一つのものごとが、見る人の立場によってまったく評価が違ってくることはよくあることだ。
太陽が東から昇り西へ沈むのを見ても、ある人は天動説を唱え、またある人は地動説を唱えた。数年前、中国でおきた「天安門事件」は、大衆の側から見れば民主革命であり、政府の側から見れば暴乱となる。
一人の人間においても、歳月のうつろいにつれてまったく相反するものの見方をする場合がある。思想家、革命家においてはそれを転向といい、俗人においては変節という。また、たまに錯乱の場合もある。
龍年光の場合は、まさにその変節か錯乱である。龍年光は昭和三十年、品川区議に初当選、昭和三十四年都議となり、昭和六十年に定年退職するまで、ずっと公明党議員をしていた。
議員在職中は池田名誉会長を賛嘆していながら、いったん議員をやめると名誉会長をあからさまに批判しはじめた。また、今回の都知事選においては、鈴木都知事を応援するために週刊誌に登場し、派手に名誉会長批判をしている。
龍が現在、財団法人「土と人間の蘇生の会」の理事長をしており、その財団設立およびその後の運営にあたって、鈴木都知事にひとかたならぬ世話になってきたことは、つとに知られているところである。そのことに義理だてして、多選の弊害、政策上の理由から鈴木都知事の四選を拒否している公明党に対し、龍は攻撃を仕掛けているのだ。
龍が『週刊朝日』に寄せた手記の一部を以下に紹介する。
「戸田先生が昭和三十三年に亡くなられた。キミはいま、先生が亡くなられる直前、先生自身から後継者に指名されたかのようにいっていますが、しかし、それはまったくのウソです。
われわれ青年部幹部の四人の理事が、病の床にあった先生の枕元で何度か、後継者についてご意向を伺った際も、先生は、『それはお前たちで決めよ』と、ご自身の考えを述べられなかった。だから、先生の没後すぐには後継者も決まらず、『このままだと、学会が空中分解してしまう』と心配しあったのでした。
そのとき、キミを後継者に推薦し、『池田でいこう。彼はいいよ』といったのは、長老の故原島宏治理事でした。そこで理事と参議室のメンバーでキミの家に要請に行きましたが、キミは、二度要請を断った。私も、キミの異能は認めつつも会長就任には消極的でしたから、『無理にやらせることは池田君のためにも良くない』といいました」
老醜をさらす龍の手記など、本来なら一笑に付して黙過すべきところだが、この手記が、池田第三代会長就任という歴史的に重要な場面についてウソの証言をしているので、やむなくこれを糾す。
糾すといっても、何か新たな事実を提示するのではない。ただ単に昭和四十九年十一月十七日に発行された『私の五月三日――第三代会長就任式に参加して』(聖教新聞社刊)という本に収録された龍のかつての手記を以下に紹介するだけのことである。三代会長就任前後の様子を、龍という同じ人間が書いているのにまったく見方が違っているのが興味深い。これこそ龍の変節、あるいは錯乱を物語って余りあるものだ。
「(前略)昭和三十三年三月、総本山大石寺理境坊に於て、当時の理事室数人が『つぎの会長について』お伺いをしたとき、戸田先生は『それはお前たちできめることだ』と言われたことも知っておりました。
すでに男子部幹部会で『第三代会長はこのなかに』として挨拶をされたことは、厳然とした事実でありました。
さらに、大講堂落慶大法要を終った後、三月十六日の大儀式のとき、エレベーターの前で戸田先生が『俺はもう死んでもいい。あとはお前だよ』と強く強く池田先生に言われていた光景は、私の脳裏に焼付いていました。
『戸田先生なき後、学会は空中分解するだろう』などとジャーナリストの大騒ぎには、いささかの動揺もなかったが、会長不在の空白は、眼に見えないが、日と共に、学会内部に浸透していく事実は、いかんともし難いものがありました。(中略)
学会本部の応接間で、最終的に理事室、参議室の合同会議を開いたとき、私の印象に強く残って居るのは、なくなられた原島理事長の強い強い決意でした。『どうしても、今、池田先生に会長になっていただかなければ、会員が可哀想だ、私たちのお願いする熱意と誠意が足りないのだ』という意味の発言に、全員さらに必死の思いでお願いすることになった。
その結果、ついに受諾をされることになったときは、たとえようのない喜びと、安心感で、全身の力が一度に抜けていくような、夢中で先生の後を駆けていくような思いでした。あの日本晴れの五月三日、会長就任式の壇上から『一歩前進の指揮をとる』と宣言された会長の勇姿を仰いだ会員の眼にキラキラと宝石のように輝く歓喜の涙は、蘇生の涙でもありました。
この涙を見て『ただこの上は、かの五老僧のようになってはいけないのだ』という思いが、強く私の胸中を支配していました。しかし師に仕える弟子の道を真に実践されたのは、戸田先生のもとでは、池田先生唯一人であったことは、いうまでもありません。これから、池田先生に仕える弟子の道は、どうあるべきか、ということが五月三日からの私の生涯をかけての最大の課題となったのです」
以上が龍の昭和四十九年の手記だが、『週刊朝日』掲載の手記とのあまりのへだたりに言葉もない。はたしてこれは変節なのか錯乱なのか。
しかし、この龍の相対する文の中で確定した史実がある。それは、戸田会長が故意に公に三代会長を指名しなかったために、当時の学会首脳が、池田第三代会長就任に対し三顧の礼をとったということである。ここに甚深の意義を感ずるのである。
号外
1991年2月25日
急報 山崎正友、一両日中に収監決定
重病を装う手記発表が収監を早めた
山崎正友は、創価学会に対する恐喝事件により、最高裁判所において懲役三年の実刑判決が確定していた。もはや収監を待つのみの身となっていたが、過日『週刊現代』に寄稿し、創価学会および池田名誉会長の批判をしていた。
山崎は、泰然自若として収監されるようなことを書いているが、反面、いかにも重病であることを強調している。表立っては強気をよそおっていても、内心では、病気療養にかこつけて一日でも収監を延ばしたいという未練の一手であったようだが、法務当局は、この手記発表で充分な体力ありと判断。一両日中にも山崎は収監されることとなった。またしても策士、策におぼれてしまったのだ。
さて山崎正友が収監されるとなると、興味のあるのは、高橋公純本応寺住職や反学会ライター段勲らの吹聴していた、“創価学会最高幹部のリーク情報”などに、今後、質的な変化が出てくるかどうかということである。
また、関快道仏寿寺住職の“極秘情報”も創価学会の外郭団体周辺から寄せられているというが、その情報提供者と山崎正友との関係も充分、考えられる。今後の情報の質に注目したい。
いずれにしても、宗門と創価学会との関係正常化に向けて、大きな障害の一つが取り除かれたことには違いない。
(筆者注 山崎正友は二月二十五日に収監された)
