第2章 持 者 能 忍


 第53号     1991年2月22日

高橋公純のいう「猊下の御指南に応えん」というのは
事実をねじ曲げ信徒を騙すということなのか

 本応寺住職・高橋公純が、「猊下の御指南に応えん」との一文を作り、方々に配っている。なかなかに計算ずくの文章である。
 まず、本年一月六日の総本山においておこなわれた「全国教師指導会」について述べ、その際の日顕上人について、次のように書いている。
 「最後に御法主上人猊下が御指南に立たれ組織の中心者が悪なら、全ての人々が悪に染まってしまう、ということから数多くの純粋な学会員を正しい信仰に導かねば一山の法主として、日蓮大聖人様に申し訳がないとされ御指南の最後として『結句は一人になりて日本国に流浪すべき身にて候』との富木抄を拝されるに及んで猊下は一筋の涙をながされたのである。『猊下が泣かれている』大客殿のなかにいる約千名近くの僧俗は一瞬水を打ったように静かになりました。猊下のその尊きお姿に多くの僧俗が涙した。何という絶妙な御説得であろう。一千万語は一筋の涙に、及ばないのである」
 ナルシストである高橋は、このように当日の猊下を活写してみせ、猊下を神聖視させようとしている。
 実際のところは、ほとんどの者は泣いてなどいなかった。前の列の能化が一緒に泣いているのを見て不気味に思ったり、猊下の演技のうまさに舌を巻いたりした僧侶もいた。
 また、
 「泣いてみせたわりには、すぐにケロッとして質問に答えたりしていた」
 「感情の変化が計算ずくであればよいが、少し病的な感情のズレすら感じた」
 と指摘する者もいたくらいである。
 事情を知る者からすれば、なんら涙を流すような局面ではない。前年の八月に、「C作戦」という創価学会解体のスケジュールまで立て、おそらく開創七百年記念行事とのかねあいだと思うが、時期尚早ということで実行を延期はしたものの、それらを終えてから、池田総講頭を実質罷免としたのである。むしろ心中は、してやったりといったところではあるまいか。
 表には涙をもって悲しみを演出してみせ、裏では想像を絶するような奸計を用いる。
 ○十二月二十七日の宗規改正にこと寄せた、突然の総講頭罷免。それも学会には一片の文書で通知し、一方ではマスコミにその事実を流す。創価学会員を動揺させようとの作戦である。
 ○新年明けての一月二日、秋谷会長以下の学会側最高幹部からの、たびたびのお目通りのお願いにも応じず、門前払いをした。名誉会長が登山してきたとき、これまでなら総講頭としての席を用意していたのに、このたびはなんら席の用意もなさず、しいて一般信徒と同様の扱いをなそうとした。登山してきた池田名誉会長を一信徒と扱い、それと対比させるようにして僧の権威を誇ろうとしたのであった。毎年恒例の、本山塔中坊への名誉会長からの御供養も、学会側がていねいな慶賀の辞を添えて持っていったにもかかわらず、事前に打ち合わせをして全員が断ったのである。
 この新年一月二日の名誉会長以下創価学会幹部の登山を、猊下および全山の僧たちは、恥をかかせる場としてしつらえたのである。冷やかな笑いを浮かべた姑息な僧たちの顔が浮かんでくるような気がする。
 この一月二日、一信徒としての作法を名誉会長に強制するなかで、僧侶と信徒の絶対の差別を思い知らせたうえで、信徒団体たる創価学会に対し、決定的な要求を突きつける予定であった。「C作戦」はもともと、前年八月に実行を予定していた創価学会解体の陰謀だったが、その大綱はこの時点でも変更されていなかった。
 ◇創価学会の役員の過半数を日蓮正宗の僧とする。
 ◇池田名誉会長が謝罪するのであれば、大願寺の一信徒として残ることを許す。ただし自宅謹慎。
 ◇『聖教新聞』での名誉会長に関する報道は一切許さない。
 などの要求を学会側に突きつけ、期日を切って回答を求める予定であった。それを受けなければ、創価学会総体を破門する。
 昨年十二月二十五日、猊下は高橋公純に、「二百万のうち二十万くればよい」とまで話している。とても宗教者の言葉とは思えない。自分の自由になる信徒が二十万人獲得できれば、残りの百八十万人を切り捨てるというのだ。
 こうした一連の宗門の奸計を知っている者は、この「猊下の御指南に応えん」と題する文章にある、猊下の涙した情景を、高橋のいうように感傷的にとらえることはできない。
 また同文中に、
 「いろいろな不備な点を考慮し今回の宗規改正となり、総講頭職が一時なくなったのである。
 故に、任免の免の規定が定められれば、それにともなう新総講頭の任命があるわけで、池田大作氏の復帰は充分ありうるのである。
 それがこの総講頭の地位喪失が発表されるや組織を使い、公的機関紙を使い、総本山、猊下を攻撃する挙に出たのである」
 とある。信徒の目は節穴でもないし、僧侶と同程度の知能も持っている。いくら僧侶が猫なで声でごまかしても、信徒をごまかしおおせるものではない。一般世間で生活するのは大変なことなのだ。
 事実を隠し、すり替え、創価学会を切り崩し、檀徒づくりをする、そのようなヒマがあるのなら、法華講の謗法払い、一般人の折伏をやればよい。それをしないで高きに位置し、法衣を着て指図しても、賢明なる地涌の菩薩は従いはしない。
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