創価学会員にとって一番印象に残っている日顕上人のウソは、『大白蓮華』(平成三年一月号)に掲載された「新年の辞」であろう。日顕上人は、「C作戦」という創価学会解体の陰謀を現実に日程のうえで煮つめながら、創価学会に賛辞を送っているのだ。
「創価学会創立六十一年の出発に当たり、私ども宗門においても、心からその功績を賛嘆いたします。
戸田先生の逝去後、間もなく、第三代会長の任に就かれた池田先生は、鉄桶の組織と当千の人材を見事に活用され、且つ、信心根本の巧みな指導をもって国内広布の大前進を図り、十倍ともいうべき多大の増加を来したことは、耳目に新しいところであります。
特に、池田先生の指揮において大書すべきは、戦後の世界的な移動交流のなかで、各国に広まった信徒の方々を組織化した、世界広布への大前進が図られたことであります。今日、地球的規模による広布の着々たる進展がみられることは、撰時抄の御金言のごとく、実に広布史上すばらしいことと思います。
また、戸田先生のころより始まった総本山への諸供養や末寺寄進は、池田先生によって本格的に行われ、先師日達上人の数々の賞辞が残っております」
この日顕上人の、本心と裏腹の賛辞は、日蓮正宗の教師指導会(一月六日)でも問題になった。
日顕上人のウソでもっとも計画的なのは、昨年十二月二十五日の高橋公純(本応寺住職)、段勲(反創価学会の記者)、押木二郎(藤原行正グループ幹部)らとの謀議に関するものだ。
このとき日顕上人は、池田総講頭罷免、創価学会解体のプログラムなどについて話し合い、「(創価学会員)二百万人のうち二十万人こちらに来ればよい」とまで言って、高橋、段、押木らに腹づもりを明かしている。おまけに押木には、「創価学会との裁判になることが、充分に考えられる。そのときは証人になってくれ」とまで話しているのだ。
「C作戦」とこれらの事実が知れわたった現在、日顕上人が一月十日の教師指導会で宗門大衆を前にして発言した以下の言辞が、いかに大ウソであったかがよくわかるのである。人間・日顕上人に読者の方はどのような評価を与えるだろうか。
「ちょうど二十五日はね、まあはっきりいって、私もちょっとその、宗務院の人たちと一緒にそういった問題に関する対応について、あっちの内事部の向こうの部屋でいたんだな。まあ宗務院だったかな。宗務院かもしれねぇな。忘れちゃった。とにかく、そういう、まあ、いたんです。
それでね、高橋公純房が、目通りを前から願っていたんです。それを高橋、ちょうどそれをこう何か昼飯のときかな、あれはなにか、ちょっとこちらに来れば『高橋公純房が目通りに来てます』とこう内事部の者が言うから、私は高橋公純房一人だと思って、そんなら、ちょうど来るなら対面所来るのは、わしも来るのが大変だから、あのー、あそこの茶の間のこっちのね。ほら、知っているでしょ、こんどできた洋間があるね。
ああ、ああ、じゃあそこに連れてって、それから内事部にちょっと入ったかなんかかな。それでなんかちょっといて、あとすぐにその部屋に行ったんです。
私は、あのー、公純房一人がいると思ってたんです。入っていったらなんと三人男がいて、ひとりはあれがいるわけだ。あの、一人は女だけど、それはあの、公純房の奥さんだ。
それで、だいたい主として来たのは、いろいろあのー、あそこが、開創、いや開創じゃない創立、あれはやっぱ古いんだよね。六百年?(七百年です)七百年で鐘をつくったり、鐘について、しょうみょう、そのしょうめい、しょうみょうについてはあれがね勝手に作ったんだよ、文章を。その七言絶句でね。
だけど、ほら、韻がふんでないし、平仄も、おそらくぜんぜんあやしいし、ただもう文章をこう、あれしたに過ぎないから、これは詩にはならんなってぇなことは話して、それでそんなことで話をして……。それでまあ結局、あのー、しかしまあ、君がある意味では作ったんだから、じゃいいや、いいだろうってなことでね終わって。
そしたらねー、その三人てぇのの一人が、いわゆる段だったんだね。それでまあ、そこにすわってて、段はまあおとなしくって、黙ーっててね。この時間、あとでいわれてたとおりだったね。全然、あのー、あれだったね。言わなかったね、なんにも。
