第3章 法 脈 濁 乱


 第124号  1991年5月4日

日蓮正宗自由通信同盟

大石寺の経営のためスカウトされた京都・要法寺の高僧が
2年後に日蓮正宗の御法主上人となった史実をどう見る

 日蓮正宗第十五世日昌上人は、他門流であった京都・要法寺の出身である。いま流に言うと、日蓮正宗が要法寺より高僧をスカウトしたということになる。スカウトされた僧は、スカウトの二年後には早くも法主の座についているのだ。
 しかも、大石寺を「繁盛」させるために別の高僧をスカウトしようとしたが、要法寺側がどうしても手放さないので、別の人が来たということである。
 こういった事実を、総本山第五十九世の堀日亨上人は、昭和三十一年十一月号の『大白蓮華』誌上であっけらかんと語っておられる。御隠尊猊下が信徒の出している雑誌のインタビューに答え、平気でそのようなことを話されているのだ。いまの日蓮正宗においてはうかがうこともできない。かつては出家・在家のへだてのない自由な気風が本宗にあったのだ。それもほんの三十数年前のことである。
 どうやらこの三十数年のあいだに、創価学会が未曾有の折伏戦を敢行し、日蓮正宗の宗勢が興隆するに従い、権威主義が台頭し定着してしまったようだ。
 いまや法主の地位は、仏と同様に尊極無上のものとなりつつある。法主の権威を背景に信者を睥睨しようとする僧の中には、日蓮大聖人と同格、あるいはそれに類似する表現をもって当代御法主上人を宣揚する者もいる。
 日蓮正宗歴代の御法主上人にかかわる歴史的事実の研究、それを踏まえた血脈、法主の定義づけを宗学の上で確立するときがどうやら来ているようである。
 日蓮正宗の歴史も、今後は一般の歴史学者の研究の俎上にのせられることになる。これまでは日蓮宗身延派の者などが批判の手段として研究してきたにすぎない。だから、どう論難してこようとも、邪宗の僧の言うことであるとして、歯牙にもかけない姿勢をとればよかった。
 しかし宗勢の興隆とともに、多くの学者が日蓮正宗の歴史、なかんずく血脈についての研究も深まってくる。当然、そのぶん曖昧模糊にされてきた部分にメスが入ることになる。そのとき、いまのような血脈観のままで齟齬をきたさないのかをよくよく考えてみる必要がある。
 権威主義のままに法主の絶対化を進めれば、ささいな歴史的事実の浮上によって、その幻想が吹き飛び、日蓮大聖人の仏法それ自体が世間に誤解されることにならないかと危惧するのである。
 さて、京都・要法寺よりスカウトされた第十五世日昌上人について、堀日亨上人は次のように語られている。
 「(堀上人)日有上人の時代に要法寺との關係があった。
 そんな關係につづいてですね、この大石寺の日主上人と、むこうの要法寺の、當時の貫首との關係が結ばつた。その關係を結んだ人はですね、粟田口の清という人が關係を結んだ。つまり粟田口の清という豪族が取りもつてですね、要法寺から入ることになつた。そこに大石寺はですね、例の有名な日性を入れるつもりだった。日性というと、日辰の門下の一等學者で、とても京都方面では幅がきく人で、そこら中の公卿から招待せられて講義に行く、又宮中からも呼ばれるというほどでね、學者で何でもできるんですから。ええ、もう、神道の講義でも何でもやるんですから…。佛教の講義ばかりじやないんですから、重寶な人物だったんですね。そういう人を連れてきたら、大石寺が繁盛するじやろうということをいつていましたけれども、むこうじや離さない、それはむこうで役に立ちますからね。
 ――豫定とは別の人が來られたわけですね。
 堀上人 ええ、日性は本地院日性というそれで、なんですね、日昌上人がこられたんです。この人も、ものができるんですよ」
 「粟田口の清という豪族」の紹介によって、御法主上人になるべき人が、要法寺あたりから簡単にスカウトされてきたことがわかる。その頃の要法寺の第十九代日辰などは、造仏読誦といった大聖人の教えに反する教義を盛んに唱えていたのだ。
 要法寺は、日蓮大聖人を宗祖と仰ぐとはいえ、まったくの他門流である。そのような寺から僧がスカウトされ、わずか二年で御法主上人になるというのは、現在の日蓮正宗の血脈観、法主観ではどうにも説明がつかないのではあるまいか。
 ちなみに『日蓮正宗富士年表』(日蓮正宗富士学林発行)によれば、日昌上人が要法寺から大石寺にこられたのが文禄三(一五九四)年。御登座されたのが慶長元(一五九六)年とあり、わずか二年で猊座にのぼられたことがわかる。
 いまから四百年前、安土桃山時代の出来事であった。
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