三月十六日、日蓮正宗総本山は一枚の書面による通知をもって、来たる七月一日より、創価学会による月例登山会の中止を宣告してきた。最終目的は創価学会の解体である。
創価学会の出現がなければ、現在の日蓮正宗の興隆も、大聖人の仏法の大規模な弘通もない。それも創価学会の池田名誉会長があったればこそである。いかに最高の教えであっても、弘通の大指導者がいなければ弘まらない。
「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(百六箇抄)
日蓮大聖人の仏法を世界に弘めようとするその創価学会を、日蓮正宗の中枢は解体しようとしている。これにまさる破仏法はない。
その大それた計略を実行に移した動機はなにか。僧形をとってはいるが本来の僧としての使命を忘れた者たちの、特殊な利害意識による、創価学会と池田名誉会長に対する恐れであり、妬みである。また創価学会解体を実行する引き金となったのは、日顕上人の、池田名誉会長へのコンプレックスからくる瞋恚の思いであり、怒りであった。
表だっていかに大義名分を述べようとも、この、事の本質を見逃してはならない。今回の“悪鬼入其身”の僧の姿は、法華経の予言どおりであることも認識しなければならない。
創価学会の日夜にわたる死身弘法の戦いにより、悪人の充満する日本国の広宣流布は目前となり、世界広布の前途は大きく開けつつある。池田名誉会長の就任より数えれば、わずかに三十年余である。三千年の仏教史をひもといても、未曾有の大弘通であることがわかる。法華経涌出品の儀式も、いまのこの日を描写しているように思えてならない。
創価学会の大発展は、日蓮大聖人の御金言を実証するのみならず、はるか三千年もさかのぼった釈尊の法華経すらも実語にする戦いであった。
この時空を超えた壮大なるドラマを眼前にしているのが、地涌の流類である創価学会員の一人ひとりである。創価学会員は、日蓮大聖人の本眷属であるがゆえに、大聖人およびその門下の方々の偉大な足跡を、わずかではあるが追体験できる資格を持っているのだ。
このたび、「C作戦」(カット作戦)や創価学会の月例登山会の廃止など、権威・権力者の策謀に直面することにより、竜ノ口、佐渡流罪と続く日蓮大聖人の法難を、おぼろげではあるが偲ぶことができる。
開目抄に曰く。
「仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり、金言のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なし・いかがせん・いかがせん、抑たれやの人か衆俗に悪口罵詈せらるる誰の僧か刀杖を加へらるる、誰の僧をか法華経のゆへに公家・武家に奏する・誰の僧か数数見擯出と度度ながさるる、日蓮より外に日本国に取り出さんとするに人なし、日蓮は法華経の行者にあらず天これを・すて給うゆへに、誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん、仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓・同時なるがごとし、法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし、三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし」
【通解】仏の予言は虚妄ではないから、三類の怨敵はすでに国中に充満している。しかし一方にあっては金言は破れるべきなのか、法華経の行者がいない。いったいどうしたことであろうか。そもそも誰人が法華経の勧持品の予言どおりに衆俗に悪口を言われ、馬鹿にされているか。どの僧が刀杖を加えられているか。どの僧を法華経のゆえに公家や武家に訴えたか。どの僧がしばしば所を追い出され、たびたび流罪されているか。これらの予言に符合するものは日蓮以外には日本国中には絶対にありえない。しかし日蓮は法華経の行者ではない。なぜなら諸天がこれを捨てて助けようとしないからだ。しからば誰をか当世の法華経の行者として、仏語が真実であるとの証明としようか。仏と大悪の提婆とは身と影のごとく生々世々に離れることがない。聖徳太子に敵対する守屋とは、蓮華の華と菓が同時になるような関係にあった。これと同じく、法華経の行者があるならば、かならず三類の怨敵があるはずである。しかるに三類はすでに日本国にあり、法華経の行者は誰であろう。求めて師としたいものである。これはあたかも一眼の亀が浮木にあうようなものである。
仏法を奉ずる者のうち、池田名誉会長、創価学会以上に社会的に故なき批難を受けているものはない。
今回の宗門と創価学会の問題にしても、宗門が元来主張しているところは、西欧史においては中世以前の論理である。それに対していま創価学会の主張するところは、人権の主張であり、平等の主張である。
