第3章 法 脈 濁 乱


 第125号  1991年5月5日

日蓮正宗自由通信同盟

邪義を立てていた要法寺の出身の僧が次々と猊座についた
9代100年続いたこの史実を法主絶対論者はどう見るか

 日蓮正宗の猊座に、他宗派であった要法寺出身の僧が連続九代にもわたって登座されたことは、今日の日蓮正宗の僧俗が刮目しなければならない歴史的事実である。
 前号で述べたように、要法寺系九代の最初の猊下となられた第十五世日昌上人は要法寺より大石寺に来てわずか二年で猊座に登られている。
 この日昌上人が登座された一五九六年より、八代後の第二十三世日啓上人が遷座された一六九二年までの約百年間、京都・要法寺出身の僧が日蓮正宗の猊座に登られているのである。安土桃山時代に始まり、江戸時代までの長きにわたった。
 京都・要法寺はもともと、第三世日目上人の弟子である日尊が開いた上行院に始まる。日目上人は国家諫暁のために京都に向かわれる途上、美濃(岐阜県)の垂井で御遷化されたが、お供をしていた日尊は日目上人の遺志を継いでそのまま京に上り、天奏した。その後、日尊は京に留まり、上行院をつくる。
 ところが日尊は、その上行院に釈迦立像を安置し脇士として十大弟子を立てるなどして、日蓮大聖人の仏法に背いたのであった。
 この京都の上行院と、同じ京都の住本寺を合併して作られたのが要法寺である。この合併をおこなったのは広蔵院日辰で、『造仏論義』一巻、『読誦論議』一巻を著した。『造仏論議』には釈尊の仏像をもって本尊とすべきだと書かれている。また、『読誦論議』には、富士門流(日蓮正宗)が方便・寿量の二品を助行として読むことのみを許しているのに対して、法華経のすべての読誦もさしつかえないとの邪義を説いている。
 この広蔵院日辰の邪義こそ要法寺の教学の根幹となっているのだ。この邪義は『造読論』とも略称されている。
 広蔵院日辰は、『造仏論義』を著した一五五八年に、大石寺の第十三世法主であった日院上人に対し、日興上人の流れを汲む各派の交流を申し込んだが、日院上人はこれを断られた。
 ところが、その次の第十四世日主上人の代より、要法寺との交流が始まり、同寺より招かれた日昌上人は、大石寺に来てわずか二年で猊座に登られたのである。
 このことについて近代随一の碩学である堀日亨上人が、昭和三十一年十一月号の『大白蓮華』誌上でインタビューに答え、次のように述べられている。
 「この大石寺の日主上人と、むこうの要法寺の、當時の貫首との關係が結ばつた。その關係を結んだ人はですね、粟田口の清という人が關係を結んだ。つまり粟田口の清という豪族が取りもつてですね、要法寺から入ることになつた」
 つまり日院上人が要法寺との交流を断わったにもかかわらず、次の日主上人は、粟田口の清という豪族の仲介で、要法寺から次の法主とした日昌上人を迎え入れたということである。
 「――それから、つづいてしばらく要法寺の人が……。
 堀上人 ええ、それから九代。九代ですけれども、それは始めのうちはね、要法寺で、相當でき上つた人がきたです。後にはね精師以後はですな、精師そのものも、でき上つてきたんじやないのです。若いとき、きたのです。そして大石寺にきて、江戸へ出て、そして、偉くなつた。精師以前の人はですね、大石寺にきて大きくなるんでなくて、むこうから大きくなつた成人した人がきたんです。
 精師以後の人は、みんな、大石寺にきて大きくなつた。所化できたのが多いですね。ですから要法寺からきたといつても、たゞその、身體をもらつただけです。
 ――ははあ、實際には、かせがなかつたわけですね。
 堀上人 ええ。それですから、學問なんかでもですね。一々要法寺流をもつてきたわけじやないですね。えゝでも、いくらか要法寺の弊害は残つたですね。それをすつかり改めたのが同じ要法寺出の日俊上人、あの人が要法寺から出ていながら要法寺の弊害をキレイに大石寺から洗つた人です。
