第4章 邪 智 蠢 動


 第130号  1991年5月10日

日蓮正宗自由通信同盟

龍年光は師に仕えるということは邪義であると主張する
だが戸田会長は随所で師に仕える重要性を指導している

 『週刊文春』の五月十六日号が、相も変わらず龍年光の創価学会批判の手記を載せている。龍年光が退転し反逆してしまった今と、かつて信心に励んでいたときとでは、同じ事実について、まったく正反対の評価をすることについては、本紙第56号、第67号などで述べたとおりである。
 同手記で、龍は同様の変節した見方で、故北条会長、故原島理事長について述べている。自分勝手な狭隘な境涯で北条会長や原島理事長の心を推しはかり、池田名誉会長に利用されただけの人生であったなどとくどくど述べているのだ。
 すべては、自分の妬みや逆恨みの気持ちから物事を見ているだけのことである。龍は自分が衆議院議員になれなかったことが不当であるということを何とか論証しようとし、そのために池田名誉会長を批判している。そして、北条会長も原島理事長も「池田専制」の悲しい犠牲者であったなどと強弁するのである。龍がいかに史実を曲げて、手記を書いているかについては、先述したように、本紙(第56号、第67号など)に詳述したことがあるので、ここでは重複を避ける。
 だがここで問題にしたいのは、師弟論である。龍は同手記で次のように述べている。
 「池田は会長になると『師に仕える』などということを言い出した。
 『俺の今日があるのは、戸田先生に師匠として仕えてきたからだ、これが師弟の道だ』と言い、同じように自分に仕えることを要求した。奴隷のように師匠に仕えるのが、仏道修行と言うのだ。
 しかし、私は池田の言葉が不思議でならなかった。『師に学ぶ』という言葉はあるが、戸田先生から『師に仕える』という言葉を聞いたことはなかったからだ。師弟は、殿様と家来とは違う。師に仕えるとは、池田が勝手に作った、自分への個人崇拝を正当化する“邪義”にすぎない。
 しかし、名家の生まれで人柄もよい純粋な北条は、池田の“邪義”をマトモに信じてしまったのだ。北条の池田への奉仕は徹底していた。まさに『師に仕える』ことの模範演技を示しているかの如くだった」
 謹厳実直な北条会長の選んだ広宣流布に生涯を捧げる生き方が正しいのか、都議在職時から自分の引退後の利権確保のための財団法人を作った、姑息な龍年光の生き方が正しいのか、それについて論ずる必要はあるまい。
 龍年光にしてみれば、信仰信念に基づき生涯をまっとうした者は皆だまされたということになる。創価学会員の多くは、いかに創価学会に貢献できるか、広宣流布の戦にあって自分がなにをできるか、ということを考えているのだ。龍年光が考えてきたのは、創価学会を利用して、どう世俗の価値を得ようかということでしかない。龍の本心は実に浅ましい。言葉をつくして創価学会批判をすればするほど、それが露わになってきている。
 さて、この龍が『週刊文春』に書いた師弟論ははなはだしい過ちである。龍は「戸田先生から『師に仕える』という言葉を聞いたことはなかった」と述べている。だが実際のところ戸田会長は、「師に仕える」という言葉を使っているのだ。龍は戸田門下生であるということを一枚看板にしているが、戸田会長の大事な指導をすっかり忘れているか、あるいは曲解している。
 いちじるしい怨嫉をする者は、物忘れが激しくなり、物事も曲がって見えるものらしい。
 かつても本紙に引用した文であるが、ここで再び掲載する。昭和二十七年二月十七日に東京の常泉寺でおこなわれた「青年部研究発表会」での戸田第二代会長の指導である。
 「戸田門下として立っている城東、本郷、向島は腰が弱い。これは、師に対して申しわけないことであります。牧口門下のみ、わたくしを支えているのです。不肖、青年部は、ぼくの旗本であります。
 わたくしは、二十一のとき、師に仕え、四十四歳にして牢に入る。三十有余年の間、いちども師に心配をかけないでまいりました。
 三代会長は、青年部に渡す。牧口門下には渡しません。なぜかといえば、老人だからです。ゆずる会長はひとりでありますが、そのときに分裂があってはなりませんぞ。いまの牧口門下がわたくしを支えるように、三代会長を戸田門下が支えていきなさい。わたくしは広宣流布のために、身を捨てます。その屍が、品川の沖に、また、どこにさらされようとも、三代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできます」
 戸田会長は、「わたくしは、二十一のとき、師に仕え、四十四歳にして牢に入る」と「師に仕え」ることを明言しているのだ。
 また、「三代会長を戸田門下が支えていきなさい」とも命じているし、「三代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできます」とも断言している。
 龍の論法でいくならば、「仕える」はもちろんのこと「支える」という言葉も、「殿様と家来」のようであり、その指導は邪義であるということになるのだろうか。「不肖、青年部は、ぼくの旗本であります」と戸田会長は話しているが、龍から見ればそれこそ「殿様と家来」ということになるのではなかろうか。
 同年十一月十八日、東京の常在寺でおこなわれた、牧口会長の九回忌法要における戸田会長の指導の中でも、「仕える」ということに触れられている。
 「その(牧口)先生が死なれたとき、小林君が牢のなかからご遺骸を背負って帰った。葬式には、牧口先生の門下生はひとりもいない。わずかに戸田門下の森重紀美子さんだけだった。これを聞いたときの憤激はなんともいえぬ。
 これをもって考えると、負け戦についてくることは、じつにむずかしい。いずれわたくしが倒れるかもしれぬ。これに対する覚悟はやさしい。しかし、実行はむずかしいのです。わたくしは、恩師に対して、子として仕えきる覚悟です」
 戸田会長は「恩師に対して、子として仕えきる覚悟です」と宣言している。
 いずれにしても龍は戸田会長の指導をすっかり忘れてしまったようだ。
 龍の言っていることがウソだということは、『戸田城聖全集』を読めば分かることである。龍は戸田門下生を名乗りながら、戸田会長の教えに背を向けている。
 それにしても、龍のこのような事実曲解の妄語を長期にわたって連載しつづける『週刊文春』の編集方針は、実に意図的なものであるといえる。
●トップページ > 第4章  前へ  次へ