社会の普遍的価値のあり方からしても、言論機関が時代錯誤の主張をする宗門をバックアップし、反創価学会でまとまっていること自体おかしい。多くのマスメディアは反創価学会を習性にしているとすら見える。それほど創価学会は、長年にわたって三類の強敵の嵐にさらされてきたのだ。
そしてまた、いま創価学会は三類の強敵のうち、最も強力な僣聖増上慢と直面している。法華経の行者の眷属としてこれほどの誉れはない。
日蓮正宗は創価学会を解体するために「C作戦」を実行しようとした。日蓮正宗の中枢は僧本来の使命を忘れ、仏教史において画期的な和合僧団である創価学会をつぶそうとする、権威・権力者としてのみ機能している。
なかには、日蓮正宗の中枢は権威・権力者でないと反問する人がいるかもしれない。しかし、作戦を立案した日顕上人をはじめとする日蓮正宗の中枢は、この強権発動の典型ともいえる「C作戦」が実行可能であると考えていたのだから、それはやはり否定できない。
まぎれもなく日蓮正宗中枢は、自分たちの権威・権力で創価学会を解体できると踏んでいた。実際のところ、創価学会がすぐさま結束せず、虚を衝かれて電撃的に「C作戦」を断行されていれば、解体されていた恐れすらある。
信教の自由を保証された民主主義国家・日本において、創価学会を現実に解体できる可能性のある者は、日蓮正宗の中枢以外にはないのだ。
かつて封建時代にあっては、統治者は権威・権力を有していた。いまの為政者には制限された権力はあっても権威はない。そう考えれば、広宣流布の使命を担う創価学会を破壊しうるのは、日蓮正宗の中枢のみである。
「第六天の魔王は仏滅後に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・阿羅漢・辟支仏の形を現じて四十余年の経を説くべしと見えたり」(唱法華題目抄)
信徒を救うべき僧が、信徒を苦しめ、その団体を破壊する策を練る。日蓮正宗の中枢の僧の姿を見れば、末法の悪僧もここにきわまれりの観がある。
事情も聞かなければ、諭しもしない。一片の通告書をもって生殺与奪を自由にできると思う者、日蓮大聖人の御在世にあっては、平左衛門尉がそうであった。
日蓮大聖人は文永八(一二七一)年九月十二日、竜ノ口の頸の座に臨まれるにあたり、
「さて最後には日蓮・今夜・頸切られて霊山浄土へ・まいりてあらん時はまづ天照太神・正八幡こそ起請を用いぬかみにて候いけれとさしきりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞいたしと・おぼさば・いそぎいそぎ御計らいあるべしとて又馬にのりぬ」(種種御振舞御書)
【通解】そして最後には「日蓮が今夜、頸を斬られて霊山浄土へ参ったときには、まず天照大神・正八幡こそ起請を用いない神であったと名を指しきって教主釈尊に申しあげよう。それを痛いと自覚されるならば、大至急お計らいなさい」と叱って、また馬に乗った。
と法華経の行者としての大確信を残されている。ついに平左衛門尉は大聖人の首を斬ることはできなかった。
「C作戦」によって処断され解体されようとした創価学会も、諸天の計らいにより守られたものと見える。日顕上人をはじめとした日蓮正宗中枢の企てた陰謀は、いまやことごとく白日のもとにさらされてしまった。
もはや「C作戦」の実行は不可能である。しかし創価学会の解体という最終目的は放棄されたのではない。
そこで、日蓮正宗の中枢は、死罪に処することができなければ、当面は流罪にしようと作戦を変更してきたのである。
「今度・法華経の大怨敵を見て経文の如く父母・師匠・朝敵・宿世の敵の如く散散に責るならば定めて万人もいかり国主も讒言を収て流罪し頸にも及ばんずらん(中略)信心をも増長せんと退転なくはげみし程に案にたがはず去る文永八年九月十二日に都て一分の科もなくして佐土の国へ流罪せらる、外には遠流と聞えしかども内には頸を切ると定めぬ余又兼て此の事を推せし故に弟子に向つて云く我が願既に遂ぬ悦び身に余れり人身は受けがたくして破れやすし、過去遠遠劫より由なき事には失いしかども法華経のために命をすてたる事はなし」(下山御消息)
【通解】このたび法華経の大怨敵を見て、経文に説かれているように、父母や師匠を朝敵・宿世の敵のようにさんざんに責めれば、まちがいなく多くの人々が怒り、国主も讒言により流罪し、首を斬られることもあるだろう。(中略)信心を強盛にしようと、退転せずに一生懸命に励んでいたところ、案の定、文永八年九月十二日、一分の咎もないのに佐渡に流罪となった。対外的には流罪というかもしれないが、実際、内部では首を斬ると決めていたのである。私はかねてからこのことを推察していたが故に、弟子に向かって言おう。我が願いがとうとう叶った。この喜びは身に余るものだ。人身は受けがたく破れやすい。過去遠遠劫より、つまらないことで命を失う人はいても、法華経のために命を捨てた人はいないと。
「流罪」とはいっても、実際は首を斬ることにあるという御金言が胸に響く。学会による月例登山会の廃止などといっているが、目的とするところは創価学会の解体以外のなにものでもないのだ。
