大聖人がお怒りになるというのであろうか。これほど麗しい葬儀はない。
そして同文を引用の後、
「たとえ妙法を受持している信徒であろうとも、その資格にない者が、自身の不徳を顧みずに葬儀の導師を努め、引導をわたしたならば、その罪障は、法然や弘法にも過ぎるというのである。まさに無間の業因にほかならない。ゆえに、いかに高位の信徒であれ、必ず血脈正系の出家僧に、引導を願わなければならないことは、理の当然であろう」
と続けている。
ここまで威丈高に言いながら、保田妙本寺の古文書まで持ち出したのが気恥ずかしかったのか、
「富士の傍系たる保田郷門ですら、このように心得ているのである。いわんや富士の正系においてをやである。それを、自分たちの都合で、富士の傍系であるから当たらずという者がいれば、それは愚直というものである。そういう者は、天台大師の、『明者は其理を貴び、暗者は其文を守る』との言をよく思うべきである」
とも言う。
それにしても、「明者は其理を貴び、暗者は其文を守る」との天台大師の文を知っていながら、その理がわからず、引用しているところが面白い。自分たちの本質的誤りをズバリと指摘した文なのに、それすらわからず、自らの強弁を正当づける文として引用している。
「明者は其理を貴び、暗者は其文を守る」。「時局協文書」は、僧の自己保身のためのみに引用文を多用し、脅しの文書を粉飾しているのだ。
日蓮大聖人の「理」などはとっくに忘れ去ってしまっている。「時局協文書」からうかがえるのは、日蓮正宗の僧侶には、日蓮大聖人の御聖訓に偲ばれるような慈悲などさらさらないということである。あるのは提婆達多や平左衛門尉に劣らぬ、怒りと脅しの感情だけである。
創価学会の悪口を言う僧には、葬儀に来てほしくない。このような僧が父や母の葬儀に来るなんて恐ろしいことだ。やはり「同志葬」「友人葬」がいい――。
「葬儀について」という、「同志葬」「友人葬」を阻もうとする、時局協議会の文書を読めば読むほど、そう思えてくるから不思議だ。
