宗門中枢を平左衛門尉に見たてるとは、不穏当に過ぎると思う人も多いだろう。たしかにそうである。しかし、ものごとの本質はハッキリ見きわめなければならない。日顕上人に代表される宗門中枢は、いまや“悪鬼入其身”の姿そのものである。
では、平左衛門尉と見まがうばかりの「悪鬼」が、なぜ日蓮正宗の中枢に入りおおせたのか。その理由をとくと考えてみると、うなずけることが存分にあるのだ。
まずなによりも諸悪の根源は、前号にも記述したが「僧の妻帯」という問題である。たしかに、妻帯をしていても世俗の欲を離れ、いちずに広宣流布を考えている僧侶もいる。しかしいまの日蓮正宗において、そのような僧は例外的な存在である。ほとんどの僧は、世俗の欲も情もまったく断ち切っていない。
いま日蓮正宗の僧侶社会は、世襲化がほぼ定着しようとしている。寺を自分の子に直接、継がせることはないにしても、名刹や都市部の資金潤沢な寺院の住職は、一部の閨閥によって占められているのだ。
世襲化がほぼ定着しようとしているこの日蓮正宗の僧侶社会は、特殊な共通利害を持つ集団と化している。家(世俗)から出てもいないのに出家を名乗り、この本質的な欺瞞を隠すために虚勢をはる。どうあっても信徒に対して権威を押しつけ、持てるだけの権力をもって屈服させたいという衝動が、空威張りにおもむかせるのだ。
この「僧の妻帯」という、僧本来のあり方をないがしろにする風習は、明治以降の、しかも日本だけに定着した奇習である。これがいま日蓮正宗の法水すらも枯渇させようとしていると見るべきだ。僧侶社会の腐敗の多くは、この妻帯に原因している。
事実、歴史をさかのぼってみると、日蓮正宗僧侶の極度の腐敗は、この妻帯と並行して起こっていることがわかる。
明治以降、日蓮正宗の僧侶が公に妻帯しはじめてからの腐敗ぶりは後日に詳述するが、たとえば総本山の寺宝や五重塔の屋根を葺いてある銅板を売りとばしたり、開祖以来の杉を売ったりしたことを見れば一目瞭然である。信徒の供養したこれらの財産を皆、当時の堕落した僧は遊興費に充てたのだ。この当時、総本山では、塔中のあちこちに酒樽を置いて飲めや歌えの大騒ぎをすることもまれではなかった。明治、大正の頃のことである。
銅板をはがされた五重塔は、代わりにブリキを貼られていた。ブリキは腐食し、五重塔の本体まで腐りはじめてしまった。それを創価学会の戸田第二代会長が、立宗七百年の直後に修理を願い出で修復したのである。
こうした腐敗ぶりを見ると、とてもではないが日興上人の末流とは思えない。ただし、日亨上人のような方に代表される、身軽法重の僧侶がいたことをも否定するものではない。
とことん腐敗してしまった日蓮正宗を根底より清めてきたのは創価学会である。だが、日蓮大聖人の仏法を忠実に実行しようとした学会に対して、日蓮正宗は一貫して煙たいものを感じていたようだ。
戦時中、創価教育学会が折伏行に邁進したときも、宗内のほとんどの僧は非協力的であった。また、学会が日蓮大聖人の教えに忠実であるがために国家権力により弾圧されたときも見殺しにした。
見殺しにするばかりか、信徒に対し伊勢神宮を遥拝せよとか、神札を受け取れなどといった大謗法の指示を、宗門中枢は僧や信徒に出していたのだ。
日興上人の御遺誡置文には、「一、檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けんや、返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云」と明記してあり、最後には、「此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず」と断言されている。
この御遺誡置文に照らせば、日蓮正宗は戦中の大謗法のとがによって、日興上人より即刻、破門されていてもおかしくないのだ。もっともいまの日蓮正宗の中枢は、「これは『檀那』と書いてあるから僧は関係ない」とすら言いかねない。彼らにとって御書、御訓誡の曲解などは朝飯前のことである。
日興上人の御遺誡置文は、日興上人の門流が命がけで守らなければならない掟である。戦時中これを守ったのは、創価教育学会の牧口常三郎会長と戸田理事長のみであった。
仏法においては、法論をして負けた者は、相手の宗旨に従わなければならない。同宗内においてどちらに帰依するか、などというのは本来あり得ないことだが、法を求める身であるならば、法の実践においてすぐれた者に道を求めてこそ仏道修行である。なにも僧形をなしているものが尊いと気色ばむことはない。
第二次世界大戦の後まで続く日蓮正宗の腐敗と堕落、これを清め正したのは創価学会であるという歴史的な事実を、僧俗ともに認識しなければならない。いずれが大聖人の愛でられる身軽法重の者であったかは歴然としているのだ。
