四月六日午後六時三十分より御影堂において、日顕上人による虫払法要の御書講がおこなわれた。この説法の中で明らかなすり替え、間違いがあるので、これを指摘しておく。御本尊の御前において、時の法主たるものが、珍奇な弁を弄して大法弘通の大功労者をそしったことは、永く宗史に記録されるべきである。
日顕上人は、『当体義抄』の次の御金言を宗門大衆に披瀝した。
「日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」
この御文証をあげた後、日顕上人は次のように語った。
「この御文は、当抄の結論の文として末法の衆生が当体蓮華を証得する相を明かされておりますが、二カ所にわたり『正直』の二字が条件として説かれております。正直の信心とは正直に三宝に随順することであり、目的のためには手段を選ばず、ウソを平気でつき、三宝をそしることはこの『正直』という金言に反するものであり、当体蓮華証得の大功徳などは、思いもよらないものであります」
『当体義抄』に二カ所の「正直」という文言があることは事実である。だがそれは、くどいようだが、もう一度文証をあげると、
「正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる」
ということである。
「正直」に捨てなければいけないのは、「権教の邪法・邪師の邪義」であり、「正直」に信じなければならないのは「正法・正師の正義」なのである。捨てる・信ずるという二つの相対する行為の中で大事なことは、正と邪の絶対的な区別である。
なぜ日蓮大聖人は、「邪」を捨てて「正」を信ずることを述べられたか。いうまでもないが、衆生をして「正」につかしめ、成仏という絶対的な境涯を得さしめんがためだ。ここで最も重要なのは、日蓮大聖人の御金言を信じて南無妙法蓮華経と唱えることである。
日顕上人の言うような、「正直の信心とは正直に三宝に随順すること」などという短絡的な結論は、『当体義抄』の御文をどのように読んでも出てこない。まして「目的のためには手段を選ばず、ウソを平気でつき、三宝をそしることは、この正直という金言に反するもの」で成仏できないという弁は、それ自体は論理として成り立っても、この『当体義抄』の御金言とはまったく無縁のものである。
一宗の法主たるものが宗祖・日蓮大聖人の御金言を敷衍する言葉として述べるにはきわめて不適切なことであり、言葉の裏になにやら意図的なものすら感じさせる。
日顕上人はこの『当体義抄』の御文を引用し、論を飛躍させ三宝随順を述べるまでに、戒定慧の三学からえんえんと説き起こしている。このような、本来の法を説く言葉を、己の気ままな論に用いる者について、涅槃経には次のように説かれている。
「我涅槃の後正法未だ滅せず余の八十年・爾時に是の経閻浮提に於て当に広く流布すべし是の時当に諸の悪比丘有るべし是の経を抄掠して分つて多分と作し能く正法の色香美味を滅す是の諸の悪人復是の如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除して世間荘厳の文を安置し無義の語を飾り前を抄て後に著け後を抄て前に著け前後を中に著け中を前後に著けん当に知るべし是くの如き諸の悪比丘は是魔の伴侶なり」(守護国家論)
【通解】法華経の流通分である涅槃経の第九には、「私が涅槃ののち、正法時代にはいまだこの経は滅せず、その後八十年、そのときに、この経が閻浮提の中に広く流布するであろう。このときにもろもろの悪比丘があって、この経を抄掠して多くの部分に分け、よく正法の色香美味を滅するのである。このもろもろの悪人はまた、このような大乗経典を読誦するといいながら、如来の深密の要義(経の真意)を、滅除して、世間ありふれた荘厳の美辞麗句や無義の語を並べ、経文の前をとって後ろにつけ、後ろをとって前につけ、前後を中につけ、中を前後につけたりする。このようなもろもろの悪比丘は魔の伴侶であると知るべきである」と説かれている。
さて、捨てる・信ずるという重大な選択において大切なことは正と邪の判別であると、宗祖は先の『当体義抄』の御文で御教えになっている。であるとするなら、現在のような混乱の状況下にあって日蓮正宗の僧俗がわきまえなければならないのは、日顕上人をはじめとする日蓮正宗中枢の主張と、創価学会側の主張と、いずれに正邪があるかを見きわめることだ。
はたして、いずれが正でいずれが邪なのか。
日顕上人は、昨年八月に「C作戦」(カット作戦、創価学会分離作戦の略称)を立案させ、池田名誉会長を破門し、創価学会を解体しようとした。動機として考えられるのは、創価学会側が堕落した僧侶の生活ぶりを指摘し、その改善を申し入れたことを逆恨みしてのことだ。腹の底にあるのは、「信徒の分際でなにをいうか」といった、日蓮大聖人の慈悲とは無縁の気持ちである。
もし学会側に、謗法といわれるような教義上の間違いがあるというのなら、その時点でそれこそ「御指南」をなせばいいことで、「C作戦」などという奸計を弄することはない。これでは、猊座にありながら、信徒を善導するという本来なすべきことをみずから放棄したと指弾されてもいた仕方あるまい。
なぜ日顕上人は教導、善導をなさず、「C作戦」などという奸計を用いようとしたのか。理由は簡単である。糾すだけの謗法行為など、創価学会側にはいささかたりともなかったからだ。
そこにあったのは、「C作戦」という権謀術策に訴えてでも、池田名誉会長を破門にし、創価学会を解体したいという、妬みと逆恨みによる瞋りである。そして創価学会を解体したあとで、行き場を失った学会員の中から、自分たちに盲従してくれる信徒を得ようとする欲望である。
日顕上人の昨年十二月二十五日の行動も、とても宗開両祖に申し開きのできることではない。
御本尊誹謗の記事を書いている段勲という週刊誌の記者と直々に会い、創価学会攻撃の記事を書いてくれと依頼し、さらに創価学会を解体した後、「(学会員)二百万人のうち二十万人」が自分のもとに来ればよいなどという見通しまで語っている。日顕上人の心底がありありと見える言葉である。
このように語った二日後には、池田名誉会長を総講頭罷免にしている。「宗規改正」にことよせてはいても、現実には罷免である。
これらの処分をしながら、創価学会側とはなんら話し合いもしようとしない。それどころか、学会側の話し合いの申し入れを拒絶すらしている。
日顕上人の策謀によって、国内の組織のみならず海外の組織まで混乱し、日蓮正宗は世の笑いものになってしまった。今後の大法弘通に大きな禍根を残すことは間違いない。
では、この広宣流布の途上の一大混乱はどこから発したのか。それはひとえに日顕上人の一心にある貪(むさぼり)であり瞋(いかり)であり癡(おろか)に由来する。
この日顕上人の三毒強盛のさまは、末法の悪比丘の典型といってよい。日蓮大聖人の大慈大悲とは似ても似つかぬものである。
日蓮大聖人の御遺命たる広宣流布の道を閉ざす、謀略に夢中になっている者は、いかに法主であっても邪師なのである。日蓮大聖人の仏法をみずからの三毒を満足させるために利用するなど論外である。
先に引用したように、『当体義抄』において日蓮大聖人は、「正直」に邪を捨て正を信ずることが成仏の要諦であることを示している。この正邪を間違えれば、「当体蓮華証得の大功徳」など思いもよらないこととも述べている。
日顕上人はウソを平気でつき、正邪の立て分けを乱し、三宝を穢している。正邪のわきまえもできない法主が当代においてあらわれたことは、まさに大悪である。
ここにおいて、
「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる」(大悪大善御書)
の御金言に照らし、大善の近いことを確信するものである。