でー、紹介は、あとのほう、ああ、そのとき紹介をされたんで、『ああ、あんたあの段さんか』って言ったの覚えがあるね。それでその後まあ、『記事はまあ、とにかく事実を書くんだね』ってひとことだけ、私は段には言っといた。
真実って言ったか事実といったか、事実と言ったろうな。事実を書きなさいっていう意味のことをひとつ。週刊誌、とにかく週刊誌の話は、これが多いからね、歪曲、捏造がね、ハハ。そういうことはひとこと言った。
あとはだねー、あの高橋がいたかしら、ちょうどそのとき、創価学会の問題でそのことで頭がいっぱいだったから。
それからあと二人に関しては、まあちょっとここでは言いません。言いませんが、あのーやはり、このー、今の創価学会のあり方について大変疑問を感じている人だったわけさ。
そういうことで、その人たちが自分たちの行動について、こういうふうなことをしたいという文書まで持ってきてるわけ。その文書の結局、結局、目的、目標っていうかな、そういう考え方からいくところはどこかというと、末寺僧侶なんだ。結局、末寺僧侶のところへ行って相談したい。ところが、こっちはそう言われると困っちまうんだ。
今までさっきも言ってきたとおり、十年もずーっと学会寄りで指導してきた感じがあるから、私ははっきり言ったおぼえはないけど、みんななんかこう、学会員であのー、学会やめたいとか、法華講入れてくださいとか、お寺の信者になりたいとかっていうのは、みんなことわっちゃってんだもん。
そういう体質になっちゃってた、今までこう。特に私、はっきりそうゆうこと言ったことないんだけれども、そんなふうに、ずーっと流れがなってきてるわけでしょ。
だからそういう時分、そのときはまだ、そういうだったから、二十五日はね。これを、六日の指導会と、今日の指導会と、これではっきりしたでしょ。みんながなんというか、あの学会脱会したいという人は、お寺として受け入れていいんだ、ということがはっきりしたからね。初めてです。今日的にはっきりしたけど、そのころはまだ、それもはっきりしていないんだ。
二十五日の、昨年の十二月二十五日。ただ、しょうがないから、あのー、まあ、それはなんだってなことから、宗門の流れのようなものもつい話してね、そいで、あのー、少し余分に話し過ぎちゃったかもしんないけど、まあ、『もうちょっと待ちなさい』ってことを言ったんだ。うん。
そういったことの中で、うーん、まあ、なんだかんだ言ったことの中でだね、その段君が断片的に聞いたことを覚えていたか。だけども、あのー、言ったことは、そう、私はっきり言った覚えはないんだよ。でも、ああいうときはしょうがないね。あのー、緊張して、これとこれとこれを言うっていうような意味でしゃべっているときと違って、雑談みたいにべらべらしゃべると、あとでなにをしゃべったのか、自分でも忘れちゃっているんだよな。そういうこともある。
このあいだの、そのさっき言った秋谷、いやいや、池田・秋谷両名に対する私の話、いろいろ問題のね、七月二十一日のときのお目通り。
このときのことは、私はこういう問題、こういう問題、こういう問題というふうに、きちっと頭の中で整理して話したから、絶対に覚えている。
また、彼らがいいかげんなこと言って、私が言いもしないのに言ったなんて、あとで言っているけれども、そんなことはウソだっていうこともはっきりわかっているけどね。
また、逆にああゆうところでね、まあ、なんていうか、口からでまかせの形のようでしゃべるときには、意外にその片言隻句は覚えてないんだな。だから、あのー、段がああいうふうに言っているのはね。
まっ、本当に言ったのかどうか、ひょっとすると、あいつらがテープとっていったかもしれんな。それも、気がつかなかった、わしは。そういうふうに、わし、人がよくて困るんだ。
なんでもね、これだからね、これで、昨日か一昨日も宗務院の人たちから、だいぶたしなめられてね、もう私はシュンとしちゃって、もうあれさ、もうあんまりしゃべらないようにしようと思っているんですよ。うーん、といって、こんなにしゃべっちゃいかんけども。アハハ。だから、あのー、あれはだね、どういうことをしゃべったかということはあんまり、はっきり覚えがない。
