五月三十日、総本山大石寺で開かれた寺族同心会の挨拶の中で、藤本総監は次のように話している。本紙前号に紹介した言葉に続いての発言だが、これも実にずるい論法である。よくよく注意しなければゴマかされてしまう。今後、末寺の住職の中にも同様の論法を使う者が出ると思われるので、これを破しておく。
「(登山会は)本門戒壇の大御本尊様の御開扉を願い、御内拝を許していただき、みずからの過去遠々劫の謗法罪障を消滅し信心倍増、一生成仏をかなえていただくということです。
それをいかにも恩着せがましく、学会の登山会のおかげで総本山が繁栄したとかいうのは本末転倒というべきであります。このような誤った考えを正し、学会員を日蓮正宗信徒としての正しい基本的な認識を持たすというところに、今回の措置の意義があるのであります」
というのが藤本総監の発言である。
藤本総監の論理の間違いは、戒壇の大御本尊様と僧侶とが一体のものとして扱われている点にある。
しかもそれは、主語が省略された、あいまいな表現の中で成立している。「御内拝を許す」のは誰なのか。「一生成仏をかなえる」のは誰なのか。つきつめれば「御内拝を許す」のは御法主上人で、「一生成仏をかなえる」のは大御本尊様なのだろう。いくらなんでも、御法主上人に祈念していただかないと「一生成仏」できないなどとは言うまい。
それにしても、主語があいまいなために、聞く者をして、僧侶たちが大御本尊様とあたかも同程度に神聖な存在であるかのような錯覚におちいらせる。
戒壇の大御本尊様と取り次ぎの僧侶が一体ということになれば、僧侶は日蓮大聖人と同等ということになる。大変な欺瞞に満ちた論理だてである。
その印象を植えつけたうえで、大御本尊様のおかげで創価学会が発展したのであって、大御本尊様の御安置されている総本山を創価学会が荘厳するのは当たり前だと言っているのだ。
たしかに信徒が総本山を荘厳するのは当たり前だが、信徒は供養をして当然といった高慢な気持ちが寸分たりとも僧侶の心の中にあるとしたら、それは大変な思い違いである。
日蓮正宗の僧侶は、信徒に対し、供養する側の精神を押しつけがましく説教する前に、供養を受ける側の姿勢をみずから省みる必要がある。御本仏日蓮大聖人が信徒からの御供養にどのような姿勢で臨まれたか、その大慈悲を思い起こすべきである。
いまの宗門にそのような大慈悲をうかがうことができるだろうか。いまの宗門にあるのは、赤誠をもって未曾有の寄進をなしてきた創価学会を解体し、信者を切り崩して自分たちのものにしようとするドロボウ根性だけである。
寺族同心会における藤本総監の発言には、僧侶の独善的な論理が隠されている。最大の誤りは、戒壇の大御本尊様を自分たち僧侶だけのものであると考えていることだ。
とんでもないことである。戒壇の大御本尊様は、末法の民衆のために御本仏日蓮大聖人が御図顕されたのだ。法律上は僧が御開扉の許可不許可の権限を持っているといえるが、信仰上では、総本山の僧は、御本仏にお会いしたいために訪ねてきた信徒を、取り次ぐ役である。
主人の大事な客に意地悪をし、不快な思いをさせるようなことがあってはならないし、純真な気持ちで遠路訪ねてきた信徒を追い返すようなことがあってはならない。従って原則的には、戒壇の大御本尊様を恋慕渇仰して登山してきた信徒に、いかに大御本尊様のそばに仕える者であっても、みずからの自由裁量で御開扉を受けさせるさせないなどということを決める権限はないのである。
私心なく御本仏への取り次ぎをしなければならない僧が、信徒が自分におべっかを使わないからといって取り次ぎをしぶったり、御本仏に会わせてやるが俺の言うことをなんでも聞け、服従しろなどというのは、大きな間違いである。
