「葬儀について」(以下「時局協文書」と称す)という文が、日蓮正宗の時局協議会文書作成班一班より出された。この班のメンバーは班長・大村寿顕(東京大田区・宝浄寺住職)、班員・藁科鑑道(本山塔中・南之坊住職)、同・森岡雄樹(静岡・忠正寺住職)、同・原田輝道(大坊内)である。
この文は全文を紹介してまで破折する価値がないと判断した。そこで、代表的な言い分のみを紹介し、誤りを糺す。
この班の書き手は脅しが専門である。骨子になっている言い分はただ一つ――「僧侶抜きで葬儀をすれば地獄に堕ちるぞ」ということだ。明快すぎるほど単純な主張である。それを手を変え品を変え、さほど関係があるとも思えないような引用文まで持ち出して正当化しようとしている。
さて、この脅しの文だが、冒頭で、これまた虚偽の事実を書き、純真な創価学会員を不安に落とそうとしている。
「現在の池田創価学会には、宗門から離反し、新興宗教としての創価学会教、あるいは池田教として独立したいという願望が、あちらこちらから滲み出ている。しかし、池田創価学会が宗門から離反し、独立するためには、いくつかの必要不可欠な条件がある」
「同志葬」「友人葬」をおこなうことが、創価学会が宗門から離反し「池田教」を旗揚げするための前段階であると記述することによって、学会員に不安を与えようとしているのだ。
事実経過を無視してバカな主張をするものではない。
「池田教」旗揚げを目論む者が数百カ寺を寄進し、正本堂建立の大寄進などおこなうはずがない。時価にしてゆうに一兆円を超える大寄進である。そのうえ、莫大な御供養をなしてきた。
なにをもって「池田教」旗揚げというのか。献身的な寄進に対する不満を持つ貪りの心が、そのような事実とかけ離れたことを言わせるのだろうか。あるいは怒り狂った気持ちが、冷静に物事を見る機能を完全にマヒさせているのだろうか。
創価学会員は上から下まで、日顕上人をはじめとする宗門の僧侶たちに失望したのである。金満化し、権威化し、堕落し、妻帯している奇妙な出家たちに失望しているのだ。
なかんずく「二百万のうち二十万くればよい」などという下心を持って創価学会を解体しようとする日顕上人には、人間として許せないものを感じている。かつ己の権威と贅沢のために、日蓮大聖人の仏法を利用しようとする者に対し怒り、侮蔑しているのだ。
その類の者が、大事な肉親の葬儀に来ることを拒んでいるのである。それをなにをカン違いしてか、「時局協文書」は、次のように書いている。
「例えば池田教への盲信から寺院に願い出ないケースもあるにはあるだろうが、中には、“寺院に葬儀を依頼すると、二十万円ないし百万円の御供養を要求される”と、今までありもしなかったことを幹部から聞かされて寺院に願い出ないケースがあったり、幹部が恐いので、はじめから寺院に願い出ないケース、あるいは願い出ても幹部の脅迫まがいの説得に屈してか、喪主自らが辞退するケースもあるやに聞いている。これらは、確認こそしていないが、学会の異常な体質を知る者ならば、少なからず首肯できる情報であるといえよう」
確認もしていないことを無責任に書き連ね、信徒団体である創価学会を誹謗する始末の悪さ。「学会の異常な体質」とまで決めつけるような僧を、創価学会員であることに誇りを持っている者が、みずからの肉親の葬儀に呼びたいと思うだろうか。
僧侶たちの傲慢さに大衆が憤っているのだ。その事実がこの事態になってもまだ認識できないでいる。
そのうえ、「悩乱した学会員らの手によって、本宗の化儀を勝手に改変し、葬儀等を執行するのである(このようなことを、平気で行うことができること自体が、悩乱の現証であるから、“悩乱した学会員”というのである)」などと、悪態までつく。
葬儀に呼んでもらえないのが相当に腹立たしいようで、悪口罵詈の限りである。「悩乱した学会員」などと呼んで、学会員への憎しみをあらわにしている僧侶を、葬儀に招くことはやめるべきだ。この瞋恚の生命に感応すれば、成仏した者でも修羅界に引き落とされてしまうやもしれぬ。
とてもではないが、葬儀に出れるような生命状態とは言い難い。そのような怨念でこり固まった者に祈念してもらうくらいなら、身内の者が素直な気持ちで故人の即身成仏を祈り、懸命に唱題したほうがはるかにマシなことは、誰でもわかる道理である。
なにしろ日顕上人その人が、修羅、独善のかたまりなのだ。信徒が臣下の礼をとり隷属に甘んじなければ許せないと、御供養を受け取るなりすぐ首を斬る(十二月二十一日、三重県の仏徳寺の寄進を受け、十二月二十七日には池田名誉会長を総講頭実質罷免にした)。
このような暴挙を、日蓮大聖人の慈悲に名を借りておこない得るのは、日顕上人その人である。まさしく、悪鬼入其身の姿そのままである。やはりこのような人には、大事な父や母の葬儀に来てもらいたくない。戒名もつけてもらいたくない。
「悩乱」していない者はこのように考えるのである。
