第3章 法 脈 濁 乱


 第85号  1991年3月26日

日蓮正宗自由通信同盟

死罪(破門)にできなければ流罪(学会登山廃止)にする
ほんに日蓮正宗の中枢のやることは平左衛門尉にそっくり

 三月十六日付の文書で宗門は、これまでの創価学会による月例登山会の運営を、一方的にことわってきた。今後(七月一日より)は日蓮正宗の統括により創価学会員の登山を実施するというのである。これにより、創価学会員といえども末寺の添書がなければ登山できないとの通達である。
 この月例登山会は昭和二十六年頃、創価学会の戸田城聖第二代会長によって始められたものだ。その当時の総本山は金銭的にドン底で、その日食べるものにも困るほどだった。そのため日蓮正宗は、大石寺を観光地化しようと、地元の富士宮市や上野村と具体的なプランを練っていた。
 それを聞きつけた戸田会長が、断じて大石寺を観光地としてはならないとして始めたのが月例登山会である。戸田会長がいなければ、総本山は今ごろ、京都や奈良の邪宗の寺と同じ様相を呈していただろう(本紙第36号詳述)。
 創価学会の至誠に基づく四十年におよぶ献身を、一片の文書だけで打ち切ってくるとは、常識では考えられない行為だ。人間として恥ずかしい行為を、僧侶であるならばおこない得ると思うのが傲慢の傲慢たる所以である。自分たちを敬えというのであれば、最低限の常識は持たなければならない。
 宗開両祖の時代には、僧形をなしている者が妻帯をし、在俗の者と同様な夫婦生活を営み、寺院内で子供を育てるなどということは、想像もできなかっただろう。いくら末法は無戒だといっても、妻帯し子供をもうけた者はもはや出家とはいえない。出家とは、字のとおり「家を出た」者である。親子の情を断ち切り、法のために身を軽くした者のことである。これは正宗とか邪宗とかいう次元以前の問題だ。
 昨年来の、日蓮正宗と創価学会の確執の基底に、少欲知足であり聖僧でなければならない者が、それを踏みはずしてしまっている事実があることを認識しなければならない。近頃の正宗僧侶は、肉欲だけでなく物欲、愛欲も、在家の者となんら変わらないのが現実である。ただしここでは、本質的な意味における僧侶の妻帯ということを問題にするのではなく、この原則の破壊によって起きたもろもろの弊害を問題にするにとどめる。
 たとえば日顕上人の御隠居所として、地下プール付きの二十億円もの豪邸が用意されようとしていたり、その夫人が東京の三越デパートで億を超える買物をしたりしていること、あるいは僧侶およびその夫人がつぎつぎとゴルフ会員権を買ったり、高価な宝石や着物を身につけたりといった贅沢をしていること、また、そういうことを女房にさせて喜んでいることなど。
 とても聖僧とはいえない、また身軽法重とも思えない所業である。日蓮正宗始まって以来の奇怪な現象といってよい。こうしたことを信徒がどう思っているかを認識しないで、たとえ聖僧ではないにしても、僧形をなしている者を敬わぬ信徒(もっとも十二月二十七日の池田名誉会長に対する無法な実質的処分までは敬っていた)は、純真な信徒ではないと決めつけ、挙げ句の果てに、一方的に信徒を処罰するなどというのは本末転倒もはなはだしい。
 むしろ、まず自己をかえりみて、敬われない自分たちになにか欠陥があるのではないか、と考えるのが人間としては普通である。それがつぎつぎと理不尽な高圧的処置を打ち出してくるというのでは、敬うどころか人心は離れるばかりだ。もっとも、今回の宗門中枢による一連の処置は、創価学会解体に目的があるのだから、このようなことを言ってもまったくムダかもしれないが……。
 日顕上人をはじめとする日蓮正宗中枢は、創価学会を解体し彼らの考えるところの「純真な信徒団体」を作ろうと、長年、夢見てきた。それを現実のものにしたのが、昨年の夏に策定された「C作戦」である。
 「C作戦」の「C」とは英語の「CUT」の頭文字で、「斬る・切る」という意味である。「斬る・切る」とは池田名誉会長を斬り、創価学会を切ることにほかならない。創価学会総体を断罪するということだ。
 戸田会長は昭和二十七年の狸祭りに際し、日蓮正宗宗会により「大講頭の罷免、登山差し止め、謝罪文提出」という処分要求の決議を出された。それも、事情聴取は一切なく申し開きも許されないまま、秘密会で決せられたのである(本紙第45号詳述)。
 このとき戸田会長は『聖教新聞』(昭和二十七年七月二十日付)の「寸鉄」で、宗会議員の本質を次のようにえぐっている。
 「三、無調査の論告、野蕃時代の政治よりもなお悪い、さては宗会議員諸公七百年前を想い出したな
 四、七百年前を想い出してもよい大聖人様の折伏姿なら良いが平左衛門の真似ぢや困ったもんだ
 五、宗会議員諸公は平左衛門の後身か、事情も調べず義理もたださず論告するとは
 六、平左衛門の後身宗会議員と現る。仏恩広大にして、逆縁の輩、今大聖人の仏法の中に生まれて、唯一人の大信者をそねみ恨む、習性恐るべし」
 まさにいまの状況と酷似しているではないか。しかも「C作戦」が“カット作戦”の略というのだから、偶然にしてもできすぎである。
 文永八(一二七一)年九月十二日、日蓮大聖人は竜ノ口において斬罪に処されようとした。日蓮大聖人の首を斬ろうとした張本人は、かの有名な平左衛門尉頼綱である。
 時の権威・権力者が日蓮大聖人と弟子檀那を決定的に切り離そうとしたのだ、それも、日蓮大聖人を死罪に処するという方法によってである。
 いま創価学会にとっての「権威・権力者」は日蓮正宗中枢である。極言すれば日顕上人である。昨年の暮から本年の初めにかけて宗門は、池田名誉会長および創価学会を「C作戦」によって一気に断罪しようとした。
 ところが創価学会は、十二月二十七日の宗門の処置が創価学会の解体を目的としたものであることを見抜き、迅速に体制を整えた。
 創価学会員は、宗門および法主をどのようにとらえるかという、信仰の本質的な問題にかかわる重大事にあたり、宗門の非をすみやかに察知し、比類なき団結力を示した。
 ために宗門中枢は、「C作戦」の緒戦において作戦の実行をはばまれることになった。池田名誉会長および創価学会を一挙に断罪に処する作戦は、当初より修整を余儀なくされたのである。
 そこで考え出されたのが、創価学会によって四十年間にわたっておこなわれてきた月例登山会を廃止するという突然の通告である。
 この月例登山会の廃止は、宗門側がいかに大義名分を立てようとも、信徒に対し、末法の御本仏にはもう自由に会わせないということ、口ではどう言おうとも、究極的には、仏意仏勅の信徒団体を破壊し、広宣流布を破滅させることを目的にしている。大御本尊を“人質”にとって信徒を強権に屈服させ、破和合僧をなそうというのだ。
 宗門側の通告してきた創価学会の月例登山会廃止は、その本質から見れば、日蓮大聖人の和合僧団を破壊するために、死罪がダメなら流罪にしようということなのである。
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