しかも、大御本尊様のそばに仕える者たちが、折伏もしないで贅沢の限りを尽くしている現実がある。日蓮大聖人の御生涯を通しての少欲知足の聖僧ぶり。数々の法難に屈することなく戦われたこと。そうした御本仏の偉業の上にあぐらをかき、我々も同様の僧であるのだから、信徒がかしずくのは当たり前だなどと考えているとしたら、大変な増上慢である。
創価学会は、日蓮大聖人が生涯をかけてなされようとした広宣流布の大目的を実現しようと、世間の非難にも屈することなく戦っている仏子の集まりである。その仏子たちに対し、取り次ぎの僧たちが隷属を強いるとするならば、お門違いもはなはだしい。
日蓮大聖人の門下で最も称賛されるべきは、折伏をし大法弘通をする者である。その御本仏が最も愛でられる折伏をする仏子に対し、取り次ぎの者が、自分の言うことを聞かないから主人(御本仏)の弟子ではないなどと分不相応なことを言ってはならない。
主人(御本仏)の弟子であるかどうかは、御聖訓に照らして判ずることである。取り次ぎの者の感情で、弟子であるとかないとか判ずるなど、身のほど知らずもここに極まれりと言ってよい。
さて藤本総監の発言は、御本仏と僧侶を一体として論理を形成しており、本質論においても大きな間違いをなしているが、登山会によって総本山が発展してきたという歴史的事実の把握もおろそかになっているようだ。
創価学会の登山会によって、総本山大石寺の観光地化を防ぐことができたのは歴史的事実である。昭和二十六年、当時の宗門中枢は、食うに困って開山上人以来の聖地を観光地化しようと考え、地元の市長、町長、観光協会と具体策を相談していた(本紙第36号詳述)。
しかしその後、創価学会が日蓮大聖人の御遺命を奉じて大折伏をしたことによって、総本山参詣の信徒も年々増えてきた。この地涌の菩薩雲集の淵源は、まぎれもなく人法一箇の大御本尊様の大慈大悲によるものだ。
しかもこの大法弘通の時を招来することができたのは、御本仏の大慈大悲を確信して戦った創価学会の歴代会長あったればこそである。
第二次世界大戦の最中、牧口、戸田両会長が日蓮大聖人の仏法を奉じて、獄中にあって命懸けの戦いをしているとき、日蓮正宗の僧はなにをしていたか……、国家権力の弾圧に恐怖し、日蓮大聖人の仏法を踏みにじっていたのである。それどころか国家神道のお先棒を率先してかつぐ者までいた。
だが、これは好んで記述することではない。「いかにも恩着せがましく」などといった感情的な言葉で、藤本総監が、創価学会の功績をあえて無視しようとするからだ。御本仏の大慈悲、それに守られての創価学会の死身弘法、それがあったればこそ、総本山の謗法も正され今日の繁栄もある。
御本仏日蓮大聖人の偉大さを僧みずからの偉大さと勘違いしての総監の発言である。日蓮正宗の僧たちは、いまだ戦中の謗法にも口をぬぐっているふつつかな身ではないか。
それを忘れて、「誤った考えを正し学会員に日蓮正宗信徒としての正しい基本的な認識を持たす」とは、総監も面白い言いまわしをするものだ。もっとはっきり「我々に服従する信徒を獲得しよう」とでも言ったらどうだろうか。
創価学会員は、いかに御法主上人の御指南であろうとも、謗法を甘受することもなければ和合僧団を解くこともない。日顕上人は己の権勢欲のままに行動し、広宣流布をぶち壊そうとしているのだ。
江戸時代、徳川幕府の民衆統治の御用機関として働いたときの、寺と檀家の支配―被支配の関係が、日蓮大聖人の仏法における僧と俗との本来のあり方であるなどと考えているとしたら、それは大変な間違いである。
信徒は僧侶に支配されるために存在しているのではない。日蓮大聖人の仏法は抑圧の論理ではなく人間解放の実践論なのだ。
