第4章 邪 智 蠢 動


 第151号     1991年5月31日

一千人の寺族が集まり大客殿前広場で飽食の大饗宴
何の資格があって御供養の金で今どきパーティーを行なうのか

 バカにはつける薬がないというが、傲れる者にもつける薬はないらしい。
 五月三十日、総本山大石寺の大客殿前の広場で寺族同心会のパーティーが開かれた。参会者はおよそ一千名。広場にはテントがいくつも張りめぐらされ、静岡の一流ホテルから料理人が出張してパーティー料理を仕出しした。
 一人一万円と見積もっても一千万円の大浪費である。何を今どき、このような派手なパーティーをする必要があるのだろう。
 それも宗外の人を招いての接待のためのパーティーでもない。寺族同心会のいわば身内のパーティーである。それに巨額の費用をあてがい、飲み食いをする。いったい自分たちを何様だと思っているのだろうか。
 しかも宗内外の状況は、実に深刻な状況にある。純真な信徒たちは、日蓮正宗中枢の無用な宗政の引きまわしで大変な迷惑をこうむっている。かつてのように晴れやかな思いで信心にかかわれない者まで出はじめている。このようなときに、寺族たちがきらびやかに着飾り、身内だけの盛大なパーティーを開く必然があるのだろうか。
 やっていることは、まさに貴族である。自分たちの、生まれてより今日に至るまでの行状をよくよく省みて、みずからが人に抜きん出て享楽を甘受する資格があるのかどうか考えてみる必要がある。
 もし僧侶の何人かが特段に優秀で、人の二倍、三倍の努力をし、かつそのうえで広宣流布のために故なき辛酸をなめつくした過去を持っていたとしても、民衆が御本尊に御供養をしたお金をもって享楽をむさぼることなど許されるわけがない。
 日蓮正宗の僧は一人の例外もなく、少欲知足の聖僧でなければならない。しかし現実には、日蓮正宗中枢のやっていることは、どうにも狂っているとしか言いようがない。庶民の心を知らなさすぎる。
 もっとも大客殿前広場でのパーティーは、皇帝の独裁権力が音を立てて崩れつつあるのに、時代の変化もわきまえず、過去の栄光のままに舞踏会をくり広げる貴族を思い起こさせるのである。
 本来、聖僧として独身を通さなければならない者たちが、豪華な着物を着飾った女房を連れ、信徒の苦しみを一顧だにすることもなく、料理に舌鼓を打つ。何ともおぞましい光景である。
 この寺族同心会のパーティーに先立ち、日顕上人は、日蓮大聖人の「異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし」の御聖訓を引用して説法をおこなった。ところがその後、信徒の苦しみを苦しみとも思わず、多額の金を費やした盛大なパーティーの開催という所行に及んだのだ。
 日顕上人は、宗門大衆に、粥をすすってもこの難局を乗り切るようにと話していたが、事態がここまで閉塞しても、このような愚行をくり返している。
 また、本年初頭の全国教師指導会では、「これから、非常に厳しいこと、大変なこと、様々なことが起こってくると思います。大聖人様のこのようなお言葉があります。『結句は一人になりて日本国に流浪すべきみにて候』。私は、この御文を拝した時に涙が出たのであります。私もまた、その覚悟は持っております」(『大日蓮』二月号)とも言っていたが、その言葉とは裏腹に、地下プール付きの二十億円の豪邸の建設計画を立てていた。
 日蓮大聖人の心にも背き、地涌の菩薩の広布に懸ける大情熱ともまったく反する、異体異心の者は他ならぬ日顕上人その人である。
 「法華経を余人のよみ候は口ばかり・ことばばかりは・よめども心はよまず・心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」(土籠御書)
 日顕上人をはじめとする日蓮正宗中枢の者たちがどのように言いつくろおうとも、やっていることを見れば、破仏法の者であることは一目瞭然だ。地涌の菩薩たちを悩ませる一切の因を作っておきながら、パーティーに興じることのできるのは、日蓮大聖人の慈悲の心とは無縁の者たちである。
 日顕上人の話の後、藤本日潤総監が挨拶した。総監の話の中に以下のようなくだりがあった。
 「ただいまは、今日の宗門につきまして異体同心の正しい信心をもとに、どこまでも大聖人様の正法正義を護り弘通していくべき者の甚深の御指南をうかがいまして、私ども僧俗一同、信心の団結をしてその御指南を根本として正宗をささえてまいりたいと思います。
 今日の状況のもとで例年どおりのパーティーなどおこなえるかとも考えたが、年に一度の行事であり例年どおりおこなうことにしました。やってもやらなくても悪口は言われる。充分、楽しい一日を過ごしてもらいたいと思います」
 さもしい者が開き直っている。
 悩めるときに唱題もせず、飽食で気をまぎらわそうとする者は、腹が張り裂けるまで食べればよい。人よりうまい物を食べるだけ食べて、みずからの精神の虚ろなることを忘れることだ。
 「食法がきと申すは出家となりて仏法を弘むる人・我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて名聞名利の心を以て人にすぐれんと思うて今生をわたり衆生をたすけず父母をすくふべき心もなき人を食法がきとて法をくらふがきと申すなり、当世の僧を見るに人に・かくして我一人ばかり供養をうくる人もあり是は狗犬の僧と涅槃経に見えたり、是は未来には牛頭と云う鬼となるべし、又人にしらせて供養をうくるとも欲心に住して人に施す事なき人もあり・是は未来には馬頭と云う鬼となり候、又在家の人人も我が父母・地獄・餓鬼・畜生におちて苦患をうくるをば・とぶらはずして我は衣服飲食にあきみち牛馬眷属・充満して我が心に任せて・たのしむ人をば・いかに父母のうらやましく恨み給うらん、僧の中にも父母師匠の命日をとぶらふ人は・まれなり、定めて天の日月・地の地神いかり・いきどをり給いて不孝の者とおもはせ給うらん形は人にして畜生のごとし人頭鹿とも申すべきなり」(「四条金吾殿御書」)
【通解】食法餓鬼という餓鬼は、出家となって仏法を弘める人のうちで、自分が法を説けば人は尊敬するなどと思い、名聞名利の心をもって人よりも勝れようと思って今生をわたり、衆生を助けず、父母を救おうという心もない人を食法餓鬼といって法をくらう餓鬼というのである。
 いまの世間の僧をみると、人には隠して自分ひとりばかり供養を受ける者もいる。この者は“犬のような下劣な僧”と涅槃経に説かれている。この者は未来世には頭が牛で身体が人間の形をしている牛頭という鬼となるのである。
 また人に知らせて供養を受けたとしても、欲心に住して人に施すことのない者もいる。この者は未来世には頭が馬で身体が人間の形をしている馬頭という鬼となる。
 また在家の人々でも、自分の父母が地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちて苦しみを受けているのを弔わないで、自分は衣服、飲食に飽き満ち、牛馬、眷族は充満して、自分の心に任せて楽しむ人を、どれほど父母はうらやみ恨まれているであろうか。
 僧のなかにも父母、師匠の命日を弔う人はまれである。きっと天の日月、地の地神は怒り、憤って、不孝の者と思っておられるだろう。このような不孝の人は、形は人間であっても畜生のようなものである。人頭鹿ともいうべきである。
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