第4章 邪 智 蠢 動


 第144号  1991年5月24日

日蓮正宗自由通信同盟

明治政府の仏教退廃政策によって僧侶たちは妻帯を続ける
それは日蓮正宗の底流に血族支配という腐敗をもたらした

 僧が奔放に妻帯をはじめたのはいつ頃からなのか。本来、出家とは家を出た者のことであり、すでに妻子を有する者の場合、妻子との縁を断ち切って仏門に入ったのであった。もし僧が女性と交わったりすれば、女犯の破戒僧としてさげすまされた。
 それでも堕落した僧の中には、下働きの女性であるなどという口実を設けて、寺の中に女性を置く者がいたりした。徳川幕府はこうした僧の風紀の乱れに厳しく目を光らせた。
 江戸時代、宗教は幕藩体制を支える権力機構の一部であったことから、宗教者の腐敗は「お上」に対する人心の不満の引き鉄になりかねないので、宗教者の風紀紊乱には幕府はことさら敏感な反応を示したのである。
 女犯の僧に対する刑罰は、寺持ちの僧すなわち住職においては、遠島(島流し)であった。また、所化僧の場合は、晒(さらしもの)にされたうえで、それぞれの宗派の寺法において裁かれたが、まず例外なく追放された。
 それでも僧の堕落に歯止めをかけることはできず、幕府はひんぱんに女犯の僧を流罪に処したり、江戸においては日本橋のたもとに晒し者にしたりした。僧の女犯は、幕府の強権によってかろうじて止められていたといえる。
 ところが、明治時代に入って様相は一変することとなった。明治五(一八七二)年四月二十五日、太政官布告第一三三号が出された。それは「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事 但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」(今より僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事、但し法要の他は人民一般の服を着用しても苦しからず)という内容である。この太政官布告によって、僧の肉食、妻帯、蓄髪が許された。
 江戸時代、幕府が諸宗教の布教に強い制約を設けたことによって、日本の宗教はことごとく活力を奪われていった。その一方で、寺檀制度により各寺の檀徒が固定化されることによって、僧の生活が保障されていた。この民衆救済の活力を失った宗教家たちが、明治維新後の解放感の中で、妻帯を許され、またたく間に堕落していったのは、むしろ当然の帰結といえる。
 明治十(一八七七)年九月、浄土宗の僧である福田行誠は、この太政官布告による仏教界の放埒ぶりを憂い、その布告の撤回を明治政府に求めた。
 仏教界の一部のこうした反発に対し、明治十一(一八七八)年二月、内務省は、「従前古来の所業を禁止せし国法を廃せられ候趣旨の止め、決して宗規関係之なき訳に候条、此旨心得の為相違候事」との番外通達を出している。
 すなわち明治五年に出した「肉食、妻帯、蓄髪を認める」の太政官布告は、従来、国法をもって厳禁していたことを廃止するとの趣旨であり、各宗の宗規もその太政官布告に則れと命令しているものではないと通達したのだ。
 だが実際には、明治五年の太政官布告によって、各宗派とも僧の妻帯は当たり前のようになってしまった。
 この明治政府の出した、僧の「肉食、妻帯、蓄髪を認める」という太政官布告の背景には、明治政府の廃仏毀釈の統治政策があるとするのが、今日の大方の見方である。
 明治政府という近代天皇制国家は、国民を統治し国威を発揚していくうえにおいて、神道を国の基においた。天皇を万世一系・皇統連綿の神格を有する現人神と位置づけ、国民をその神民(臣民)とすることによって、国家の統治を容易かつ強固なものとしようとしたのである。
 だが、国家神道を国民に徹底するうえで、仏教思想は邪魔なものであった。仏教は江戸時代にあっては、国家権力を補完するものとして骨抜きにされたうえで重用されたが、神道を国の基とする明治の時代になって一転、邪魔物視されることとなったのだ。明治政府の廃仏毀釈政策は、その代表例である。
 この明治五年の太政官布告も、そうした政策の一環をなしている。退廃した仏教界に渦巻く女犯への放縦な欲望、その欲望にそれまで箍をはめていたのは、ほかならぬ徳川幕府の強権であった。
 明治政府はその女犯への欲望を解き放ってやることによって、日本の仏教界を腐敗・弱体化させ、神道の社会的地位を相対的に高めようとしたのだ。
 日蓮正宗も、明治政府の腐敗・弱体化政策の罠に簡単にはめられてしまった。以来百余年。今日、日蓮正宗の僧侶社会は一部の血族によって支配される、特殊な閉鎖的集団となってしまっている。
 その血族集団が宗教的権威を独占し、民衆の信仰の活力を血族の繁栄のみに利用しようとしている。日蓮正宗の宗団の底流にあるこの前近代的構造を破壊しなければ、日蓮大聖人の仏法を現代社会に完全に蘇らせることはできない。
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