 ――この日俊上人が、そういう佛像なんかを壊された。
 堀上人 ええ、佛像なんかをとつちやつた」
 注目されるのは日亨上人が、富士大石寺の流れに「要法寺の弊害は残つた」と明言されていることだ。
 要法寺出身の法主は、第十五世の日昌上人に始まり、第十六世日就上人(登座一六〇七年)、第十七世日精上人(登座一六三二年)、第十八世日盈上人(登座一六三三年)、第十九世日舜上人(登座一六四五年)、第二十世日典上人(登座一六五二年)、第二十一世日忍上人(登座一六七三年)、第二十二世日俊上人(登座一六八〇年)、第二十三世日啓上人(登座一六八二年)まで続く。
 当初の日昌上人、日就上人は、高僧をいわばスカウトしたもの、第十七世日精上人以降は、所化の頃に富士大石寺に移り修行し登座されたものである。ただしその頃にはすでに、法主を含めた能化の者たちが要法寺系によって占められているのだから、邪義である要法寺の教学の影響はかなりのものだったと思われる。
 実際、所化の頃、要法寺より大石寺に移った第十七世日精上人は、要法寺の広蔵院日辰の影響により、釈迦像の造立をおこなっている。法主自身が邪義を実践したのであった。
 いま創価学会を解体しようとする僧俗の輩は、法主絶対、法主無謬の論を立て、法主に「信伏随従」しないものは、日蓮大聖人の仏法に違背するとしている。
 たとえば理境坊(住職・小川只道)の法華講組織である妙観講から刊行されている『暁鐘』(一九九一年三月号)に、「大御本尊と血脈相承」という文が掲載されているが、その中に次のようなくだりがある。
 「時の御法主上人猊下が、大聖人御内証の法体の上から法門の御指南をされる」
 この表現は、要法寺系の法主が邪義をおこなった史実に相反する。ここに言われるような「大聖人御内証の法体」が法主にそのままあるならば、邪義を宣揚することなどあるはずがない。このような観念的な法主絶対論は、法主生仏論につながる幼稚な謬見である。法主がこの文のごとく尊極であって欲しいと思う願望と、現実とは違うのだ。
 まして同文中の、「日蓮大聖人を仏と仰ぎながら、その御内証の法体を相承された御法主上人の御身を見て云々するのは、大聖人の仏法がわかっておりません」、あるいは「されば、御法主上人の凡夫の御身を見て、これを軽んずる念を起こし、心底からの信伏随従ができない者は、じつに、示同凡夫の大聖人に対しても誹謗の者であると知らねばなりません」などといった記述は、現実ばなれした権威主義の最たるもので、日蓮大聖人の仏法が持つ、生命解放への躍動する力をも権威主義に取り込もうとするものである。
 それはともかく、先に引用した日亨上人のインタビューへの回答を読むにつけ、血脈の付嘱を受けられた当の日亨上人が、血脈にかかわる信徒の質問に平気で答えられていることに驚く。日亨上人の血脈観・法主観が、このような話を公にしてもさしさわりのないものだったことがうかがえる。
 同時に、いまの日顕上人らの権威主義は、本来の血脈観・法主観とはまったく無縁のものであることもよくわかる。しかも、かつては法主と信徒が血脈や相承について話せる気風が、日蓮正宗にもあったのである。果していまはどうであろうか。
 最後に、幻想たる観念的な血脈観に依るべきではないと指摘しておく。かかる幻想的な血脈観に依拠した法主絶対論をふりまわす前に、日蓮大聖人御在世より七百年を経た今日、創価学会が出現し、戒壇の大御本尊様のもと、歴代会長を総大将とし地涌の菩薩が陸続と集いよっている現実に注目すべきである。
 七百年の時のへだたりを超え、広宣流布を現実のものにするため、地涌の菩薩が仏法史上未曾有の折伏戦を展開している。これこそなによりの不思議である。ここに日蓮大聖人の大慈悲、仏法の偉大さを見るものである。
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