『池田さんてあんなに悪い人だったとは』最後に言った言葉になっているけれども、あれも覚えがないな。ああ、はっきり言ったという覚えがないんだな。まあ、相手は多少、捏造ってほどじゃなくっても、その、なんていうか、感じで書くからね、週刊誌の記者なんてのは。うん、はっきり言ってなくても。そういうこともあるんだな。
しかし、だいたいあのー、なんです、うーん、そうゆうことで私の知らないまんまに目通りされちゃったらこうなんだよね。それでまあ、あとで公純君、あとで、公純『私、申し訳ない申し訳ない』もう後の祭りだ。
第一、内事部がよくないんだ。私、高橋公純房が、目通りだといって入ってたら、他の者、三人もいるんだもの。ああいうケジメは、もうちょっと、きちっとしなきゃいかんなあ。
宗務院、ええ内事部、おい。それでおかげでこっちが迷惑する場合がある。……迷惑する。入っていってみて三人いてだね、いれば、やっぱり、おまえら出ていけなんてこと言えないじゃないか、そんなに。なあ、そういう経過だったんだよ」
――まったくのウソだ。宗門大衆を相手に御本尊様の御前で、一宗の法主が大ウソをついているのである。本当は、段勲や押木二郎が会いにくることを知っていたのだ。翌十二月二十六日から開かれる宗会では、池田総講頭を実質的に罷免することになっていた。その「C作戦」の断行を前にしての謀議であった。
もし日顕上人の言うように、内事部などの不手際によって不用意に会うハメになったのだというならば、それこそ内事部の役僧や勝手に目通りした高橋は処分されなければならない。だが、いまだにそのようなことはない。猊下が週刊誌記者や藤原行正の子分などとグルになってウソをつくとは大変な汚点である。これほど猊座をきずつけた猊下は宗史のうえでも珍しい。
発言の中で、「あとでなにをしゃべったのか、自分でも忘れちゃっているんだよな。そういうこともある」と白々しく逃げの一手を打ちながら、その舌も乾かぬうちに、「ひょっとするとあいつらがテープとっていったかもしれんな」とは語るに落ちる。やはり巷間に流れ出している、この謀議に関する話が気になると見える。
そして最後に紹介した、「第一、内事部がよくないんだ。私、高橋公純房が、目通りだといって入ってきたら、他の三人もいるんだもの。ああいうケジメは、もうちょっと、きちっとしなきゃいかんなあ。宗務院、ええ内事部、おい」との発言は、田舎芝居の一場面を見るようで、日顕上人も小悪党のような下手な芝居をするのだということがわかる。日顕上人自身が一番、猊座を冒涜しているのである。
一月六日の教師指導会の最後には、「これからいろいろと非常に厳しいこと、大変なこと、そういうようなことが起こってくると思います。私はもう覚悟している。大聖人様のですね、こういうお言葉がありましたね。『所詮日蓮一人にて、日本国を流浪すべき身にて候』。私はもうこの御文を拝したときに涙がですね……(嗚咽)……しかし、私もまた、その覚悟をもっております……(嗚咽)……のでよろしく……(嗚咽)……私一人になっても、守ってまいります」と泣きながら話し、創価学会と戦う悲壮な決意を披瀝してみせたが、流浪どころか隠居先は、目黒区八雲の二十億円の豪邸であった。
その豪邸は地下プールおよびトレーニングルーム付きで、茶室も十二畳のスペースをとってあったが、仏間は十畳しかない。にもかかわらず日蓮正宗宗務院は、これを「寺院」であると三月十三日の通達で釈明している。(本紙第75号)
とどのつまり、三月十八日の教師指導会における、「私は、特に最近常に願っておるとおり、ほとんどウソを言ったことがありません。全部本当のことを言っております」という日顕上人の説法は大ウソであることが証明されたのである。
また本紙『地涌』についても、日顕上人は「あんなものはね、紙クズのようなもんだよ」(平成三年一月六日)と発言。ところがけっこう熱心な読者であることが、あちこちでの発言によってうかがえる。ただしこの「紙クズ」発言は、弁護するようだが、ウソをつこうとしたのではない。これは単に強がりである。
